十五年戦争

「十五年戦争」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

十五年戦争」(2008/10/19 (日) 19:59:27) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

'''田中 正明'''('''たなか まさあき'''、[[1911年]][[2月11日]] - [[2006年]][[1月8日]])は[[評論家]]。[[長野県]][[下伊那郡]][[喬木村]]出身。 [[松井石根]]の元私設秘書。南信時事新聞・元編集長、[[拓殖大学]]講師。日本アラブ協会常任理事。[[イオンド大学]][[教授]]。 [[南京大虐殺]]の存在に否定的な立場からの研究で知られる。田中の弟子としては[[水間政憲]]が保守系雑誌で、[[松尾一郎]]が[[インターネット]]上で田中の主張を引き継いで展開している。 == 『松井石根大将の陣中日記』改竄について == 田中は、本書を1985年[[芙蓉書房]]から出版し、南京事件幻説を補強する有力証拠だと主張したが、その際、松井日記の記述を日本軍に有利な方向に捻じ曲げる「加筆・修正・削除」を全く読者への断りのないまま行なった。「南京占領後の態度方針を説明するため外人記者団と会見をした」といった原文にない記述を追加した上、注釈として「松井大将が『南京虐殺』に関する質問を受けたという様子が全くみられない」などと述べるなど深刻なものも多く、細部まで含めると「修正」箇所は300ケ所以上に及ぶ。その事実は、「中間派」である[[板倉由明]]によって指摘された。[http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/7kaizan-1.htm] [http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/7kaizan-2.htm] [http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/7kaizan-3.htm] これについて田中は「語句の扱いに配慮を欠いた点は認めますが、原文を勝手に書き直して、虐殺事件を隠したとか、大将の不利を補ったとかいったようなことは毛頭もありません。」と自著で反論している。([http://www.geocities.com/TheTropics/Paradise/8783/asahi.html 「朝日」の策略!「松井大将陣中日誌」改ざん事件の真実]) しかし、原文に存在しない文章を説明なく追加し、追加した文章を根拠に南京虐殺を否定する主張を行っている以上、史料を書き換えて南京事件を否定しようとしたことは否定できず、上の反論には説得力がないとする見方が一般的である。([http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/3924/article/tanakam.html 田中正明「松井岩根大将陣中日記」の改竄について]) また、上記の田中の反論は、直接自身に厳しい批判をした板倉にではなく、なぜか改竄の事実を報道した朝日新聞に向けられていたうえ、一般の報道被害から朝日新聞の南京事件に対する報道姿勢までが混在したものだった。 史料改竄の発覚後も謝罪や訂正を行わず、上記のような主張を行ったことによって田中の社会的評価はさらに低下し、この時期の南京大虐殺論争に終止符が打たれる直接の原因ともなった。 == 『パール博士の日本無罪論』 == [[ラダ・ビノード・パール|パール]]博士は、自身の意見書において、一部の暴虐行為は支那兵によるものなのではないか、証言には虚偽誇張が含まれているのではないか、との疑念を呈しつつ、「それでもなお南京陥落時の日本兵による暴虐な出来事の存在を認めざるをえない」としている。しかし、前述の「疑念」に加え、松井石根に対し無罪を主張したこと(『パル判決書』[[講談社学術文庫]]: 下巻p.566)から、田中はあたかも「パール博士が[[南京大虐殺]]は虚妄と主張した」かのように紹介した。 なお、パール博士が松井を無罪としたのは、「裁判の在り方自体に有効性がないため『有罪』という概念そのものが成立しない」との博士自身の主張に沿ってこれを全ての被告に対し一律に適用したものであり、各事件の事実関係の認定とは直接の関係がない。 == 主著 == * [[パール判事の日本無罪論]] * アジアの曙 * 南京虐殺の虚構 * 松井石根大将の陣中日記 * 南京事件の総括 * アジア独立への道 == 関連項目 == * [[歴史修正主義]] * [[自虐史観]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%AD%A3%E6%98%8E 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007年10月26日 (金) 06:16。] <br/> <br/> '''考察'''<br/> '''松井大将の弁護のために、資料の捏造や改竄を繰り返した人物。動機は理解できるが、信用できる人物でない。'''<br/> '''パール判事を「唯一の国際法の専門家」と(意図的かどうかは不明だが)間違って評したため、それを無批判に信じるバカが多い。パール判事が国際法に詳しかったことは間違いないであろうが、専門としていたわけではないし、パール判事以上に国際法に詳しい判事もいた。'''<br/> '''これが、伝言ゲームのように間違いが拡大され、パール判事が「国際法の学位」を有していたなどと言うバカまでが出没している。'''<br/> '''以下は、出どころは田中正明らしいが未確認の内容。'''<br/> '''東京裁判の裁判官であった梅汝敖氏が裁判官の職を持つ者ではなかった(経歴も無い)ことをもって判事の資格が無いと批判する人が多い。'''<br/> '''ところで、裁判官の経験が東京法廷の判事に必要であろうか。日本の最高裁判所の判事(裁判官)は、裁判官の経験が大学教授や官僚からも選ばれるが、裁判官として不適格とされた人はいない。また、小和田恆氏が国際司法裁判所の判事を勤めているが、小和田氏も裁判官の経験は無いが問題にした人はいない。'''<br/> '''梅判事の経歴を調べたが、シカゴ大学の法学博士を取得した後に中国の大学で教鞭をとったり国民政府の要職を勤めたりしているようであり、裁判官として不適格とする理由は何も無い。'''<br/> '''また、東京裁判の判決が、賛成6で反対5と分かれたと書き立てるのもよく見るが、反対した判事が何に反対したか全く理解していない。被告の各個人に対する有罪認定を見ると、圧倒的多数で有罪と判断されている。反対意見は、一部の被告を無罪と考える意見や死刑には反対とするもので、有罪か無罪かで判定すると有罪が10に対して無罪が1だ。'''
[[1931年]]の[[満州事変]]から[[日中戦争]]を経て[[1945年]]の[[ポツダム宣言]]受諾による無条件降伏に至るまでの約15年間にわたる戦争を、総称して'''十五年戦争'''と呼ぶ。[[鶴見俊輔]]が[[1956年]]にこの言葉を使用したのが最初とされ、[[1960年代]]後半から一般にもこの言葉が浸透していった。この呼称は、満州事変以後繰り返された日中衝突及び太平洋戦争までの戦争は連続した日本による[[侵略戦争]]であるという見方に基づいているとして、侵略性を主張することに反発ないし消極的な人々からは否定的に受け取められることもある。 また、[[イデオロギー]]上の論争とは別に、満州事変(1931年 - )は[[塘沽協定]]([[1933年]])で一応、停戦が成立しており、[[盧溝橋事件]]を発端とする[[日中戦争]]([[1937年]] - )との連続性を認めるのは、非合理的とする意見もある。 == 略年表 == '''日本の大陸介入''' * [[1925年]]([[大正]]14)[[1月]] [[蒋介石]]の広東政府、[[北伐]]を開始 * [[1927年]]([[昭和]]2) ** [[5月]] 北伐が[[山東省]]の日本利権に迫り、日本軍第一次[[山東出兵]] * [[10月]] [[毛沢東]]、[[江西省]]に革命根拠地樹立 * [[1928年]](昭和3) ** [[4月]] 蒋介石の北伐再開、日本軍反発し第二次山東出兵 ** 5月 [[済南事件]] ** [[6月]] 北伐完了 ** [[6月4日]] [[張作霖爆殺事件]] ** [[7月]] [[アメリカ合衆国]]政府、蒋介石の[[国民政府]]を承認。 ** [[10月]] 蒋介石、国民政府主席に就任 * [[1929年]][[4月]] [[世界恐慌]]起こる * [[1930年]] 日本、金輸出解禁により金流出、輸出不振。 '''[[1931年]]''' * '''[[9月18日]] - [[満州事変]]勃発''' * 12月 - 日本金輸出再禁止 '''[[1932年]]''' * [[1月28日]] [[上海事変|第一次上海事変]] * 2月 - 9月 [[リットン調査団]]、柳条湖事件を調査 * [[3月1日]] [[満州国]]建国宣言 * [[5月15日]] [[五・一五事件]]発生 * [[イギリス]]が[[ブロック経済]]を形成する * [[9月15日]] [[日満議定書]]調印 * [[10月]] [[リットン調査団]]、国際連盟に報告 '''[[1933年]]''' * [[1月]]~[[3月]] 日本軍、[[熱河]]に侵入。 * 2月21日 - 国際連盟総会でリットン報告を採択(反対票は日本のみ)、日本に対し満州からの撤退が勧告される。日本は不服として連盟脱退を表明。 * 3月4日 - [[フランクリン・ルーズベルト|フランクリン・D・ルーズベルト]]が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]大統領に就任、[[ニューディール政策]]を実施(~1936年)。 * 3月24日 - [[ドイツ]]、「[[全権委任法]]」を制定、[[アドルフ・ヒトラー]]が総統に就任。 * 3月27日 - [[日本]]、[[国際連盟]]から正式に脱退する。 * 日本、[[中華民国]]と[[塘沽協定]]を結ぶ。 '''[[1934年]]''' * [[10月]] 毛沢東の[[長征]]はじまる(36年10月まで)。 '''[[1935年]]''' * [[天皇機関説]]問題。[[美濃部達吉]]の著書発禁、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員辞職を強いられる。 * 8月1日 - [[中国共産党]]、[[八・一宣言]]([[抗日救国宣言]])で、[[国共合作]]をよびかける。 * 11月 [[冀東防共自治政府]]成立 '''[[1936年]]''' * [[1月]] 日本、[[ロンドン軍縮会議]]を脱退。 * [[二・二六事件]] * [[日独防共協定]]、締結される。 * [[12月]] [[西安事件]]([[張学良]]、蒋介石を拉致監禁) '''[[1937年]]''' * 7月7日 - [[盧溝橋事件]](蘆溝橋事件)。これより[[中華民国]]との[[日中戦争]](日華事変、日支事変)勃発。 * 7月 - 日本軍、北京・天津地域を占領。[[通州事件]]発生。 * 8月13日 - [[第二次上海事変]] * 9月 - [[第二次国共合作]] * 12月13日 - 日本軍、[[国民政府]]の首都南京を占領。「[[南京大虐殺]]」(または「南京事件」)発生(規模、事件の性格をめぐっては諸説あり)。 * 国民政府、[[重慶]]に首都移転。 '''[[1938年]]''' * 1月 - 日本、「爾後国民政府を対手とせず」のいわゆる'''近衛声明'''発表。国民政府との和平交渉を打ち切った。 * 4月1日 - 日本、[[国家総動員法]]公布。 * 5月5日 - 国家総動員法、施行。 * 12月 - [[汪兆銘]]、重慶を脱出。 '''[[1939年]]''' * 5月 - [[ノモンハン事件]] * 9月 - [[第二次世界大戦]]勃発。ドイツ軍が[[ポーランド侵攻]]開始、これに対して英仏が宣戦。 '''[[1940年]]''' * [[汪兆銘]]、[[国民政府|南京国民政府]]樹立。 * 6月14日 - ドイツ軍、パリに入城。 * 6月 - [[フランス]]の[[ヴィシー政権]]がドイツに降伏。[[自由フランス政府]]は抵抗を続行。 * 9月 - 日本、北部仏印に進駐。 * 9月 - [[日独伊三国軍事同盟]]締結。 * 10月 - [[大政翼賛会]]、結成。 * 11月 - [[大日本産業報国会]]、結成 '''[[1941年]]''' * 3月1日 - ドイツ軍、ブルガリアに進駐。 * 4月13日 - [[日ソ中立条約]]調印。 * 6月22日 - ドイツ軍、ソ連に侵攻開始([[バルバロッサ作戦]])。[[独ソ戦]]始まる。 * 7月2日 - 対ソ戦準備・南部仏印進駐を[[御前会議]]で決定。 * 7月 - 日本、南部仏印に進駐。 * 10月2日 - ドイツ軍、モスクワ攻略作戦([[モスクワの戦い|タイフーン作戦]])開始。30日に中断、翌月19日に再開。 * 11月 - アメリカ、日本に、[[ハル・ノート]]を提案。 * 12月8日 - [[真珠湾攻撃]]以降[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])。 * 12月11日 - ドイツとイタリア、アメリカに宣戦布告。 * 12月16日 - [[大和 (戦艦)|戦艦大和]]、竣工。 '''[[1942年]]''' * 1月2日 - [[マニラ]] (フィリピン進攻作戦) * 1月 - 日本軍、マニラ占領。 * 2月15日 - [[シンガポール]] (マレー進攻作戦) * 3月8日 - [[ラングーン]]占領。 * 3月9日 - [[ジャワ島]]のオランダ軍を降伏させる。 * 5月7~8日 - [[珊瑚海海戦]] * 5月 - 日本軍、フィリピンのコレヒドール島占領。 * 6月5~7日 - [[ミッドウェー海戦]] * 8月 - [[ガダルカナル島の戦い]]始まる。 '''[[1943年]]''' * 2月1~7日 - 日本軍[[ケ号作戦|ガダルカナル島から撤退]]。 * 2月 - ソ連軍が[[スターリングラード]]でドイツ第6軍を降伏させる。 ([[スターリングラード攻防戦]]) * ドイツ[[東部戦線]]、[[ハリコフ攻防戦#第三次ハリコフ攻防戦|第三次ハリコフ攻防戦]]。 * 4月18日 - [[山本五十六]][[連合艦隊司令長官]]、[[ブーゲンビル島]]上空にて戦死。(「[[海軍甲事件]]」) * 7月4日 - ドイツ東部戦線、[[クルスクの戦い]]。(~8月27日) * 7月10日 - 連合軍、[[シチリア島]]に上陸。([[ハスキー作戦]]) * 9月3日 - 連合軍がイタリア半島に上陸。([[イタリアの戦い]]) * 9月8日 - [[イタリア|イタリア王国]]、連合国に降伏。 * 9月23日 - ドイツに救出された[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]が[[イタリア社会共和国]]を建国。日本は承認。イタリアは内戦状態に。 '''[[1944年]]''' * 日本[[学童疎開]]始まる。 * 一号作戦([[大陸打通作戦]])始まる。 * 10月 - [[レイテ沖海戦]] * 12月 - ドイツ軍、[[バルジの戦い|アルデンヌ攻勢]]。 '''[[1945年]]''' * 2月18日 - [[硫黄島の戦い]]始まる。 * 3月10日 - [[東京大空襲]] * 3月22日 - 硫黄島が陥落。 * 3月26日 - 米軍、[[沖縄]]上陸。 * 4月6日 - 天一号作戦([[菊水作戦]])開始。 * 4月7日 - [[大和 (戦艦)|戦艦大和]]、沈没。 * 4月12日 - アメリカ、[[ルーズベルト大統領]]、死去。 * 4月28日 - ムッソリーニが[[パルチザン]]に処刑される。イタリア社会共和国は崩壊。 * 5月2日 - [[ベルリンの戦い|ベルリンが陥落]]。 * 5月8日 - ドイツ[[無条件降伏#第2次世界大戦後のドイツ|無条件降伏]]。 * 7月26日 [[ポツダム宣言]]。 * 8月6日 - [[広島市]]へアメリカが[[原子爆弾]]を使用。 * 8月8日 - [[ソビエト連邦|ソ連]]、[[ヤルタ協定]]に基づき[[日ソ中立条約]]を破棄し、[[ソ連対日宣戦布告|日本に宣戦布告、日本保護領満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島に侵攻]]。 * 8月9日 - [[長崎市]]へアメリカが原子爆弾を使用。 * 9月2日 - 日本、[[無条件降伏#第2次世界大戦後の日本|降伏文書に調印]]、[[太平洋戦争]]終結。 * 9月下旬 - 中国大陸の日本軍全面降伏、[[日中戦争]]終結。 # ''1937年から1945年までは[[日中戦争]]も参照'' # ''1941年から1945年までは[[太平洋戦争の年表]]も参照'' === 日中摩擦 === [[日中戦争]](支那事変、日華事変)が起こるまでに、日中摩擦が起こっている。 [[第一次世界大戦]]後、日本は'''『[[対華21ヶ条要求|21か条の要求]]』'''を中国につきつけ、侵略の意図をあらわにした。それに対し中国人は反発し[[五四運動]]、前後して日貨排斥運動が起こった。[[1928年]]、日本は[[北伐]]から[[山東省]]権益を守るべく[[山東出兵]]を行い、[[済南事件]]で日中双方は衝突する。 == 背景 == [[関東大震災]]、[[金融恐慌]]、[[世界恐慌]]、その後の[[ブロック経済]]化の流れ等で負った深刻な経済的ダメージを、 日本は満州進出、後には南方進出([[大東亜共栄圏]])で取り戻そうとした。 しかし、軍部の政治的な発言力が強まり、「'''満州は日本の生命線'''」として、また、 朝鮮に代わる「本土防衛」のための緩衝地帯として、満州進出を進める日本は、 [[満州国]]を承認しない列強との対立が深刻化し、遂には全面戦争にいたる。 == 経過 == [[1931年]]満州事変の当初、日本政府の方針は「事局不拡大」だったが、[[関東軍]]は無視して事変の拡大を進め、満州国の建国を後押しし、日本政府は結局、満州事変を事後追認した。 [[1933年]]日本は満州国を承認しない他の[[国際連盟]]加盟国と対立、満州国を否認する決議が採択されると、抗議として国際連盟を脱退した。 [[1937年]]、[[盧溝橋事件]]勃発。日本は1931年の満州事変によって満州国という緩衝国家を得たが、それが同国を日本によって作られた傀儡政権とみなす国際連盟各国、特に[[民族主義]]を刺激された[[中国]]の[[国民政府]]との関係を悪化させていた。 この年7月に勃発した盧溝橋事件以後、両国の険悪の度合いは増し、 8月の[[第二次上海事変]]を期に泥沼の日中戦争に引きずり込まれていく。 12月、日本軍は国民政府の首都南京を落としたが、国民政府は、最初漢口に、漢口陥落後は重慶に遷都し交戦を継続した。 [[1938年]]1月、[[近衛文麿]]首相は「国民政府を対手とせず」の声明を発表。日本は[[蒋介石]]の重慶政権を否定した。同年、[[国家総動員法]]が成立し、日本は日中戦争に全力を投入、国力を磨り潰して行く。 [[1939年]][[ノモンハン事件]]勃発、日本は[[ソビエト連邦|ソ連]]の脅威と陸軍装備の劣勢を認識するも、事実を隠匿したために、結局日本軍の得た教訓は、「対戦車攻撃には火炎瓶が有効」といった程度だった。(初期型の戦車以外には、火炎瓶は有効とは言えない) [[1940年]]には、 日本は[[汪兆銘]]の南京政府を中国における正当な政権として承認。 同年9月、日本は、英米が[[ナチス・ドイツ]]の傀儡政権と認識する[[ヴィシー政権|ヴィシーフランス]]との合意に基づき、北部仏印に進駐した。同時期、日本は、[[日独伊三国軍事同盟]]を締結した。 ドイツと同盟し、軍事力を背景にアジア諸国に対する勢力拡大を図る日本に、警戒心を刺激されたイギリスやオランダ、アメリカなどの周辺諸国は、[[石油]]や[[鉄|鉄クズ]]などの日本への輸出を制限し([[ABCD包囲網]])、日本に経済的圧力をあたえた。 その後も[[近衛文麿]]首相などによって戦争回避のための日米交渉が継続されたが、[[1941年]]、日本の南部仏印の占拠を機に日米関係は絶望的に悪化、[[ABCD包囲網]]が完成し、石油や鉄クズの日本への輸出が完全に停止した。こうした状況が続き、次第に日本の世論は「対米開戦やむなし」に傾いていく。 11月、[[中国]]および[[仏領インドシナ]]からの全面撤退や[[日独伊三国軍事同盟]]の即刻破棄などを要求したアメリカの'''「[[ハル・ノート]]」'''に対して反発した日本は、モスクワに迫るドイツ軍の成功を見て、同年[[12月8日]]、英米蘭と開戦、英米蘭の[[太平洋]]や[[東南アジア]]にある領土を攻撃し、 [[太平洋戦争]]が勃発した。条約上の義務はなかったが、同盟国のドイツとイタリアも、アメリカに宣戦布告した。 日本軍首脳部は、膨大な国力差のあるアメリカとの戦争を、[[真珠湾攻撃]]などの緒戦で戦果を挙げた時、もしくは同盟国ドイツが欧州で勝利した時に、[[スイス]]や[[バチカン]]等の中立国を通じて講和する、という(甘い)見通しで始めた。 しかし、緒戦こそ善戦したものの、戦争が長引くにつれ、経済力と技術力に勝る米国に押し返され、 [[1945年]]5月、頼みの綱のドイツは降伏し、同年[[8月8日]]、ソ連が対日参戦、「ソ連を通じての講和」の構想も不可能になり、ほぼ同時に広島と長崎への原爆投下もあり、最終的に同年[[9月2日]]、日本も降伏文書に調印した。 == 結果・犠牲 == 十五年戦争では、日本において軍、民間人あわせて'''三百万人'''の犠牲者(死者)が出た。アメリカにおいては、太平洋戦争期、主に軍人に'''9万人'''の戦死者を出している。 中国側の犠牲者数については諸説あるが、1951年9月6日の沈釣儒報告「戦犯の検挙と懲罰について」の中で、「中国軍民の蒙った生命の損失は一千万人以上である」との言及が見られ、しばらくはこの数字がしばしば引用されていた。 その後『中国新民主主義革命時期通史』に「確かな統計によっただけでも、人民の死傷者は1,800万人に達し(軍隊の死傷者数は含めず)」との記述が見られ、負傷者も含めた死傷者数ではあるが、これが、「統計」をもとに算出した、と主張する最初の数字である(当文献の初版は1961年だが、現在知られているものは1979年の第三版)。 軍人の死傷者については1985年8月11日付「[[人民日報]]」宋時輪論文にて「380万人余」との数字が提出された。これ以降、中国軍民の死傷者2,168万5千人」という数字が「中国人民革命軍事博物館」に展示されるようになる。 さらに1987年には、劉大年・中国社会科学院名誉所長により、「現存する戦争当時の戸籍簿をすべて洗い直」すなどの作業の結果、従来「ほとんど計上されていなかった」一般民衆の餓死者や病死者を含めて、「死者だけで2000万人以上」とする推計が発表された。 (以上、[[石井明]]氏論文『日中戦争における中国の人的・物的損失について』による) その後1995年には、「死傷者3500万人以上」という数字が提出されたが、この数字の根拠は不明。以上、死者数及び死傷者数については詳細な調査は不可能であり、中国側の提出する数字の信頼性も不明である。ただし、日中戦争によって中国の軍人及び一般民衆に多大な被害が生じたことは疑い得ない。 == 総括 == [[明治]]から[[昭和]]にかけて日本は飛躍的な発展を遂げたが、[[富の再分配]]が適切に行われなかったので社会階層が固定化され貧富差が拡大した。また、急激に増加した人口を国内だけで養うことが困難になり、海外移民等を積極的に進めるが、[[黄禍論]]の台頭により厳しい状況におかれた。このような社会背景のもと立て続けに起きた[[金融恐慌]]と[[昭和恐慌]]は、社会不安を増大し閉塞感を蔓延させた。無力で失策を続ける政府に多くの国民は失望し、逆に[[軍部]]への期待が高まった([[徴兵制]]のため軍部では下層階級の意見が通りやすかった)。ここに至って、もはや国内的な努力のみでは問題を解決できない状況となり、国外に活路を求める以外に無いという考えが台頭してくる。軍部は国民的支持を背景に自らが得意とする'''力'''による解決方法を探り、イギリスなどの[[ブロック経済]]を模して、他地域への進出によって恐慌を乗り切ろうとした。これが'''十五年戦争'''の始まりと考えられる。 日本は[[満州事変]]によって[[満州]]という新たな殖民国家を得たが、それは[[中国]]の[[民族主義]]を刺激し日中関係の悪化を招いた。険悪の度合いは増し、[[盧溝橋事件]]を期に泥沼の日中戦争に引きずり込まれていく。日本の拡大主義はイギリスや[[オランダ]]などの周辺諸国、特にアメリカの警戒心を刺激し、[[石油]]や[[鉄クズ]]などの禁輸([[ABCD包囲網]]の発動)という日本にとって極めて厳しい経済制裁を加えられる。その後も[[近衛文麿]]などによって戦争回避のための日米交渉が継続されたが、[[1941年]]、[[中国大陸]]からの全面撤退や[[日独伊三国軍事同盟]]の即刻破棄などを要求したアメリカの最後通牒([[ハル・ノート]])に反発した日本は、逆に欧米の太平洋や[[東南アジア]]にある領土を攻撃し、太平洋戦争が勃発した。 日本軍首脳部は、アメリカとの膨大な国力差を[[真珠湾攻撃]]による緒戦の勝利と精神主義による早期講和で乗り切ろうとする。しかし、緒戦こそ善戦したものの戦争が長引くにつれ、経済力と技術力に勝る米国に押し返され、[[1945年]][[8月15日]]、敗戦を迎える。 この戦争は、 : 社会不安→軍部台頭→膨張政策→諸国との摩擦→破滅的戦争→軍部崩壊→[[民主化]] という[[発展途上国]]の[[近代化]]・民主化の典型的なパターンに沿っているものとも言える。 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%8D%81%E4%BA%94%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月18日 (月) 07:53。]    

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。