シベリア出兵

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[[Image:4 U.S. Wolfhounds on parade in Vladavostock, August 1918.jpg|thumb|300px|1918年、ウラジオストクでパレードを行う各国の干渉軍]] '''シベリア出兵'''(シベリアしゅっぺい、Siberian Intervention)とは、[[1918年]]から[[1924年]]までの間に、[[連合国]]([[大日本帝国]]・[[イギリス帝国]]・[[アメリカ合衆国]]・[[フランス]]・[[イタリア]]など)が[[第一次世界大戦]]から離脱した[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア共和国]]に対し、'''「革命軍によって囚われた[[チェコ軍団]]を救出する」'''という名目で[[シベリア]]に出兵した事件。 == 背景 == [[第一次世界大戦]]で[[ヨーロッパ]]は二つに割れ、[[ドイツ帝国]]・[[オーストリア・ハンガリー帝国]]などの[[中央同盟国|同盟国]]と、[[フランス]]・[[ロシア帝国]]・[[イギリス]]などの[[連合国|協商国]]が争っていた。戦争が長期化し、近代化の遅れていたロシアは開戦後すぐに弾薬が尽き、食料は不足し、財政は破綻した。困窮したロシア市民の支持を得て、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]の指導する[[赤軍]]が勢力を増し、[[1917年]]10月に世界最初の[[社会主義]]革命である[[ロシア革命]]が起きる。[[1918年]]に帝国は崩壊し、[[1922年]]には[[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連邦]]が発足した。 ロシア共和国は単独でドイツ帝国と講和条約([[ブレスト・リトフスク条約]])を結んで連合国から離脱する。このため、ドイツは東部戦線の兵を[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]に集中することができ、フランス・イギリスは大攻勢をかけられて苦戦した。連合国はロシアの極東[[ウラジオストク]]に「チェコ軍捕囚の救出」を名目に出兵し、ドイツの目を再び東部に向けさせようとした。同時にロシアの社会主義革命勢力に対して楔を打ち込む意味もあった。 すでに西部戦線で手一杯になっているイギリス・フランスに大部隊をシベリアへ派遣する余力はなかった。連合国は地理的に近く、本大戦に陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対して、シベリア出兵の主力になるように打診した。アメリカは日本がシベリアに勢力を伸ばすのではないかと警戒したが、日本の[[寺内内閣]]は当初慎重であった。のちに[[総理大臣]]となる[[原敬]]は[[臨時外交調査会]]で、アメリカとの協力なしには出兵は難しいと主張し、アメリカと共同歩調をとるということで派兵を決定した。この日米の決定に際して、フランスの首相[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]は「ようやく重い腰をあげた」として賛辞を送った。 当時の日本側の事情として、ロシアに地理的に近く、さらに日本の利権が絡んだ[[満州]]、日本統治下の[[朝鮮半島]]は直接ロシアと国境を接していた。日本軍はこれらの地域に[[社会主義]]の政治的[[イデオロギー]]が波及することを未然に阻止したかった。また、日本の[[政体]](国体)である[[立憲君主制]]・[[天皇制]]とは相容れないソビエト政権の成立には強い危機感があった。日本が設立しようとした沿海州共和国・極東共和国は非社会主義ロシア人([[白系ロシア人]])に支配させ、この地をソ連と[[中国大陸]]の緩衝帯にしようとしたとの見方もある。 == 経過 == [[画像:Vladivostok intervention.jpg|thumb|250px|シベリア出兵を伝える日本の画報(救露討独遠征軍画報)]] アメリカは1918年の夏に出兵を決定した。上記のようにアメリカと共同歩調を取ることを明言していた日本もこれにあわせて出兵を決定し、連合軍は[[ウラジオストク]]に上陸した。連合軍の中核であるイギリスやフランスは西部戦線に兵力を割かれていたのでそれ程兵力は多くなく、兵力の大半は日本やアメリカの軍隊であった。 ところが翌[[1919年]]、ドイツ帝国で革命が起こってあっけなく停戦すると、連合国はシベリア介入を続ける目的がなくなり、こぞって撤兵した。しかし日本軍だけは、アメリカ軍やイギリス軍が撤退しても駐留を続けた。連合国の目的はドイツの目を東部に向けさせることであったが、[[大日本帝国陸軍]][[参謀本部 (日本)|参謀本部]]の考えは当初から日本政府のそれとも異なっていた。 日本陸軍は当初の[[ウラジオストク]]より先に進軍しないという規約を無視し、[[赤軍]]のボルシェビキ、ゲリラや民兵との戦闘を繰り返しながら、[[樺太|北樺太]]、[[沿海州]]や[[満州]]を[[鉄道]]沿いに攻略し、シベリア奥地の[[バイカル湖]]東側までを占領した。各国よりも数倍多い兵士を派遣し、各国が撤退した後もシベリア駐留を続けたうえ、占領地に[[沿海州共和国]]、[[極東共和国]]の建設を画策。日本はロシア共和国ばかりでなく、イギリスやアメリカ、フランスなどの連合国からも領土的野心を疑われた。 1920年には、[[アムール川]]の河口にある[[ニコラエフスク・ナ・アムーレ|ニコライエフスク]]港(尼港)において、ロシアの共産[[パルチザン]]によって日本軍守備隊と日本人居留民が虐殺されるという[[尼港事件]]が発生した。一方、日本軍および日本軍に支援された白軍も掃討戦をおこなった結果、村落焼き討ち、民間人虐殺がおこなわれ、シベリア住民の日本軍に対する感情は悪化していった。 [[国際連盟]]設立などによる国際協調の流れのなか、日本政府は連合国からもシベリア政策を批判され、日本国内においても、[[加藤高明]][[憲政会]]総裁が[[1921年]][[1月24日]]に[[貴族院 (日本)|貴族院]]でシベリアからの撤兵を主張する演説を行うに至った。同年の[[東方会議_(1921年)|東方会議]]において撤退が決定され、翌[[1922年]][[6月24日]]の政府声明により撤兵を開始。[[1925年]][[5月15日]]の[[樺太|北樺太]]撤収を最後に全軍の撤兵を完了させた。 === ポーランド孤児の救済 === 1795年の第3次[[ポーランド分割]]によって、[[ポーランド人]]は祖国を[[ロシア帝国]]によって併合されてしまい、ロシア帝国政府はポーランド人[[政治犯]]などを多数シベリアに流刑したため、ロシア革命当時のシベリアには相当数のポーランド人がいた。その後、ロシア革命の混乱と1918年11月のポーランドの独立によって、多数の'''ポーランド孤児'''('''シベリア孤児'''と言われることもある。)がシベリアに取り残されてしまったが、その保護のために力を貸す国はなかった。 その惨状を知った日本([[日本赤十字社]]が主体となった)はシベリア出兵中にポーランド孤児を救出し、彼等を祖国に帰還させた。1920年(大正9年)7月に第1次ポーランド孤児救済が、1922年(大正11年)8月に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われた。[[貞明皇后]]も孤児たちを訪問している。この活動によって約800名のポーランド孤児が祖国への帰還を果たした。シベリア出兵に従事し孤児を救った51名の日本軍[[士官|将校]]に対し、ポーランド政府は1925年にVirtuti Militari勲章を授与して、その功績に報いた。 == 参考文献 == == 関連項目 == *[[ロシア内戦]] *[[日露関係史]] *[[黒島伝治]](シベリア出兵を題材にした作品の多い小説家) [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%87%BA%E5%85%B5 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月27日 (日) 15:03。]     

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