若槻禮次郎

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{{日本の内閣総理大臣 |[[第1次若槻内閣|25]]・[[第2次若槻内閣|28]] |若槻 禮次郞<br />(わかつき れいじろう)<br />[[Image:Reijiro_Wakatsuki_posing_cropped.jpg|200px]] |[[1866年]][[3月21日]]<br />([[慶応]]2年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]) |[[松江藩]]<br>(現[[島根県]][[松江市]]雑賀町) |[[帝国大学|帝國大學]]</br>(現・[[東京大学]]) |[[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]][[男爵]] | |無 |第1次:<br />[[1926年]][[1月30日]]|[[1927年]][[4月20日]] 第2次:<br />[[1931年]][[4月14日]] <br /> ‐ [[1931年]][[12月13日]] | | |[[憲政会]] |[[1949年]](昭和24年)[[11月20日]] }} '''若槻 禮次郞'''(わかつき れいじろう、新字体:若槻 礼次郎、[[慶応]]2年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]([[1866年]][[3月21日]]) - [[昭和]]24年([[1949年]])[[11月20日]])は、[[日本]]の[[大蔵省|大蔵]][[官僚]]、[[政治家]]。第25代および第28代[[内閣総理大臣]]。[[男爵]]。旧姓は奥村、[[幼名]]は源之丞、[[号]]は克堂。 == 生涯 == === 生い立ち === [[松江藩]]の[[足軽]]奥村仙三郎の次男として生まれる。奥村家は極めて貧乏であり、[[内職]]のようなことをしてようやく生活していた。幼少の頃はまだ[[苗字帯刀|帯刀]]であり、[[木刀]]一本腰に差して[[寺子屋]]に通う。 小学校を出ると[[漢学]]塾へ通うが、1年後やめて[[島根県立松江北高等学校|教員伝習校内変則中学科]]に入る。しかし家が貧乏で、学資が続かず在学8~9ヵ月にして中学をやめ、しばらくは家にいて山へ[[薪]]を取りに行ったり、家事の手伝いをしていた。 16歳のころから3年間程、小学教員をする。[[司法省法学校]]が官費で生徒を募集することを知り、飛び立つ思いであったが、試験場は[[東京]]まで出て行かなければならない。しかしその費用がなかったので、島根県[[能義郡]]長をしていた[[叔父]]若槻敬に相談し、旅費だけ貸してもらい数えで19の年に松江を出た<ref>『<small>若槻礼次郎自伝</small> 古風庵回顧録 <small>明治、大正、昭和政界秘史</small>』 18-25頁</ref>。 === 学生時代 === 東京へつくと[[大学予備門]]に通っていた[[岸清一]](のち[[博士 (法学)|法学博士]])の下宿へ転がり込んだ。岸とは血のつながりはないが、近い親類であった<ref>『<small>若槻礼次郎自伝</small> 古風庵回顧録 <small>明治、大正、昭和政界秘史</small>』 3-21頁</ref>。[[1892年]]7月、[[帝国大学]]法科を平均98.5点という驚異的な成績をのこして首席で卒業した。同期に、のちに[[司法大臣]]、[[鉄道大臣]]を歴任した政党政治家[[小川平吉]]、数期にわたり[[内務大臣]]を務めた官僚政治家[[水野錬太郎]]らがいる。 === 大蔵省時代 === 大蔵省に入り、主税局長、次官を歴任する。大正元年(1912)、第3次[[桂太郎]]内閣で大蔵大臣、同3年から4年まで第2次[[大隈重信]]内閣で再度蔵相、同5年、[[加藤高明]]らの憲政会結成に参加して副総裁となる。大正13年(1924)、加藤内閣で内務大臣となり、翌年、[[普通選挙法]]と[[治安維持法]]を成立させる。 === 第1次若槻内閣 === ([[1926年]][[1月30日]] - [[1927年]][[4月20日]]) [[加藤高明]]首相が在職中死去したため、[[憲政会]]総裁として内相を兼任し組閣。彼の内閣の時期には左派政党で一種、[[社会主義]]的な「[[無産政党]]」が数多く結成された。 12月25日に[[大正天皇]]が崩御し、その日のうちに昭和と改元された。そのため昭和元年は7日しかない。明けて昭和2年1月、少数与党で臨んだ第52議会冒頭で、おりからの「[[朴烈事件]]」と「[[松島遊郭|松島遊郭事件]]」にかんして野党が若槻内閣弾劾上奏案を提出した。若槻は[[政友会]]の[[田中義一]]総裁と[[政友本党]]の[[床次竹二郎]]総裁を[[料亭|待合]]に招いて、「新帝[[践祚]]のおり、予算案だけはなんとしても成立させたいが、上奏案が出ている限りどうしようもない。引っ込めてくれさえすれば、こちらとしてもいろいろ考えるから」と持ちかけた。野党はこの妥協を承諾、「予算成立の暁には政府に於いても'''深甚なる考慮'''をなすべし」という語句を含んだ文書にして三人で署名した。「深甚なる考慮」は内閣退陣を暗示し、予算案成立と引き換えに、[[憲政の常道]]に基づき政権を野党政友会に譲ることを意味する。これで若槻は議会を乗り切ったが、予算が通っても一向に総辞職の気配を見せなかったことから、野党は合意文書を公開、「若槻は嘘つき総理である」と攻撃した。<!--ここ-->このため謹厳実直な能吏のはずの若槻禮次郎は「ウソツキ禮次郎」と呼ばれる羽目になった。 また議会終了間際、[[衆議院]]予算委員会で[[片岡直温]]蔵相は野党の執拗な追及に対し、次官から届けられたメモに基づき「現に今日正午頃に於て[[東京渡辺銀行|渡辺銀行]]が到頭破綻を致しました」と発言する。実際には東京渡辺銀行は金策にすでに成功していたが、この発言で東京渡辺銀行に預金者が殺到し、[[倒産|休業]]に追い込まれてしまう。これにより[[昭和金融恐慌]]が勃発した。 大戦景気のあと不景気に悩まされていた[[銀行]]や[[成金]]たちはここで一気に倒産の憂き目に会うこととなる。特に[[台湾銀行]]は成金企業の[[鈴木商店]]と深い結びつきを持っていたが、台湾銀行が債権回収不能に陥り、休業すると同時に鈴木商店も倒産し、これは恐慌の象徴的事件ともいえる。台湾銀行の回収不能債権のうち8割近くが鈴木商店のものだったという。 若槻内閣はこの状態に対し、台湾銀行救済緊急勅令案を[[枢密院 (日本)|枢密院]]に諮るが、この手続きは[[大日本帝国憲法|憲法]]違反であるとして否決されてしまう。政策実行不能と考えた若槻は4月20日に[[内閣総辞職]]し、[[立憲政友会]]の[[田中義一]]に組閣の大命が下ることとなる。 しかし、これは陰謀であった。若槻内閣は憲政会の内閣であり、穏健外交を政策に掲げていたため、[[1926年]]7月から始まった[[蒋介石]]の北伐に対してなんらリアクションを取らなかったのである。実はこれが枢密院にとっては気に入らないことであった。そこで枢密院はこの事件を利用して若槻に揺さぶりをかけたものだと考えられる。よって次代の田中内閣が諮った同様の勅令案に対して枢密院は全く反対をしない。 但し、内閣と枢密院の見解が食い違った場合、内閣が辞職しなければならないという規定はなく、ここで総辞職をしたのは若槻の性格の弱さとも取れる。 ===第2次若槻内閣 === ([[1931年]][[4月14日]] - [[1931年]][[12月13日]]) 次に若槻が内閣を組織するのは[[1931年]]4月のことである。憲政会はそのとき[[立憲民政党]]となっていた。[[濱口雄幸 |濱口]]内閣の失策により深刻な不景気を迎えていた国内では「満蒙([[満州]]と[[モンゴル]])は日本の生命線」とまで言われるようになっていたが、満州は[[蒋介石]]の[[北伐]]により危機に瀕していた。 当時軍部では、汚職の続く政治家や失策の多い[[政党内閣]]に対し、強い危機感が生まれていた。そんななか「[[世界最終戦論]]」を唱える[[関東軍]]の[[石原莞爾]]、[[板垣征四郎]]、[[土肥原賢二]]らによって[[柳条湖]]付近の[[南満州鉄道]]が爆破され、日本本国からの連絡を待たないまま彼らは[[長春]]を占領、[[土肥原賢二|土肥原]]を新市長につけてしまう。 これは[[統帥権]]の所在の不明確さに原因がある。[[統帥権]]は憲法上天皇にあるが、実際天皇は軍部に対して直接指令することはなく、内閣の軍部大臣が内閣の方針を軍部に伝えていたのである、緩やかな[[シビリアンコントロール]]ともいえる。ところが[[満州事変]]の場合、閣議で決定した「不拡大方針」を関東軍につたえると、「統帥権干犯だ」といわれ突っぱねられてしまう。つまり[[関東軍]]は今までの慣例を破壊してしまったのである。 直後の閣議では不拡大方針が決定され、若槻は両軍部大臣、林[[奉天]]大使にもその旨を伝えている。しかし、各新聞は関東軍の行動を絶賛し、世論は満州事変賛成へと動いてゆく。 そんな中、後に首相となる[[林銑十郎]][[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]司令官は関東軍救援を名目にこれまた本国からの連絡を待たずに独断で満州へ侵攻してしまう。関東軍も不拡大方針を無視し錦州を独断で爆撃。これにより今まで沈黙していた[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[イギリス]]が非難声明を出すこととなる。若槻の不拡大方針は国民、軍部に見放され、ついには[[安達謙蔵]]内相が「挙国一致」を訴えたため、閣僚にも見放された状態で閣内不一致総辞職となる。 これにより「軍部が既成事実を積み上げれば政府の方針が覆る」という見解が軍部内で生まれ、後の軍部暴走へとつながり、日本は軍国時代へと突き進んでゆくこととなる。 ===重臣時代 === その後若槻は首相経験者の立場で政治に参画し、[[重臣会議]]のメンバーにもなった。[[1941年]]には[[東條英機]]を次期首相として奏薦した重臣会議において[[宇垣一成]]を次期首相に推し論争を繰り広げている。戦争末期には[[重臣]]の一人として終戦工作に関与した。既に昭和19年から[[吉田茂]]により協力を呼びかけられている。昭和20年に入ってからは[[鈴木貫太郎]]内閣の奏薦や[[ポツダム宣言]]受諾などに関わった。なお、昭和10年代前半に次期[[内大臣府|内大臣]]という声があったが、民政党の色が強いということで実現しなかった。 == 人物像 == *若槻は事務能力に秀でた政治家であった。矢田挿雲は「私生活の話のうちに、毎晩十二時頃帰宅して[[熱燗]]を一本傾けながら百本以上の私信を処理し『我が妻よ、御身もし余を愛するならば、余に話しかけて余の仕事を妨ぐる勿れ』と箝口令を発布する由が出て居た。…非常に事務的な正覚坊と謂ひ得る」<ref>「若槻氏の癖」『中央公論』第四二巻第二号、昭和二年</ref>と書いている。 *息子の[[若槻有格|有格]]は雑誌『民政』の記者に父について「今日は平生より可成り酔ってゐるやうだな、と思って時に何か緊急な用事……先づ政治上の用向なんぞが出来ますと、今まで酔って居たのが拭き取ってゞも了ったやうに、しらふに成って了って態度も言葉も又容貌も、丸で一滴も飲まない時に返って其用件を片付けます。然うしてその用が済むと又面上に酔が浮かんで陶然とした容子になるのです」と語っている<ref>「三府楼主人「若槻全権の酒量大観」『民政』第三巻第十二号、昭和四年</ref> *高校、大学と常に首席であった。東京帝大仏法科を98点5分の成績で首席として卒業。この成績は東大始まって以来最高であり、同様の点数制のもとではこれを超える者は出なかった。 *[[ロンドン海軍軍縮会議]]の首席全権になった際、「[[骸骨]]が[[大砲]]を引っ張っても仕方がない」と国力と調和した軍備を訴え、右翼から攻撃されている。 *大正天皇崩御時の首相であるが、若槻の次に島根県から首相になった[[竹下登]]は[[昭和天皇]]崩御時の首相である。 == 年譜 == *[[1866年]]2月5日 - [[島根県]][[松江市]]雑賀町に生まれる 父・奥村仙三郎は[[松江藩]]の下級[[武士]]([[足軽]]) *[[1877年]]6月 - 雑賀南小学校尋常科卒業 翌年9月:高等科卒業 *[[1881年]]4月 - 島根県八束郡玉湯村大谷村小学校代用教員となる 翌年兄の紹介で簸川郡大津小学校に転ず *[[1884年]]9月 - [[司法省法学校]]の私費生として入学 *[[1886年]] - [[叔父]]若槻敬の[[養子]]となる *[[1891年]]7月 - 養父若槻敬長女徳子と結婚 *[[1892年]]7月 - [[帝國大學]]法科大学仏法科(現[[東京大学]]法学部)を首席で卒業。同期に[[小川平吉]](弁護士、政治家)、[[水野錬太郎]](官僚、政治家)らがいる。[[大蔵省]]試補 *[[1894年]]3月 - [[愛媛県]]収税長として[[松山市]]に赴任 *[[1898年]]11月 - 大蔵省主税局内国税課長 政府委員 *[[1904年]]10月 - [[主税局]]長兼行政裁判所評定官 *[[1907年]]4月 - 政府財政委員として[[ロンドン]]および[[パリ]]に駐在 *[[1908年]]7月 - 大蔵次官に就任 *[[1911年]]8月 - 大蔵次官を辞し[[勅撰議員]]となる *[[1912年]]12月 - [[第3次桂内閣]]で大蔵大臣に就任 *[[1913年]]2月 - [[立憲同志会]]入党 *[[1914年]]4月 - [[第2次大隈内閣]]で[[大蔵大臣]]に就任 *[[1924年]]6月 - [[加藤内閣]]で[[内務大臣]]在任中、[[普通選挙法]]、[[治安維持法]]成立 *[[1926年]]1月 - [[第1次若槻内閣]]成立 *[[1930年]]1月 - [[ロンドン海軍軍縮会議]]において首席全権として出席 *[[1931年]]4月 - [[民政党]]総裁 [[第2次若槻内閣]]成立、男爵位を授けられる。 *[[1934年]]7月 - [[民政党]]総裁を辞す *[[1945年]]5月 - ドイツ降伏のとき[[鈴木貫太郎|鈴木]]首相に休戦を進言 8月 - [[ポツダム宣言]]受諾の重臣会議に列席 *[[1946年]]6月 - [[極東国際軍事裁判|東京裁判]]の証人に立つ *[[1948年]]10月 - [[極東国際軍事裁判|東京裁判]]の[[ジョセフ・キーナン]]首席[[検察官|検事]]に[[宇垣一成]]、[[岡田啓介]]、[[米内光政]]と共に招待される *[[1949年]]11月20日 - 静岡県[[伊東市]]の[[別荘]]で[[狭心症]]により逝去 == 叙勲・授爵 == *1928年 (昭和3年) 11月10日: [[勲一等旭日桐花大綬章]] *1931年 (昭和6年) &nbsp;&nbsp;4月11日: [[男爵]] == 家族・親族 == *[[いとこ]]であり妻である徳子は[[養父]]若槻敬の長女 *長男 [[若槻有格|有格]](実業家) *孫娘が[[森永貞一郎]](元[[日本銀行]]総裁)に嫁いでいる == 系譜 == *若槻氏 <pre> 敬―礼次郎―有格┬寛義         └信成 </pre> == 参考文献 == *若槻礼次郎 『<small>若槻礼次郎自伝</small> 古風庵回顧録 <small>明治、大正、昭和政界秘史』</small> 読売新聞社 1950年 のち講談社学術文庫 == 関連項目 == *[[華族]] *[[若槻内閣]] **[[第1次若槻内閣]] **[[第2次若槻内閣]] == 関連人物 == *[[芦田均]] *[[宇垣一成]] *[[小川平吉]] *[[織田万]] *[[岸清一]] *[[木村小左衛門]] *[[福原鐐二郎]] *[[水野錬太郎]] == 脚注 == <references /> == 外部リンク == *[http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/219.html 若槻礼次郎 | 近代日本人の肖像] *[http://www.saika.matsue.ed.jp/wakatuki/reimonoga5.htm 若槻禮二郎物語 - 松江市立雑賀小学校] *[http://www.geocities.jp/bane2161/wakatukireijirou.htm 若槻礼次郎について] *[http://www.c20.jp/p/wreijiro.html 若槻 礼次郎 / クリック 20世紀] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%8B%A5%E6%A7%BB%E7%A6%AE%E6%AC%A1%E9%83%8E 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月4日 (火) 11:23。]     

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