斎藤実

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{{日本の内閣総理大臣 |[[齋藤内閣|30]] |齋藤 實<br />(さいとう まこと)<br />[[Image:Makoto Saito 2.jpg|200px]] |[[安政]]5年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]<br />([[1858年]][[12月2日]]) |[[陸奥国]][[水沢藩]] |[[海軍兵学寮]]卒業 |[[海軍大将]]<br />[[従一位]]<br />[[大勲位]]<br />[[子爵]] |[[朝鮮総督]] |無 |[[1932年]]([[昭和7年]])[[5月26日]]|[[1934年]]([[昭和9年]])[[7月8日]] |非議員| |[[挙国一致内閣|中間内閣]] |[[1936年]]([[昭和11年]])[[2月26日]]}} [[Image:Makoto Saito.jpg|thumb|200px|海軍大臣のころ]] '''齋藤 実'''(さいとう まこと、正字体:&#40779;&#34276;&#32;&#23526;、[[安政]]5年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]([[1858年]][[12月2日]]) - [[昭和]]11年([[1936年]])[[2月26日]])は[[日本]]の[[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]]で[[政治家]]。 第30代[[内閣総理大臣]](在任[[1932年]] - [[1934年]])。官位は[[海軍大将]][[位階|従一位]][[大勲位]][[子爵]]。[[ボーイスカウト]]日本連盟第2代総長。 == 略歴 == ※日付は生年のみ旧暦 * [[安政]]5年([[1858年]]10月27日 - [[水沢藩]]士・齋藤耕平の子として[[陸奥国]][[水沢]](現:[[岩手県]][[奥州市]])に生まれる。 * [[明治]]6年([[1873年]])10月27日 - [[海軍兵学寮]](後の[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]])に入学。 * 明治12年([[1879年]])4月20日 - 海軍兵学校卒業(6期)。 * 明治15年([[1882年]])9月8日 - [[海軍少尉]]に任官。 * 明治17年([[1884年]]) ** 2月25日 - [[海軍中尉]]に進級。 ** 9月19日 - 駐[[アメリカ合衆国]]公使館付[[駐在武官|武官]](~明治21年([[1888年]])10月26日) * 明治19年([[1886年]])7月14日 - [[海軍大尉]]に進級。 * 明治26年([[1893年]])12月20日 - [[海軍少佐]]に進級。 * 明治27年([[1894年]])9月7日 - [[侍従武官]]。 * 明治29年([[1896年]])11月6日 - [[戦艦]]「[[富士 (戦艦)|富士]]」回航委員。この時、[[スエズ運河]]通航成功。 * 明治30年([[1897年]]) ** 12月1日 - [[海軍中佐]]に進級。 ** 12月27日 - [[海軍大佐]]に進級。[[防護巡洋艦]]「[[秋津洲 (防護巡洋艦)|秋津洲]]」[[艦長]] * 明治31年([[1898年]]) ** 10月1日 - 二等巡洋艦「[[厳島 (巡洋艦)|厳島]]」艦長。 ** 11月10日 - [[第1次大隈内閣]]の[[山本権兵衛]]海相の引きにより海軍次官に就任。 * 明治33年([[1900年]])5月20日 - [[海軍少将]]に進級。 * 明治37年([[1904年]])6月6日 - [[海軍中将]]に進級。 * 明治38年([[1905年]])1月7日 - [[艦政本部]]長。 * 明治39年([[1906年]])1月7日 - [[第1次西園寺内閣]]において[[海軍大臣]]に就任。以後、5つの内閣で海相を歴任し、[[大日本帝国海軍|帝国海軍]]の整備を推進した。 * 明治40年([[1907年]])9月21日 - [[男爵]]。[[従三位]]。 * [[大正]]元年([[1912年]])10月16日 - [[海軍大将]]に進級。 * 大正2年([[1914年]]) ** 4月16日 - [[シーメンス事件]]の責任をとって、海軍大臣を辞任。 ** 5月11日 - 予備役編入。 * 大正8年([[1919年]])8月12日 - [[朝鮮総督]]に就任(~昭和2年([[1927年]])12月9日)。「文化政治」を推し進める。 * 大正14年([[1925年]])4月9日 - [[子爵]]。 * 昭和2年([[1927年]])4月15日 - [[ジュネーブ海軍軍縮会議]]全権。 * 昭和3年([[1928年]])11月17日 - 退役。 * 昭和4年([[1929年]])8月17日 - 朝鮮総督に就任(~昭和6年([[1931年]])6月17日)。 * 昭和7年([[1932年]])5月26日 - 第30代[[内閣総理大臣]]及び第47代[[外務大臣 (日本)|外務大臣]](~7月5日)に就任。 * 昭和9年([[1934年]]) ** 3月3日 - 第53代[[文部大臣]]に就任。 ** 7月3日 - [[内閣総辞職]]。 * 昭和10年([[1935年]]) ** 6月 - 日本[[ボーイスカウト]]連盟(日本少年団連盟)総長。 ** 12月26日 - [[内大臣]]に就任。 * 昭和11年([[1936年]])2月26日 - [[二・二六事件]]により、青年将校に暗殺される。享年77。小山崎斎藤墓地に眠る。 生前の書簡、執務資料などは、岩手県奥州市の斎藤実記念館と、[[東京都]][[千代田区]][[永田町]]の[[国立国会図書館]]に分散して保存されている。 ==国際派良識人としての斎藤== 斎藤に首相就任の白羽の矢が立ったのは、軍人とはいえ海軍の[[条約派]]に属する良識人で、[[英語]]も堪能な国際派であったこと。また、東北人特有の粘り強さ、強靭な体力、本音を明かさぬ慎重さが評価されたからであった。 [[五・一五事件]]でショックを受けた[[昭和天皇]]は、「[[ファシズム|ファッショ]]に近い者は絶対に不可」との強い気持ちだった。一方、[[軍部]]や[[立憲政友会]]右派の[[森恪]]らは、[[右翼]]に近い[[平沼騏一郎]]を担ごうとしていた。[[元老]]・西園寺公望は当初、政友会総裁の[[鈴木喜三郎]]を推し、[[政党内閣]]を続けるつもりだったという。しかし、軍内部の状況を知るに及んで、政党内閣ではもたないと判断した。天皇の意向に応え、しかも、軍部も正面切って反対できない候補としては斎藤ぐらいしかいなかったのである。首相退任の後[[内大臣]]に就任したが、それ以前にも内大臣候補にあげられたことがあった。 ==齋藤内閣の瓦解== [[Image:Korekiyo Takahashi and Makoto Saito last pic together.jpg|thumb|right|250px|高橋蔵相 (左) と斎藤内府 ----- <small>ともに滞米経験があり親米英派だった[[高橋是清]]とは個人的に親しい友人でもあった。写真は昭和11年2月20日、[[二・二六事件]]の六日前に斉藤が蔵相官邸に高橋を訪れた際に撮影されたもの。</small>]] 斎藤は、[[経済恐慌]]に苦しむ農村の救済に一定の業績を上げたが、外交問題では軍部の要求通り[[満州国]]を承認した。国内政治の安定を最大の眼目に置き、軍部との決定的対立は避けたのである。 それでも、軍部は斎藤の[[リベラル]]臭を嫌い、嫌がらせを続け、閣僚のスキャンダル暴きに狂奔した。その犠牲になって辞任する閣僚も出たが、斎藤はテキパキ後任人事を決め、何とかしのいだ。 しかしながら、[[帝人事件]]で大蔵次官らが逮捕されるに及んで、ついに内閣総辞職に追い込まれた。百十数人が収監されながら、公判では全員無罪という奇怪な事件だった。[[検察]]の平沼閥、軍、政友会右派らが仕組んだ「空中楼閣」説さえある。 ==「齋藤」以後== 戦前の制度では、前任者が後継首相を選ぶことは至難の業であるが、斎藤は同質・同型の[[岡田啓介]]内閣をつくる布石を打ち、成功させた。斎藤のしたたかさを示す一例である。 斎藤内閣は部分的には抵抗しつつも、総体としては日本の[[軍国主義]]化の流れを止めることはできなかった。各方面の妥協で生まれた「[[挙国一致内閣]]」の限界といえよう。 <!-- とはいえ、右傾化への空気が急速に高まる時代において、差し障りのない形で多少ともその空気を緩和した事への評価は、次の岡田啓介内閣下において、「当時は斎藤内閣を物足りなく感じたが、今となれば斎藤内閣のすばらしさが分かる」との評論が当時から存在したことでも分かる。国会答弁等は簡潔にして的確であり、また、海軍大臣時代において軍備拡張計画を進めていたが、彼自身はあくまで立憲的立場に即して事を進めようとしていた跡がうかがわれ、この点[[1930年代]]の海軍とは明らかに一線を画す必要があろう。--> ==齋藤の人柄== [[Image:Makoto Saito full.jpg|thumb|left|225px|齋藤は何もしなくても「そこにいるだけで周囲が落ち着く」存在だった]] 若い頃、4年間も駐米公使館付武官を勤め、外国人との交友も広かった。アメリカの[[ジョセフ・グルー]]駐日大使とは親友の間柄だった。青年期は痩身であり、堂々たる体格へのあこがれから米国駐在当時、下宿先に毎日[[ビール]]を配達させていた。[[明治天皇]]が危篤のとき、当時の[[閣僚]]は1週間宮中に泊り込んで快復を祈ったが、他の閣僚が音をあげる中で、斎藤だけはケロリとしていた。「若い頃は、1週間一睡もしないで平気だった」と豪語したという。強靭な体力は彼の特筆すべき性質であり、朝鮮総督当時においても、日本から到着したその当日午後には執務を開始するほどであった。彼の勤勉さは、この体力に支えられたものだったのである。 記者会見では、「それはなぁ」とか「ウム」と繰り返すだけで記事にならない。記者の方で斎藤の意向を推し測って作文するしかなかった。だからといっておおまかなわけではない。散歩の途中、道に落ちているガラスの破片や古い針を必ず拾って溝に捨てた。子供たちが怪我をしないようにという配慮からだった。首相になっても、自分の[[ふんどし]]は必ず自分で洗う細かさもあった。 大正3年([[1914年]])、[[千葉県]][[一宮町]]新地に別荘を所有している。[[九十九里浜]]の海岸沿いに500坪の土地を坪10銭で手に入れ、建築費も坪20円であったという。この別荘は明治34年([[1901年]])10月に竣工のもので、大正3年に海軍大臣を辞してから購入し、1年の大半をここで過ごした。古洋服に[[草履]]をはき、[[手拭]]を腰にぶら下げて松の枝おろしや垣根直しなど、ここでの生活は庭いじりが主であった。地元の署長がある時、このときの彼の姿を見て、『爺やさん』と呼んだが、振り向いた顔を見て大慌てに慌てたとの逸話が残っている。なお、別荘を所有していた関係上、近くの[[玉前神社]]には彼が奉納した扁額が掲げられている。 齋藤は大変な筆まめで、贈物に対しては必ずといっていいほど礼状を出していた。[[揮毫]]をよく頼まれたが、元来の性格のよさから断れず週末は別荘に籠もって筆を振るう日々だったという。自分宛書簡や書類をきちんと保存しておく性格で、選別はすべて自分の手で行っていた。そのため個人の詳細をきちんと把握しており、間違えるということがほとんどなかった。齋藤が整理・保管した書翰類はその多くが[[国会図書館]]に寄贈されており、近代史の貴重な史料となっている。 二・二六事件の前夜、齋藤はグルー大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した。本来は中座して別荘に行く予定だったが、気心知れたグルーとの夕べに話がはずみ、<!--大使の誘いであった事や貴族の令嬢と傭兵隊長の恋愛物語がかつての自分と妻の若い時の姿に重なってしまったのか、-->結局最後まで映画を観て夜遅く帰邸、別荘行きは翌日にした。もし齋藤が予定通りに東京を後にしていたら、事件の難を逃れることもできていたかもしれなかった。 ==関連項目== *[[齋藤内閣|斎藤内閣]] *[[ボーイスカウト]] ==外部リンク== {{Commons|Category:Makoto Saito}} *[http://210.128.252.171/portrait/datas/87.html 斎藤実 | 近代日本人の肖像] *[http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/yukari/data/saitomakoto.html 【政治家】 斎藤実] *[http://www.city.oshu.iwate.jp/htm/soshiki/syakai/kousui/index.html 斎藤實記念館(奥州市)] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%9F 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年6月7日 (土) 12:33。]     

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