加藤友三郎

「加藤友三郎」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

加藤友三郎」(2008/08/16 (土) 00:33:01) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

{{日本の内閣総理大臣 |[[加藤友三郎内閣|21]] |加藤 友三郎<br>(かとう ともさぶろう)<br>[[Image:kato.jpg|200px]] |[[1861年]][[4月1日]]<br />([[文久]]元年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]) |[[広島藩]]<br />(現・[[広島市]][[中区 (広島市)|中区]]) |[[海軍大学校]] |[[位階|正二位]]・[[大勲位]]・[[功二級]]・[[子爵]] |[[海軍大将]]<br />[[海軍大臣]] |無 |[[1922年]][[6月12日]]|[[1923年]][[8月24日]] | |8回 | |[[1923年]](大正12年)[[8月24日]] }} '''加藤 友三郎'''('''かとう ともさぶろう'''、[[文久]]元年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]([[1861年]][[4月1日]]) - [[大正]]12年([[1923年]])[[8月24日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]]、[[政治家]]。第21代[[内閣総理大臣]]。[[元帥_(日本)|元帥]][[海軍大将]]・[[位階|正二位]]・[[大勲位]]・[[功二級]]・[[子爵]]。同じく海軍大将であった[[加藤隆義]]は養子。 == 生涯 == === 海軍軍歴と入閣 === [[広島藩]]士、加藤七郎兵衛の三男として[[広島市]]大手町(現在の[[中区 (広島市)|中区]][[大手町 (広島市)|大手町]])に生まれる。父・七郎兵衛は家禄13石の下級藩士だった。 [[明治]]17年([[1884年]])10月、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]7期卒業。明治21年([[1888年]])11月、[[海軍大学校|海大]]甲号学生。[[日清戦争]]に巡洋艦「[[吉野 (防護巡洋艦)|吉野]]」の砲術長として従軍、黄海海戦に大いに活躍した。[[日露戦争]]では、[[連合艦隊]][[参謀長]]兼[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]参謀長として[[日本海海戦]]に参加。[[東郷平八郎]]司令長官と加藤参謀長は弾丸あめあられの中、戦艦「[[三笠 (戦艦)|三笠]]」の艦橋に立ちつくし、弾が飛んできても安全な司令塔には入ろうとせず、兵士の志気を鼓舞した。その後、海軍次官、[[呉鎮守府]][[司令長官]]、第一艦隊司令長官を経て、大正4年([[1915年]])[[8月10日]]、[[第2次大隈内閣]]の[[海軍大臣]]に就任。同年[[8月28日]]、[[海軍大将]]に昇進。以後、加藤は[[寺内正毅]]・[[原敬]]・[[高橋是清]]と3代の内閣で海相に留任。大正10年([[1921年]](大正10)、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]には日本首席全権委員として出席。大正11年([[1922年]])[[6月12日]]、[[政友会]]に支持されて組閣。 === 二人の加藤 === [[image:Katō Tomosaburō.jpg|left|200px|thumb|加藤友三郎]] [[高橋内閣]]が政友会の内紛で瓦解したのを受け、[[元老]]・[[松方正義]]は、過去4代の内閣で[[海軍大臣]]を務めた加藤友三郎を第一候補に、野党[[憲政会]]総裁・[[加藤高明]]を第2候補として推薦した。憲政会は、当時[[衆議院]]で100名くらいの議席しかなく、政友会では、加藤友三郎が辞退すれば高橋への大命再降下もあり得ると考えていたが、第2候補が加藤高明であることを知って、大慌てで加藤友三郎と折衝し、政友会党員の入閣を求めず、無条件で支持することを伝えた。こうして[[加藤友三郎内閣]]が発足した。内閣は、[[貴族院 (日本)|貴族院]]の最大会派の[[研究会 (貴族院)|研究会]]から4人、[[交友倶楽部]]から3人の[[閣僚]]をとったが、交友倶楽部は貴族院における政友会の別働隊であり、このことによって、衆議院での政友会の支持を確保していた。 === シベリア撤兵を完遂 === [[寺内内閣]]の時に、[[ロシア革命]]への干渉戦争([[ロシア革命干渉戦争]])として始められた[[シベリア出兵]]は、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]開催時点で出兵を続けているのは日本だけであった。会議で、日本は条件が整い次第、撤兵することを約束した。内閣は[[6月23日]]の[[閣議]]で、10月末日までの[[沿海州]]よりの撤兵方針を決定し、翌日、政府声明として発表。撤兵は予定通り進められた。残る日露間の焦点は、干渉戦争の中で生み出された[[極東共和国]]を日露間の緩衝国とすることと、日本が保障占領していた[[ロシア]]の北[[樺太]]から撤兵することの2点にあったが、前者は、[[11月15日]]に極東共和国自体が、[[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連邦]](ソ連)に吸収される結果となり、日本の意図は水泡に帰した。 === 海軍の軍縮を実行 === ワシントン会議に全権代表として臨んだ加藤を、各国の記者などはその痩身から「ロウソク」と呼んで侮っていたが、海軍の代表であり[[八八艦隊]]計画の推進者でもあった彼が、米国発案の「五五三艦隊案」を骨子とする軍備縮小にむしろ積極的に賛成した事が「好戦国日本」の悪印象を一時的ながら払拭し、彼は一転して「危機の世界を明るく照らす偉大なロウソク」と称揚されたという。 米国案の五・五・三の比率受諾を決意した加藤は、海軍省宛伝言を口述し、[[堀悌吉]]中佐(当時)に次のように筆記させた。 : 「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。……仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に……結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。」 [[加藤友三郎内閣|加藤内閣]]が実施した海軍軍縮は、現にある主力艦を沈めたりスクラップ化するほか、海軍軍人の整理・削減、[[造兵廠]]職工の大量解雇など本格的なものであったが、反面、条約に規定のない補助艦艇では、拡大強化される面もあった。[[大日本帝国陸軍|陸軍]]でも、将兵・馬匹の整理・縮小、在営期間を短くするなど、兵役期間の短縮などが図られた。当時の[[陸軍大臣]]・[[山梨半造]]の名をとって[[山梨軍縮]]という。 [[アメリカ合衆国|アメリカ]]は、[[九カ国条約]]の厳密な履行のために、日本が[[中国]]での特殊権益を保有することを認めた[[石井・ランシング協定]]の廃棄を要求し、大正12年([[1923年]])[[4月14日]]、協定の廃棄・失効が正式に確認された。[[ワシントン体制]]は、原則として、当該条約発効以降に日本を含む加盟国は、新たに中国への優越的な地位を得ることを認めないという一面を持っていた上、日本側は[[山東省]]の利権を放棄したので、国内では[[協調外交]]への不満が蓄積されていった。 同年[[2月1日]]、ソ連の[[アドリフ・ヨッフェ|ヨッフェ]]駐華全権代表が、[[後藤新平]]日露協会会頭(東京市長)の招きで来日した。加藤も交渉に乗り気で、北樺太問題や[[尼港事件]]で予備交渉が続けられたが、ソ連側の代表交代などがあり、その後、日本で[[関東大震災]]などが起きたため翌年5月まで延期された。 第46[[帝国議会]]後、ワシントン会議の後始末が一応終わったことなどから、首相である加藤が兼任していた海相に[[財部彪]]を起用し、新たな政策を準備していたが、加藤は首相在任のまま大腸ガンの悪化で青山南町の私邸で臨終を迎えた。[[享年]]62歳(公表では[[8月25日]])。そのため、外相[[内田康哉]]が内閣総理大臣を[[内閣総理大臣臨時代理|臨時兼任]]したものの、その8日後に[[関東大震災]]が発生し、日本は「首相不在」という異常事態の中でこの大災害を迎える事になった。 加藤内閣では、世間では政党内閣に逆行する逆転内閣、あるいは政友会との裏のつながりから変態内閣と評されたが、シベリア撤兵・軍縮の実施など、短期間ではあったが重要な課題を遂行した内閣であった。(詳細は''[[加藤友三郎内閣]]''を参照のこと) [[image:P1100065.jpg|200px|thumb|加藤友三郎の銅像跡]] 海軍でも1、2の酒豪で知られ、総理在任中も飲み過ぎで大腸ガンにかかり他界したのでは、とまで言われた。その加藤の亡骸は、元帥府に列せられ、海軍葬に付せられることになった。現在、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[青山霊園]]を墓所として埋葬されている。また、[[広島市]][[南区 (広島市)|南区]]の[[比治山]]に銅像が建てられたが、[[太平洋戦争]]時の金属回収令で取り除かれたままにされており、主なき台座が寂しく立っている。 == 年譜 == * [[明治]]6年([[1873年]])10月27日 - [[海軍兵学寮]](後の[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]])に入学。 * 明治16年([[1883年]])11月2日 - [[海軍少尉]]に任官。 * 明治17年([[1884年]])10月6日 - 海軍兵学校卒業(7期)。 * 明治19年([[1886年]])12月21日 - [[海軍大尉]]に進級。 * 明治21年([[1888年]])11月15日 - 海大甲号学生。 * 明治24年([[1891年]])10月20日 - [[巡洋艦|防護巡洋艦]]「[[吉野 (防護巡洋艦)|吉野]]」回航委員。 * 明治28年([[1895年]])2月26日 - [[海軍少佐]]に進級。 * 明治29年([[1896年]])11月17日 - [[海軍大学校]]教官。 * 明治30年([[1897年]])12月1日 - [[海軍中佐]]に進級。 * 明治31年([[1898年]])10月1日 - 巡洋艦「[[筑紫 (巡洋艦)|筑紫]]」艦長。 * 明治32年([[1899年]])9月29日 - [[海軍大佐]]に進級。 * 明治36年([[1903年]])12月28日 - [[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]参謀長。 * 明治37年([[1904年]])9月1日 - [[海軍少将]]に進級。 * 明治38年([[1905年]])1月12日 - [[連合艦隊]]参謀長兼[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]参謀長。 * 明治39年([[1906年]])1月8日 - 海軍次官。 * 明治41年([[1908年]])8月28日 - [[海軍中将]]に進級。 * 明治42年([[1909年]])12月1日 - [[呉鎮守府]][[司令長官]]。 * [[大正]]2年([[1913年]])12月1日 - [[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]司令長官。 * 大正4年([[1915年]]) ** 8月10日 - 第10代[[海軍大臣]]に就任(~[[1923年]]5月15日)。 ** 8月28日 - [[海軍大将]]に進級。 * 大正9年([[1920年]])9月7日 - [[男爵]]叙爵。 * 大正10年([[1921年]])9月27日 - ワシントン会議全権。 * 大正11年([[1922年]])6月12日 - 第21代[[内閣総理大臣]]に就任。 * 大正12年([[1923年]])8月24日 - [[内閣総辞職]]。海軍[[元帥 (日本)|元帥]]に叙せられる。 == 栄典 == * [[大正]]12年([[1923年]])8月24日:[[大勲位菊花大綬章]] == 伝記 == * 加藤元帥伝記編纂委員会 編『元帥 加藤友三郎伝』(ゆまに書房歴代総理大臣伝記叢書 13、2006年) ISBN 4843317918 * 豊田 穣『蒼茫の海 <small>軍縮の父 提督加藤友三郎の生涯</small>』(プレジデント社、1983年) * 豊田 穣『蒼茫の海 <small>海軍提督 加藤友三郎の生涯</small>』([[集英社文庫]]、1989年) ISBN 4087494772 * 新井達夫『日本宰相列伝 9 加藤友三郎』([[時事通信社]]、1985年) ISBN 4788785595 == 関連項目 == * [[加藤友三郎内閣]] * [[ワシントン海軍軍縮条約]] * [[千葉県]][[一宮町]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%8F%8B%E4%B8%89%E9%83%8E 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月21日 (水) 13:03。]     

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。