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{{Battlebox|
battle_name=日清戦争| campaign=XXXX
| colour_scheme=background:#ffccaa
| image=[[Image:Matsushima(Bertin).jpg|200px]]
| caption=連合艦隊旗艦松島。
| conflict=日清戦争
| date=1894年8月1日から1895年4月17日
| place=主に[[朝鮮半島]]・[[満州]]・[[黄海]]
| result=日本の勝利
| combatant1=[[Image:Flag_of_Japan (bordered).svg|22px]] [[大日本帝国]]
| combatant2=[[Image:China Qing Dynasty Flag 1889.svg|22px]] [[清国]]
| commander1=[[Image:Flag_of_Japan (bordered).svg|22px]] [[山県有朋]]
| commander2=[[Image:China Qing Dynasty Flag 1889.svg|22px]] [[李鴻章]]
| strength1=240,616<br />
| strength2=630,000
| casualties1=戦死 1,417<br />病死 11,894人<br />負傷 3,973
| casualties2=死傷 35,000<br />
|}}
'''日清戦争'''(にっしんせんそう)は、[[1894年]](明治27年)7月から[[1895年]](明治28年)4月にかけて行われた主に[[李氏朝鮮]]をめぐる[[大日本帝国|日本]]と[[清|清朝中国]]の戦争。日本での正式名称は'''明治二十七八年戦役'''('''めいじにじゅうしちはちねん せんえき''')。中国語では'''中日甲午戦争'''と呼ぶ。英語では'''First Sino-Japanese War'''(第一次中日戦争)と呼ぶ。
日本の戦費総額は2億テール(日本円で3億円)、死者1.3万人。この戦争期間は10ヶ月であった。
==経緯==
=== 開戦まで ===
==== 征韓論 ====
日本は[[明治維新|明治政府成立]]直後から、朝鮮半島に対し経済進出を含む深い関心を抱いており、その成立直後から朝鮮との国交渉を始めていた。当時、朝鮮は鎖国状態で、国王[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]の父である大院君が政治の実権を握っていたが、対外政策では欧米諸国の侵入に激しく反対し、開国した日本も洋賊であるとして、国交樹立に反対し、交渉が進まなかった。
こうした状況下の[[1873年]]、明治政府はその打開策として朝鮮への派兵を計画し、まずは[[西郷隆盛]]を中心とする使節を派遣するという[[征韓論]]を閣議決定した。しかし、帰国した[[岩倉使節団]]の[[岩倉具視]]・[[大久保利通]]らがそれに反対し、決定が取り消された。これを[[明治六年政変]](征韓論政変)という。
しかし征韓論に反対した大久保らも、朝鮮半島での武力行使の方針自体には反対ではなかった。
==== 江華島事件 ====
大久保らが実権を握っていた日本は[[1875年]]に[[江華島事件]]を起こして圧力をかけ、[[1876年]]に不平等条約である[[日朝修好条規]](江華条約)を締結し、朝鮮を開国させた。朝鮮は当時清の[[冊封]]国であったが、この条約では冊封を近代的な意味での属国・保護国とは見做さなかったため、朝鮮は独立国として扱われた。
==== 独立党と事大党の対立 ====
江華島事件後の朝鮮では、急進的欧米化を進めようとする親日的な開化派([[独立党]])と、漸進的改革を進めようとする親清的な守旧派([[事大党]])との対立が激しくなっていった。それとともに、開化派を支援する日本と守旧派を支援する清との対立も表面化してきた。
==== 壬午事変 ====
[[1882年]][[7月23日]]に[[壬午事変]]が起こり、清と日本の軍隊が朝鮮の首都である漢城に駐留することになった。日本の朝鮮駐留軍より清の駐留軍の方が勢力が強く、それを背景に守旧派が勢力を拡大していった。巻き返しを図った開化派は、日本の協力を背景に[[1884年]]にクーデターを起こし、一時政権を掌握した([[甲申事変]])。しかし、清の駐留軍が鎮圧に乗り出したため、日本軍は退却、クーデターは失敗した。
[[1885年]]に日本と清とは[[天津条約]]を締結、両国は軍を撤退させ、今後朝鮮に出兵する際にはお互いに事前通告することがさだめられた。
==== 長崎事件 ====
[[1886年]][[8月1日]]に[[長崎事件]]が起こった。清国海軍の[[北洋艦隊]]のうち[[定遠]]、[[鎮遠]]、済遠、威遠の四隻の軍艦が長崎港に日本政府の許可なく上陸。長崎市内で暴動を起こし、警官隊と激しく衝突、双方に死傷者を出す騒ぎとなった。この事件によって日本国民の対清感情は著しく悪化した。
==== 甲午農民戦争 ====
[[1894年]]5月に朝鮮で、[[東学]]教団構成員の全琫準を指導者として民生改善と日・欧の侵出阻止を求める農民反乱である[[甲午農民戦争]](東学党の乱)が起きた。朝鮮政府はこれを鎮圧するため、清に派兵を要求した。このとき、天津条約に従って日本側に派兵することを通知した。
日本は、その時政府と議会との激しい対立により政治的に行き詰まっていたが、対外的に強硬にでて事態打開をはかろうとした。加えて、清によるこれ以上の勢力拡大を恐れていたため、朝鮮政府からの派兵要請を受けていないにもかかわらず、壬午事変の結果締結された済物浦条約を根拠として公使館と在留邦人の保護のために1万人規模の大軍の出兵を決定した。事態の悪化にあわてた朝鮮政府は農民の要求をほぼ全面的に受け入れ、[[6月10日]]に停戦した{{要出典}}。
==== 日清戦争開戦 ====
甲午農民戦争の停戦後、朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請したが、どちらも受け入れなかった。それどころか、日本は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府や清がこれを拒否すると、7月23日に王宮を占拠して、親日政府を組織させた。清がこれに対して抗議して、対立が激化した。
日本は開戦に備えてイギリスの支持を得ようと条約改正の交渉を行い、[[7月16日]]に調印に成功した([[日英通商航海条約]])。この直後から日本政府は開戦に向けての作戦行動を開始し、[[7月25日]]豊島沖の海戦で、日清戦争が始まった。なお、宣戦布告は[[8月1日]]である。
なお、日本政府の強引な開戦工作に対して、[[明治天皇]]は「これは朕の戦争に非ず。大臣の戦争なり」との怒りを発していた。
==== 宣戦 ====
[[Image:First Chinese Japanese war map of battles.jpg|thumb|200px|right|日清戦争]]
[[Image:Itoh Sukeyuki.jpg|thumb|200px|right|[[伊東祐亨]]]]
[[Image:Matsushima(Bertin).jpg|thumb|200px|戦艦松島]]
[[Image: Chen-yuan.jpg|thumb|200px|鎮遠]]
日本政府が、国民に伝えた宣戦の理由([http://ja.wikisource.org/wiki/清国ニ対スル宣戦ノ詔勅 清国ニ対スル宣戦ノ詔勅])の要旨は次のようなものである。
「そもそも、朝鮮は日本と[[日朝修好条規]]を締結して開国した独立の一国である。それにもかかわらず、清国は朝鮮を[[属邦]]と称して、[[内政干渉]]し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。日本は[[済物浦条約]]に基づき、出兵して変に備えさせて、朝鮮での争いを永久になくし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清国に協同して事に従おうと提案したが、清国は様々な言い訳をしてこれを拒否した。日本は朝鮮の独立を保つため朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。しかし、清国はそれを妨害し、朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖で日本の[[軍艦]]を攻撃した([[#豊島沖海戦|豊島沖海戦]])。日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と[[天津条約]]とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清国の計画は明白である。清国は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。戦争を早期に終結して平和を回復させたいと思う。」<!-- この段落は、他の部分を膨らませてもバランスが悪いのでもう少し簡単にしてもいいと思う -->
=== 戦争の経過 ===
7月25日の[[#豊島沖海戦|豊島沖海戦]]の後、陸上でも[[7月29日]]成歓で日本軍は清国軍を破った。9月14日からの[[平壌]]の陸戦、9月17日の[[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]で日本軍が勝利し、その後朝鮮半島をほぼ制圧した。10月に入り、日本軍の第1軍が朝鮮と清との国境である[[鴨緑江]]を渡り、第2軍も[[遼東半島]]に上陸を開始した。11月には日本軍が遼東半島の[[旅順]]・[[大連市|大連]]を占領した。[[1895年]]2月、清の[[北洋艦隊]]の基地である[[威海衛]]を日本軍が攻略し、3月には遼東半島を制圧、日本軍は[[台湾]]占領に向かった。
=== 講和条約 ===
開戦直後からイギリスは講和斡旋へ動き、清も1895年1月に講和使節を日本に派遣した。しかし、日本は遼東半島の完全占領を目指していたため、この講和条件を受け入れなかった。1895年3月下旬からアメリカの仲介で、日本側が[[伊藤博文]]と[[陸奥宗光]]、清国側が[[李鴻章]]を全権に[[下関市|下関]]で講和会議が開かれた。3月24日に李鴻章が日本人暴漢に狙撃される事件が起こり、このため3月30日に停戦に合意した。4月17日 [[下関条約|日清講和条約]]が調印され、5月8日に清の[[煙台|芝罘]]で批准書の交換を行った。
条約の主な内容は次の通り
# 清は朝鮮が独立国であることを認める。
# 清は[[遼東半島]]・[[台湾]]・[[澎湖諸島]]を日本に譲渡する。
# 清は賠償金2億両(テール:約3億円)を[[金]]で支払う。
このほかにもイギリスが清に要求して、まだ実現していなかった工場を建てる特権が含まれており、イギリスの立場を日本が代弁していた様子がある。
=== 三国干渉とその後 ===
当時ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、[[遼東半島]]が日本領になることに激しく反発した。このため、ドイツ・フランスとともに[[遼東半島]]を[[清]]に返還することを要求した([[三国干渉]])。日本政府には、列強三か国に対抗する力は無かったため、これを受け入れ、その代償として清から2億両を金で得た。以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た[[賠償金]]で[[八幡製鉄所]]を建てるなど国力充実をはかった。
戦争後、欧米列強各国は清の弱体化を見て取り、中国分割に乗り出した。ロシアは[[旅順]]と[[大連市|大連]]、ドイツは[[膠州湾]]、フランスは[[広州湾]]、イギリスは[[九竜半島]]と威海衛を租借した。
台湾では、日本を快く思わない清朝の役人が、日本の統治を妨害するため、台湾人達を先導して[[台湾民主国]]を建国、日本軍と[[乙未戦争]]を戦ったが日本軍の優秀な装備と圧倒的兵力の前に敗北した。最終的に清朝の役人は資金を持ち逃げし、日本は台湾を併合し統治を開始した。
== 年表 ==
{| border="0"
|-
|[[1894年]]
|5月
|朝鮮政府、[[甲午農民戦争]](東学党の乱)の鎮圧を清朝に依頼
|-
|
|5月31日
|内閣弾劾上奏決議案が衆議院で可決され、伊藤内閣が倒閣の危機に直面
|-
|
|6月2日
|在韓邦人保護を名目として日本軍の朝鮮派兵を決定。衆議院を解散。
|-
|
|6月5日
|大本営を開設し、朝鮮への派兵を開始
|-
|
|7月16日
|日英条約改正([[日英通商航海条約]])が実現
|-
|
|7月20日
|朝鮮政府に対して清軍の撤兵を要求する最後通牒を発令
|-
|
|7月23日
|旅順西海岸の制海のため連合艦隊が佐世保を出港。
|-
|
|7月23日
|日本軍が漢城(ソウル)に入城し、朝鮮王宮を勢力下に置く。
|-
|
|7月25日
|豊島沖海戦(高陞号事件)
|-
|
|8月1日
|日本・清国が互いに宣戦布告
|-
|
|8月26日
|日本は朝鮮に圧力を掛け親日政権を樹立、共同で清国に対処する方針を採らせる。
|-
|
|9月15日
|明治天皇が戦争指揮のため広島に移ったことに伴い大本営も移動([[広島大本営]])。
|-
|[[1895年]]
|3月
|遼東半島全域を制圧
|-
|
|4月17日
|講和条約締結(下関条約)
|-
|
|4月23日
|三国干渉により遼東半島を返還
|}
==戦闘==
<!-- 詳細すぎるので、それぞれの戦闘については各項目に分離移転させた方がいいと思う 「日清戦争」の項目では大まかな流れを重視するべき-->
===豊島沖海戦===
7月25日、豊島沖で[[大日本帝国海軍|日本海軍]]第1遊撃隊(司令官[[坪井航三]][[少将]]、「[[吉野 (防護巡洋艦)|吉野]]」「[[浪速 (防護巡洋艦)|浪速]]」「[[秋津洲 (防護巡洋艦)|秋津洲]]」)は、清国軍艦「[[済遠]]」「広乙」と遭遇し、戦闘が始まった。優勢な日本海軍の応戦の前に「済遠」は逃亡を図る。
日本海軍の「吉野」「浪速」も、直ちに「済遠」を追撃する。その途上、清国軍艦「[[操江]]」及び汽船「高陞号」([[イギリス|英国]][[商船旗]]を掲揚)と遭遇した。「高陞号」は、戦争準備行動として[[仁川広域市|仁川]]に清国兵約1100名を輸送中であった。第1遊撃隊司令官の命により「浪速」艦長の[[東郷平八郎]][[大佐]]は「高陞号」に停船を命じて[[臨検]]を行い、清国兵が停戦命令に従わないため、「高陞号」を撃沈する([[高陞号事件]])。この時、英国人船員ら3人を救助し、約50人の清国兵を捕虜とした。
豊島沖海戦による、日本側の死傷者及び艦船の損害は皆無であった。他方、清国側には、「済遠」が大破し、「操江」は「秋津洲」に鹵獲され、「広乙」も破壊された。
なお、「高陞号」を撃沈したことによって、一時英国の世論が沸騰するが、英国が日本寄りの姿勢だった事もあり、イギリスの国際法の権威、[[ウェストレーキ]]および[[ホルランド]]博士によって国際法に則った処置であることが[[タイムズ]]紙をとおして伝わると、英国の世論も沈静化する。
===成歓作戦・牙山作戦===
6月9日に清国軍が[[牙城]]に上陸する。7月23日時点で4165名に達する。7月25日に朝鮮政府から[[大鳥圭介]][[公使]]に対して、牙山の清国軍撃退が要請される。7月26日に第9歩兵旅団(旅団長[[大島義昌]]少将)にその旨が伝達される。7月29日に日本軍は牙城に篭る清国兵を攻撃する。午前2時に、清国兵の襲撃により松崎直臣陸軍歩兵大尉ほかが戦死する(日本側初の戦死者)。午前7時に日本第9旅団は成歓の敵陣地を制圧する。
両作戦の日本側の死傷者は82名なの対して、清国兵は500名以上の死傷者を出し、武器等を放棄して平壌まで逃亡する。
なお安城渡の戦闘で第21連隊の[[木口小平]]二等卒は死んでも[[信号ラッパ|ラッパ]]を離さずに吹き続けたという逸話が残る。
===平壌作戦===
8月に清国軍は[[平壌]]に1万2千名の兵員を集中させる。9月15日に日本軍が攻撃を開始する。攻略に当たっていた日本軍の歩兵第18[[連隊長]][[佐藤正 (陸軍草創期)|佐藤正]][[大佐]]は銃弾を受け左足切断の重傷を負う。同日午後4時40分に清国軍は[[白旗]]を掲げて翌日の開城を約した。ところが、清国軍は、約を違えて逃亡を図る。同日夜に日本軍が入城する。
===黄海海戦===
詳細は[[黄海海戦 (日清戦争)]]参照。
[[黄海]]上で遭遇した日清艦隊は、9月17日12時50分に「[[定遠]]」から攻撃が開始される。日本側は連合艦隊司令長官[[伊東祐亨]][[中将]]率いる旗艦「[[松島 (巡洋艦)|松島]]」以下8隻と第一遊撃隊司令長官[[坪井航三]][[少将]]率いる旗艦「[[吉野 (防護巡洋艦)|吉野]]」以下4隻であるのに対して、清国艦隊は[[丁汝昌]]提督率いる「定遠」「鎮遠」等14隻と[[水雷艇]]4隻であった。日本艦隊は、清国「超勇」「致遠」「経遠」等5隻を撃沈し、6隻を大中破「揚威」「[[広甲 (巡洋艦)|広甲]]」を擱座させる。日本側は4隻の大中破を出し、旗艦「松島」の戦死者の中には勇敢なる水兵と謳われた三浦虎次郎三等水兵もいる。
この海戦で日本側が勝利したことによって、清国艦隊は威海衛に閉じこもることとなり、日本海軍は黄海・朝鮮の制海権を確保した。<!--間違い:敗戦の責任を感じたのか、この戦いのあと、北洋艦隊司令官だった丁汝昌は自殺している。-->
===鴨緑江作戦===
10月25日払暁に、[[山県有朋]]率いる第1軍主力は渡河作戦を開始した。日本軍の猛勢に恐れをなした清国軍は我先にと逃走を図り、日本軍は九連城を無血で制圧する。この作戦成功により、日本軍は初めて清国領土を占領する。
===旅順攻略戦===
10月24日に[[大山巌]]大将率いる第2軍が[[金州]]に上陸する。11月6日に金州城を占領する。11月21日に、日本軍1万5千は清国1万3千弱に対して攻撃をする。清国軍の士気は極めて低く、堅固な旅順要塞は僅か1日で陥落することとなる。
日本側の損害は戦死40名、戦傷241名、行方不明7名に対して、清国は4500名の戦死、捕虜600名を出して敗退する。
攻略そのものは問題なかったが、その後の占領において大きな問題が発生した。『タイムズ』(1894年11月28日付)や『ニューヨーク・ワールド』(同年12月12日付)により、「旅順陥落の翌日から四日間、非戦闘員・婦女・幼児などを日本軍が虐殺した」と報じられたのである。虐殺された人数については諸説あるが、実際に従軍し直接見聞した[[有賀長雄]]は清国民間人の巻き添えが有ったことを示唆している。現在、この事件は[[旅順虐殺事件]](英名:the Port Arthur Massacre)として知られている。
この事件は外交的に大きな影響をもたらした。当時はアメリカと不平等条約改正を交渉中の最中であり、この事件により一時アメリカ上院には条約改正は時期尚早という声が大きくなり、重要な外交懸案が危殆に瀕した。陸奥宗光はこのため『ニューヨーク・ワールド』に弁明せざるを得なくなる事態に陥ることとなった。
===山東作戦・威海衛作戦===
1月20日に日本陸軍は栄城湾に上陸する。行軍中に歩兵第11旅団長[[大寺安純]]少将が戦死する。2月2日に[[威海衛]]を占領する。
2月5日午前3時20分に威海衛港内に侵入した日本水雷部隊は清国の「定遠」を大破、「来遠」「威遠」等3隻を撃沈した。2月9日に「靖遠」を撃沈、「定遠」は自沈する。2月12日に[[丁汝昌]]提督は将兵の助命を日本側に懇願して自決をする。伊東司令長官は、鹵獲艦船の中から商船康済号を外し、丁汝昌提督の亡骸を最大の礼遇を以て扱い、丁汝昌提督の最期の希望を聞き届け、清国兵を助命する。このことは、通常例を見ない厚遇であった。このエピソードは海軍軍人の手本として全世界に伝わり、現在でもフェアプレイ精神の例として日露戦争の上村彦之丞提督とともに、各国海軍の教本に掲載されていると云う。
==日本軍の損害==
===脚気===
[[玄米]]を主食としていた海軍では[[脚気]]による死者はほとんどいなかったが、陸軍の兵士の主食は白米であったため罹患者・約4万人、病死者・数千人だった。陸軍の戦死者は数百人(資料により人数は異なる)であり、脚気による病死のほうが多かった。当時、脚気の原因が解明されておらず、陸軍軍医制度を確立した[[石黒忠悳]]や陸軍軍医総監であった[[森鴎外|森林太郎]]が脚気の原因は細菌であるという伝染病説に固執していたことなどによる。
日清戦争当時は補給路が確立されておらず、兵站が滞ることがしばしばであった。平壌の戦いでは野津師団長以下が本国では乞食でさえ食わないという黒粟や玄米などで飢えをしのぐ場面が度々であった。
===凍傷===
当時の日本陸軍は、まだしっかりした冬季装備と厳寒地における正しい防寒方法を持っておらず、結果として冬季の戦闘で多くの将兵が[[凍傷]]にかかり、相当な戦力低下を招いた。日清戦争後、この教訓を基にして防寒具研究と冬季訓練が行われるようになった。そうしたさなかに発生したのが[[八甲田雪中行軍遭難事件]]である。
==日本軍の兵站==
===村田銃による小銃規格の統一===
欧米の軍事的脅威を感じた日清両国は欧米からの武器輸入を進めていた。だが、各軍(日本の場合は[[藩|旧藩]])がそれぞれの基準によってバラバラに輸入を行ったために、さまざまな国籍・形式のものが混在してしまい、[[弾薬]]の補給やメンテナンス面でも支障をきたしていた。
明治13年([[1880年]])、日本陸軍の[[村田経芳]]が日本で最初の国産[[小銃]]の開発に成功する。陸軍はこれを'''[[村田銃]]'''と命名して全軍の小銃の切り替えを進めた。その後、同銃は改良を進めながら全軍に支給されていった。日清戦争当時、村田銃の最新型が全軍に行き渡っていたわけではなかったが、弾薬や主要部品に関しては新旧の村田銃の間での互換性が成り立っていたため、弾薬などの大量生産が行われて効率的な補給が可能となった。
一方、依然として小銃の混在状態が続いていた清国陸軍では、部品の補給などに手間取ってしまうなどの混乱が生じてしまい、日本軍の攻勢を食い止めるだけの火力を揃える事が出来なかったのである。
==その他==
海外では日清戦争の事を第一次中日戦争と呼んでいるが、実際には日本軍と中国軍が戦ったのは歴史的に見れば3度目である。一度目は[[白村江の戦い]]、二度目は[[文禄・慶長の役]]である([[元寇]]は通常[[モンゴル帝国]]扱い)。
日清戦争、[[日露戦争]]、[[第一次世界大戦]]は、順に[[1894年]]、[[1904年]]、[[1914年]]と、下一桁が4
の年に始まっており、また十年毎の戦争のためか'''死の三十年'''という語呂合わせもある。
==参考文献==
*陸奥宗光 中塚明 校注 『蹇蹇録』日清戦争外交秘録 新訂ワイド版岩波文庫255 岩波書店 ISBN 4-00-007255-2
*陸軍省 編 『日清戦争統計集』 海路書院 ISBN 4-902796-32-5
*檜山幸夫 編著 『近代日本の形成と日清戦争』戦争の社会史 雄山閣出版 ISBN 4639017359
*井上晴樹『旅順虐殺事件』筑摩書房、1995、ISBN 4480857222
*斎藤聖二『日清戦争の軍事戦略』芙蓉書房出版、2003、ISBN 4-8295-0336-X〈2003〉
== 外部リンク ==
* [http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4669/nissin270801.html 清国ニ対スル宣戦ノ詔勅]
* [http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-nissin1.html 戦史 日清戦争]
* [http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/jp/news/92/essay-paine.html 日清戦争 1894–1895]([[北海道大学スラブ研究センター]])
<!--* [[第一次世界大戦 -日清戦争http://ww1.m78.com/sib/sinojapanese%20war.html]] -日清戦争の解説。-->
<!--* [[にっしんせんそう http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/dic/index.htm]]-統合戦争辞典から-->
[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年6月1日 (日) 03:22。]