顧維鈞

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{{中華圏の人物 | 名前=顧維鈞 | 画像= | 画像の説明= | 出生=[[1888年]][[1月29日]] | 死去=[[1985年]][[11月14日]] | 出身地=[[上海市]] | 職業=外交官、政治家 | 簡体字=顾维钧 | 繁体字=顧維鈞 | ピン音=Gù Wéijūn | 注音= | 和名=こいきん | 発音=クー・ウェイチュン | ラテン字=Ku Wei-chün | 英語名=Vi Kyuin Wellington Koo }} '''顧維鈞'''(こいきん [[光緒]]14年([[1888年]])[[1月29日]]-[[1985年]][[11月14日]])は、[[中華民国]]の[[国民党政府]]の外交官出身の[[政治家]]。字は'''少川'''(しょうせん シャウツァン ''Shǎochuān'')、欧名は'''ヴィ=キュイン・ウェリントン・クウ'''(''Vi-Kyuin Wellington Koo'')。外交総長、[[中華民国の首相|国務総理]]代行、各国の公使、[[パリ講和会議]]、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]、[[関税会議]]の各中国全権代表などの要職を歴任した。 祖父は郷紳の出身で、[[江蘇省]][[嘉定区|嘉定県]](現 [[上海市]][[嘉定区]])の官職にあったが、[[太平天国]]の時期に暴徒によって拷問の上、殺害され、財産を奪われた。顧の誕生後、父・[[顧溶]]は官営の[[招商局]]所属の汽船の会計係となり、生活は安定した。 [[1899年]][[キリスト教衛理公会]]経営の[[上海英華学院]]に入学、初めて[[英語]]を学習した。[[1900年]]には病気のため、実家の近くにある育才学校に転校。 [[1901年]][[キリスト教聖公会]]経営の[[上海聖約翰書院]]に入学した。[[1905年]][[コロンビア大学]]に入学、[[1908年]]文学士、[[1909年]]政治学修士、[[1912年]]国際法・外交博士を取得した。同大学では中国人留学生の発行する機関紙の編集にも携わり、また[[アメリカ国際法学会]]、[[アメリカ政治学会]]会員としても活躍し、後に[[1916年]]には[[イェール大学]]より名誉法学博士の学位を授与された。[[袁世凱]]の英文秘書を経て、1912年8月[[中華人民共和国国務院|国務院]]秘書、[[1914年]][[外交部]]参事、[[1915年]]7~10月駐[[メキシコ]]公使、同年10月~[[1920年]]9月駐[[アメリカ合衆国|米]]公使兼駐[[キューバ]]公使となり、[[第一次世界大戦]]参戦決定に参与した。 1919年パリ講和会議全権代表、1920年9月~[[1922年]]5月駐[[英]]公使となり、この間、1920年[[国際連盟]]中国首席代表、[[1921年]]~1922年[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]全権代表として国際会議で不平等条約撤廃を要求し続けた。 1922年~1923年外交総長、1924年代総理(国務総理代行)兼外交総長。[[1924年]]7月[[ソビエト連邦|ソ連]]代表[[レフ・カラハン]]と[[中ソ協定]]に調印、ソ連との国交樹立、大使の交換、[[ロシア帝国|帝政ロシア]]時代の不平等条約撤廃に合意した。 [[1926年]]5月顔内閣の復活により財政総長兼[[関税委員会]]主任委員、10月[[杜錫珪]]総理辞職後、代総理兼外交総長に就任、[[1927年]]6月まで務めた。 [[1928年]][[国民革命軍]]による[[北京市|北京]]占領後、[[中華民国の歴史#南京国民政府期(1928~1949)|南京国民政府]]から逮捕命令が出されたため、[[フランス]]、[[カナダ]]へ逃亡。[[1929年]][[張学良]]の仲介によって[[東北]]に帰国し、[[1930年]]冬逮捕命令を取り消される。 [[1931年]]張学良の勢力を代表して国民政府に参加し、外交部長に任ぜられた。[[1932年]]2~8月国際連盟の派遣した[[リットン調査団]]に対し中国側代表として、[[日本]]の東北侵略の違法性を訴えた。同年[[国民党中央政治会議]]外交委員、[[1936年]]~1941年駐仏大使に昇任し、ついで[[1941年]]~[[1946年]]駐英大使に就任、そのあい不平等条約の完全撤廃に力を尽くすとともに、[[サンフランシスコ会議]]中国代表を務め、[[国際連合]]の創設に協力した。また[[1945年]]には[[国民党六全大会]]で中央執行委員に選出されている。 [[1946年]]駐米大使に転じた。[[1956年]][[台湾]]総統府資政、その後[[1957年]]~1967年[[国際司法裁判所]]判事に任命される。[[1967年]]に引退して[[ニューヨーク]]に移住、コロンビア大学で回想録を口述し、死の直前まで健康であったが、1985年11月入浴中に倒れ、死去した。 最初の結婚は1908年、親から強制されての漢方医学界の長老の甥の娘とのもので、米国へ同行したが愛情がわかず、[[1911年]]に正式に別れた。2度目は、[[清]]末、民国の外交官[[唐紹儀]]の娘・[[唐梅]]と1912年に結婚したが、唐は[[1919年]]に病死した。3度目は、[[南洋華僑]]・[[黄奕柱]]の娘・[[黄恵蘭]]と1920年に結婚、30年間連れ添ったが、夫人の生活が派手なため離婚するに至っている。4度目は、ニューヨークの国連職員・[[厳幼韵]]と結婚、厳は寡婦であったが、顧の晩年を支えた。 == 著書 == *『顧維鈞回憶録』 *『中国にいる外国人の地位』(外国人在中国之地位) *『門戸開放政策』 *『国際連盟リットン調査委員会備忘録』 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%A1%A7%E7%B6%AD%E9%88%9E 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月11日 (日) 02:45。]     

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