貴族院(きぞくいん)は、大日本帝国憲法下において1890年(明治23年)から1947年(昭和22年)まで存在した帝国議会の一院。衆議院とは同格の関係にあった(ただし衆議院には予算先議権があった)。
非公選の皇族議員・華族議員・勅任議員によって構成され、解散はなく、議員の多くが終身任期だった。その一方、有識者が勅任により議員となる制度が存在し、良くも悪くも「衆議院のカーボンコピー」という批判は存在しなかった。
thumb|250px|[[1936年(昭和11年)、貴族院開院式にて貴族院議長近衛文麿が勅語奉答文を朗読]] 議院や議員の権限などについては、議院法、貴族院令(明治22年勅令第11号)その他の法令に定められた。
議員の任期は原則として7年で、皇族議員、華族議員のうち公爵・侯爵議員、勅任議員のうち勅選議員については終身議員とされた。華族議員のうち伯爵・子爵・男爵議員は、それぞれ同爵の者による互選により選出された。
議員の歳費は、議院法に定められた。それぞれ、議長7,500円、副議長4,500円、議員3,000円であった(いずれも1920年(大正9年)の法改正から1947年(昭和22年)の法廃止まで、衆議院も同額)。
1890年(明治23年)開会の第1回通常会から、1946年(昭和21年)開会の第92回通常会まで、議員総数は250名から400名程度で推移した。第92回議会停会当時の議員総数は373名であった。
満18歳に達した皇太子・皇太孫と、満20歳に達したその他の皇族男子は、自動的に議員となった。定員はなく、歳費もなかった。
貴族院規則4条で「皇族ノ議席ハ議員ノ首班ニ置キ其ノ席次ハ宮中ノ列次ニ依ル」となっていた。ただし、皇族が政争に巻き込まれることは好ましくないという考えから、皇族は議会で催される式典などに参列することはあっても、議員として日常的に議会内に立ち入ることは帝国議会史上、極めて稀であった例外として、第1議会(明治23年12月1日)に山階宮晃親王が登院し、第88議会(昭和20年9月1日召集、同4日開会、会期二日間、ただし閉院式は同6日)に東久邇宮稔彦王が内閣総理大臣として登院している。。皇族は原則的に軍人であったので、軍人の政治不関与の建前からも出席は好ましくないとされた。
華族議員は、華族から選任された。爵位によって、選任方法、任期その他の定めが異なった。なお、朝鮮貴族は朝鮮貴族令5条により華族と同一の礼遇を享けるものとされたが、華族議員となる資格はなく、勅任議員として貴族院議員に列した。
伊藤博文は天皇を中心とした君主制を維持するためにも、天皇を補佐する世襲貴族(華族)の必要性があると認識していた。したがって、選挙による選出である衆議院とは対照的に、貴族院は世襲貴族をその中心に据えた。河野敏鎌は議員の地位を世襲とせず、華族による互選を主張したが、伊藤は「今世襲議員を貴族院より除くは取も直さず世襲貴族を廃するに同じ」と拒絶した。
貴族院関係法令の起草は金子堅太郎が担当した。金子は、当初「元老院」と仮称していたが、伊藤博文は外国の元老院は選挙による選出だから今回の議院とは性質が異なると否定し、その結果「貴族院」に決定した。これは貴族中心の議院であることを積極的に表現し、天皇の藩屏として純粋な君主主義の立場を取り、民主主義に対抗する役割を期待されていた。また、当初の伊藤は政党内閣は事実上主権(国体)が天皇から政党に移るから認められないと考えていた(もっとも、伊藤は後に立憲政友会を結党)。そこで、貴族院は衆議院の政党勢力と対抗する存在と位置付けられた。戦前にも婦人参政権の導入、労働組合の容認、帝国大学の増設などの法案が議会に提出され、衆議院では可決されているが、こうした「進歩的内容」の法案が貴族院を通ることは決してなかった。
ただし、藩閥政権に対してもある程度の自立性を持ち、衆議院とその地位を競った結果、藩閥政権を幾度となく窮地に陥れてもいる。逆に、政権が政党に妥協した時には、反政党の立場から政権と対立したこともある。1900年、伊藤の増税案に対して、貴族院は政友会の党利党略を理由にこれを否決した。手を焼いた伊藤は、明治天皇に貴族院が法案成立に協力するよう求める勅語を出させ、従わせたことがある(貴族院はその性質上、勅語には従わざるを得ないのである)。したがって、保守的であるが単純に藩閥政権の手先とも言えなかった。
大正デモクラシーの時代には、貴族院に対する改革・廃止論議が起こり、加藤高明内閣は若干の改正を行った。しかし、貴族院の基本的権限には手をつけられなかった。
戦後に至り、日本国憲法の審議にも参加した。最末期には公職追放により貴族院でも多数の議員が追放されており、華族議員は補充されたものの院の廃止を控えて影響力は低下し、審議では主に学識者を中心とした勅任議員が存在感を見せた。 自らの存在を否定することになる日本国憲法の審議では、下手に否決して天皇制廃止を連合国に持ち出される事態を恐れたため、次善の策として消極的な賛成論が大勢を占めた。天皇の権限を強める修正案も出され、GHQの根回しを済ませていたともいわれたが、修正案は否決された。
1947年(昭和22年)、大日本帝国憲法の廃止と日本国憲法の施行により、貴族院と華族制度は廃止された。貴族院の議場は新設された参議院が受け継いだ。貴族院出身者の多くは、憲法への賛成は占領下の便宜的な態度であるとして、のちに日本国憲法改憲論者となっていった。
貴族院は、衆議院における政党政治の防波堤となり、国権主義の保持に寄与するという建前上、院内に政党を置くことはなく、政党に参加した議員は不文律として貴族院議員を辞職することになっていた(政党の党籍を持ったまま、貴族院では無所属として活動した例はある)。ただし、議会活動の上での親睦や情報交換を目的とする院内会派は設置された。
大正末年から昭和初期にかけての政党政治の成熟期には、これらの会派の一部が衆議院における政党と結び、政党色を強めることもあった。もっとも、貴族院議員の性質上、再選を目指す必要がない議員も多く、大半の場合、院内会派の拘束力は弱かった。具体的には、大半の会派において、不偏不党と「一人一党」主義を謳い、党議拘束を行わなかった。そのため、衆議院における政党とは明らかな差異が認められるただし最大会派の研究会の会派拘束は厳格で、政党の党議拘束以上の厳しさがあり、会派の内外から批判の対象となっていた。。
主な院内会派は次のとおり。
1920年(大正9年)7月における各会派の所属者数は次のとおり:研究会143、公正会65、茶話会48、交友倶楽部44、同成会30、無所属67、計397
1947年(昭和22年)3月、最後の帝国議会終了時における各会派の所属者数は次のとおり:研究会142、公正会64、交友倶楽部41、同成会33、火曜会32、同和会30、無所属倶楽部、22、無所属8計373名(ただし4月に交友倶楽部所属議員1名が死去)
なお、貴族院に替わって戦後の国会を構成した参議院には、当初旧貴族院議員の多くが転身立候補して当選しているが、彼らはやはり不偏不党を謳った院内会派・緑風会を構成、一時は参議院最大会派として国政に大きな影響力を持った。しかし、やがて所属議員は政党(大多数は自由民主党などの保守政党)に吸収されていった。
大日本帝国憲法下では、内閣総理大臣は国会議員でいる必要はなかった。現役の衆議院議員で首相となったのは原敬が初めてであり、大日本帝国憲法下の33人の首相の中では、濱口雄幸、犬養毅を併せた3人に留まっている。
一方で、現役の貴族院議員の首相は伊藤博文を始め、松方正義、大隈重信、桂太郎、西園寺公望、高橋是清ただし、首相辞任後衆議院に転出し当選。、清浦奎吾、加藤高明ただし、以前に衆議院議員歴あり。、若槻禮次郎、近衛文麿、東久邇宮稔彦王、幣原喜重郎、吉田茂在任中貴族院の廃止により、衆議院に転出し当選した。などかなりの数に上った。なお、日本国憲法下では、首相は現在のところ全て衆議院議員である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月26日 (水) 14:11。