軍歌

軍歌(ぐんか)とは、主に軍隊内で、士気を高めるために歌われるのことをいう。歴史的な出来事を扱ったものから、戦死した犠牲者を悼むことを目的とするものまで内容は様々である。また、一部の軍歌は、国歌としてそのままもしくは楽譜を使用されることもある。


世界の軍歌

世界的に有名な軍歌というと、フランスの国歌であるラ・マルセイエーズ(ライン軍軍歌)等があり、現在でも国歌として歌われているものもある。国歌として歌われているもののほとんどは革命歌であり、他国との戦争時に歌われたものでないことが多い。しかし、元は軍歌であるため、内容が過激であるという指摘もある。ラ・マルセイエーズを冬季オリンピック開会式にて少女に歌わせた際、フランス国内から過激すぎるとの批判も出るなど、国歌を変更しようとする論争にもなることがあった。

世界の代表的な軍歌

日本の軍歌

日本の軍歌について言えば、厳密には軍によって作られたものが軍歌であるが、一般的には戦時歌謡や兵隊ソングなど軍隊や戦争、国体、国策等を歌ったものもまとめて軍歌と称する。このため、銃後と呼ばれた日本本土での普段の生活で歌われた、「愛国行進曲」や「紀元二千六百年」も軍歌と呼べるだろう。基本的に陸軍連隊海軍軍艦では、それぞれ固有の部隊歌や艦歌を持っていることが多かったが、さらに小さい部隊単位や新設部隊などでも「加藤隼戦闘隊」に代表されるように各部隊ごとに独自に部隊歌を作って歌うことも多かった。(軍歌の分類

正式・非正式を問わず、軍歌は曲調や歌詞の内容などによって、場面場面に合わせて演奏または歌唱された。たとえば出征兵士の壮行の際には当初「露営の歌」が使われていたが、悲壮すぎて気がめいるため、後には「日本陸軍」や「出征兵士を送る歌」に切り替えられた。また、出陣学徒壮行会での「分列行進曲(抜刀隊)」や、輸送船や軍艦が沈没した際に勇壮な軍歌を歌いあって気力を保った話なども有名である。

一般将兵にはどちらかというと哀調を帯びた軍歌が好まれたらしく、特に「戦友」(勇壮でないとされ、「雪の進軍」などとともに昭和初期に歌詞改訂、次いで大戦期には歌唱禁止)は競って愛唱され、日本の軍歌中の最高傑作だとする声も多い。

この項では自衛隊歌についても紹介する。

日本の代表的な軍歌

明治初年~日清戦争

日本独特の長い古風な歌詞と、たいていが稚拙ではあるが洋風の旋律が組み合わさった古雅なものが多い。また日清戦争以前の古い曲の中には、唱歌童謡と同じように、外国の曲のメロディーを流用して歌詞をつけた例もまま見られる。

戊辰戦争の時、有栖川宮熾仁親王が錦の御旗を先立てて進軍する様子を歌ったもの。明治元年作と伝え、事実上日本初の軍歌と言える。
西南戦争田原坂の激戦における警視庁抜刀隊の活躍を歌ったもの。新体詩で有名な外山の歌詞に、当時のお雇い外国人であるルルーが曲をつけたたもので、日本初の洋式音楽と言われる。また完成度が高く庶民の間でも広く愛唱され、かの明治天皇も御前演奏にて大層気に入っていた事でも有名である。後には行進曲陸軍分列行進曲)に編曲されて陸軍の正式行進曲として使用され、現在も陸上自衛隊、そして警察にて幅広く使用されている。
陸軍教導団に勤務していた作詞者が明治24年に作った曲。歌詞には未だ意味が完全に解析されていない部分がある。本来の曲は永井作曲のものだが、三善和気作曲の「凱旋」の曲を流用したもののほうがよく歌われた。
外国の曲を流用して作られた軍歌(戦闘歌)の一例。メロディーはなんと童謡の「むすんでひらいて」と同一である。そのため先入観のある現代の我々が耳にすると、なんとも異様な感じがするものとなっているが、軍歌調に歌うといかにも勇壮な、威厳たっぷりの軍歌として聞こえるからこれまた不思議である。同じく「むすんでひらいて」のメロディーの曲として、「進撃追撃行進曲」という行進曲もある。
明治19年発表の八章の新体詩から作曲者が三章を選び出し曲をつけた。陸海軍双方で終戦時まで(昭和大戦下の大本営陸海軍部発表の大捷発表の前後にはこの曲が演奏された)長く歌われた。旧制中学校以来の歴史の古い高校などでは、今でも応援歌として使用しているところがいくつかある。北朝鮮にはこの歌のメロディを「日本海軍」(?)と組み合わせたような「決死戦歌」という歌がある。
  • 元寇 作詞・作曲:永井建子
日清戦争前の1890年代に、国民鼓舞の目的から元寇撃退を記念する運動が起こった際作られた曲。日清戦争を戦った将兵の士気の大きな原動力ともなり、内地の国民の間でも幅広く愛唱された唱歌でもある。
国歌の君が代を行進曲に編曲したもの。重厚、ともすれば鈍重とも取られがちな君が代を、軽快にしかも威厳を損なわずまとめあげ、今なお高評価を受けている。トリオ部分には軍歌の「来たれや来たれ」が流用されているが、歌が稚拙で古すぎたのと、この行進曲にあまりに自然に組み込まれているため、今では元の曲自体が忘れ去られ、君が代行進曲の一部分としてのみ認知されている。

日清戦争後

軍歌としての目的以外に、一般国民に対する戦況報道も兼ねていたため、叙事詩的なものが多い。曲も、洋式音楽が煮詰まってきた時期であり、のちのちまで歌い継がれる秀逸なものが増えてきた。

黄海海戦時に巡洋艦松島艦上で戦死した三浦虎次郎三等水兵の壮烈な最期の模様を歌った曲。軍民問わず大変広く愛唱された。昭和4年に作詞者の手で歌詞が改訂されている。漫画のらくろの「のらくろの歌」の曲としても使用された。
黄海海戦の際の砲艦赤城と、艦長の坂元少佐の奮戦の模様を歌ったもの。格調高い歌詞と軽快な曲が特徴。なお、作家の内田百間のお気に入りで、ことあるごとに歌唱しており、冒頭の一節は「けぶりか浪か」という随筆集の題にも引用されている。
軍歌作詞の趣味もあった明治天皇の手になる作品。極めて長い一連の叙事詩。
読売新聞誌上に載った歌詞に曲をつけたもので、作詞者の「佐戦児」は投稿した軍人のペンネームであり、誰であるかは不明。威海衛襲撃をテーマに取った勇ましい歌詞と、水雷艇の襲撃を思わせるスピード感ある曲で知られる。のちの太平洋戦争時には、海軍予備学生の間で特に人気があった。
日清戦争時に第二軍司令部付き軍楽隊員として、実際に従軍した永井建子がその己の体験を元に作った歌である。厭戦(えんせん)歌そのもののような、軍歌としては異色の歌詞が特徴。長らく将兵※に愛唱されていたが「勇壮でない」とされ、昭和に入り歌詞が一部改訂(「どうせ生かして還さぬ積り」という歌詞が「どうせ生きては還らぬ積り」に直された)され、さらに太平洋戦争中には歌唱禁止とされていた。戦後の現代でもなお、映画八甲田山(実質の劇中歌)の影響もあってか知名度も他の軍歌と比べても低くは無い。なお、似た唄として雪の戦線という歌がある。なお、歌詞がところどころ同じ、若しくは似たところが見受けられる。
 ※明治の名将大山巌陸軍元帥もその1人で、病床に付いてもなお臨終の最期まで枕元でこの歌を聴いていたという逸話もある。ちなみに上記の第二軍は大山元帥配下の軍であった。
明治26年小学唱歌として発表された歌詞に明治30年瀬戸口が曲をつけ、さらに明治33年に行進曲に改められたもの。一般には「軍艦マーチ」として親しまれている。海軍の公式行進曲で、海軍はもとより民間、陸軍でも愛され、さらには現在でも海上自衛隊の行進曲であり、盛んに使用されている。完成度・知名度ともに「日本を代表する行進曲」といわれる。世界三大行進曲のひとつ。また、ミャンマーでは替え歌が国軍の行進曲として採用されている。
戦地に出陣する当時の日本赤十字社従軍看護婦を歌った、世界的にも珍しい異色の軍歌。作詞者が、駅で出陣する従軍看護婦の姿を見て感動し、一晩で一気に書き上げたもの。赤十字の精神についても言及がある。
鉄道唱歌の作詞者としても有名で、のちに多数の軍歌を手がけることになる大和田の作詞。日中戦争以降は出征兵士の壮行歌としても多用された。当時の陸軍の兵科憲兵科を除く、衛生部含む)を歌の中に歌いこんである。昭和に入り、メロディーはそのままに、戦車兵科等新時代に合わせて藤田まさとが新たに歌詞を数番付け足した「新日本陸軍」という曲も存在する。
  • 日本海軍 作詞:大和田建樹 作曲:小山作之助
上の日本陸軍と対になる作品。なんと日露戦争直前の全軍艦名を歌い込んであり(その為やや歌詞に無理がある)、あまりに歌詞が長いため、発表このかた一度も全歌詞を録音されたことがない。また、北朝鮮では「朝鮮人民革命軍」という同じメロディーの替え歌が歌われている(ただし、北朝鮮では金日成作曲と偽っている)。

日露戦争後

こちらも叙事詩的な性格のものが多いが、同時に将兵に対する訓戒のような軍歌も増えてきた。全体的にさらに曲が洗練され、七五調・文語体の長大優美な歌詞のものが多い。なお、海軍省は佐佐木信綱や大和田建樹などに制式海軍軍歌の制作依頼を出しており、このため一連の海軍軍歌の制作年代は明治末であるが、軍歌集による公布は大正初めとなっている。

本来は、一人の兵士が出征後負傷して凱旋し、村長となるまでを歌った、一連の極めて長い「戦績」という唱歌の中の「戦友」という一篇であった。戦友を失う兵士の哀愁を切々と歌い込む歌詞と、同じく哀切極まりない曲とで長く歌い継がれた。日本軍歌一の名軍歌とも言われ、今日でも愛唱する人は多い。昭和期に入り、歌詞にある軍紀を無視する箇所がけしからんということで該当箇所が差し替えられ、さらに太平洋戦争中は歌唱禁止に追い込まれたが、将兵は何かと理由をつけてこの歌を歌い続けていたという。
第1回目の旅順港閉塞作戦を歌った叙事詩。淡々とした曲と、情感豊かな歌詞とで悲壮ながらも軽快な曲となっている。戦い前の将兵の心境とよくマッチしたと見え、のちの太平洋戦争時の開戦前夜や、重大な決戦前には必ずと言ってよいほど歌われた。
旅順港閉塞作戦で戦死し、軍神として称揚された広瀬武夫海軍中佐を讃える曲。大正年間成立の同名の有名な唱歌とは別の曲であり、海軍内ではこちらが歌われたが、一般に幅広く歌われ親しまれたのは唱歌のほうであった。
  • 橘中佐 作詞:鍵谷徳三郎 作曲:安田俊高
陸の軍神である橘周太陸軍中佐の壮烈な戦いぶりを描き、讃える曲。上が19番に下が13番と非常に長い歌詞であり、上と下にそれぞれ別の曲がついている。のちに静岡歩兵第34連隊の隊歌となった。
海軍省の依頼で作られた制式海軍軍歌の一つ。日本海海戦を経過順に歌いこんであり、鉄道唱歌の流れをくむ軽快なものに仕上がっている。主に海軍内で歌われ、一般には同名の唱歌の方が親しまれた。一番の歌詞に「寄こせし敵こそ健気なれ」という敵を讃美する部分があり、当時の日本の世情を表している。瀬戸口の手により行進曲に作り変えられた「日本海海戦記念行進曲」もあり、気ヲ著ケ(きをつけ)の信号ラッパの出だしと、トリオ部分に君が代を使用するなど、独創的かつ、まとまり良く仕上がっている。
  • 艦船勤務 作詞:大和田建樹 作曲:瀬戸口藤吉
海軍軍人の心構えを示した曲で、やはり海軍制式軍歌の一つ。歌いやすく明るい単調な歌詞と曲で、海軍内で終戦まで歌い継がれ、「海軍といえばこの曲」というほどに定着した。

大正時代

全体的に平和な時代であり、この時期作られた軍歌は少ない。兵科ごとの曲や、軍の学校の校歌・寮歌の類が目立つ。

昭和初期

大陸での戦争が始まったため、軍歌が急速に作られるようになってきた。時代に合わせて口語体のものも多少出てきており、また曲は歌謡曲に近いものになってきている。戦局の泥沼化を反映してか、後期には悲壮な曲調のものが多い。レコードの普及に伴い、一般に広がってヒット曲となる速度が非常に速くなっており、数十万枚単位で売れる大ヒット作がいくつも誕生している。

昭和5年に作られた。作者の三上卓は五・一五事件の反乱将校の一人。別名「昭和維新の歌」。二・二六事件後は「反乱をあおる危険な歌」とされ、歌唱が厳重に禁止された。歌自体の完成度の高さもあってか他の軍歌と同じく当時から現代まで愛唱されている名軍歌・革命歌の一つでもある。
「勝ってくるぞと勇ましく〜」の歌詞で始まる、まさにこの時期を体現するような曲。泥沼化を反映した悲壮極まりない曲であり、将兵・民間人の心情に訴えかけ、わずか半年間で60万枚を売った。レコードのA面は「進軍の歌」というものであったが、B面であったこちらのほうがはるかに人気があった。軍歌・戦時歌謡の傑作のひとつに数えられる。のちの太平洋戦争時には、兵士を送るために使われた曲である。
昭和15年の松竹映画「征戦愛馬譜、暁に祈る」の主題歌として作られた。これは陸軍省馬政課が軍馬に対する認識を喚起するためにバックアップした映画だったが、歌詞中で馬をうたった部分が少なく曲調も哀愁漂う旋律だったため、父や兄弟を戦場へ送り出した家族や望郷の思いにかられる兵士達に受け入れられ、映画を離れて広く長く支持された。
昭和7年2月、上海事変において、攻めあぐねていた中国国民党軍陣地に対し、あらかじめ点火した破壊筒を抱き合い鉄条網に突入、爆破し自らも爆死をとげた、久留米第24旅団の江下武二、北川丞、作江伊之助各工兵一等兵の武功をたたえた曲。当時、この武功をたたえる曲を毎日、報知、朝日の3新聞社がそれぞれに公募・発表したが、毎日によるものがもっともヒットした(朝日による公募歌は「肉弾三勇士」という)。なお、毎日が歌詞を懸賞募集したところ与謝野鉄幹が応募してきたため、選者の北原白秋が困り果てて一等当選にした、という余談もある。
昭和12年12月に内閣情報部によって詞曲ともに公募、選定された。作曲者は、軍艦行進曲を作曲した瀬戸口藤吉。レコードは、各社から様々な形で吹き込まれて発売され、売り上げは累計すると100万枚を超える。やはり行進曲の名手の作、曲は非常に評判が良かったが、歌詞は「一般国民が歌うのに難解すぎる」と、一部の文壇や国文学者などからの評判は芳しくなかった。また、歌詞選定を行った北原白秋と佐佐木信綱が、歌詞の手直しをめぐって論争から大げんかになり、両者とも死ぬまで口を利かなかったという逸話もある。
本来は士気を鼓舞するための曲だったが、玉砕を発表する時に使用され、すっかりそちらのイメージで有名になった。現在でも鎮魂歌として使われることが多い。荘重な古歌に上質な曲を組み合わせたもので、非常に格調高く仕上がっている。大伴家持の歌に曲をつけたもの。マッカーサーがフィリピン軍の軍事顧問時代、この歌詞から日本軍の戦闘心理を理解したという逸話がある。
後に硫黄島で戦死する騎兵科出身の栗林忠道陸軍大将がかかわった事で有名。歌詞コンクールをして一等入選だったものに曲をつけた。軽快な曲と、馬に対する愛情がにじみ出ているようなこれぞ騎兵といった歌詞とで人気を博した。
大日本雄弁会講談社(後の講談社)が公募・選定した曲。作詞者が駅に日参して歌詞を作ったとされる。極めて勇壮な歌詞とメロディーに作曲者でもある林伊佐緒の豪快な歌唱も相まってか、この歌の戦後吹き替え版(キングレコード、林伊佐緒:ボニー・ジャックス)は主に街宣右翼御用達の歌として盛んに流されており、ある意味一般での知名度が高い歌でもあり、かつ日本軍歌を代表する曲の一つでもある。
戦線の将兵たちの心情をうたった歌。後に「いやじゃありませんか軍隊は」ではじまる同じメロディーの替え歌「軍隊小唄」としてうたわれ、戦後はザ・ドリフターズも替え歌でうたっていた。
火野葦平原作の同名の映画の主題歌。大変人気があった曲で、現在でも愛唱されている。
帝国陸軍関東軍参謀部が選定・発表した純軍歌。中国戦線で匪賊討伐にあたる兵士の姿を描いている。この歌も雪の進軍と同じくまるで厭戦・反戦歌に聴こえてしまう様な歌ではあるが、日本軍歌のご多望に漏れず軍民双方で愛唱された(しかも尚且つ他の多くの民間製作の歌と違い、討匪行は軍制定の純粋な「軍歌」である)。食事も補給もなく、愛馬も倒れ、時には空を仰ぎながら涙を流し、戦友と生きて再会出来た喜びに歓喜しながらも、それでも黙々と泥濘道を往く様子や、戦死した敵の死体に花を手向けて弔うなど、前線を実感的にあらわしている。作曲者及びオリジナルの吹き込み(創唱歌手)は“我等のテナー”として当時から活躍していた日本を代表する名オペラ・歌謡歌手である藤原義江。
  • 加藤隼戦闘隊(正式名称:飛行第64戦隊歌) 作詞:田中林平 旭六郎 作曲:森屋五郎 原田喜一 岡野正幸
軍神となった加藤戦隊長の名を取って「加藤部隊」として名をはせた精鋭部隊である陸軍飛行第64戦隊の部隊歌。昭和16年公開のニュース映画や、同名の戦争映画(1944年)の大ヒットによって民間にも知られた。曲自体の成立は昭和15年ごろで、南支派遣軍軍楽隊が作曲、部隊の隊員らが作詞を担当した。全体に勇壮な歌詞と曲であるが、5番まであるうち4番のみ旋律が変わり、悲壮な心情をふとうかがわせたような曲調となっている。

太平洋戦争

開戦とともに、さらに数多くの軍歌・戦時歌謡が作られた。開戦前とは打って変わり、明るく軽快もしくは勇壮な歌詞・曲のものがほとんどである。ただし、優秀な曲が多く生まれたと同時に、時局に合わせただけの粗製濫造の曲も非常に多く、その多くは歌い継がれることなく消滅していった。また、「勇壮でない」とにらまれた曲はたとえ軍歌でも弾圧を受け、明治以来の優秀な軍歌がいくつも歌詞改訂・歌唱禁止指定されるなど、暗い面も残している。

日々艦隊勤務に打ち込む海の男の手で日本軍艦が勇ましく太平洋を進む様を高橋俊策が作詩、海軍軍楽隊出身の江口源吾(江口夜詩)が作曲した。1940年11月に内田栄一の歌でポリドールレコードから発売され、流行歌として広く国民の間に親しまれた。若山彰伊藤久男の演奏もある。別名『艦隊勤務』(JASRACデータベースでは「月月火水木金金」が正式の題名、「艦隊勤務」は副題である)。
オランダ領東インド(現インドネシア)攻略時に行われた空挺作戦を記録した同名の映画の主題歌。日本の軍歌としては珍しくピョンコ節を離れアウフタクトを多用した軽快な旋律が、美しい歌詞と相まって現在でも人気が高い。作曲者の高木東六は軍歌に反発して「なるべく軍歌らしくない旋律をつけよう」として作曲したといわれており、戦後も軍歌であるこの曲を嫌っていた。しかしその後、陸上自衛隊空挺部隊がこの曲を流しながら降下訓練するのを見て感激し、認識を改めたという。
海軍飛行予科練習生募集のための映画「決戦の大空へ」の挿入歌として作られた。メロディーは2つの候補から練習生に直接選んでもらい、歌詞は作詞者が直接予科練を見学して作ったという。悲壮ながらも飛行兵への希望と意欲を湧かせ、大ヒットを記録した。今なお愛唱され続けており、前述の映画の作中にも登場した土浦第一高等学校では応援歌の一つだった事もある。
原曲は「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で、昭和13年1月号の少女倶楽部に発表された西条の歌詞を元とし、とある海軍士官が勇壮にアレンジしたもの。人の手を経るうちにさらに歌詞が追加されていき、一般に知られているもののほかにも様々なバリエーションが存在する。時局に合った悲壮な曲と歌詞とで、陸海軍を問わず大いに流行した。
  • ラバウル小唄 作詞:若杉雄三郎 作曲:島口駒夫
「南洋航路」という歌謡曲が原曲である。
  • ラバウル海軍航空隊 作詞:佐伯孝夫 作曲:古関裕而
佐伯孝夫と灰田勝彦はビクターレコードの、古関裕而はコロムビアレコードの専属であったが、放送用の曲であったため制作が実現した。後、ビクターがコロムビアに対し信時潔の曲を提供するという条件で、昭和19年1月にビクターレコードより発売された。南方の前線航空基地を彷彿とさせる軽快な歌詞と曲で流行したが、実は流行した時期は、皮肉にもちょうどラバウルから海軍の航空部隊が撤退した時期であったりもする。
台湾沖航空戦に勝利を収めたと発表されたのを記念して作られた。当時の戦況を打開できるめどがついた明るい調子に仕上がっている。しかしこの曲は、ニッチク(日本コロムビア)が戦前実質的に販売した最後のレコードとなってしまった。
  • 比島決戦の歌 作詞:西条八十 作曲:古関裕而
読売新聞社が軍の依頼を受けて西条と古関に依頼した。フィリピン戦を目前にして国民の士気を煽る必要から、敵将ニミッツマッカーサーの名前を入れるように要望があった。しかし打ち合わせで西条がそれを断ると出席していた陸軍報道部の親泊中佐がその場で「いざ来いニミッツ、マッカーサー出てくりゃ地獄に逆落とし」と代筆してこの曲が出来上がった。1944年12月17日に発表会が行われ、同年12月26日に酒井弘、朝倉春子、日蓄合唱団によってレコーディングされた。フィリピン戦が行われている間は連日ラジオで放送していたが、現在までにレコードは1枚も発見されていない。レコードの発売予定は物資欠乏が深刻化した昭和20年3月、同時期発売のレコードも一切発見されていない所を見ると、発売されなかったようである。SP盤収集家・ハンドルネームPolyfar氏のブログ「レコード狂の詩」の2006年5月15日の項によれば、前述の「台湾沖の凱歌」以降のレコード番号に16個ほどの連番での欠番があり、その中に「比島決戦の歌」が含まれていることを指摘している(レコード番号は「台湾沖の凱歌」:100920、「比島決戦の歌」:100930)。ニッチクはその昭和20年3月頃までレコード生産を行っていたが、プレス製造機械供出で以降のレコード生産は実質停止している。
「敗戦と共に楽譜は全て廃棄された」(楽譜に関しては古関裕而記念館に展示されている他、「昭和二万日の全記録⑥太平洋戦争」(講談社)のグラビアページに楽譜とレーベル原稿の写真が掲載されていることから、少なくとも完全な「廃棄」は誤りと言える)、「西条と古関が戦犯指名される」との噂も飛び交ったが、当のマッカーサーは全く関心をもたずに何も起こらなかった。後にレコード会社が古関裕而の全集を発売する時、許諾のため古関本人に尋ねたところ「もうこの歌だけは勘弁してくれ」とレコード化を拒否されたという。尚、本作は古関の死後、戦後50周年企画として新たに吹き込まれている(この際、江口夜詩の息子で作曲家の江口浩司が編曲している)他、藍川由美小沢昭一がその前後にレコーディングをしている。

軍歌の終焉

昭和20年8月15日の終戦、その年の11月30日をもって、明治以来の大日本帝国陸海軍は解体・消滅。軍歌が新たに作られることは少なくなった。しかし、パチンコ店で軍艦行進曲が流されるなど、軍歌自体の寿命はまだまだ続いており、自衛隊音楽隊でも旧軍の軍歌を隊歌として演奏している。

終戦直後に、将兵の気持ちを静める目的で軍楽隊によって作られた。
昭和21年戦犯としてシンガポールに行かねばならなくなった寺内寿一元帥を見送る際に作られた曲。軍楽隊による最後の軍歌であり、これ以降、本来の意味での軍歌は作られていない。
シベリアに抑留された将兵たちによって収容所で歌われていた曲。戦後昭和23年、ある一人の復員兵がNHKのど自慢で歌い、一挙に大評判となった。作曲者は当初不明のままレコード化されたが、のちに吉田正・元陸軍伍長が引き揚げてきて、原曲となった大興安嶺突破演習の歌(今日も昨日も)の作曲者だと判明した。シベリアでの辛抱を表すような哀切極まる歌詞とメロディーで、いまだ元将兵の心をつかんでいる。昭和24年には、全国高等学校野球選手権大会の入場行進曲にも選ばれた。
B・C級戦犯として捕縛され、フィリピンモンテンルパのニュービリビット刑務所に収監されていた日本軍将校の代田と伊東によって作詞作曲され、収容されていた日本軍将兵によって歌われていた曲。昭和27年1月、来日したフィリピンの国会議員ピオ・デュランから同刑務所に収容されている日本軍将兵がいることを聞いた歌手渡辺はま子が、オルゴールを差入れとして贈ったところ、「ぜひ渡辺さんに歌っていただきたい」という手紙とともに、歌詞と楽譜が彼女のもとに送られ、これを受けてビクターよりレコード化され、新東宝により映画化もされた。レコードは、渡辺はま子と宇都美清のデュエットで発売された。
  • ハバロフスク小唄 作詞:野村俊夫 作曲:島田逸平
昭和15年に林伊佐緒によって歌われた「東京パレード」の替え歌で、シベリアでの抑留生活を歌った曲。原曲よりも近江俊郎が歌った「ハバロフスク小唄」の方が有名になった。軽快な曲調が、むしろ抑留生活の悲哀を感じさせる。ちなみに、曲名は「ハバロフスク」だが曲中では「ハバロスク」と歌われることが多い。

日本の軍歌は、その支配権から独立した韓国、北朝鮮、ミャンマー等の軍歌のルーツになったとする見方もある。朝鮮人民軍は日本統治時代の旧日本軍出身者が多く、軍歌の作り方もそれに沿ったものであったとされている。また、前述の「日本海軍」や「鉄道唱歌」などから、明らかにメロディーを流用している例も散見される。

自衛隊歌

憲法上で軍隊の保有が禁止されている事から自衛隊は軍隊ではないとされる。したがって戦後新たに作られ自衛隊内で歌われる歌も軍歌ではなく、正式には隊歌と呼ばれる。

創隊10周年を記念して作られた陸上自衛隊隊歌。美しき自然等、自国日本をうたった重厚な曲調の歌。
  • 栄光の旗の下に 作詞:赤堀達郎 作曲:古関裕而
創隊20周年を記念して作られた陸上自衛隊隊歌。最近でも2006年自衛隊音楽まつりにて自衛隊歌の中では唯一合唱付きで演奏されるなど、人気があり親しまれている。
海上自衛隊隊歌。海上警備隊時代から愛唱されていたが、時代にそぐわなくなった歌詞のみを50周年の節目に公募の形で新しく改められた。一部の教育隊では1、2番両方共を入隊式での新隊員全員での合唱の為、それまでに完全に暗唱の形で上官に叩き込まれる。


非公式ではあるが旧軍時代の軍歌がそのまま歌われていたり、戦前の軍歌の詞を自衛隊仕様に変えたものが歌われることもあるが、現代もなお普通に陸海の音楽隊により公式の場(行事式典等)にて先述の「抜刀隊」や「軍艦」意外にも、「愛馬進軍歌」や「月月火水木金金」他様々な旧軍時代の軍歌が演奏されている。

軍歌の分類

上述の通り、軍隊や国歌を歌った曲は、戦前戦後を通して基本的に軍歌と総称されたが、参考までに分類を付す。

  • 軍歌
狭義の軍歌。軍隊によって作られたものを言う。民間によって作られ軍に贈られた「献納軍歌」も存在する。
 (例、抜刀隊、軍艦、敵は幾万、艦船勤務、討匪行、等)
  • 部隊歌
各部隊ごとに作られた歌。
 (例、加藤隼戦闘隊、関東軍軍歌、各連隊歌・派遣軍歌・艦歌等)
  • 軍楽
行進曲に代表される器楽曲。
 (例、陸軍分列行進曲、行進曲軍艦、連合艦隊行進曲、等)
  • 戦時歌謡
戦時色を帯びた民間の歌謡曲、映画主題歌。軍国歌謡とも。
 (例、露営の歌、暁に祈る、出征兵士を送る歌、麦と兵隊、等)
  • 国民歌謡
日本放送協会新聞社政府機関等が主導して製作発表された流行歌等。戦時歌謡に含める場合もある。
 (例、愛国行進曲、日の丸行進曲、爆弾三勇士、アッツ島血戦勇士顕彰国民歌、 等)
  • 兵隊ソング
兵隊の間で歌われた俗謡。兵営フォーク、軍隊小唄とも。
 (例、ほんとにほんとにご苦労ね、海軍小唄:ズンドコ節、可愛いスーちゃん、同期の桜、等)

このほか、戦地で愛唱された一般歌謡曲や唱歌も、軍歌と呼ぶ場合がある。

主な軍歌作者

関連項目

外部リンク




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月28日 (月) 20:38。










    

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最終更新:2008年10月03日 23:16
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