イルティッシュ号投降事件

「イルティッシュ号投降事件」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

イルティッシュ号投降事件」(2009/03/07 (土) 23:01:50) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

'''台湾沖航空戦'''(たいわんおきこうくうせん, [[1944年]][[10月12日]] - [[10月16日]])は、[[太平洋戦争]]における戦闘の1つ。[[レイテ島の戦い]]に先立って[[台湾]]から[[沖縄]]にかけての航空基地を攻撃した[[アメリカ合衆国海軍|アメリカ海軍]][[空母機動部隊]]を、[[日本軍]]の基地航空部隊が迎撃した。アメリカ軍には損害は軽微であったが、日本軍は戦果を誤認し[[大本営発表]]を行い、続いて生起した[[レイテ沖海戦]]に重大な影響を与えた。 == 背景 == 1944年6月、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]は、[[マリアナ沖海戦]]に敗北して空母機動部隊の主力を喪失したため、今後日本近海に迫るであろうアメリカ軍に対する防衛作戦で使用する航空兵力は基地航空部隊を主力とした。日本海軍は航空戦力の中核として各部隊から優秀な搭乗員を抽出し、特別編成の「T攻撃部隊」を編成した。Tとは台風を意味し、敵が航空機を運用できず上空が無防備となる夜間や悪天候の時を狙って索敵機が高空より照明弾を投下し、これに照らし出された敵艦隊に雷撃機が殺到、殲滅すべく訓練を積んだ精鋭部隊であった。 アメリカ軍は[[マリアナ諸島]]の占領に成功し、次の攻略目標を[[フィリピン]]奪還に定め、その進攻計画として最終的に[[キングII作戦]]を実行した。アメリカ軍の最初の上陸予定地点は[[レイテ島]]であったが、同作戦は幾つかの段階に分かれ、上陸作戦に先立って周辺空域の制空権・制海権を確保するため、アメリカ海軍空母機動部隊は[[沖縄]]・[[台湾]]・フィリピン北部にかけて点在していた日本軍の航空基地を空爆した。10月5日にハルゼーが太平洋艦隊司令長官[[チェスター・ニミッツ]]から受けた命令は「台湾の軍事施設と港湾施設へ恒久的損傷を与えよ」というものであった(カール・ソルバーグ『決断と異議』P94)。 == 参加兵力 == === 日本軍 === *第一航空艦隊(司令長官:[[寺岡謹平]]中将) *第二航空艦隊(司令長官:[[福留繁]]中将) 日本海軍の部隊は制度上「艦隊」と称するが、このときの両部隊は陸上基地の航空機部隊である。 *第一機動艦隊(司令長官:[[小沢治三郎]]中将) ** 艦載機のみ。陸上基地より作戦。 *第五艦隊(司令長官:[[志摩清英]]中将) ** 誤報戦果により残敵掃蕩の任を帯びて日本本土より出撃したが、空振りに終わる(下記)。 === アメリカ軍 === *第3艦隊(司令長官:[[ウィリアム・ハルゼー]]中将) **第38任務部隊(司令官:[[マーク・ミッチャー]]中将) - [[航空母艦|空母]]17隻他総数95隻。航空機約1,000機 ***[[正規空母]]「[[エセックス (空母)|エセックス]]」「[[ホーネット (CV-12)|ホーネット]]」「[[フランクリン (空母)|フランクリン]]」「[[レキシントン (CV-16)|レキシントン]]」「[[ワスプ (CV-18)|ワスプ]]」(以上[[エセックス級航空母艦|エセックス]]級) ***[[正規空母]]「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」 ***[[軽空母]]「[[インディペンデンス (CVL-22)|インディペンディンス]]」([[インディペンデンス級航空母艦|インディペンデンス級]])他 == 戦闘経過 == === 10月10日・11日 === 1944年10月10日、アメリカ軍第38任務部隊が沖縄本島並びに周辺の島々の日本軍拠点に対して航空攻撃を行った。このときの空襲は沖縄本島では[[十・十空襲]]として記録されている。翌10月11日、アメリカ艦隊は南下してフィリピン諸島を攻撃した。 === 10月12日 === 10月12日、上空に低い雲が垂れ込める中、第3艦隊は台湾に延べ1,378機を投入して大空襲を行った。同日、日本軍はT攻撃部隊を投入し、アメリカ艦隊への攻撃を開始する。海軍[[爆撃機]]「[[銀河 (爆撃機)|銀河]]」や[[艦上攻撃機]]「[[天山 (艦上攻撃機)|天山]]」、陸軍爆撃機「[[四式重爆撃機|飛龍]]」などからなる航空機90機余りが出撃したが、照明弾による照明が雲のためまったく不十分であり、攻撃に手間取った。そこへアメリカ軍の対空射撃を受け54機が未帰還となった。一方、第3艦隊の搭乗員は翌日の攻撃の事もあり、禄に睡眠が取れなかったと言う。 === 10月13日 === 第3艦隊は延べ947機を攻撃の為出撃させた。なお、太平洋艦隊司令部にあげられたウルトラ情報を回送されたことで、第3艦隊は[[豊田副武]][[連合艦隊司令長官]]が台湾におり、反撃を指示して兵力の集結を図っていることを察知していた。このため、新竹にも攻撃が加えられた。ただし、[[マーク・ミッチャー]]は数が多いので全ての飛行場を破壊するのは不可能かもしれないと述べたと言う。 === 10月14日 === 10月14日は、第3艦隊は転送されたウルトラ情報により日本軍機が集結しつつあることを知った。また、前日被害を受けたキャンベラの待避を掩護すると決めたため、台湾に3群、北部ルソンに1群を向け早朝より攻撃を行ったが前日より更に早く空襲を切り上げたため、出撃機は146機に減少し、喪失機の増加から日本軍の抵抗が強化されつつあると判断した。日本側は敵艦隊は前日までの攻撃によって防御力を喪失したと判断して380機による航空総攻撃を敢行し、昼間にも攻撃を行った。この攻撃は昼間に行われたため、敵艦隊の上空を守る艦載機による激烈な邀撃と対空射撃をうけ、240機が未帰還となった(柳田が防衛庁戦史部の調査結果として引用した帰還数は244機<!--『零戦燃ゆ』5巻P205-->)。この日を以って第3艦隊は台湾への攻撃を打ち切った。 作戦を予定通り終えた第3艦隊は17日頃にはレイテ島近海に集結しつつあった第7艦隊のレイテ島上陸を支援するために、14日夜にはフィリピン東方沖に南下をはじめた。ここで艦隊は2つのグループに分かれ、第4群は15日よりマニラ周辺の空襲を開始し、第2群と第3群は燃料補給の為に給油海域に後退しつつあった。第1群は台湾東方沖に踏みとどまった。アメリカ軍は戦果を赫赫と伝える日本の放送を傍受し、第3艦隊はニミッツが中継した通信傍受情報を受け取り、虚報を信じ込んでいる事を把握していた。そのため、被害を受け、味方の魚雷で処分されてもおかしくなかった2隻の巡洋艦の曳航を命じ、これを囮として、追撃をかけてくるであろう日本軍に更なる打撃を与える準備をしていた。実際、志摩中将率いる第五艦隊が遭難中の日本海軍操縦士の救助及び残敵掃蕩のために派遣されることが決まっていた。しかしこの掃蕩方針も、14日にはアメリカ側に漏れていた。 === 10月15日以降 === 日本軍航空隊は16日まで反復して昼夜問わず攻撃を行ったが被害は大きくなるばかりだった。しかし、航空隊からの電文は「空母を撃沈」「戦艦を撃破」といった華々しい大戦果を報告するものばかりだった。 この間、[[大本営]]では前線部隊からの過大な戦果報告を信じて疑わず、そのまま集計して発表したため、大戦果を[[大本営発表]]する結果となった。10月19日、日本軍は「空母19隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻、(駆逐艦、巡洋艦を含む)艦種不明15隻撃沈・撃破」と発表した。アメリカでは、投資家の一部が大本営発表の内容を信じたために、一時株価が大暴落するという事態も発生した。 実際の第3艦隊の物理的損害は、下記のように僅少なものに過ぎなかった。ただし、4日連続で攻撃を継続し、更にフィリピン空襲や防空戦闘も継続していたため、艦隊の将兵には疲労が蓄積しつつあり、第2群は群司令官がハルゼーに具申した窮状を認められバンカー・ヒルが後退した。これにより同群は同艦を欠いた状態でレイテ沖海戦に臨んだ。一方、第1群のワスプや第3群のレキシントンのように具申したものの後退が認められなかった例もあった。ハルゼーの脳裏には士気に及ぼす影響があった。 16日、ハルゼーはニミッツに宛てて「ラジオ東京が撃沈と報じた第3艦隊の全艦艇は、いまや海底から蘇って、目下、敵方へ向けて退去中」という電文を発信した。カール・ソルバーグによればこれはアメリカ側では有名な報告だと言う。 == 敗因分析 == 戦後、この戦いを取り上げた研究者などにより、敗因分析が進められた。最も触れられる点が多いのはT部隊による誤報の訂正がなされず、最終的に日本中がその戦果を事実であると信じ込んでしまった事である。そして、そのような結果を招いた過程について各人が評価を行っており、誤報の原因の重み付けなど細部で異なりを見せる部分もある。[[柳田邦男]]は、著書にて公刊戦史([[戦史叢書]])が多くの資料を提供していると述べ、その他に航空隊の[[戦闘詳報]]を挙げ、下記の3つに区分して分析している<!--『零戦燃ゆ』5巻P191-193-->。 # 目撃の問題 # 申告と記載の問題 # 司令部の判断の問題 また、概要として言われるのは、もともと、航空戦の戦果認定は過大になる傾向があったことである。しかし、この戦いの日本軍の誇大戦果は取り分け大きなものであった。参加した日本軍の前線部隊では、夜間雷撃と言う戦果確認が困難な手法を用いて攻撃を行った。そのため、味方機が撃墜された際の火柱を敵艦のものと誤認したり、炎上した敵艦を別々の機が重複して数えたりしたと推定されている(生還者の証言もあるが、多くが戦死している為推定によらざるを得ない面がある)。さらには緊迫した状況下で兵は「撃沈できたかわからない」とは言えず、上官は「撃沈したとは限らない」とは言えない精神的重圧下にあった。華々しい大戦果の報告はこのような環境で生じたものだったとされる。 カール・ソルバーグは米軍側から見た印象として12日夜の一式[[陸上攻撃機]]による攻撃を挙げ、組織的な空襲と言うよりは調整の取れない散発的なものである<!--大意『決断と異議』P93-->というレーダー員の感想を示している。 == 大本営発表の推移 == ;昭和19年10月12日17時20分 :「本10月12日7時頃より優勢なる敵機台湾に来襲、15時半頃彼我交戦中なり。我部隊の収めたる戦果中13時までに判明せる撃墜敵機約100機なり」 ;昭和19年10月13日11時30分 :「一、我が航空部隊は10月12日夜台湾東方海面に於て敵機動部隊を捕捉し夜半に亙り反覆之を攻撃せり。我方の収めたる戦果中現在迄に判明せるもの左の如し」 :*撃沈 航空母艦1隻 艦種不詳1隻 :*撃破 航空母艦1隻 艦種不詳1隻 :「二、我方若干の未帰還機あり」 ;昭和19年10月14日17時 :「我航空部隊は爾後引続き台湾東方海面の敵機動部隊を猛攻中にして現在迄に判明せる戦果(すでに発表せるものを含む)左の如し」 :*轟撃沈 航空母艦3隻 艦種不詳3隻 駆逐艦1隻 :*撃破 航空母艦1隻 艦種不詳1隻 ;昭和19年10月15日15時 :「台湾東方海面の敵機動部隊は昨14日来東方に向け敗走中にして、我が部隊は此の敵に対し反覆猛攻を加へ戦果拡充中なり。現在までに判明せる戦果(既発表のものを含む)左の如し」 :*轟撃沈 航空母艦7隻 駆逐艦1隻(註)既発表の艦種不詳3隻は航空母艦3隻なりしこと判明せり :*撃破 航空母艦1隻 戦艦1隻 巡洋艦1隻 艦種不詳11隻 ;昭和19年10月16日15時 :「我部隊は潰走中の敵機動部隊を引続き追撃中にして現在迄に判明せる戦果(既発表の分を含む)左の如し」 :*轟撃沈 航空母艦10隻 戦艦2隻 巡洋艦3隻 駆逐艦1隻 :*撃破 航空母艦3隻 戦艦1隻 巡洋艦4隻 艦種不詳11隻 ;昭和19年10月17日16時 :「我航空部隊は明16日台湾東方海面に於て新たに来援せる敵機動部隊を追撃し、航空母艦、戦艦各1隻以上を撃破せり」 ;昭和19年10月19日18時 :「我部隊は10月12日以降連日連夜台湾及「ルソン」東方海面の敵機動部隊を猛攻し其の過半の兵力を壊滅して之を潰走せしめたり」 :「(一)我方の収めたる戦果綜合次の如し」 :*轟撃沈 航空母艦11隻 戦艦2隻 巡洋艦3隻 巡洋艦若(もしく)は駆逐艦1隻 :*撃破 航空母艦8隻 戦艦2隻 巡洋艦4隻 巡洋艦若は駆逐艦1隻 艦種不詳13隻 :「(二)我方の損害 飛行機未帰還312機」 :「(註)本戦闘を台湾沖航空戦と呼稱す」 ;昭和19年10月21日19時 :「大元帥陛下には本日大本営両幕僚長を召させられ[[寺内寿一|南方方面陸軍最高指揮官]]、[[豊田副武|連合艦隊司令長官]]、[[安藤利吉|台湾軍司令官]]に対し左の勅語を賜りたり」 :「勅語 朕カ陸海軍部隊ハ緊密ナル協同ノ下敵艦隊ヲ邀撃シ奮戦大ニ之ヲ撃破セリ 朕深ク之ヲ嘉尚ス 惟フニ戦局ハ日ニ急迫ヲ加フ汝等愈協心戮力ヲ以テ朕カ信倚ニ副ハムコトヲ期セヨ」 == 損害 == === 日本軍 === *航空機 312機 === アメリカ軍 === *大破:[[キャンベラ (ボルチモア級重巡洋艦)|キャンベラ]](''USS Canberra, CA-70 '') ヒューストン(''USS Houston,CL-81 '') 空母[[ハンコック (空母)|ハンコック]](''USS Hancock, CV-19 '')小破 *航空機89機 搭乗員約100名 == 影響 == 出撃した第五艦隊がほぼ無傷の米艦隊の存在を察知して中央でもはじめて、大戦果の発表内容に疑問が持たれた。そして再調査の結果、戦果はどう甘く見ても空母4隻撃破、撃沈なし程度という結論に到達した。しかし、日本海軍首脳陣は当初の大戦果の報を捨て去ることができず、10月17日にフィリピン攻略に襲来したアメリカ艦隊を「台風から避難中の残存艦隊」であると希望的に観測し、第一遊撃艦隊及び機動部隊に[[捷号作戦]]を発動した。これにより発生した[[レイテ沖海戦]]で、日本海軍は[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]を含む[[戦艦]]3隻、[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]を含む空母4隻、巡洋艦6隻、駆逐艦9隻、航空機180機を喪失した。 戦果誤認の事実を海軍から知らされなかった陸軍は、[[ルソン島]]での迎撃方針を[[レイテ島]]での決戦に変更し、[[第1師団 (日本軍)|第1師団]]、[[第26師団 (日本軍)|第26師団]]をはじめとする決戦兵力をレイテ島へ輸送した。しかし、第1師団を除く大半が輸送途中に空襲を受け、重装備や軍需品を海上で喪失、懸命に積み上げてきた決戦準備は水の泡となった。さらに、ルソン島で兵力が引き抜かれた穴を補うため、台湾から[[第10師団 (日本軍)|第10師団]]をルソン島へ投入、玉突きで沖縄から[[第9師団 (日本軍)|第9師団]]を台湾へ移動させた。こうして結果的に[[沖縄戦]]での戦力不足の原因ともなった。 [[大本営]]情報参謀であった[[堀栄三]]の回想によれば、台湾沖航空戦中にたまたま鹿児島に滞在していたところ、鹿屋で実際の航空兵から戦果確認方法について聞き取り調査を行い内容に疑問を持ち、「当該戦果は重巡数隻程度と推測」と戦闘中に既に大本営情報課に連絡し、その後情報課から作戦課へ報告がされたが、省みられることがなかったという記録がある。この戦果が虚報であることはフィリピンの[[山下奉文]]大将に出張時に報告され、現場と、虚報を前提にして作戦立案した大本営との方針対立を招く一因となった。 なお、この海戦の報道以降「[[第3艦隊 (アメリカ軍)|第3艦隊]]」とか「[[第5艦隊 (アメリカ軍)|第5艦隊]]」、「第58任務部隊」などという記述が見受けられるようになったが、第3艦隊と第5艦隊が単にトップと幕僚と一部艦船の差異だけで実質同一艦隊であるということに、日本海軍情報部は気付いていた。1944年10月11日の電報で各艦隊司令長官宛に通知している。しかし、当時の海軍軍人を含む大部分の日本人は、第3艦隊と第5艦隊を別と認識していたようである。海戦の翌年、第58任務部隊(第38任務部隊)が[[硫黄島の戦い|硫黄島攻略戦]]援護で関東方面を空襲した際の報道にも、「台湾沖航空戦で第3艦隊が潰滅した後、急遽残存艦船を以て第5艦隊を編成し・・・」という新聞記事もある。 == 戦後 == 柳田はアメリカの戦史研究家サミュエル・モリソン([[:en:Samuel Eliot Morison]])は、『モリソン戦史』(History of United States Naval Operations in World War II)から、日本軍の空襲を最も激しい規模であると評価しつつ、「わが空母部隊の防御力が、、自らを護るのに十二分であることを、六月に続いて再度立証した」という一文を紹介している(『零戦燃ゆ』5巻P223)。 作戦終了後、海軍軍令部のトップが集まり作戦の結果を精査する会議が行われた。4人がその場に参加しており、その内の1人が約50年後にNHKの製作したテレビ番組『幻の大戦果 大本営発表の真相』のインタビューに答えている。各質問に明瞭に答えていたが、この会議で話し合われた内容について問われると、「覚えていない。そういうこともある」と非常に苦悶に満ちた表情を見せて答えていた。 == 参考文献 == 本文でも述べたように、この戦いは[[レイテ沖海戦]]の前哨戦であり、作戦上の位置付けも日米共そのようになっている。従って下記のもののほか、同海戦をテーマとした文献にはこの戦いに関する記述が多く見られる(詳細は[[レイテ沖海戦]]他の参考文献を参照)。 * [[大井篤]]「第7章 南方ルート臨終記」内「25 台湾沖航空戦祝盆の陰に」『海上護衛戦』学研M文庫ISBN 4-05-901040-5(2001年) ** 初出1953年、以後1975年、1983年、1992年にも再版 * [[防衛研究所|防衛研修所]]戦史室『[[戦史叢書]]37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで』[[朝雲新聞]]社(1970年) * [[実松譲]]『日米情報戦記』図書出版社(1980年) * 高野義夫『朝日新聞縮刷版(復刻版)昭和19年10月~12月』日本図書センター(1987年) * [[保坂正康]]『瀬島龍三 参謀の昭和史』文春文庫(1991年) ** 初出1987年。堀の情報を握り潰した件について戦後謝罪を受けたという堀の回想が、P130付近にある。 * [[柳田邦男]]「第二部」『零戦燃ゆ〈5〉』 文春文庫 (1993年) ISBN 4167240130 ** 誤認戦果について資料批判を交えつつその原因について評論。 * [[堀栄三]]「Ⅳ」『[[大本営]]参謀の情報戦記』[[文春文庫]](1996年) ISBN 4167274027 ** 初出1989年 * [[碇義朗]]「台湾沖航空戦・幻の戦果」『レイテ沖海戦 (歴史群像太平洋戦史シリーズ9)』 学習研究社 ISBN 4054012655(1995年) * カール・ソルバーグ著、高城肇訳『決断と異議 レイテ沖のアメリカ艦隊勝利の真相』光人社 ISBN 4769809344 (1999年邦訳初出、原書は1995年単行本) ** 著者はTIME誌記者を経て軍に志願、空中戦闘情報(ACI)将校として南西太平洋軍に勤務、本海戦時は第3艦隊司令部に配属され旗艦ニュージャージーに乗組み従軍した。訳者は光人社創業者。 * 辻泰明・[[日本放送協会|NHK]]取材班『幻の大戦果 大本営発表の真相』日本放送出版協会(2002年)ISBN 4140807296 ** 同名の番組([[NHKスペシャル]]、2002年8月13日総合テレビにて放送)を元にまとめたもの。 * 神野正美『台湾沖航空戦 T攻撃部隊 陸海軍雷撃隊の死闘』(光人社、2004年) ISBN 4769812159 == 関連項目 == * [[十・十空襲]] * [[レイテ沖海戦]] * [[捷号作戦]] * [[キングII作戦]] * [[沖縄戦]] * [[太平洋戦争の年表]] * [[瀬島龍三]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E6%B2%96%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%88%A6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月9日 (水) 08:30。]     
'''イルティッシュ号投降事件'''(イルティッシュごうとうこうじけん)は、[[日本海海戦]]で損傷を受けた[[ロシア]]の[[バルチック艦隊]]の特務艦イルティッシュ号が航行不能となり、[[1905年]]([[明治]]38年)[[5月28日]]午後2時頃、[[島根県]][[那賀郡]][[都濃村]]和木(現・[[江津市]]和木町)で投降した事件。 ==イルティッシュ号== イルティッシュ号は、[[ドイツ海軍]]の[[石炭]]運送船ベリギヤ号(7,500[[トン]])として[[1903年]]にドイツで建造された。[[1904年]]にロシアがドイツより購入し、艦隊に所属させるために200万[[ルーブル]]をかけて改装した。この改装により石炭艙は各種積荷の貯蔵のため乾燥室と石炭室に分割され、名前も西[[シベリア]]を流れる[[オビ川]]左岸の支流[[エルティシ川]](全長4,248km)からイルティッシュ号と命名された。排水量15,000トン、全長180m、全幅17m、最大速度10.5[[ノット]]。兵装として8つの小口径砲を装備していた。 編成乗組員は251名(士官17名、准士官6名、水兵228名)、投降時の乗組員は235名で、ロシア、[[ウクライナ]]、[[ベラルーシ]]、[[タタール]]、ドイツ、[[ラトビア]]、[[エストニア]]等の出身者で構成されていた。なかでも[[ヴォルガ川]]支流の[[オカ川]]、[[カマ川]]流域の艀で働く12~13歳の少年や退役軍人が全体の62%を占めていた。 <!-- 艦長のエルゴミィシエフ公爵は水路学者、酒豪の探検家である。北極海のスピッツベルゲン島は、彼が探検した島だ。 副艦長シュミット中尉は、ポートサイドで病気を理由に退官した。しばらく海軍から遠ざかり、家族のための日を過ごした。その間戦争終結により捕虜の受け渡し等に尽力し、その功績はペトロパブルスク城の跳ね橋に刻まれた。その後革命の雲行きが怪しくなり掛けたころ、黒海艦隊に所属していた。1917年10月、黒海艦隊巡洋艦アウローラ甲板上での、彼の大演説により革命の火蓋が切られた。(10月革命)およそ100年たつ現在、ロシア海軍では(赤い提督)といわれて尊敬されている。 艦長、副艦長二人とも、ニコライ2世が皇太子時代にフリゲート艦で長崎に寄港し、滞在している。 --> 当直将校グラフは事務長をしており、後に彼の航海日誌の海賊版が出回って、後述する金塊騒動の元となった。 ==事件の経緯== ===出港から日本海海戦=== イルティッシュ号は、[[日露戦争]]で[[ロジェストウェンスキー]]中将を司令長官とするバルチック艦隊に加わることになった。しかし、出港準備中に急いで石炭を積み込んだために積荷がバランスを崩して船体が破損し、修繕するのに2ヶ月かかった。このため、1904年10月15日に出港した本隊から約2ヶ月遅れの12月24日に[[バルト海]]の[[リエパーヤ|リバウ]]軍港を出港した。この時点で本隊は[[マダガスカル島]]に停泊していた。リバウ港では、石炭8,000トン、[[ニトロセルロース|硝化綿]]15,000[[プード]]、ピロキシン3,200プード、弾丸若干、水雷、食料、雄牛数頭を積荷した。さらにこれとは別に8,000[[ポンド]]の海軍小切手も渡されれていた。 <!-- 出港後、[[ポートサイド]]に寄港して食料を調達した時点で手持ちの金を使い果たした。さらに、[[ジブチ|ジブチ港]]に寄港中の1905年1月15日、本国からの緊急電報により --> 本隊に合流した後、1905年5月27日の対馬沖海戦に参加した。この海戦で船体の3ヶ所(第二ハッチ右側、[[甲板]]上の社交室、艦前方)に被弾して浸水、[[羅針盤]]も故障、そのうえ蒸気釜も爆発した。このような状況でも艦長はなんとか[[ウラジオストク]]港にたどり着くことを目指し、できる限り日本沿岸を北上することにした。 ===上陸・投降まで=== 5月28日午前10時頃、和木の真島沖にイルティッシュ号が姿を見せた。数日前から強い西風が吹いていた和木の浜には100隻近い漁船が時化を避けて並んでいた。当時、温泉津港と[[浜田港]]を結ぶ航路に[[蒸気船|汽船]]が就航していたが、海が時化ると欠航するなど不定期だったため、この時もゆっくりと北上する大きな船を沿岸から見た人々は汽船か[[病院船]]と思ったという。 イルティッシュ号はさらに北上し、嘉久志(現・江津市嘉久志町)の沖まで来たところで[[江の川]]の河口で時化を避けて並ぶ漁船を発見した。これを[[戦艦]]と間違えたイルティッシュ号は、今来たところを後戻りした。<!-- 佐名目沖まで下った所で時化がおさまるのを待って出漁するシイラ網を敷設水雷と間違えた。 -->しかし艦の損傷による浸水は激しく、再び和木の真島沖に戻った午後2時過ぎ、ついに航行不能となった。このため、陸地から2海里の地点に停泊して6隻のボートを下ろし、重傷者から順番に上陸させることにした。ボートの舳先にはB旗(我は激しく攻撃を受け)とN旗(援助を乞う)、[[白旗]]、赤十字旗、[[ロシアの国旗|ロシアの国旗]]を掲げて投降することとなった。しかし、折からの強い西風に煽られ、そのたびにボートは岩に乗り上げて転覆し、ロシア兵は海に投げ出された。 ===上陸後=== 当初、上陸地点である和木の住民は攻撃ではないかと警戒したが、その後、投降であることがわかると総出で救助にあたった。午後6時にゴムイセフ艦長以下乗組員235名全員の上陸が完了し、その夜は住民から飲食を含めた保護を受けた。また負傷者53名(うち重傷者13名)は、和木と嘉久志の両小学校に収容されて手当てを受けた。重傷者の中には顎の骨が砕けた者、大腿骨を挫傷した者もいた。 翌5月29日未明にイルティッシュ号は沈没。 同日朝、乗組員全員が浜田連隊へ引き渡され、浜田へ護送された。 ==影響== 翌年([[1906年]])から(戦争等による中断をはさみながらも)和木の住民によってロシア兵を偲んだロシア祭りが行われている。 沈没したイルティッシュ号には金塊が積まれていたのではないかという話もあり何度か引き揚げが試みられた。特に[[1959年]]([[昭和]]34年)には大規模な引き揚げ作業が試みられたものの[[機雷]]を発見しただけに終わった。 現在、イルティッシュ号の乗組員の遺留品などは和木公民館に保管されており、近年になりロシアから視察や取材のために和木地区へ訪れる人が多くなっている。 == 参考文献 == *江津市編『江津市誌』下巻(204頁~215頁)1982年 ==外部リンク== *[http://www16.ocn.ne.jp/~wakiko/ilth.htm 江津市 和木公民館]  *[http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=444368004 山陰中央新報2007年10月16日] 「江津市沖に沈没したイ号の船体を撮影」 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E5%8F%B7%E6%8A%95%E9%99%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月20日 (火) 06:19。]     

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。