「寺内正毅」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
「寺内正毅」(2009/03/15 (日) 23:46:28) の最新版変更点
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
{{記事名の制約|title=寺內正毅}}
{{日本の内閣総理大臣
|[[寺内内閣|18]]
|寺內 正毅<br />(てらうち まさたけ)<br />[[Image:Masatake Terauchi 2.jpg|200px]]
|[[1852年]][[2月24日]]<br />([[嘉永]]5年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]])
|[[長州藩]]<br>(現・山口県[[山口市]])
|
|[[伯爵]]<br />[[元帥 (日本)|元帥]]<br />[[陸軍大将]]<br />[[従一位]]<br />[[勲一等旭日大綬章]]<br />[[功一級]][[金鵄勲章]]
|[[朝鮮総督]]
|無
|[[1916年]][[10月9日]]|[[1918年]][[9月29日]]
|-
|-
|-
|[[1919年]](大正8年)[[11月3日]]
}}
'''寺内 正毅'''(てらうち まさたけ、[[嘉永]]5年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]([[1852年]][[2月24日]]) - [[大正]]8年([[1919年]])[[11月3日]])は、[[日本]]の[[陸軍]][[軍人]]([[元帥 (日本)|元帥]])、[[政治家]]。第18代[[内閣総理大臣]](在任: [[大正]]5年([[1916年]])[[10月9日]] - [[大正]]7年([[1918年]])[[9月29日]])。元帥[[陸軍大将]][[従一位]][[旭日大綬章|勲一等]][[金鵄勲章|功一級]][[伯爵]]。
== 経歴 ==
[[1852年]]、現在の[[山口市]]に[[長州藩]]士[[宇多田正輔]]の三男として生まれる。後に母方の寺内家を継いだ。
[[明治]]元年([[1868年]])、御盾隊隊士として[[戊辰戦争]]に従軍し、[[箱館戦争|箱館]][[五稜郭]]まで転戦した。その後[[山田顕義]]の推薦によって陸軍[[士官]]として累進し、[[西南戦争]]最大の激戦とされた[[田原坂の戦い]]で負傷して右手の自由をなくした。そのため、以降は実戦の指揮を執ることはなく、軍政や軍教育の方面を歩んだ。
[[閑院宮載仁親王]]の随員として[[フランス]]留学([[駐在武官]]を兼務)後、明治20年(1887年)[[陸軍士官学校_(日本)|陸軍士官学校長]]に就任。[[日清戦争]]では[[兵站]]の最高責任者である運輸通信長官を務めた。明治31年([[1898年]])[[教育総監]]、同33年([[1900年]])[[参謀次長]]などを勤め、[[第1次桂内閣]](1901年6月2日 - 1905年12月21日)が成立すると[[陸軍大臣]]となり、[[日露戦争]]の勝利に貢献した。[[第1次西園寺内閣]]や[[第2次桂内閣]](1908年7月14日 - 1911年8月25日)でも再び陸相をつとめた<ref>[[渡辺淳一]]の[[直木賞]]受賞作『光と影』は、寺内の生涯をモデルとしたとされる。</ref>。明治39年([[1906年]])には[[南満洲鉄道]]設立委員長・陸軍大将・[[子爵]]に相次いで任じられた。
[[画像:Billiken by MASA.jpg|160px|left|thumb|ビリケン人形]]
明治42年([[1909年]])10月26日の[[ハルビン]]における[[伊藤博文]]暗殺後、第2代[[韓国統監]][[曾禰荒助]](在任: 1909年6月14日 - 1910年5月)が辞職すると同43年([[1910年]])5月30日陸相のまま第3代韓国統監を兼任し、同年8月22日の[[韓国併合|日韓併合]]と共に10月1日、[[朝鮮総督府]]が設置されると、引き続き陸相兼任のまま初代朝鮮総督に就任した。なお、陸相兼任は第二次西園寺内閣の成立で石本新六が陸相に就任するまで続いた。朝鮮総督は[[天皇]]に直隷し、委任の範囲内に於いて朝鮮防備のための軍事権を行使し、内閣総理大臣を経由して立法権、行政権、司法権にわたる多岐な権限を持った。寺内は[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]に[[警察]]を兼務させる憲兵警察制度を創始し、朝鮮の治安維持を行ったことなどに対して、後に武断政治と評価された。これらの功績によって明治44年([[1911年]])に伯爵に叙せられた。
大正5年([[1916年]])6月24日、元帥。10月16日に総督を辞任し、[[10月19日]]には内閣総理大臣に就任。朝鮮総督としての功績を認められてのことである。寺内の頭の形が[[ビリケン|ビリケン人形]]にそっくりだったことから、これに超然内閣の「非立憲(ひりっけん)」をひっかけて「ビリケン内閣」と呼ばれた。時は[[第一次世界大戦]]の最中であり、寺内首相は大正7年([[1918年]])8月2日[[シベリア出兵]]を宣言したが、[[米騒動]]の責任をとって[[9月21日]]総辞職した。だが、この内閣末期には既に病気がちであり、翌年に病没する。
== 備忘録 ==
[[画像:Billiken 200712.JPG|180px|thumb|right|ビリケン人形]]
* 西南戦争で右手を負傷して以来、挙手の[[敬礼]]を左手によって行っていた(俗に'''左敬礼'''と呼ばれている)。
* 陸軍士官学校校長時は、徹底的に生徒の管理を行い、仕事を終えても、職場と目と鼻の先にある自宅から望遠鏡で生徒の行動を見ていた。士官学校の表札がピカピカに磨かれていないことをひどく叱ったとされる。
* [[南方軍 (日本軍)|南方軍]]総司令官の元帥陸軍大将[[寺内寿一]]は長男。日本の陸海軍で親子二代の元帥は皇族を除くと寺内親子だけである。
* 韓国併合の祝宴で「''小早川 加藤小西が 世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ''」と得意満面に詠んだという。
==脚注==
<references/>
==関連項目==
*[[寺内内閣]]
*[[米騒動]]
*[[朝鮮王室儀軌]]
*[[105人事件]]
*[[大楽源太郎]]
==外部リンク==
*[http://210.128.252.171/jp/data/kensei_shiryo/kensei/terauchimasatake1.html 寺内正毅関係文書(所蔵) | 国立国会図書館]
*[http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/137_1.html 寺内正毅肖像写真]
*[http://www.c20.jp/p/tmasatak.html 寺内 正毅 / クリック 20世紀]
[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%AF%BA%E5%86%85%E6%AD%A3%E6%AF%85 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月31日 (水) 16:00。]