大隈重信

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{{日本の内閣総理大臣 |[[第1次大隈内閣|8]]・[[第2次大隈内閣|17]] |大隈 重信<br />(おおくま しげのぶ)<br />[[Image:Shigenobu Okuma 5.jpg|200px]] |[[1838年]][[3月11日]]<br />(旧暦[[天保]]9年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]) |[[肥前国]][[佐賀藩]] |佐賀藩蘭学寮 |[[従一位]][[大勲位]][[侯爵]] |[[外務大臣 (日本)|外務大臣]] |本文参照 |第1次:<br />[[1898年]][[6月30日]]|[[1898年]][[11月8日]] 第2次:<br />[[1914年]][[4月16日]]<br /> ‐ [[1916年]][[10月9日]] |- |- |第1次:[[憲政党]]<br />第2次:[[立憲同志会]] |[[1922年]]([[大正]]11年)[[1月10日]]}} '''大隈 重信'''(おおくま しげのぶ、[[天保]]9年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]([[1838年]][[3月11日]]) - [[大正]]11年([[1922年]])[[1月10日]])は、[[日本]]の[[武士]]・[[佐賀藩]]士、[[政治家]]、[[教育者]]。第8代、第17代[[内閣総理大臣]]。[[位階]][[勲等]]は[[従一位]][[大勲位]]。[[爵位]]は[[侯爵]]。東京専門学校(現:[[早稲田大学]])の創立者。幼名は'''八太郎'''。 ==略歴== ===生い立ち=== [[画像:Shigenobu Okuma.jpg|thumb|left|180px|志士時代の大隈重信]] 佐賀城下会所小路(現:[[佐賀市]]水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。重信は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『[[葉隠]]』に基づく[[儒教]]教育を受けるが、これに反発し、[[安政]]元年([[1854年]])に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年([[1855年]])に、弘道館を南北騒動をきっかけに退学、後に復学を許されたが戻らず、この頃、枝吉神陽から国学を学ぶ。安政3年([[1856年]])、佐賀藩蘭学寮に転じた。のち[[文久]]元年([[1861年]])、[[鍋島直正]]にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。 大隈は、[[長州藩]]への協力および[[江戸幕府|幕府]]と[[長州藩|長州]]の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するには至らなかった。そして[[慶応]]元年([[1865年]])、佐賀藩が長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師[[グイド・フルベッキ]])にて、[[副島種臣]]と共に教頭格となって指導に当たった。またフルベッキに[[英語]]を学んだ。 このとき[[新約聖書]]や[[アメリカ独立宣言]]を知り、大きく影響を受けた。また[[京都]]や長崎に往来して、[[尊王]]派として活動した。慶応3年([[1867年]])、副島と共に[[征夷大将軍|将軍]] [[徳川慶喜]]に[[大政奉還]]を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛の上、佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた。 ===明治維新=== [[明治維新]]に際しては[[明治]]元年([[1868年]])、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。[[キリスト教]]禁令についての[[イギリス]]公使[[ハリー・パークス|パークス]]との交渉などで手腕を発揮するとともに、明治2年([[1869年]])からは会計官副知事を兼務し、[[高輪談判]]の処理や[[新貨条例]]の制定などの金融行政にも携わった。明治3年([[1870年]])に[[参議]]に補され、明治6年([[1873年]])5月、大蔵省事務総裁、10月から参議兼[[大蔵卿]]になった。大隈の下には[[伊藤博文]]や[[井上馨]]といった若手官僚が集まり、[[木戸孝允]]とも結んで近代国家の早期建設を謳って[[大久保利通]]らを牽制した。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「[[築地]][[梁山泊]]」と称した。[[民部省]]を吸収合併させて大蔵省を一大官庁とした大隈は[[地租改正]]などの改革に当たるとともに、[[殖産興業]]政策を推進した。[[征韓論]]には反対し、その後、殖産興業と財政改革という点から、明治8年([[1875年]])10月には、大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に提出したりしている。また、単独でも財政の意見書を提出している。さらに、西南戦争による支出費用の調達とその後の財政運営に携わった。[[自由民権運動]]に同情して国会開設意見書を提出して早期の[[憲法]]公布と[[国会]]の即時開設を説く一方、[[開拓使官有物払下げ事件|開拓使官有物払下げ]]を巡りかつての盟友である伊藤ら薩長勢と対立、大隈自身の財政上の失政もあり、明治14年([[1881年]])10月12日、参議を免官となった。 いわゆる[[明治十四年の政変]]である。大隈は、10月15日付で辞表を提出した。明治13年(1880年)には、[[会計検査院]]創設のための建議をおこなっている。 === 下野後 === 野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、明治15年([[1882年]])3月には[[小野梓]]とともに[[立憲改進党]]を結成、[[尾崎行雄]]、[[犬養毅]]、[[矢野龍渓|矢野文雄]](龍渓)らが馳せ参じた。また10月、小野梓や[[高田早苗]]らと[[東京専門学校]]を東京郊外の早稲田に開設した。 明治20年([[1887年]])、[[伯爵]]に叙された。 === 外務大臣から総理大臣へ === 大隈の外交手腕を評価する伊藤は、[[不平等条約]]改正のため、政敵である大隈を[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]として選び、明治21年([[1888年]])2月より、大隈は[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に就任した。 同年 [[黒田清隆]]が組閣すると大隈は留任するが、反対派の抵抗に遭い、明治22年([[1889年]])には国家主義組織[[玄洋社]]の一員である[[来島恒喜]]に爆弾による襲撃を受け、右脚を失うとともに、辞職した。明治29年([[1896年]]) [[第2次松方内閣]](「[[松隈内閣]]」(しょうわいないかく)と呼ばれる)で再び外相に就任するが[[薩摩藩|薩摩]]勢と対立して明治30年([[1897年]])に辞職した。 明治31年([[1898年]])6月に[[板垣退助]]らと[[憲政党]]を結成し、同年6月30日に[[藩閥|薩長藩閥]]以外からでは初の[[内閣総理大臣]]を拝命、日本初の[[政党内閣]]を組閣した。俗に言う「[[隈板内閣]]」(わいはんないかく)である。しかし旧[[自由党 (日本)|自由党]]と旧[[進歩党 (日本)|進歩党]]の間に対立が生じ、また文相[[尾崎行雄]]が[[共和演説事件]]をきっかけに辞職すると後任人事をめぐって対立はさらに激化。 後任文相に旧進歩党の[[犬養毅]]が就いたことに不満を持った旧自由党の[[星亨]]は、一方的に[[憲政党]]の解党を宣言、新たな憲政党を結成した。結局、組閣からわずか4ヶ月後の11月8日、内閣は総辞職する羽目となり、大隈は旧進歩党をまとめて[[憲政本党]]を率いることとなった。明治40年([[1907年]])、いったん政界を引退し、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としての[[ヨーロッパ]]文献の日本語翻訳事業、[[南極]]探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。 [[第一次護憲運動]]が興ると、政界に復帰した。大正3年([[1914年]])には[[シーメンス事件]]で辞職した[[山本権兵衛]]の後を受けて、2度目の内閣を組織した。与党は[[立憲同志会]]、[[大隈伯後援会]]および[[中正会]]である。7月、[[第一次世界大戦]]が起こると、[[中国大陸]]での権益確保を求めて、[[8月23日]]に対[[ドイツ|独]]宣戦布告をおこなった。翌・大正4年([[1915年]])には外相 [[加藤高明]]と共に[[対華21ヶ条要求]]を提出した。 しかし内相 [[大浦兼武]]の汚職事件([[大浦事件]])が起こると、8月には自身が外務大臣を兼任するなどして内閣を改造するも、内閣は次第に国民の支持を失っていった。さらに内閣に対する元老の圧迫が激しさを増し、大正5年([[1916年]])10月ついに内閣は総辞職、あわせて政界から完全に引退した。退任時の年齢は満78歳6ヶ月で、これは2008年現在も日本の歴代総理大臣中最高齢の記録である。 [[画像:大隈重信墓1.jpg|200px|thumb|護国寺(東京都文京区)内 大隈重信墓]][[画像:大隈重信墓2.jpg|200px|thumb|大隈重信墓]] この間、大正5年7月に[[侯爵]]に叙された。大正11年(1922年)1月10日に早稲田で死去、1月17日に自邸での告別式ののち、[[日比谷公園]]で未曾有の「国民葬」が催された。その名が示すように式には約30万人の一般市民が参列、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。この三週間後に同じ日比谷公園で行われた[[山縣有朋]]の「[[国葬]]」では、山縣の不人気を反映して政府関係者以外は人影もまばらで、翌日の[[東京日日新聞]]は「民抜きの国葬で、幄舎の中はガランドウの寂しさ」と報じたほどだった。墓所は佐賀市の[[龍泰寺]]と[[東京都]][[文京区]]の[[護国寺]]にある。 ==大隈の人となり== 伊藤博文をライバル視していたことがよく知られており、以下のようなエピソードが伝えられている。 *[[1897年]]に[[大磯町|大磯]]に別邸を構えたが、この別荘から西へわずか60メートルの地所には、当時、伊藤が本邸を構えていた。様々な政治上の軋轢があった相手との近い距離のためか、大磯別邸はあまり使用されず、[[1907年]]には別邸を新たに[[国府津]]に構え、わずか10年で大磯を引き払っている。 *大隈と同郷で、かれに目をかけられた[[行政法]]学者[[織田萬]]のエッセイ集『法と人』([[1943年]]、春秋社教養叢書)によると、早稲田大学開学式典で伊藤が「大隈君とはいろいろ競ってきたが、教育機関を自ら作ったという点ではかなわない」と述べたことに満悦したという。また伊藤がハルビンで暗殺されると、「なんと華々しい死に方をしたものか」と悲しみつつも本気でうらやんだとのことである。 [[1919年]]、病床にあった[[成瀬仁蔵]]を励ますために、トマトやメロンをもって見舞った<ref>木村時夫 『知られざる大隈重信』 集英社 2000年、237頁</ref>。 口癖は「何々であるんである」。時には「何々であるんであるんである」となる。 あちこちに講演に招かれて人気があったが、禁酒団体と酒造業組合を一日のうちにはしごしたことがあるという。 極めて合理的な考えを持っており、英雄を認めず、そのためか[[西郷隆盛]]を全く認めていない{{要出典}}。一方、西郷も大隈を「俗吏」とみなして嫌っていたとされ、特に[[1871年]]の西郷上京の際に書かれた「西郷吉之助意見書」では名指しこそ避けたものの大隈の政策を「武士のやること」ではないと切捨て、更に同年に西郷の推挙で大蔵省入りした[[安場保和]]が大隈への弾劾意見書を提出したこと(西郷も大久保もこれには反対したために却下された)によって、大隈の西郷への反感は抜きがたいものになったとされる。しかし、大隈は西郷について、「人情には極めて篤かった」とも述べている<ref>木村時夫 『知られざる大隈重信』 113頁</ref>。 [[2007年]]、[[1915年]]に[[蝋管]]([[蓄音機]]の初期型)に録音された総選挙応援演説の肉声が、[[東京大学|東大]]先端科学技術センターにより公開された。また、日本初の地方遊説を行った首相でもある。 == 栄典 == *[[大正5年]]7月14日:[[大勲位菊花大綬章]] *[[大正11年]]1月10日:[[大勲位菊花章頸飾]] == 系譜 == *'''大隈氏''' *: 明確ではないが[[菅原道真]]の末裔を称する家泰が[[筑後国]]大隈村(現:[[福岡県]])に土着し姓を大隈と改めその孫・孝家の代に[[豊後国]]中津江村(現・[[大分県]])に移住しやがて[[鍋島氏]]に仕えたという。[[家紋]]は丸に剣桔梗。 <pre> 家泰…(略)…満辰━信保━重信=英麿=信常┳信幸┳和子                      ┗豊子┣治子                         ┣明子                         ┗里砂 </pre> *大隈の長女・熊子の幼名は犬千代である<ref>大園隆二郎 『大隈重信』 西日本新聞社 2005年、178頁</ref>。 == 彫像 == 大隈重信は政治家と教育者という2つの顔を持っていたため、主に[[大礼服]]姿のものとガウン姿のものに分けられる。 === 早稲田大学の大隈重信像 === [[画像:Ookumadouzou.jpg|thumb|220px|大隈重信像]] 早稲田大学西早稲田キャンパスには2体の大隈像があり、有名なガウン姿の立像は[[1932年]][[10月17日]]、早稲田大学創設50周年と大隈重信没後10回忌を兼ねて作られた。右足を失った後の姿のものであるため、杖をついているのが特徴である。製作者である[[彫刻家]]の[[朝倉文夫]]は大隈像を3回制作しているが、この立像は2回目のもの。高さは298cmあり、受験期には[[受験生]]により[[賽銭]]が投げ込まれることも少なくない。 また、あまり知られていない大礼服姿の大隈像は[[大隈講堂]]内にあり、制作者は朝倉文夫で1回目に制作した大隈像である。元々は現在ガウン姿の大隈像がある位置にあったが、大隈講堂内に移設された。 === 国会議事堂の大隈重信像 === [[国会議事堂]]にある大隈像は、中央広間1階に日本初の[[政党]][[内閣]]を樹立した功績を称え、板垣退助、伊藤博文とともに飾られている。[[1938年]][[2月]]に[[大日本帝国憲法|明治憲法]]発布50周年を記念して作られた。 === 大隈記念館の大隈重信像 === [[佐賀県]][[佐賀市]]にある大隈記念館内にある大隈像は[[1988年]][[4月]]に大隈重信の生家跡地に建てられた。大礼服姿の立像で、高さは180cmあり、実際の大隈重信の[[身長]]と同じとされている。この立像は大隈重信が右足を失う前の姿のものである。 == 関連項目 == *[[佐賀の七賢人]] *[[大隈信常]] *[[大隈信幸]] *[[大隈講堂]] *[[大隈財政]] *[[大隈内閣]] **[[第1次大隈内閣]] **[[第2次大隈内閣]] *[[早稲田大学]] *[[早稲田中・高等学校]] *[[早稲田実業学校]] *[[早稲田大学高等学院]] *[[早稲田大学本庄高等学院]] == 脚注 == <references /> == 外部リンク == {{Commons|Category:Okuma Shigenobu}} *[http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/33.html 大隈重信 | 近代日本人の肖像] *[http://www.waseda.jp/jp/okuma/index.html 早稲田大学サイト 「創設者 大隈重信」] *[http://www.ndl.go.jp/modern/cha3/description03.html 第2次大隈重信内閣成立|史料にみる近代日本] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E9%9A%88%E9%87%8D%E4%BF%A1 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年6月17日 (火) 14:30。]                           

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