聯合艦隊(れんごうかんたい、新字体:連合艦隊)とは、旧日本海軍が二個以上の常設の艦隊で編成した、非常設の艦隊である。日本海軍が使用した略称は GF(Grand Fleet または General Fleet から)、ただし英語では Combined Fleet という。
聯合艦隊は2個以上の艦隊で編成された日本海軍の中核部隊である。明治初期、海軍はそれまで有力艦・新鋭艦で編成された主力部隊を「常備艦隊」、老巧艦などで編成された沿岸防備のための二線級部隊を「警備艦隊」と称していた。しかし、日清戦争開戦がせまってくるにつれ「警備艦隊」というのは戦時にふさわしくないという意見がでてきた。一時は「警備艦隊」を「常備艦隊」に統合する案が出たが、当時の軍令部官房主事である山本権兵衛大佐が「警備艦隊」を「西海艦隊」と改名し、「常備艦隊」と「西海艦隊」をもって「聯合艦隊」を組織するという案を出した。これが聯合艦隊の始まりである。
そして日清戦争開戦の6日後にはじめて聯合艦隊が編成された。以後日露戦争など戦時や演習時のみ臨時に編成されていたが、大正12年(1923年)以降常設となった。なお、日露戦争後の聯合艦隊解散式で名文との評価が高い聯合艦隊解散之辞が読まれている。
聯合艦隊は天皇に直属する聯合艦隊司令長官がこれを統括し、軍令に関しては軍令部総長の、軍政に関しては海軍大臣の指示を受ける。昭和19年(1944年)のレイテ沖海戦で事実上壊滅した。
聯合艦隊司令部には、司令長官を補佐する幕僚として、参謀長、参謀副長(S19~)、首席参謀(先任参謀と通称)、砲術参謀、水雷参謀、航空参謀、通信参謀、航海参謀、機関参謀、戦務参謀、政務参謀、主計長、軍医長、機関長、暗号長、気象長、副官等が配置されていた。ただし、首席参謀以外の○○参謀は通称である。
日本海軍といえば、長い間、聯合艦隊が代表であり、戦艦など主力艦はいうに及ばず、駆逐艦、輸送艦のような補助艦まで、大多数が聯合艦隊に取り込まれた。また、聯合艦隊こそが実戦部隊のエリートであり、そこに有能な人材を集中し、局地警備部隊や海上護衛部隊の人材育成を軽視した。補給軽視は、日本陸軍と同じである。その結果、本来、海軍の重要任務になるべき海上交通、シーレーンの確保に充当すべき艦艇と人材に不足を来たしてしまった。日本海軍は、戦艦中心の艦隊決戦の思想を残しながらも、空母機動部隊を編成し、斬新な艦隊運用のさきがけとなった。海軍航空隊の育成も、戦艦による艦隊決戦、次いで空母艦隊決戦を目標としていた。空母艦隊決戦の思想は、1944年6月のマリアナ沖海戦の敗北で、放棄されたが、1944年10月のレイテ沖海戦まで、聯合艦隊中心主義の艦隊編成・運用をおこなった。聯合艦隊中心主義の結果、海上護衛部隊、対潜哨戒部隊(ハンターキラー)の編成に遅れをとった。
1945年4月の戦艦大和以下第二艦隊の沖縄への海上特攻は、第二艦隊を解散するという決断ができないままに、レイテ沖海戦と同じく、航空部隊の援護なしの無謀な突入作戦を繰り返しであった。沖縄戦に敗北すると、生き残った戦艦「長門」のような大型艦艇は、事実上、局地警備隊の海岸砲台として使用された。そして、特攻兵器「回天」「海龍」「震洋」などを配備した特攻隊が海軍の主力艦艇となっていた。戦争末期、聯合艦隊は、事実上、解散していたのである。
聯合艦隊旗艦が出撃した海戦のみ示す。
Template:Main? (代)-(氏名)-(就任時階級)-(就任年月日)
代数は資料により相違がある。
竹下勇の時から聨合艦隊は常設され、山本五十六までは第一艦隊司令長官を兼務していたが、昭和16年以降は聨合艦隊司令長官と第一艦隊司令長官は分離された。
※1905年1月 - 1933年5月は第1艦隊参謀長が兼務
太平洋戦争開戦時の日本海軍とは即「聨合艦隊」を示すのではなく、外戦部隊と内戦部隊と言うように、他に複数の艦隊が存在していた。1944年(昭和19年)にこれらは聯合艦隊に統一された。以下に太平洋戦争開戦当時(1941年12月8日)の艦隊編成と、各艦隊司令長官を記した。戦艦大和などは艦籍登録が開戦以降なので記載していない。
本土近海の防衛を担当
戦艦を主軸とした主力艦隊(本土近海の防衛を担当)
重巡洋艦を主軸とした艦隊(フィリピン攻略作戦を支援)
フィリピン攻略作戦支援のための艦隊
南洋群島防衛のための艦隊
本土東方海域(東シナ海)防衛のための艦隊
潜水艦隊(ハワイ方面攻略を担当)
空母機動部隊(北太平洋方面攻略を担当)
基地(陸上)航空部隊
艦隊司令部は通常、旗艦に設置される。よって、聯合艦隊司令部もその創設以来旗艦に司令部を設置していた。しかし、太平洋戦争末期になって、司令部設置箇所を巡り論争が起きた。
その原因は、聯合艦隊司令長官の指揮範囲を広げすぎたことにある。明治時代の聨合艦隊司令長官は原則として純粋な戦闘部隊のみを指揮下においていた。しかし時がたつにつれて名声が高まり、軍令を司る軍令部長(職制上は聯合艦隊司令長官の上官)と並び称されるほどになった。それに加え、聨合艦隊司令長官の地位が単なる戦闘指揮官ではなく海上作戦全般の総指揮官という意味も帯び始め、補給部隊や基地航空隊、鎮守府なども指揮下に入るようになった。こうなると、多くの司令部人員の増加が必要となり、居住及び勤務空間の確保や無線設備の増強など海上の一艦にあって総指揮をとることが何かと不都合になってきたのである。ちなみに米軍側の太平洋艦隊司令部はハワイ(太平洋戦争開戦前にサンディエゴより移動)にあり、陸上から指揮をしていた。よって、司令部上陸論ともいうべき主張が、司令部内でされるようになった。
そのためか、太平洋戦争において、聯合艦隊旗艦が作戦行動を起こしたのはミッドウェー海戦のみであり、しかも機動部隊のはるか後ろを航行していたため戦闘には参加していない(これには相変わらずの大艦巨砲主義による海上決戦思想に基づく戦艦温存策という面もあった)。
それに対し、反対論も根強かった。海軍には「指揮官先頭、率先垂範」という伝統があった。また、日本海海戦では東郷平八郎司令長官が旗艦三笠の艦橋先頭に立ち、戦闘中微動だにせず、海戦終了後東郷長官の足跡がくっきりと残っていたという実話もある。「司令長官とはそうあるべきもの」という観念が、海軍の中では確固たるものとしてあった。安全な後方(陸上)から指揮を受けるなど、考えたくもなかったと思われる。
しかし、昭和19年(1944年)に入りいよいよ戦争範囲は拡大しつつも敗勢が濃くなり、聯合艦隊司令部は旗艦を収容能力と通信設備を併せもつ軽巡洋艦「大淀」に移し、しかも単艦で木更津沖に停泊させた。これは現在、米軍などに見られる指揮専用艦の先駆けであったが、当時司令部にそんな意識などはあるはずもなく、単なる妥協策であった。しかし、マリアナ沖海戦でマリアナ諸島が占領されると本土空襲が現実となり、フィリピン方面へ米軍の攻勢が切迫してくると、ついにその年の内に日吉台の慶應義塾大学構内の地下防空壕に移ってしまった。ここにおいて聯合艦隊旗艦及び第一艦隊は消滅した。
それでも抵抗は依然として強かったらしく、昭和20年(1945年)の菊水作戦(いわゆる大和の沖縄特攻)発動時には、特攻作戦に反対する第二艦隊司令部から「陸上にいて艦隊の気持ちがわかるか」「特攻ならば司令長官自ら大和に乗り込むべきではないか」との怒号を受けた。この菊水作戦は「一億総特攻の魁になってくれ」という要請のもとに始められたものであり、全ての帝国海軍海上部隊を、戦果と引き換えに滅失させるものであったからである。つまり菊水作戦の発動後は、それが成功しようが失敗しようが、途中で中止されない限りは、帝国海軍の海上部隊は消滅するのであるから、海上部隊のための指揮官も参謀も必要なくなるのである。「最後くらいは、将は皆、兵の前に立つべき」と感じたのであろうと推測できる。
海上自衛隊には防衛大臣直属である「自衛艦隊」という組織があり、自衛艦隊司令官の指揮下に護衛艦隊(4個護衛隊群基幹)、航空集団、潜水艦隊、掃海隊群その他の実力部隊を置いている。聯合艦隊と比較すると、航空母艦などを所有しておらず、防御的戦力に特化しておりその性格を異にしているが、自衛艦隊が聯合艦隊に相当する実施部隊である事には異論を挟む余地はない。
文化大革命中、中華人民共和国の軍人林立果は毛沢東暗殺を計画した。その際組織した秘密組織の名前は「連合艦隊」であった。これは林立果が日本映画『連合艦隊司令長官 山本五十六』を観て感動したことから日本の聯合艦隊に影響されたものである。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月4日 (金) 05:35。