大日本帝国陸軍

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'''大日本帝国陸軍'''(だいにっぽんていこくりくぐん)とは、[[1871年]]から[[1945年]]まで、[[大日本帝国|日本]]の[[天皇]]が統帥していた[[陸軍]]である。通常は単に'''日本陸軍'''と呼び、大日本帝国陸軍とは呼ばない。他に'''帝国陸軍'''と呼ばれることもある。また、本来は日本陸海軍を指す呼称である'''国軍'''(こくぐん)、'''皇軍'''(こうぐん)という呼称も、日本陸軍を指す場合が多い。 == 概要 == [[大日本帝国憲法]]制定前はその位置づけが未だ充分ではない点もあったが、憲法制定後は、軍事大権については憲法上[[内閣]]から独立し、直接[[天皇]]の[[統帥権]]に属するものとされた。 最高指揮官は天皇で、[[大元帥]]として陸海軍を統帥する。[[軍令]]を[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]、[[軍政]]を[[陸軍省]]が司った。したがって、全軍の最高司令官は大元帥たる天皇ただ一人であり、それを輔弼する最高級指揮官(形式的には参謀)が、陸軍では[[参謀総長]]、海軍では[[軍令部総長]]である。 == 略史 == === 創成期 === 帝国陸軍の起源は、[[明治維新]]後の[[1871年]]に、[[薩摩藩|薩摩]]・[[萩藩|長州]]・[[土佐藩|土佐]]から徴集され組織された天皇直属の「[[御親兵]]」である(正式に[[陸軍省]]が発足するのは1872年2月の[[兵部省#兵部省 (明治時代)|兵部省]]改組による)。この兵力を背景にして[[廃藩置県]]を断行した。御親兵はその後「[[近衛]]」と改称された。その時点では[[士族]]が将兵の中心であったが、陸軍としては[[徴兵制]]による軍備を目標としていた。 この創成期の帝国陸軍建軍では[[大村益次郎]]が兵部省兵部大輔として主に兵制の基礎を構築し、士族による軍制から徴兵制度による国民兵制への移行を目指した。不幸にして大村が暗殺されると、その後を[[山県有朋]]が承継して[[1874年]]1月に[[徴兵令]]を発布し同年4月に東京鎮台に初の徴兵による兵卒が入営した。 しかし、近衛は徴兵制を[[武士]]を冒涜するものと不満を募らせ、[[征韓論]]による[[西郷隆盛]]の下野を機に[[将校]]兵卒が大量に辞職した。当初は専ら国内の治安維持、叛乱勢力の鎮圧([[佐賀の乱]]、[[神風連の乱]]、[[西南戦争]]ほか)などを担った。当初、兵部省は[[1871年]](明治4年)に東京・大阪の2個[[鎮台]]を置き、遅れて鎮西鎮台、東北鎮台を設置した。 陸軍省と改まった2年後の[[1873年]](明治6年)には全国を6個の軍管区(東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本)に分けて、それぞれに1個ずつの鎮台を置き、反乱士族の鎮圧などに当った。[[1888年]](明治21年)に6個鎮台はそのまま[[師団]]に改変されて[[第1師団_(日本軍)|第1]]ないし[[第6師団 (日本軍)|第6師団]]が置かれ、近衛は[[近衛師団]]となり禁闕守護を任務とすることとなった。 === 外征の開始 === [[1874年]](明治7年)の[[台湾出兵]]以降、徐々に外征軍としての性格を色濃くするようになり、[[1888年]](明治21年)には、拠点守備の側面の強い鎮台制から、後方支援部隊を組み込んで機動性の高い師団制への改組を行った。 [[1894年]](明治27年)の[[日清戦争]]開戦時には、常設師団は7個であったが、戦争後の[[1898年]](明治31年)に常設師団6個師団([[第7師団_(日本軍)|第7]]ないし[[第12師団 (日本軍)|第12師団]])が増設された。[[日露戦争]]では全ての師団が戦地に派遣されたため、内地に残留する師団がなくなってしまった。そこで、日露戦争中の明治38年4月に4個師団([[第13師団 (日本軍)|第13師団]]ほか)が新編された。国運を賭して行われた日露戦争の[[奉天会戦]]における勝利を記念して[[陸軍記念日]]が制定された。 [[日韓併合]]後は、旧大韓帝国軍人を[[朝鮮軍人]]として編入した。また、日韓併合後は[[朝鮮半島]]防衛のため2個師団を交代で朝鮮半島に派遣していたが、[[辛亥革命]]後の[[中華民国]]の混乱から警備強化の必要性が高まり[[上原勇作]][[陸相]]は2個師団の増設を[[西園寺公望]]首相に求め、その混乱から西園寺内閣は結果的に倒れることとなる。その後、[[陸軍省]]の要求が通り、[[1915年]](大正4年)に朝鮮半島に[[衛戍]]する2個師団(南部に[[第19師団 (日本軍)|第19]]・北部に[[第20師団 (日本軍)|第20師団]])が編成されることに決まった。 === 軍縮期 === その後、世界的な軍縮の流れに従って[[山梨半造]]陸相及び[[宇垣一成]]陸相の下で3次にわたる[[軍縮]]([[山梨軍縮]]及び[[宇垣軍縮]])が行われて、4個師団([[第13師団 (日本軍)|第13師団]]・[[第15師団 (日本軍)|第15師団]]・[[第17師団 (日本軍)|第17師団]]・[[第18師団 (日本軍)|第18師団]])が廃止され、平時兵力の3分の1が削減された。 宇垣軍縮では、同時に陸軍の近代化を目指しており[[航空兵|航空兵科]]が新設されるなどしたほか、平時定員を減らしつつ有事における動員兵員数を確保するため、[[学校教練]]制度を創設して[[旧制中学校|中学校]]等以上の学校に陸軍現役将校を配属することとした。 === 昭和期 === 昭和期には[[統帥権]]の独立を掲げ、[[政府]]の統制を逸脱して独断専行の行動が顕著になる。また[[二・二六事件]]以降の「軍部大臣現役武官制」を盾に倒閣を繰り返すなど政局混乱の原因をつくり、[[日中戦争]]から[[太平洋戦争]]に至る無謀な戦争へと突き進んだとの批判を受けることが多い。[[ソビエト連邦|ソ連]]を[[仮想敵国]]としてとらえて作戦計画を立案し、しばしば[[大日本帝国海軍|海軍]]と衝突した。[[満州事変]]、[[盧溝橋事件]]を経て中国大陸へ大量に派兵した。 日中戦争の長期化・戦線の拡大に伴い師団の増設が相次ぎ、1937年(昭和12年)からは留守師団を元に百番台の特設師団が設けられるなどした([[第101師団 (日本軍)|第101師団]]など)。また、[[1940年]]([[昭和]]15年)8月から8個常設師団が[[満州帝国]]に永久駐屯することとなった。さらに、太平洋戦争(大東亜戦争)末期には[[本土決戦]]に備えて大量に急造の師団が増設された。規模が拡大したため、[[軍]]の上に[[方面軍]]や[[総軍]]が設けられるに至った。 === 陸軍の解体 === 太平洋戦争では歩兵部隊を主力に、戦車部隊や航空隊を南方に派遣したが、多くを失った。[[ポツダム宣言]]受諾後、戦闘行動を停止した各地の陸軍部隊は、それぞれその地区を管轄する[[連合国軍]]に[[降伏]]し、その管理下で[[復員]]業務に従事することとなった。 そして、陸軍省も[[第一復員省]]、[[復員庁]]に改組され、その後陸海軍の残務処理は[[厚生省]]、後に[[厚生労働省]]が担当することとなった。なお、陸軍病院については、[[軍医]]とともに国立病院(現・[[国立病院機構]])へと移管され、国営[[医療機関]]として現在まで続いている。 海軍は、掃海業務を担当する航路啓開隊として一部が存続されたのに対して、陸軍は徹底的な解体が行われ、[[近衛師団]]も復員後に[[禁衛府]]皇宮衛士総隊として存続が図られるが、すぐに解体されてしまった。 === 陸上自衛隊との関係 === 帝国陸軍解体後に創設された[[警察予備隊]]の[[警察官]]には[[公職追放]]を受けた正規将校を除く、旧陸軍出身者も採用されたため、[[陸上自衛隊]]には、旧陸軍の習慣・伝統も一定度継受されている面はある(陸上自衛隊制式行進曲である[[陸軍分列行進曲]][[抜刀隊 (軍歌)|(抜刀隊)]]や、愛馬進軍歌や空の神兵といった当時の軍歌軍楽等)。 しかし、創設時の風潮であった[[陸軍悪玉論]]や陸軍の復古を懸念した[[アメリカ軍]]側の圧力もあり、公式には伝統の継承を断絶している。陸上自衛隊は、[[アメリカ陸軍]]の影響が強く、姿勢を正す際の手の握り等、旧陸軍と異なる服務、礼式を採用している。 ちなみに[[海上警備隊]](後の[[警備隊 (保安庁)|警備隊]]、[[海上自衛隊]])では、操艦に熟練が必要だったことから、[[大日本帝国海軍|海軍]]出身者を大量に採用した。 == 軍閥・軍国主義思想 == 1878年(明治11年)8月に、精鋭である筈の近衛砲兵が反乱を起こすという[[竹橋事件]]が起こり、政府に衝撃を与えた。また、[[自由民権運動]]の影響を陸軍が受けることを防ぐために、[[軍人勅諭]]が出された。ここでは「忠節・礼儀・武勇・信義・質素」の徳目を掲げると共に、その中で政治不干渉を求めていた。 しかしながら、陸軍軍人の中核を占める陸軍士官は、[[陸軍省]]職員として官僚機構の側面も有しており、古くは[[薩摩藩]]・[[長州藩]]等出身の将校らとその他の藩又は[[江戸幕府|幕府]]出身の将校らとの対立があったとされる。また、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]・[[陸軍大学校]]という近代的士官教育制度確立後は、[[兵科]]間であるとか、陸軍大学校を経たエリートたる中央[[幕僚]](陸軍大学校卒業徽章が[[天保通宝]]に似ていることから天保銭組と俗称された)と隊付将校(無天組)との間であるとか、派閥間の思想又は人事上の対立([[皇道派]]・[[統制派]]の対立)など、無数の内部的な抗争を生みやすい状況であった。 また、[[関東軍]]など、外地に所在する現地部隊が、中央の統制を充分に受けずに行動するなどの問題点も抱えていた。そのため、「スマートネイビー」を標榜とする[[大日本帝国海軍|海軍]]とは、偏った陸軍悪玉海軍善玉論等に影響され対照的にイメージされやすく、日本陸軍に対する悪い印象は一般的である。また、映画などでも陸軍将校の横暴が描かれることが多い。 最後の陸軍大臣[[下村定]]大将は敗戦後の第89回帝国議会において、[[斎藤隆夫]][[代議士]]からの質問に対して、日本陸軍を代表して問題点を総括している(昭和20年11月28日)。「軍国主義の発生に付きましては、陸軍と致しましては、陸軍内の者が軍人としての正しき物の考へ方を過つたこと、特に指導の地位にあります者がやり方が悪かつたこと、是が根本であると信じます、……或る者は軍の力を背景とし、域る者は勢ひに乗じまして、所謂独善的な横暴な処置を執つた者があると信じます、殊に許すべからざることは、軍の不当なる政治干与であります(拍手)……私は陸軍の最後に当りまして、議会を通じて此の点に付き全国民諸君に衷心から御詫びを申上げます……此の陸軍の過去に於ける罪悪の為に、只今斎藤君の御質問にもありましたやうに、純忠なる軍人の功績を抹殺し去らないこと、殊に幾多戦歿の英霊に対して深き御同情を賜はらんことを、此の際切に御願ひ致します(拍手)」(「……」は省略部分) これが、陸軍解体直前の陸軍大臣による総括であった。このように、陸軍指導者が軍人としての正しい振舞い方を誤り、また[[軍人勅諭]]でも禁止されていた政治関与を行ったことを、国民に対して明確に謝罪するとともに、全ての軍人が誤ったわけではなく、純忠なる軍人もいたことを否定しないように請願して演説を終えた。 == 制度 == === 階級(昭和19年-廃止時) === {| class="wikitable" |+陸軍軍人の階級(昭和19年8月10日-廃止) |- !rowspan="3"|階級 !rowspan="2" colspan="2"|兵科 !colspan="12"|各部 |- !rowspan="2"|技術部 !colspan="2"|経理部 !colspan="4"|衛生部 !colspan="2"|獣医部 !rowspan="2"|軍楽部 !colspan="2"|法務部 |- ! ||憲兵 !主計||建技 !軍医||薬剤||歯科医||衛生 !獣医||獣医務 !法務||法事務 |- ![[陸軍大将|大将]] |colspan="2"|陸軍大将|| || || || || || || || || || || ||  |- ![[中将]] |colspan="2"|陸軍中将||陸軍技術中将||陸軍主計中将||陸軍建技中将||陸軍軍医中将||陸軍薬剤中将||陸軍歯科医中将|| ||陸軍獣医中将|| || ||陸軍法務中将||  |- ![[少将]] |colspan="2"|陸軍少将||陸軍技術少将||陸軍主計少将||陸軍建技少将||陸軍軍医少将||陸軍薬剤少将||陸軍歯科医少将|| ||陸軍獣医少将|| || ||陸軍法務少将||  |- ![[大佐]] |陸軍大佐||陸軍憲兵大佐||陸軍技術大佐||陸軍主計大佐||陸軍建技大佐||陸軍軍医大佐||陸軍薬剤大佐||陸軍歯科医大佐|| ||陸軍獣医大佐|| || ||陸軍法務大佐||  |- ![[中佐]] |陸軍中佐||陸軍憲兵中佐||陸軍技術中佐||陸軍主計中佐||陸軍建技中佐||陸軍軍医中佐||陸軍薬剤中佐||陸軍歯科医中佐|| ||陸軍獣医中佐|| || ||陸軍法務中佐||  |- ![[少佐]] |陸軍少佐||陸軍憲兵少佐||陸軍技術少佐||陸軍主計少佐||陸軍建技少佐||陸軍軍医少佐||陸軍薬剤少佐||陸軍歯科医少佐||陸軍衛生少佐||陸軍獣医少佐||陸軍獣医務少佐||陸軍軍楽少佐||陸軍法務少佐||陸軍法事務少佐 |- ![[大尉]] |陸軍大尉||陸軍憲兵大尉||陸軍技術大尉||陸軍主計大尉||陸軍建技大尉||陸軍軍医大尉||陸軍薬剤大尉||陸軍歯科医大尉||陸軍衛生大尉||陸軍獣医大尉||陸軍獣医務大尉||陸軍軍楽大尉||陸軍法務大尉||陸軍法事務大尉 |- ![[中尉]] |陸軍中尉||陸軍憲兵中尉||陸軍技術中尉||陸軍主計中尉||陸軍建技中尉||陸軍軍医中尉||陸軍薬剤中尉||陸軍歯科医中尉||陸軍衛生中尉||陸軍獣医中尉||陸軍獣医務中尉||陸軍軍楽中尉||陸軍法務中尉||陸軍法事務中尉 |- ![[少尉]] |陸軍少尉||陸軍憲兵少尉||陸軍技術少尉||陸軍主計少尉||陸軍建技少尉||陸軍軍医少尉||陸軍薬剤少尉||陸軍歯科医少尉||陸軍衛生少尉||陸軍獣医少尉||陸軍獣医務少尉||陸軍軍楽少尉||陸軍法務少尉||陸軍法事務少尉 |- ![[准尉]] |陸軍准尉||陸軍憲兵准尉||陸軍技術准尉||陸軍主計准尉||陸軍建技准尉|| || || ||陸軍衛生准尉|| ||陸軍獣医務准尉||陸軍軍楽准尉|| ||陸軍法事務准尉 |- ![[曹長]] |陸軍曹長||陸軍憲兵曹長||陸軍技術曹長||陸軍主計曹長||陸軍建技曹長|| || || ||陸軍衛生曹長|| ||陸軍獣医務曹長||陸軍軍楽曹長|| ||陸軍法事務曹長 |- ![[軍曹]] |陸軍軍曹||陸軍憲兵軍曹||陸軍技術軍曹||陸軍主計軍曹||陸軍建技軍曹|| || || ||陸軍衛生軍曹|| ||陸軍獣医務軍曹||陸軍軍楽軍曹|| ||陸軍法事務軍曹 |- ![[伍長]] |陸軍伍長||陸軍憲兵伍長||陸軍技術伍長||陸軍主計伍長||陸軍建技伍長|| || || ||陸軍衛生伍長|| ||陸軍獣医務伍長||陸軍軍楽伍長|| ||陸軍法事務伍長 |- ![[兵長]] |陸軍兵長||陸軍憲兵兵長||陸軍技術兵長|| || || || || ||陸軍衛生兵長|| || ||陸軍軍楽兵長|| ||陸軍法事務兵長 |- ![[上等兵]] |陸軍上等兵||陸軍憲兵上等兵||陸軍技術上等兵|| || || || || ||陸軍衛生上等兵|| || ||陸軍軍楽上等兵|| ||陸軍法事務上等兵 |- ![[一等兵|1等兵]] |陸軍1等兵|| ||陸軍技術1等兵|| || || || || ||陸軍衛生1等兵|| || || || ||  |- ![[二等兵|2等兵]] |陸軍2等兵|| ||陸軍技術2等兵|| || || || || ||陸軍衛生2等兵|| || || || ||  |} 大将が[[方面軍]][[司令官]]、中将が[[軍]]司令官・[[師団長]]、少将が[[旅団長]]、中将・少将が各種学校長、大佐が[[歩兵]][[連隊長]]、中佐が[[騎兵]]・[[戦車]]連隊長、少佐が[[大隊長]]、中佐・少佐が飛行[[戦隊]]長、大尉・古参中尉が[[中隊|中隊長]]、中尉・少尉が[[小隊|小隊長]]・[[軍旗|連隊旗手]]、軍曹・伍長が[[分隊長]]を担当。 准尉は特務曹長を改名したものであリ、厳密に言えば将校と下士官の間の階級である為、必ずしも将校・尉官には該当しない([[准士官]]参照)。 === 組織 === '''天皇''' *部隊 **部隊は[[総軍]]、[[方面軍]]、[[軍]]、[[師団]]及びそれを構成する[[歩兵旅団]]、[[歩兵連隊]]並びに[[砲兵部隊]]、[[騎兵部隊]]、[[工兵部隊]]等の特科部隊からなる。通常は[[衛戍地]]にあって警備等を担当している。 *[[参謀本部 (日本)|参謀本部]] **[[陸軍大学校]] **[[陸地測量部]] *[[陸軍省]] *[[教育総監部]] **[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]] *[[航空総監部]] *[[特務機関]] **在外公館附武官([[駐在武官]]) **[[元帥 (日本)|元帥府]] **[[軍事参議院]] **[[侍従武官府]] **皇族付武官 **将校生徒試験委員 なお、陸軍の首脳3名たる[[陸軍大臣]]、[[参謀本部 (日本)#歴代参謀総長|参謀総長]]及び[[教育総監]]を総称して陸軍三長官ともいう。 === 徴募・生活 === 兵卒は、[[徴兵令]]、後には[[兵役法]]に基づき、[[徴兵制度]]により充足された。兵卒の徴兵制度については[[兵 (日本軍)|日本軍の兵]]や[[帝国陸軍身体検査規則]]参照。また、兵卒や営内居住の下級下士は[[内務班]]に属した。大部分の歩兵にとって、基本的な部隊は[[中隊]]となる。 将校は、建軍期には明治維新を推進した藩出身の士族が中心となっていたが、藩閥による恣意的な登用を避け、近代的な陸軍将校養成制度を確立するために陸軍士官学校が設立されて以降は、基本的には士官学校出身者を以て基本的に将校を補充していた。なお、初期には[[陸軍教導団]]を経て[[下士]]に任官した後に陸軍士官学校へ入学する途もあり、[[武藤信義]]元帥など教導団出身の将星も輩出された。 英国海軍の影響で貴族趣味と評された海軍と異なり、皇族を除けば、学歴差別などの特別待遇はほとんど存在しなかった。そのその顕著な例が[[徳川慶喜]]の孫である[[徳川慶光]]公爵である。彼は二等兵として二度招集されたが、特別待遇はなく、一兵卒として中国を転戦した。幹部教育においても[[海軍兵学校]]生徒が最初から上級下士官待遇を与えられて、下士官・兵とは断絶した教育を受けたのに対し、[[陸軍士官学校]]生徒は兵卒としての階級からのスタートであり、卒業して[[見習士官]]で部隊に配属されてようやく曹長、その後ようやく少尉任官ということになった。 このような環境であったたので、徴兵によって召集された者でも、低学歴者が実力で下士官に昇進する一方、大学出が二等兵としてこき使われるということが日常茶飯事であり、戦後になって前者が陸軍生活に郷愁を感じる反面、後者が徴兵体験を屈辱と感じて体験記等を世に出し、世間の反陸軍イメージの形成に一役買う一員となった。 == 参考文献 == *森松俊夫『図解陸軍史』(建帛社・1991年9月) ISBN 4767985080 *『日本陸軍指揮官総覧』([[新人物往来社]]・1995年1月) ISBN 4404022549 *太平洋戦争研究会『図説日本陸軍』([[翔泳社]]・1995年7月) ISBN 4881352636 *米陸軍省編『日本陸軍便覧』([[光人社]]・1998年4月) ISBN 476980833X *福川秀樹『日本陸軍将官辞典』(芙蓉書房出版・2001年2月) ISBN 4829502738 *太平洋戦争研究会『日本陸軍がよくわかる事典』([[PHP研究所]]PHP文庫・2002年7月) ISBN 4569577644 *黒野耐 『帝国陸軍の“改革と抵抗” 』([[講談社]] 2006年9)ISBN 4061498592 == 関連項目 == * [[日本軍]] * [[大日本帝国海軍]] * [[大日本帝国陸軍師団一覧]] * [[大日本帝国陸軍連隊一覧]] * [[大日本帝国陸軍飛行戦隊一覧]] * [[大日本帝国陸軍兵器一覧]] * [[大日本帝国陸軍の軍の一覧]] * [[軍隊における階級呼称一覧]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E9%99%B8%E8%BB%8D 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月30日 (金) 22:53。]       

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