甲申政変

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{{朝鮮の事物| | title=甲申政変 | hangeul=갑신정변 | hanja=甲申政變 | hiragana=こうしんせいへん | katakana=カプシンチョンビョン | alphabet-type=[[英語]] | alphabet=Gapsin Coup }} '''甲申政変'''(こうしんせいへん)とは、[[1884年]]12月に[[朝鮮]]で起こった[[クーデター]]。甲申事変とも呼ばれる。 == 事件の概要 == 当時の[[李氏朝鮮]]は、[[壬午軍乱]]([[1882年]])で[[興宣大院君]]が[[清]]へ連れ去られており、[[閔妃]]をはじめとする[[驪興閔氏|閔氏]]一族は、親日派政策から清への[[事大主義|事大政策]]へと方向転換していた。 このままでは朝鮮の近代化はおぼつかないと感じた[[金玉均]]・[[朴泳孝]]・[[徐載弼]]らの[[開化派]](独立党)人士らは、[[福澤諭吉]]や[[大隈重信]]をはじめ一足先に近代化を果たした日本の政財界の代表者達に接触し、交流を深めてゆく。日本の政財界の中にも、朝鮮の近代化は隣国として利益となる面も大きいと考え、積極的な支援を惜しまない人々が現れ、改革の土台が出来上がっていった。 開化派の狙いは、日本と同じように国王を頂点とする近代立憲君主制国家の樹立であった。政府首脳(閔氏一族)が事大政策を採る中、金玉均らは国王[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]のいわば「一本釣り」を計画。[[外戚]]の閔氏一族や清に実権を握られ、何一つ思い通りにいかない高宗もこの近代化政策の実行を快諾した。 金玉均らが計画したクーデター案は、同年12月に開催が予定されていた「郵政局(郵政関連の中央官庁。一部で言われるような「中央郵便局」等ではない)」の開庁祝賀パーティーの際、会場から少し離れたところに放火を行い、その後、混乱の中で高官を倒し守旧派を一掃。朝鮮国王はクーデター発生を名目に日本に保護を依頼。日本は公使館警備用の軍を派遣して朝鮮国王を保護し、その後開化派が新政権を発足させ、朝鮮国王をトップとする立憲君主制国家をうちたてて、日本の助力のもとに近代国家への道を突き進む、というものだった。この計画のネックとなるのが清の存在だったが、清は当時[[フランス]]と、[[ベトナム]]の覇権を争う[[清仏戦争]]の最中であり、一度に双方には派兵できないだろうという予測がなされていたほか、当時、同戦争のため朝鮮駐留の清軍も通常時の約半数ということもあり、1884年12月、計画は実行に移された。 しかし、この段階まで来て不幸にも清仏戦争で清が敗退し、[[フランス領インドシナ]]が誕生することになる。せめて朝鮮における覇権だけは保ちたいと考える清は、威信に懸けても朝鮮をめぐる争いで譲るわけにはいかなくなってしまった。開化派は意気消沈するが、予定通り計画を実行する。[[竹添進一郎]]在朝鮮公使など日本側の協力のもと、放火は失敗するものの概ね計画は順調に進み、閔泳翊ら閔氏一族を殺害、開化派が新政府樹立を宣言した。そして首謀者の金玉均は、首相にあたる「領議政」に大院君の親戚の一人の李載元、副首相に朴泳孝、自らを大蔵大臣のポストに置く事を表明した。そして、新内閣は国王の稟議を経て、その日の内に、 #国王は今後殿下ではなく、皇帝陛下として独立国の君主として振る舞う事。 #清国に対して朝貢の礼を廃止する事。 #内閣を廃し、税制を改め、宦官の制を廃する事。 #宮内省を新設して、王室内の行事に透明性を持たせる事。 等、14項目の革新政策を発表し、旧弊一新の改革を実現させようとした。 しかしながら、やはり予想通り[[袁世凱]]率いる清軍が王宮を守る日本軍に攻め寄りクーデター派は敗退。結局日本軍も撤退し、親清派の守旧派が臨時政権を樹立。開化派による新政権はわずか3日で崩壊し、計画の中心人物だった金玉均らは日本へ亡命することとなった。残った開化派人士、及び亡命者も含めた彼らの家族らも概ね三親等までの近親者が残忍な方法で処刑された(ただし、金玉均の妻子は日本側に保護されたとされている)。また金玉均は日本各地を転々とした後に上海に渡り、閔妃の放った刺客に暗殺される。その遺体は朝鮮半島に移送された後に[[凌遅刑]]に処せられ、五体を引き裂かれたのち各地で晒された。 == 事件の影響 == この後、朝鮮に拘泥するのは双方の為にならないとした日本と清国の間に[[1885年]]4月[[天津条約]]が結ばれ、双方とも軍事顧問の派遣中止、軍隊駐留の禁止、止むを得ず朝鮮に派兵する場合の事前通告義務などが取り決められた。これから10年後、この事前通告に基づき清に続いて日本が朝鮮に派兵し、[[日清戦争]]の火蓋が切られることとなる。 金玉均ら開化派を支え続けてきた福澤諭吉らであったが、この事件で朝鮮・中国に対していわば完全に匙を投げてしまうこととなる。とりわけ開化派人士や、幼児等も含むその近親者への残酷な処刑は福澤らをして激しい失望感を呼び起こし、福澤は、天津条約締結の前月には自身が主宰する[[時事新報]]の紙面において、いわゆる[[脱亜論]]を発表するに至る。ある意味では、日本の方向性がある程度定まるに至るきっかけとなった事件のひとつだったとも評価されている。またこの事件で日本軍の軍事的劣勢もはっきりしたが、この時の経験が後の[[日清戦争]]に役立った。 == 関連項目 == *[[井上角五郎]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%94%B2%E7%94%B3%E6%94%BF%E5%A4%89 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月29日 (土) 10:42。]      

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