大日本帝国憲法

「大日本帝国憲法」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

大日本帝国憲法」(2008/11/08 (土) 00:03:41) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

{{日本の法令 |題名=大日本帝国憲法 |番号=なし |通称=明治憲法、帝国憲法、旧憲法など |効力=廃止(第73条を経た全面改正) |種類=憲法 |内容=天皇の大権事項、臣民の権利義務 |関連=[[日本国憲法]]、[[旧皇室典範]]、[[議院法]]、[[内閣官制]]、裁判所構成法 |リンク= |}}'''大日本帝国憲法'''(だいにっぽんていこくけんぽう、大日本帝國憲法)は、[[1889年]]([[明治]]22年)[[2月11日]]に[[公布]]、[[1890年]](明治23年)[[11月29日]]に施行された、近代[[立憲主義]]に基づく[[日本]]の[[憲法]]<ref>大日本帝国憲法では、表題に「[[大日本帝国]]」が使用されているが、正式な[[国号]]と定められたものではない。「大日本帝国」が正式な国号と定められた[[1936年]](昭和11年)まで、「日本国」「日本」等の名称も使用された。 </ref>。'''明治憲法'''、あるいは単に'''帝国憲法'''と呼ばれることも多い。現行の[[日本国憲法]]との対比で'''旧憲法'''とも呼ばれる。 [[1876年]]に公布された[[オスマン帝国憲法]]に次いで、アジアでは2番目の近代憲法である。オスマン帝国憲法は、公布されて間もない[[1878年]]に停止され、その後も長らく専制政治が続いたため実際には機能していない。安定的に運用された近代憲法としては、大日本帝国憲法がアジア初である。また、現[[トルコ共和国]]は自らをアジアではなくヨーロッパに属する国家として規定しており、前身である[[オスマン帝国]]も同様に見なすとやはりアジア発の近代憲法典である。憲法発布の勅語に「不磨ノ大典」とあったためか、[[1947年]]([[昭和]]22年)の日本国憲法施行まで半世紀以上の間、一度も改正されることはなかった。 == 沿革 == [[画像:Meiji Kenpo01.jpg|thumb|300px|大日本帝国憲法「上諭」1頁目]] [[画像:Meiji Kenpo02.jpg|thumb|300px|大日本帝国憲法「上諭」2頁目]] [[画像:Meiji Kenpo03.jpg|thumb|300px|大日本帝国憲法「御名御璽と大臣の副署」3頁目]] [[画像:Meiji Kenpo04.jpg|thumb|300px|大日本帝国憲法「本文」4頁目]] === 明治維新による国制の変化 === 日本では、明治初年に始まる[[明治維新]]により、さまざまな改革が行われ、旧来の国制は根本的に変更された。 # [[慶応]]3年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]([[グレゴリオ暦]][[1867年]][[11月9日]])、第15代将軍の[[徳川慶喜]]が[[明治天皇]]に統治権の返還を表明し、翌日、天皇はこれを勅許した([[大政奉還]])。同年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]([[1868年]][[1月3日]])に[[江戸幕府]]は廃止され、新政府(明治政府)が設立された([[王政復古 (日本)|王政復古]])。新政府は、天皇の官制大権を前提として、近代的な[[官僚制]]の構築を目指した。これにより日本は、封建的な[[幕藩体制]]に基づく代表的君主政から、近代的な官僚機構を擁する直接的君主政に移行した。[[大日本帝国憲法第10条]]は、官制大権が天皇に属すると規定している。 # 明治2年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]([[1869年]][[7月25日]])、[[版籍奉還]]がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と[[人民]]に対する統治権をすべて天皇に奉還した。これは、幕府や藩などの媒介なしに、天皇の下にある中央政府が直接に土地と人民を支配し、統治権([[立法]]権・[[行政]]権・[[司法]]権)を行使することを意味する。さらに、[[明治]]4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]])には、[[廃藩置県]]が行われ、名実共に藩は消滅し、国家権力が中央政府に集中された。[[大日本帝国憲法第1条]]および[[大日本帝国憲法第4条|同第4条]]は、国家の統治権は天皇が総攬すると規定している。 #版籍奉還により、各藩内の封建制は廃止され、人民が土地に縛り付けられることもなくなった。[[大日本帝国憲法第27条]]は臣民の財産権を保障し、[[大日本帝国憲法第22条|同第22条]]は臣民の居住移転の自由を保障している。 #新政府は、版籍奉還の後、公卿・諸侯を[[華族]]、武士を[[士族]]、足軽などを[[卒族]]、その他の人民を[[平民]]に改組した。明治4年(1871年)には、士族の公務を解いて、農業・工業・商業の自由を与え、また、平民も均しく公務に就任できることとした。明治5年([[1872年]])には[[徴兵制度]]を採用し、国民皆兵主義となったため、士族による軍事的職業の独占は破られた。このようにして、武士の階級的な特権は廃止した。[[大日本帝国憲法第19条]]は、人民の均しい公務就任権を規定し、[[大日本帝国憲法第20条|同第20条]]は兵役の義務を規定した。なお、[[帝国議会]]開設に先立ち、[[1884年]](明治17年)に[[華族令]]を定めて、華族に身分的特権を与えた。大日本帝国憲法34条は、華族の[[貴族院 (日本)|貴族院]]列席特権を規定した。 === 明治の変革 === 王政復古によって設置された[[三職]](総裁、議定、参与)のうち、実務を担う[[参与]]の一員となった[[由利公正]]、[[福岡孝悌]]、[[木戸孝允]]らは、[[公議政体論|公議輿論]]の尊重と開国和親を基調とした新政府の基本方針を5ヶ条にまとめた。明治元年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]([[1868年]][[4月6日]])、明治天皇がその実現を天地神明に誓ったものが、'''[[五箇条の御誓文]]'''である。 :一、廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ :一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ :一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス :一、舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ :一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ 政府は、五箇条の御誓文に示された諸原則を実施するため、同年閏[[4月21日 (旧暦)|4月21日]](1868年[[6月11日]])、'''[[太政官#政体書|政体書]]'''を公布して、統治機構を改めた。政体書は、[[権力分立|権力分立(三権分立)]]の考えを入れた七官を設置し、そのうちの一官として、公議輿論の中心となる立法議事機関である[[議政官]]<ref>議政官は上局と下局に分かれ、上局は議定・参与を構成員とし、下局は各藩の代表者(1人から3人)である[[貢士]]を構成員とした。</ref>を設けることなどを定めた。しかし、[[戊辰戦争]]終結の見通しがつくとともに、政府は公議輿論の尊重に対して消極的となり、同年9月(同年10月)には議政官は廃止された。 明治2年[[3月 (旧暦)|3月]]([[1869年]][[4月]])、議事体裁取調所による調査を経て、新たに[[公議所]]が設置された。これは、各藩1人の代表者により構成される立法議事機関である。広議所は、同年[[9月 (旧暦)|9月]](同年[[10月]])には[[集議院]]に改組される。明治4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]])に[[廃藩置県]]が実施され、同年には太政官官制が改革された。太政官は正院・左院・右院から成り、集議院は左院に置き換えられ、官撰の議員によって構成される立法議事機関となった。 [[1874年]](明治7年)、前年のいわゆる[[明治六年の政変]]([[征韓論]]の争議)に敗れて下野した[[副島種臣]]、[[板垣退助]]、[[後藤象二郎]]、[[江藤新平]]等が連署して、'''[[民撰議院設立建白書]]'''を左院に提出した。この建白書では、官選ではなく民選の議員で構成される立法議事機関を開設し、有司専制(官僚による専制政治)を止めることが、国家の維持と国威発揚に必要であると主張された。これを機縁として、薩長藩閥による政権運営に対する批判が[[自由民権運動]]となって盛り上がり、各地で政治結社がおこなわれた。また、この頃には、各地で不平士族による反乱が頻発するようになり、日本の治安はきわめて悪化した。代表的なものとしては、1874年(明治7年)の[[佐賀の乱]]、[[1876年]](明治9年)の[[神風連の乱]]、[[1877年]](明治10年)の[[西南戦争]]などが挙げられる。 [[画像:Imperial rescript (M8).jpg|thumb|right|400px|立憲政体の詔書(国立公文書館所蔵)]] [[1875年]](明治8年)[[4月14日]]、'''[[立憲政体の詔書]]'''(漸次立憲政体樹立の詔)が出された。 :朕、…ここに[[元老院 (日本)|元老院]]を設け、もって立法の源を広め、[[大審院]]を置き、もって審判の権を鞏(かた)くし、又、地方官を召集し、もって民情を通じ公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、なんじ衆庶と倶にその慶に頼らんと欲す すなわち、元老院、大審院、地方官会議を置き、段階的に立憲君主制に移行することを宣言した。これは、[[大久保利通]]、[[伊藤博文]]ら政府要人と、[[木戸孝允]]、[[板垣退助]]らの民権派の会談である大阪会議の結果である。また、地方の政情不安に対処するため、[[1878年]](明治11年)には[[府県会規則]]を公布して、各府県に民選の府県会([[地方議会]])を設置した。これが日本で最初の民選議院である。 === 自由民権運動 === 1874年(明治7年)からの'''[[自由民権運動]]'''において、様々な憲法私案('''[[私擬憲法]]''')が各地で盛んに執筆された。しかし、政府はこれらの私擬憲法を持ち寄り議論することなく、大日本帝国憲法を起草したため、憲法に直接反映されることはなかった。政府は、国民の言論と政治運動を弾圧するため、1875年(明治8年)の[[讒謗律]]、[[新聞紙条例]]、[[1880年]](明治13年)の[[集会条例]]など、様々な法令を定めた。[[1887年]](明治20年)の[[保安条例]]では、民権運動家は[[東京]]より退去を強いられ、これを拒んだ者を拘束した。 私擬憲法の内容については、様々な研究がある。政府による言論と政治活動の弾圧を背景として、[[人権]]に関する規定が詳細なことは、おおむね共通する。天皇の地位に関しては、言われるほど差がある物ではなかったとする意見がある。「自由民権家は皆[[明治維新]]を闘った[[尊皇]]家で、天皇の存在に国民の権利、利益の究極の擁護者の地位を仰ぎ見ていた。」とするものである。例えば、草の根の人権憲法として名高い[[千葉卓三郎]]らの憲法草案(いわゆる[[五日市憲法]])でも、天皇による立法行政司法の総轄や軍の統帥権、天皇の神聖不可侵を定めている点などは、大日本帝国憲法と同様である。 === 制定への動き === [[1876年]](明治9年)[[9月6日]]、明治天皇は、「元老院議長[[有栖川宮熾仁親王]]へ国憲起草を命ずるの勅語」を発した。この勅語では、「朕、ここにわが建国の体に基づき、広く海外各国を成法を斟酌して、もって国憲を定めんとす。なんじら、これが草案を起創し、もってきこしめせよ。朕、まさにこれを撰ばんとす」として、各国憲法を研究して憲法草案を起草せよと命じている。元老院は、この諮問に応えて、憲法取調局を設置した。[[1880年]](明治13年)、元老院は「'''日本国国憲按'''」を成案として提出し、また、[[大蔵卿]]・[[大隈重信]]も「憲法意見」を提出した。このうち、日本国国憲按は、皇帝の国憲遵守の誓約や議会の強い権限を定めるなど、[[ベルギー]]憲法([[1831年]])や[[プロイセン]]憲法([[1850年]])の影響を強く受けていたため、[[岩倉具視]]・[[伊藤博文]]らの反対に遭い、大隈の意見ともども、採択されるに至らなかった。 [[画像:Imperial rescript of the Diet establishment.jpg|thumb|right|300px|国会開設の勅諭]] 岩倉具視を中心とする勢力は、[[明治十四年の政変]]によって大隈重信を罷免し、その直後に[[御前会議]]を開いて国会開設を決定した。その結果、[[1881年]](明治14年)[[10月12日]]に、次のような'''[[国会開設の詔|国会開設の勅諭]]'''が発された。 この勅諭では、第一に[[1890年]](明治23年)の国会([[議会]])開設を約束し、第二にその組織や権限は政府に決めさせること(欽定憲法)を示し、第三にこれ以上の議論を止める政治休戦を説き、第四に内乱を企てる者は処罰すると警告している。この勅諭を発することにより、政府は政局の主導権を取り戻した。 === 制定までの経緯 === [[1882年]](明治15年)3月、「在廷臣僚」として[[参議]]・[[伊藤博文]]らは、政府の命を受けてヨーロッパに渡り、[[ドイツ]]系[[立憲主義]]の理論と実際について調査を始めた。伊藤は、[[ベルリン大学]]の[[ルドルフ・フォン・グナイスト]]、[[ウィーン大学]]の[[ロレンツ・フォン・シュタイン]]の両学者から、「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、苟も一国の憲法を制定しようというからには、まずその国の歴史を勉強せよ」というアドバイスを受けた。その結果、[[ドイツ]]の憲法体制が最も日本に適すると信ずるに至った(ただし、伊藤はドイツの方式を過度に評価する[[井上毅]]を嗜めるなど、そのままの移入を考慮していたわけではない)。伊藤自身が本国に送った手紙では、グナイストは極右で付き合いきれないが、シュタインは自分に合った人物だと評している。翌[[1883年]](明治16年)に伊藤らは帰国し、井上毅に憲法草案の起草を命じ、憲法取調局(翌年、制度取調局に改称)を設置するなど、憲法制定と議会開設の準備を進めた。 [[1885年]](明治18年)には、[[太政官|太政官制]]を廃止して'''[[内閣 (日本)|内閣制度]]'''が創設され、[[伊藤博文]]が初代[[内閣総理大臣]]となった。井上は、政府の法律顧問であったドイツ人・[[ロエスレル]](ロェスラー、Karl Friedrich Hermann Roesler)やモッセ(Albert Mosse)などの助言を得て起草作業を行い、[[1887年]](明治20年)5月に憲法草案を書き上げた。この草案を元に、夏島([[神奈川県]][[横須賀市]])にある伊藤の別荘で、伊藤、井上、[[伊東巳代治]]、[[金子堅太郎]]らが検討を重ね、夏島草案をまとめた。その後、夏島草案に修正が加えられ、[[1888年]](明治21年)4月に成案をまとめた。その直後、伊藤は、天皇の諮問機関として[[枢密院 (日本)|枢密院]]を設置し、自ら議長となって、この憲法草案の審議を行った。枢密院での審議は、[[1889年]](明治22年)1月に結了した。 1889年(明治22年)[[2月11日]]、'''大日本帝国憲法'''が公布され、国民に公表された。この憲法は、[[天皇]]が[[黒田清隆]]首相に手渡すという[[欽定憲法]]の形で発布され、日本は東アジアではじめて近代憲法を有する立憲君主国家となった。また同時に、皇室の家法である[[皇室典範]]も定められた。また、[[議院法]]、貴族院令、衆議院議員選挙法、[[会計法]]なども同時に定められた。大日本帝国憲法は、第1回[[帝国議会]]が開会された[[1890年]](明治23年)[[11月29日]]に施行された。 国民は、憲法の内容が発表される前から憲法発布に沸き立ち、至る所に奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列も催された。当時の自由民権家や新聞各紙も、同様に大日本帝国憲法を高く評価し、憲法発布を祝った<ref>制定の過程において新聞紙上及び民権運動家から様々な批判があったにも関わらず、発布に際しては国を挙げた奉祝ムードにあったことを、当時[[東京大学]]医学部で教鞭を執っていた[[ベルツ]]が記している(「ベルツの日記」)。</ref>。自由民権家の[[高田早苗]]は「聞きしに優る良憲法」と高く評価した。また、[[福澤諭吉]]は主宰する「[[時事新報]]」の紙上で、「国乱」によらない憲法の発布と国会開設を驚き、好意を持って受け止めつつ、「そもそも西洋諸国に行わるる国会の起源またはその沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭い、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは内治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したることなれども、今の日本にはかかる人民あることなし」として、人民の精神の自立を伴わない憲法発布や政治参加に、不安を抱いている。[[中江兆民]]もまた「我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。 国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや」と書生の[[幸徳秋水]]に溜息をついている。 === 制定後の出来事 === [[1891年]](明治24年)、日本を訪問中の[[ロシア]]皇太子・ニコライ(のちの[[ニコライ2世]])が、[[滋賀県]][[大津市]]で警備中の巡査・[[津田三蔵]]に突然斬りかかられ負傷した。いわゆる'''[[大津事件]]'''である。この件で、時の[[内閣]]は対露関係の悪化をおそれ、[[不敬罪|大逆罪(皇族に対し危害を加える罪)]]の適用と、被告人に対する[[死刑]]を求め[[司法]]に圧力をかけた。しかし、[[大審院]]長の[[児島惟謙]]は、この件に同罪を適用せず、法律の規定通り普通人に対する謀殺未遂罪を適用するよう、担当裁判官に指示した。かくして、被告人を無期徒刑(無期[[懲役]])とする判決が下された。この一件によって、日本が立憲[[国家]]・法治国家として[[法治主義]]と司法権の独立を確立させたことを世に知らしめた。もっとも、本件は当時の司法権の独立の危うさを語っている。また、大審院長が裁判に介入したことから、個々の裁判官の独立は守られていないことに注意を要する。 [[1930年]](昭和5年)、[[ロンドン海軍軍縮条約]]を締結した政府に対し、[[野党]]と[[海軍軍令部]]、[[右翼]]団体が、政府による[[統帥権]]の干犯であると難じ、[[内閣総理大臣]]・[[濱口雄幸]]が右翼団体員に襲撃される事件が起きた。いわゆる'''[[統帥権]]干犯問題'''である。これ以後、立憲政党政治は弱体化してゆくこととなる。 [[1935年]](昭和10年)、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員で[[陸軍]][[中将]]の[[菊池武夫 (陸軍軍人)|菊池武夫]]が、当時通説的地位を持っていた統治機構に関する学説である[[天皇機関説]]を、[[国体]]に反するものと非難。主唱者であり、貴族院議員でもあった[[美濃部達吉]]は、反論の演説をするも攻撃の声は止まず、貴族院議員を辞職した。また、岡田内閣も右翼・軍部の攻撃を恐れ、[[国体明徴声明]]を出し、また美濃部の著書を発禁処分とした。いわゆる'''[[天皇機関説事件]]'''である。ちなみに、昭和天皇はこの時、「機関説で良いではないか」と側近に漏らしていたという。近代立憲国家の一般的な理解でさえも押しつぶされたこととなり、ここに大日本帝国憲法による立憲政治は、その実質を失ったことを示す。 === 日本国憲法への移行 === [[画像:Privy Council (Japan).jpg|thumb|right|350px|1946年(昭和21年)10月29日、「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。]] [[1945年]](昭和20年)8月、日本政府が'''[[ポツダム宣言]]'''を受諾して[[終戦]]を迎えた。同宣言には「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ」「言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」等と定められたため、[[ダグラス・マッカーサー]]率いる[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ/SCAP)は、大日本帝国憲法の改正を日本政府に求めた。政府は、内閣の下に憲法問題調査委員会(委員長・[[松本烝治]]国務大臣、松本委員会)を設置して、憲法問題の審議にあたらせた。政府は、松本委員会が要綱化した案を元に閣議で審議し、[[1946年]](昭和21年)[[2月8日]]に「'''憲法改正要綱'''('''[[松本試案]]''')」として総司令部に提出した。この間、国民の間でも憲法改正論議は高まり、様々な憲法改正案が発表された。 政府による「松本試案」の提出に先立ち、2月1日付[[毎日新聞]]が「松本委員会試案」なるものをスクープした。スクープされたものは松本委員会の委員の一人である[[宮澤俊義]]が作成した試案であって松本試案とは異なるものであった。そのため、政府もその報道された内容が政府案と異なるとする声明を発表した。しかし、総司令部はその記事内容が真正な松本委員会案であると判断した。総司令部は、その記事に示された「松本委員会試案」は受け入れ難いと考え、自ら憲法改正案を作成し、日本政府に提示することを決定した。総司令部は、2月3日から13日にかけて、いわゆる「'''マッカーサー草案'''」をまとめた。 2月13日、総司令部は松本国務大臣と[[吉田茂]]首相に対し、2月8日に提出された「松本試案」に対する回答として、「マッカーサー草案」を手渡した。政府は「松本試案」の再考を求めたものの容れられず、あらためて「マッカーサー草案」に基づいて検討し直し、「'''日本側草案'''(3月2日案)」を作成した。政府は、総司令部と折衝の上、3月6日に「'''憲法改正草案要綱'''(3月6日案)」を政府案として、国民に公表した。 この政府案を元に国民の間で広く議論が行われ、4月10日には[[衆議院議員総選挙]]が行われた(もっとも、国民の最大の関心は、新憲法より生活の安定にあった)。政府は、選挙が終了した4月17日に、要綱を条文化した「'''憲法改正草案'''」を公表した。4月22日から枢密院において憲法改正案が審査が開始され、6月8日に可決された。6月20日、政府は、[[大日本帝国憲法73条]]の憲法改正手続に基づき、憲法改正案を衆議院に提出した。6月25日から衆議院において審議が開始され、若干の修正が加えられた後、8月24日に可決された。続けて、8月26日から貴族院において審議が開始され、ここでも若干の修正が加えられた後、10月6日に可決された。翌7日、衆議院は貴族院の修正に同意し、帝国議会での審議は結了した。憲法改正案は、再び枢密院に諮られ、10月29日に可決された。天皇の裁可を経て、11月3日、大日本帝国憲法の改正は'''[[日本国憲法]]'''として公布され、翌[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に施行された。 === 憲法改正有限界説との矛盾 === {{Main|八月革命説}} 前述するとおり、憲法の改正は[[大日本帝国憲法第73条]]の規定によって行われた。この条文によると、憲法改正は天皇が発議・裁可する事になっており、実際、憲法改正の上諭文には「'''朕は'''…憲法の改正を'''裁可し'''…」との記述([[欽定憲法]])がなされた。この表現が、日本国憲法前文の「'''日本国民は'''…この憲法を確定する」([[民定憲法]])の文言と矛盾することが一部学説で問題とされた。 憲法学の学説の一つに、憲法の基本原則([[国体]])を変更する憲法改正は、法的に不可能であるとするものがある(憲法改正有限界説)。この学説では、憲法の「改正権」という概念は、「制憲権」(憲法を制定する権利)なしには産み出されないものであり、改正によって、産みの親である制憲権の所在(すなわち主権者)を変更することは、法的に許されないとする。 このため、これらの矛盾を説明するために「[[八月革命説]]」が主張されるようになった。したがって、明治憲法に定められた改正手続きによって行われたのは便宜的・形式的なもので、実質的に日本国憲法は、改正ではなく「新たに制定」、両者の間の法的連続性は「実質的には無し」という解釈が取られている。 ちなみに、憲法改正無限界説においては、大日本帝国憲法には改正限界を規定する条文は存在しておらず、大日本帝国憲法第73条の規定に則り改正された以上憲法改正は正当であるとし、法的連続性は存在するとする。 なお、各国の憲法の中には、「憲法改正の限界」を憲法に明記していているものも存在する。 == 概要 == [[画像:Politics Under Meiji Constitution 02.png|thumb|400px|大日本帝国憲法下の統治機構図。カッコで括った機関は、憲法に規定がない。]] この憲法は、[[立憲主義]]の要素と[[国体]]の要素を併せ持つ[[欽定憲法]]であり、立憲主義によって議会制度が定められ、国体によって議会の権限が制限された。憲法改正後は、憲法学者らによって外見的立憲主義、[[王権神授説]]的と評された。 === 立憲主義の要素 === 立憲主義の要素としては、次の諸点がある。 * [[言論の自由]]・[[結社の自由]]や信書の秘密など臣民の権利が、[[法律の留保]]のもとで保障されていること(第2章)。 :これらの権利は、天皇から臣民に与えられた「恩恵的権利」とされた。[[日本国憲法]]では、これらの権利を永久不可侵の「[[基本的人権]]」と構成する。また、権利制限の根拠は「法律ニ定メタル場合」「法律ノ範囲内」などのいわゆる「法律の留保」、あるいは「安寧秩序」に求められた。この点も、基本的人権の制約を「公共の福祉」に求める日本国憲法とは異なる。但し、現憲法の「公共の福祉」による制限も法律による人権の制限の一種であり、現在教育の現場で解説されるように「旧憲法のそれは非常に制限的であり、現憲法のそれは開放的である」とする程の本質的な差はないとする意見もある(但し、比較的な傾向としては肯定する)。その立場からは、「人権が上位法の憲法典の形で明文で保障された」点に第一の意義があり、また内容としては当時においてはかなり先進的なものであったとする。 * [[帝国議会]]を開設し、[[衆議院]]は公選された議員からなること(第3章)。 :帝国議会は法律の協賛(同意)権を持ち、臣民の権利・義務など法律の留保が付された事項は帝国議会の同意がなければ改変できなかった。また帝国議会は法案提出権や予算協賛権を有し、予算審議を通じて行政を監督する力を持った。また、上奏権や建議権が限定付きながら与えられた(最終的には天皇の裁可と国務大臣の副署が必要であったが、建議権を通じた事実上の政策への関与が可能とされた)。 * [[天皇]]の行政大権の行使に[[国務大臣]]の[[輔弼]]を必要とする体制(大臣責任制または大臣助言制)を定めたこと(第4章)。 : [[内閣]]や[[内閣総理大臣]]に関する規定は、憲法典ではなく[[内閣官制]]に定められた。内閣総理大臣は、国務大臣の首班ではあるものの対等な地位とされ、国務大臣(各省大臣)に対する指揮監督権や任免権もないため、明文上の権限は強くない。しかし、内閣総理大臣は機務奏宣権(天皇に裁可を求める奏請権と天皇の裁可を宣下する権限)と国務大臣の奏薦権(天皇に任命を奏請する権限)を有したため、実質的な権限は大きかった。 * 司法権の独立を確立したこと。 : 司法権は天皇から裁判所に委任された形をとり、これが司法権の独立を意味していた。また、欧州大陸型の司法制度を採用し、[[行政訴訟]]の管轄は、[[司法]]裁判所にはなく、[[行政裁判所]]の管轄に属していた。この根拠については、[[伊藤博文]]著の『憲法義解』によると、行政権もまた司法権からの独立を要することに基づくとされている。 === 国体の要素 === [[国体]]の要素としては、次の諸点が挙げられる。 * 「天壌無窮ノ宏謨(てんじょうむきゅうのこうぼ)」(御告文)という皇祖皇宗の意思を受け、天皇が継承した「国家統治ノ大権」(上諭)に基づき、天皇を国の[[元首]]、統治権の総攬者としての地位に置いた。この、天皇が日本を統治する体制を国体という。 :天皇統治の正当性を根拠付ける国体論は、大きく二つに分けられる。一つは起草者の一人である[[井上毅]]らが主唱する国体論(『シラス』国体論)であり、もう一つは後に[[高山樗牛]]、[[井上哲次郎]]らが主唱した国体論(家秩序的国体論)である。井上毅らの国体論は[[古事記]]神話に基づいて公私を峻別し、天皇は公的な統治を行う(シラス)ものであって、他の土豪や人民が行う私的な所有権の行使(ウシハク)とは異なるとする(井上「古言」)。これに対して高山らの国体論は、当時広く浸透していた「家」を中心とする国民意識に基づき、「皇室は宗家にして臣民は末族なり」とし、宗家の家長たる天皇による日本(=「君臣一家」)の統治権を正当化する(高山「我国体と新版図」、『太陽』3巻22号)。憲法制定当初は井上毅らの国体論を基礎的原理とした。しかし、[[日清戦争]]後は高山らの国体論が徐々に浸透してゆき、[[天皇機関説事件]]以後は「君民一体の一大家族国家」([[文部省]]「国体の本義」)として、ほぼ国定の解釈となった。 :参照 - [http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai7/7siryou1.html 「皇室典範に関する有識者会議」第7回の鈴木正幸・神戸大学副学長による説明] *[[天皇]]が、天皇大権と呼ばれる広範な権限を有したこと。 :特に、独立命令による法規の制定(9条)、条約の締結(13条)の権限を議会の制約を受けずに行使できるのは他の立憲君主国に類例がなかった。なお、天皇の権限といっても、運用上は天皇が単独で権限を行使する事はなく、内閣([[内閣総理大臣]])が天皇の了解を得て決断を下す状態が常であった。 *天皇が唯一の立法機関とされ、[[帝国議会]]が立法機関ではなく、天皇の立法協賛機関とされたこと。 :議会は立法協賛組織であり、法律制定には天皇の裁可と国務大臣の副署が必要であった。同時代の君主国憲法の多くが、立法権を君主と国会が共有する権能としていたことと比すると特異な立法例であると言える。ただし実務上は帝国議会が可決した法律案に天皇、行政部が拒否権を行使したことは一度もなく基本的には帝国議会が唯一の立法機関であった。ただし例外として天皇には、[[緊急勅令]]や[[独立命令]]を発する権限など、実質的な立法に関する権限が留保された。また、帝国議会に憲法改正の発案権がなかった。 *帝国議会の一院に、公選されない[[貴族院 (日本)|貴族院]]を置き、衆議院とほぼ同等の権限を持たせたこと。 * [[枢密院 (日本)|枢密院]]など、内閣を掣肘する議会外機関を置いたこと。 : このほか、[[元老]]、[[重臣会議]]、[[御前会議]]など、法令に規定されない機関が多数置かれた。 * [[統帥権]]を独立させ、[[陸海軍]]は議会や政府に対し一切責任を負わない。 : 統帥権は、慣習法的に軍令機関([[陸軍参謀本部]]・[[海軍軍令部]])の専権とされ、[[シビリアンコントロール]]の概念に欠けていた。統帥権に基づいて軍令機関は帷幄上奏権を有すると解し、[[軍部大臣現役武官制]]とともに、軍部の政治力の源泉となった。後に昭和に入ってから軍部が大きくこれを利用し、陸海軍は天皇から直接統帥を受けるのであって政府の指示に従う必要はないとして、[[満州事変]]などにおいて政府の決定を無視した行動を取るなどその勢力を誇示した。 * 皇室自律主義を採り、[[皇室典範]]などの重要な憲法的規律を憲法典から分離し、議会に関与させなかったこと。 : 宮中(皇室、[[宮内省]]、[[内大臣府]])と府中(政府)の別が原則とされ、互いに干渉しあわないこととされた。もっとも、宮中の事務をつかさどる[[内大臣]]が内閣総理大臣の選定に関わるなど大きな政治的役割を担い、しばしば宮中から府中への線は踏み越えられた。 === 構成 === 大日本帝国憲法は、7章76条からなる。構成は以下の通り。なお既存項目が存在する条文のみ列挙した。全文は[[ウィキソース]]を参照のこと。 * 第1章 天皇 ** [[大日本帝国憲法第1条|第1条]] 天皇主権 ** [[大日本帝国憲法第2条|第2条]] 皇位継承 ** [[大日本帝国憲法第4条|第4条]] 統治大権 ** [[大日本帝国憲法第10条|第10条]] 官制大権及び任官大権 ** [[大日本帝国憲法第11条|第11条]] [[統帥権|統帥大権]] ** [[大日本帝国憲法第12条|第12条]] 編成大権 ** [[大日本帝国憲法第13条|第13条]] 外交大権 ** [[大日本帝国憲法第14条|第14条]] 戒厳大権 * 第2章 臣民権利義務 ** [[大日本帝国憲法第19条|第19条]] 公務への志願の自由 ** [[大日本帝国憲法第20条|第20条]] 兵役の義務 ** [[大日本帝国憲法第22条|第22条]] 居住・移転の自由 ** [[大日本帝国憲法第29条|第29条]] 言論・出版・集会・結社の自由 ** [[大日本帝国憲法第31条|第31条]] 非常大権 * 第3章 帝国議会 ** [[大日本帝国憲法第34条|第34条]] 貴族院 * 第4章 国務大臣及枢密顧問 * 第5章 司法 * 第6章 会計 * 第7章 補則 ** [[大日本帝国憲法第73条|第73条]] 憲法改正 == 起草前後の政情 == [[画像:Meiji constitution memorial.jpg|thumb|250px|『憲法草創之處』碑([[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]])]] 明治維新後の日本は不平等条約を改正し、欧米列強と対等の関係を築くために近代的憲法を必要としていた。しかし、当時欧米諸国以外で立憲政治を実現した国はなかった。民間の憲法案も多数発表されたが、憲法起草の中心になった伊藤博文に言わせれば、「実に英、米、仏の自由過激論者の著述のみを金科玉条のごとく誤信し、ほとんど国家を傾けんとする勢い」だった。伊藤の懸念には根拠がなかったわけではなく、[[1876年]]に[[オスマン帝国]]([[トルコ]])が[[オスマン帝国憲法]]を制定し立憲政治を始めたが、わずか2年で憲法停止・議会解散に追い込まれていた。また日本国内でも一部の保守派に絶対君主制を目指す動きがあった。伊藤は日本の現状に適合した憲法を目指した。それまで日本は幕藩体制の中でバラバラの状況であり、一つの国家と国民という結びつきが出来ていなかった。そのために、天皇を中心として国民を一つにまとめる反面、議会に力を持たせ、バランスの取れた憲法を制定する必要があった。 憲法の起草は、夏島(現在の[[神奈川県]][[横須賀市]]夏島町)の[[伊藤博文]]別荘を本拠に、[[1887年]](明治20年)[[6月4日]]頃から行われた。伊藤の別荘は手狭だったことから、事務所として料理旅館の「東屋」(現在の[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]])を当初は用いていた。しかし[[8月6日]]、伊藤らが横浜へ娯遊中に泥棒が入り、草案の入った鞄が盗難に遭ったことから、その後は伊藤別荘で作業は進められた。鞄は後に近くの畑で見つかり、草案は無事だったという。 東屋には、憲法ゆかりの地であることを記念して、[[1935年]](昭和10年)に、起草メンバーの一人であった[[金子堅太郎]]書による「憲法草創の処」の碑が建てられた。その後東屋は廃業し、一時的に野島公園(同区)に碑も移転したが、現在は東屋跡地に近い洲崎広場に設置されている。 なお、夏島にあった伊藤の別荘は、後に[[小田原]]に移築され、[[関東大震災]]で焼失しているため現存しない。夏島の跡地には、明治憲法起草地記念碑が建てられてる。また、のちに伊藤が建てた別荘が野島に残っている(伊藤博文記念館)。 == 現行法制度との関係 == 大日本帝国憲法は、[[大日本帝国憲法第73条|第73条]]に定める改正手続を経て全面改正され日本国憲法となる。日本国憲法は[[1946年]](昭和21年)11月3日に公布され、[[1947年]](昭和22年)5月3日に施行された。 大日本帝国憲法の下で成立した法令は、[[日本国憲法第98条|日本国憲法98条1項]]により「その条規に反する」ものについて、同時に失効している。また、同条の反対解釈により、日本国憲法の条規に反しない法令は、日本国憲法の施行日以降も効力を有する。効力を有する場合、法律は法律として扱われ、[[閣令]]は[[内閣府令]]として、[[省令]]は省令として扱われる。勅令は、法律事項を内容とするものは暫定的効力を認めた後失効させ、法律事項以外を内容とするものは[[政令]]として扱われた。[[物価統制令]]などのいわゆる[[ポツダム命令|ポツダム勅令]](ポツダム命令)は、法律または政令として扱われる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 参考文献 == * [[伊藤博文]]『[http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=54011398&amp;VOL_NUM=00000&amp;KOMA=1&amp;ITYPE=0 帝国憲法皇室典範義解]』[[国家学会]]、1889年([[岩波文庫]]版『憲法義解』ISBN 9784003311110 ) *[[稲田正次]]『明治憲法成立史』上・下、[[有斐閣]] 1960-1962年(OD版 ISBN 9784641903258 ISBN 9784641903265 ) * 瀧井一博『文明史のなかの明治憲法 この国のかたちと西洋体験』講談社選書メチエ286、講談社、2003年 ISBN 9784062582865 * 八木公生『天皇と日本の近代(上) 憲法と現人神』講談社現代新書1534、2001年 ISBN 9784061495340 * [[八木秀次 (法学者)|八木秀次]]著『明治憲法の思想 日本の国柄とは何か』PHP新書201、PHP研究所、2002年 ISBN 9784569621456 == 関連項目 == * [[太政官]] * [[内閣 (日本)]] == 外部リンク == {{Wikisource|大日本帝國憲法|大日本帝国憲法}} * [http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/kenpou_gikai.htm 伊藤博文著『憲法義解』の現代語訳(HISASHI)] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月4日 (火) 05:21。]     

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。