Template:日本陸軍? 南満州鉄道附属地警備を目的とした守備隊が前身で、1919年(大正8年)に関東軍と改称する。司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都新京(現・吉林省長春)に移転。名称は警備地の関東州に由来する。
張作霖爆殺事件や満州事変の画策・実行は、20年代からの既存の国家外交安全保障戦略を、現地の佐官級の参謀陣が自らの判断で武力転換させたことを意味し、その後の太平洋戦争に至る日本の政治外交過程を大きく左右する端緒となった。
また、これら一連の行動は参謀本部・陸軍省等当時の軍中央での国防政策の指針からも逸脱しており、その後の陸軍内の「下克上」的な組織体質、「手続軽視・結果重視」といった軍の運用体質を作りあげていった、という批判もある。
また、関東軍は、阿片王と呼ばれた里見甫と結託し、アヘン取引組織を作った。
日露戦争後にロシアから獲得した関東州租借地(遼東半島)と南満州鉄道(満鉄)の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部が前身。1919年に関東都督府が関東庁に改組されると同時に関東軍として独立した。当初は独立守備隊6個大隊と内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団の編成。
1928年には、北伐による余波が満州に及ぶことを恐れた高級参謀・河本大作陸軍歩兵大佐らが張作霖爆殺事件を起こす。しかし、張作霖の跡を継いだ息子張学良は、国民政府への帰属を表明し工作は裏目となった。そのため1931年、石原莞爾作戦課長らは柳条湖事件を起こして張学良の勢力を満州から駆逐し、翌1932年、満州国を建国する。当初、犬養毅首相は満州国承認を渋るが五・一五事件の凶弾に倒れ、次の斎藤実内閣は日満議定書を締結し満州国を承認する。その後、関東軍司令官(後に総司令官)は駐満大使を兼任するとともに、関東軍は満州国軍と共に満州国防衛の任に当たり満ソ(張鼓峰事件)、満蒙(ノモンハン事件)国境紛争に当たっては多数の犠牲を払いながら、満州国の主張する国境線を守備する。
一方で、1917年のロシア革命とその後の混乱により弱体化していたソビエト連邦は、1930年代中盤頃までに第1次及び第2次五カ年計画を経て急速にその国力を回復させていた。当初日本側は、革命ソ連の実力を過小評価していたが、ソ連は日本を脅威とみなして着実にソビエト連邦軍極東軍の増強を続けていた。関東軍は1938年の張鼓峰事件で初めてソビエト連邦軍と交戦し、その実力は侮りがたいことを知る。さらに1939年のノモンハン事件では大きな損害を被り大日本帝国陸軍内で北進論が弱まる契機となった。
なお戦後のある時期まで張鼓峰事件・ノモンハン事件は大日本帝国陸軍の一方的敗北であったと考えられていたが、ソ連崩壊により明らかになった文書によると、両戦闘におけるソビエト連邦軍側の損害は実は日本側を上回っていた事実が分かった。これにより特にノモンハン事件に関しては現在再評価が進んでいるが、北進の意図を挫くというソビエト連邦軍側の目的は達されたのであるから、戦略的にはソビエト連邦軍側が勝利したことは疑いないであろう。
これらの武力衝突によりソビエト連邦軍の、関東軍にとっての脅威が認識されたことや欧州戦線の推移などにより関東軍は漸次増強された。日中戦争勃発前夜の段階で関東軍は独立守備隊5個大隊及び4個師団となっていたが、1941年にはさらに14個師団にまで増強された。加えて大日本帝国陸軍は同年勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は74万以上に達した。精強百万関東軍と言われたのはこの時期である。
しかし、1943年以降、中央の軍事力増強の力点は南方に移り関東軍からは戦力を抽出され、関東軍も中央に従って進んで戦力を提供した。1945年になると在留邦人を対象にいわゆる「根こそぎ動員」(25万人)を行い、数の上では78万人に達したが、その練度・装備・士気などあらゆる点で関特演期よりはるかに劣っており、満州防衛に必要な戦力量には至っていなかった。
8月9日に開始されたソビエト連邦軍の侵攻に対して、関東軍は国境で陣地防御を行い、戦況の悪化にしたがって防衛線を段階的に大連 - 新京 - 図們の三角線まで南下させる守勢後退を行った。この作戦によって関東軍は、「開拓殖民を見捨て逃げ出した」と非難されることなった。一方で、大連 - 新京防衛ライン(満鉄連京線を指す)では後方予備として温存していた9個師団を基幹とする第3方面軍が展開して実際に持久戦が企図されていたが、反撃に移るまでに8月15日の玉音放送を迎え、日本の本土では降伏と停戦命令が発せられ、その命令が満州の関東軍総司令部に伝えられたのは16日夕方であった、伝えられた山田乙三総司令官は「徹底抗戦」を主張する参謀もいる中、夜10時に停戦を決定、戦闘を停止した。
戦後、関東軍将兵は、捕虜としてシベリアへ抑留され、過酷な強制労働に従事させられ、多数の死者を出すこととなる。総司令官の山田乙三大将や参謀の瀬島龍三中佐ら関東軍幹部は11年間の長期にわたって抑留される。近衛文麿公爵の嫡男で近衛家当主の近衛文隆中尉はシベリア抑留中に獄死したため、当主が不在となった近衛家は文麿の外孫の近衛忠煇が継ぐこととなる。
※昭和6年10月5日から第1課長
※昭和16年10月5日から第2課長
※昭和16年10月5日から第3課長
※昭和16年10月5日から第4課長
※報道部長は参謀の発令を受ける
※補給監は昭和17年10月20日に新設され、参謀長が兼任した
※昭和13年8月1日に参謀部第2課別班として設置され、研究部と俗称された。
※昭和16年5月15日に特種情報部に改編
※昭和19年6月30日に特種情報隊に改編
※創設当初は関東軍参謀部第2別班と称した
※昭和16年5月31日築城部へ改編
※昭和20年5月25日建設団へ改編
※昭和14年8月1日に技術部から独立
※関東軍防疫給水部の項参照
※関東軍野戦鉄道司令官として設置
※昭和19年12月16日大陸鉄道司令官と改称
(順不同:主任参謀(課長レベル)になっていない者)
(注)網羅的な資料が存在しないため、関東軍のすべての参謀の氏名を把握することはできない。
※カッコ内は通称号
(用例)取締役会の意向を無視して勝手に暴走する○○事業部は我が社の関東軍だな。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月20日 (月) 02:11。