戦陣訓

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'''戦陣訓'''(せんじんくん)は、[[1941年]][[1月]]に当時の[[陸軍大臣]]・[[東條英機]]が示達した訓令(陸訓一号)で、軍人としてとるべき行動規範を示した文書。現在ではこのなかの「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節が軍人・民間人の多量の無駄な討ち死に・自殺の原因となったか否かが議論の中心となっている。(後述参照) == 構成 == 「序」と「本訓」「結」から成っており、「本訓」はさらに「其の一」から「其の三」までに分かれている。 *「序」では'''「[[軍人勅諭]]」の具体的な行動の基準を示す'''としている。 *「本訓(其の一)」はさらに第一「皇国」、第二「皇軍」、第三「皇紀」、第四「団結」、第五「協同」、第六「攻撃精神」、第七「必勝の精神」からなり、第一「皇国」は「大日本は皇国なり。万世一系の天皇……」と始まり、'''天皇の永遠の「君臨」'''を宣言している。 *「本訓(其の二)」はさらに、第一「敬神」、第二「孝道」、第三「敬礼挙措」、第四「戦友道」、第五「率先躬行」、第六「責任」、第七「生死観」、第八「名を惜しむ」、第九「質実剛健」、第十「清廉潔白」からなり、第一「敬神」は「神霊上に在りて照覧し給ふ」'''(天皇家の祖先神が兵隊の行動を見ている)から「忠孝」に励みなさい'''と述べている。 *「本訓(其の三)」は第一「戦陣の戒」、第二「戦陣の嗜」のみで、さらにそれぞれが九個の小項目の個条書きになっている。第一「戦陣の戒」の「一」は「一瞬の油断、不測の大事を生ず。常に備へ厳に警(いまし)めざるべからず。 」などとしている。 *「結」は「序」と同じく「以上述ぶる所は、悉(ことごと)く勅諭に発し」と'''「[[軍人勅諭]]」を元にしている'''と強調している。(ただし、新たに付加された徳目もある。後述参照。) ==示達と流布== 陸軍省が制定し、[[1941年]]([[昭和]]16年)[[1月8日]]に示達した。同日に[[新聞]]等のメディアはこれを大きく報じた。<ref>例えば「読売新聞」は「昭和の軍人魂昂揚『戦陣訓』を制定す―けふ全将兵に配布―」と題する記事で「世界動乱に対応し最精強の皇軍錬成を目ざす陸軍では皇軍兵士が座右において実践服行するいはゆる昭和武人鑑ともいふべき「戦陣訓」を新たに制定、七日午後上奏御裁可を経たので八日の陸軍始観兵式の佳日を下し東條陸相の名において全軍に示達、各兵士に一葉宛を配布(後略)」と報道し、『戦陣訓』の全文も掲載している。</ref>また、15日付けの週報(内閣情報局編集)では、「国民の心とすべき」と民間人にも実践を求めている。 ===示達まで=== 当時、中国戦線では戦況が膠着状態に入ったことにより、兵士の士気は落ち、放火、略奪、婦女暴行といった不祥事が度重なるようになっていた<ref>ただし[[日清戦争]]から[[通州事件]]を経て、[[渡洋爆撃]]などにおける中国軍側の俘虜に対する伝統的な残忍な扱いもその背景にあった。</ref>。軍紀建て直しの必要性を感じた陸軍は、「焼くな」「盗むな」「殺すな」の「三戒」を徹底させ、規律ある軍人となるような方法を模索していた。ただ、「犯すな」といった「強姦してはならない」などという表現は、とても勅語に書けないため、勅語ではなく別の形式、すなわち戦陣訓という形で発布することとした。もちろん「戦陣訓」にもそのような直截の表現はしていない。したがって「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節のみが主旨であったわけではない<ref>たとえば「本訓 其の三 第一」「戦陣の戒」には次のように記されている :六 敵産、敵資の保護に留意するを要す。徴発、押収、物資の燼滅等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。 :七 皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。 :八 戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。 :九 怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情悔を後日に残すこと多し。</ref> 。当時の陸軍大臣であった[[畑俊六]]が発案し、教育総監部が作成を推進した。当時の[[教育総監]]であった[[山田乙三]]や、本部長の[[今村均]](戦後に「聖将」との評価もある)も関っている。東條が陸軍大臣となってからは、彼の意向で[[島崎藤村]](文語詩や[[写生文]]を得意とした)や[[土井晩翠]]などの文化人も参加している。 ===戦陣訓の浸透=== 軍人への浸透のため、陸軍省は『[[軍隊手帳|軍隊手牒]]』と同サイズの『戦陣訓』を作製した。翌[[1942年]]の版からは軍隊手牒に印刷する事とした。また別に『戦陣訓解釈』(1942年)も発行している。 「戦陣訓」の軍隊内部への浸透を示すものとして、「奉読することが習慣になっていた」という再評価・調査報告<ref>「野砲兵第22連隊」では「起床後「戦陣訓」を奉読することが習慣になっていた」([http://lib1.kyokyo-u.ac.jp/kiyou/kiyoupdf/no108/bkue10804.pdf 武島良成「京都師団の日常―文献史料による「戦争遺跡」の検証―」「京都教育大学紀要」108号、2006年、p40。])</ref>や同様の体験談がある一方で、『軍人勅諭』は新兵に対し丸暗記を強制させるほど重要性が高い物であったが、戦陣訓にはその様な強制が行われなかった事例<ref>[[山本七平]]『私の中の日本軍 (下)』(文芸春秋(文庫)、1983)、340頁。</ref>も見られ、浸透の程度は不均一であったと言えよう。ただし、丸暗記を否定するもので、戦陣訓の内容は理解していることが当然とされていた。東條英機と対立していた[[石原莞爾]]陸軍中将(「戦陣訓」発令の同年8月東條により罷免され予備役)は、[[1941年]]9月には著書で「戦陣訓」の重要性を力説<ref>石原莞爾「最終戦争論・戦争史大観」は「蒋介石抵抗の根抵は、一部日本人の非道義に依り支那大衆の敵愾心を煽った点にある。『派遣軍将兵に告ぐ』『'''戦陣訓'''』の重大意義もここにありと信ずる。」と述べている。(「戦争史大観」の「第二節 歴史の大勢」。[[1941年]]9月に東亜聯盟協会関西事務所編『世界最終戦論』として刊行。)本書は数十万部も売れたベストセラーであった。</ref>していながら、「軍人勅諭を読むだけで充分」と部下には一切読ませなかったという説がある。なお、玉砕戦において自決した諸将兵は死んでいるために彼等の「戦陣訓」に関する正確な詳しい証言は得ることができない。 一般国民に対しては[[用紙統制]]が行われているなか、1941年だけでも少なくとも『戦陣訓述義』『戦陣訓話』等12種の解説書、『たましひをきたへる少国民の戦陣訓』『少年愛国戦陣訓物語』等5種の教材が出版許可を受けて出版されており、以後も敗戦まで種々のものが出ている<ref>国会図書館所蔵目録による調査。</ref>。このほかに、「戦陣訓カルタ」<ref>[http://www.library.pref.nara.jp/sentai/gallery002/gallery002003.html 「戦陣訓カルタ」の画像]</ref>なども作られた他、「戦陣訓の歌」([[梅木三郎]]作詞・[[須摩洋朔]]作曲)が作成されて陸軍軍楽隊で演奏されたレコードがビクターから発売された。また、学校での教育にとりいれられ、暗記が推奨された。そのため、現在でも「暗誦できる」人もいる<ref>[http://www.kochi-tech.ac.jp/publicseminar/2003kinen/okano.htm  高知工科大学における[[岡野俊一郎]]の講演]</ref>。 なお現在でも陸上自衛隊中央音楽隊による演奏の行進曲「戦陣訓」(発売:日本クラウン)がある。 ==『生きて虜囚の辱を受けず』== 今日では太平洋戦争中で発生した日本軍の[[玉砕]]や全滅、民間人の[[自決]]を推奨し、[[降伏]]を禁止させる原因であると理解されている。 特に本訓其の二第八「名を惜しむ」の「'''生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ'''」の一節が、戦後に製作された太平洋戦争を題材とした小説や映画・ドラマ等で旧日本軍の人命軽視の行動を否定する際に引用される事も多い。戦時中は例えば戦国時代に『生きて虜囚の辱を受けず』を実践した人物をモデルとして[[映画法]]による[[国策映画]]『[[鳥居強右衛門]]』(日活[[1942年]])が作られ、この一節は推奨されていた。 ただしこの一文は「本訓 其の二」の「第八 名を惜しむ」の一部を引用したものであり、全文では無い。「生死を超越し一意任務の完遂に邁進(まいしん)すべし」で知られる「第七 生死観」につづくもので、全文は以下の通りである。 <blockquote>『恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう)家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)してその期待に答ふべし、'''生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ'''』</blockquote> 以下、解釈が分かれているので両論並記とする。(ただし、2番目のものは現時点では論拠が不明な個所が多く、事実性・信頼性は低い。) #「郷党家門の面目を思い、捕虜となって恥を晒したり、捕虜として相手に協力してあとでその罪を問われるようなことが無いように覚悟している者は強い。だから強くあるためにはそのような覚悟をしておけ。」という意味である。戦陣訓で示された規範に付いては『[[軍人勅諭]]』の内容とほぼ同じであるが、『国史大辞典』は『生きて虜囚の辱を受けず』の徳目を例にあげて「(軍人勅諭)を敷衍するための説明であるという態度をとっているが」、「新たに強調した徳目も多い」としている<ref>国史大辞典編纂委員会『国史大辞典』第8巻(吉川弘文館、1987年)、441頁。</ref>。しかし、菊池寛は「これは、おそらく軍人に賜りし勅諭の釈義として、またその施行細則として、発表されたものであろう。」と「話の屑籠」(1941年(昭和16年)『文芸春秋』に連載)に記していることから、当時はその解釈については様々であった。当時は単に「軍人勅諭」の「施行細則」とのみ意識し、「新たに強調した徳目」に気づかぬ者もいたのである。 #「軍人として恥ずかしい行いをすれば、捕虜になった時はもちろん、死んでからも罪禍の汚名を着ることになったり、同郷の者や故郷の家族から面目の立たない事になるのであるから、そういった軍人として恥ずべき行い<!--「生きて虜囚の辱を受けること」ならば上記と同解釈-->はやってはいけない。」という意味である。今日では戦陣訓自身を再評価しようとする研究家・歴史家や、戦陣訓の絶対性を否定する研究者も存在する。 当時の陸海軍の[[軍法]]において捕虜となることを禁止したり捕虜となった者を処罰するような条文は存在しない。 軍法において捕虜となる権利が否定されたことは無い。 捕虜となった者が帰ってきた場合に[[軍法会議]]で裁かれることはなかったが、自決が強要されたり実質上の死刑とも言えるような過酷な最前線行きの命令が下された。 戦陣訓は一つの行政組織にすぎない陸軍の通達であり立法機関によって制定された軍法が上位の存在であることは明白であったが、実質的には戦陣訓が軍法よりも上位であるかのように扱われていた。 当時の日本国の司法制度においても戦陣訓はあくまでも軍法に反しない解釈が行われなければ違法行為になってしまうため、軍法で認められている捕虜の権利を否定する解釈は違法判断になるはずである。しかし、当時の軍人がそのような法制度の認識があったとは考えにくい。 ==降伏・投降の否定の思想== 日本軍による降伏拒否や自決は、「戦陣訓」が示達される以前から発生しており、「戦陣訓」のみによって日本軍の玉砕や自決が強制されたようになったとは考えられにくい。例えば、日清戦争中に第一軍司令官であった[[山県有朋]]による、「捕虜となるくらいなら死ぬべきだ」という趣旨の訓令<ref>敵国側の俘虜の扱いは極めて残忍の性を有す。決して敵の生擒する所となる可からず。寧ろ潔く一死を遂げ、以て日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全うせよ。([[1894年]]8月13日、山県有朋、平壌にて)</ref>(これが『生きて虜囚の辱を受けず』の原型であろうとの指摘もある)や、[[俘虜の待遇に関する条約]](ジュネーヴ条約)を調印しながら批准しなかった理由とのひとつとして、軍部による「日本軍は決して降伏などしないのでこの条約は片務的なものとなる」と反発した例{{要出典|そのことが記載されている論文タイトル、もしくはその反発をした軍部の部署や代表者名など)}}が有る。しかし、「戦陣訓」は複数の戦場において、[[玉砕]] <ref>『北斉書』の「元景安伝」の「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(立派な男子は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい)」による表現。第二次大戦の中で最初に使われたのは、1943年5月29日のアッツ島の日本軍守備隊約2600名の全滅の発表時であった。</ref>を命令する際の命令文中に引用されている。(以下抄録) ;[[1941年]]12月8日[[真珠湾攻撃]]時の俘虜となった日本兵の家族への扱い :太平洋戦争での日本人捕虜第1号となった[[酒巻和男]]海軍少尉([[海軍兵学校]]卒)は[[真珠湾攻撃]]で、小型潜水艇「[[特殊潜航艇]]」に艇長として搭乗した。しかし、機器の故障や米軍の攻撃などで座礁した。そこで自爆を試み、海に飛び込んだが、意識を失った状態で米兵に捕らえられた。[[大本営]]は傍受した[[VOA]]の報道から捕虜第1号の存在を初めて知り、同時に出撃した10名の写真から酒巻だけを削除し、「九軍神」として発表した([[大本営発表]])。酒巻の家族は人々から「非国民」と非難された<ref>酒巻和男『捕虜第一号』新潮社、1949年</ref>。そして、それ以後捕虜になった者たちは親族が「[[非国民]]」とされるのを恐れ、偽名を申告し、[[ジュネーブ条約]]に基づいて家族に手紙を出すようなことも控えることが多かった <ref>[[ハリー・ゴードン]]著・[[山田真美]] 訳『生きて虜囚の辱めを受けず ―カウラ第十二戦争捕虜収容所からの脱走―』清流出版、 1995年</ref>。結果、その者達は“未帰還”(戦死または行方不明)となった。 ;[[アッツ島]]玉砕 :1943年5月29日 北海守備隊第二地区隊[[山崎保代]]大佐発令 :非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り、陸海軍共一隊を編成、攻撃隊の後方を前進せしむ。'''共に生きて捕虜の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり''' :なお、アッツ島玉砕をつたえる[[朝日新聞]]1943年5月31日朝刊には、「一兵も増援求めず。'''烈々、戦陣訓を実践'''」との見出しを見ることができる。(谷萩[[報道部長]]の談話) サイパン島玉砕 :1944年7月3日 サイパン島守備隊[[南雲忠一]]中将、<!--[[斉藤義次]]中将連名{{要出典}}-->「サイパン島守備兵に与える訓示」 :サイパンの戦いにおいて総切り込みの行動開始時刻決定の際に以下の発表を行った。<blockquote>断乎(だんこ)進んで米鬼(べいき)に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。'''戦陣訓'''に曰く『'''生きて虜囚の辱を受**けず'''』。勇躍全力を尽して従容(しょうよう)として悠久(ゆうきゅう)の大義に生きるを悦びとすべし。 <ref>[http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/gyoku-saipan.htm 南雲忠一海軍中将「最期の訓示」]。全文はこの四倍ほどあるが末尾部分のみ引用した。</ref></blockquote>この結果、戦死約21,000、自決約8,000、捕虜921名となった。そして南雲自身も自決したと伝えられている。([[サイパンの戦い|サイパンの戦い]]参照。サイパン島の民間人については[[バンザイクリフ]]参照。) ;沖縄戦 :[[沖縄戦]]では日本軍将兵による沖縄県民への「[[集団自決]]」強制が為され、結果、[[座間味島]]では少なくとも島民130人が死に追いやられたとされる(2008年3月28日最高裁判所「沖縄ノート」名誉毀損訴訟判決)。 このように、投降を拒否する考えを示すために、わかりやすい表現の一つとして「戦陣訓」が引用されていたことは事実である。さらにアッツ島の玉砕においては、[[軍属]]に対しても投降拒否の考えに従うことが命令されていることは注目に値する。 また、上記命令が海軍中将から発令されていること、新聞紙上の見出しとして使われていることからも、陸海軍、民間を問わず「戦陣訓」の存在は広く知られていたこと{{要出典}}<!--詳細はノート参照-->が再確認できる。 このような考え方により、兵士に対し万が一捕虜になってしまった場合の立ち回り方などの教育がなされないという状況を招き、生き残って捕虜になった者が敵軍に尋問された際に機密事項を話してしまうなどの弊害を招いた。 現在では降伏をしないなどという思想は時代遅れと考えがちだが、現代でも似たような思想はあり、元傭兵高部正樹によると、傭兵は条約適用外なので拷問を受けるため捕まりそうになると自決をするらしい。その為自決用の弾丸を必ず持っているということである。 == その他の関連エピソード == *訓を垂れた当の東條は、示達の同年[[10月18日]]に[[内閣総理大臣]]に就任し、[[1944年]][[7月22日]]まで務めた。しかし敗戦後に自殺に失敗して占領軍の虜囚となったうえ、占領軍に[[軍刀]]を送るなどした。 *書籍出版時の著作権は東條が有していたが、印税の受け取りの有無は不明である。当時は軍人や官僚の書籍を出版し、印税という形式で賄賂を送り(あるいは媚びを売り)、他の出版物の出版許可を得る風潮 <ref>佐藤卓己『言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家―』中公新書、2004年。</ref>があったが、『戦陣訓』での東條の印税受領の証拠は無い。 ==参考文献・注釈== ===参考文献=== *『帝国陸海軍の光と影』・[[大原康男]]・日本教文社 *『図説・玉砕の戦場』・森山康平・河出書房新社 *『日本軍の捕虜政策』・内海愛子・青木書店 ===注釈=== <references /> _ [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%88%A6%E9%99%A3%E8%A8%93 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 2008年4月16日 (水) 08:02。]     
'''戦陣訓'''(せんじんくん)は、[[1941年]][[1月]]に当時の[[陸軍大臣]]・[[東條英機]]が示達した訓令(陸訓一号)で、軍人としてとるべき行動規範を示した文書。現在ではこのなかの「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節が軍人・民間人の多量の無駄な討ち死に・自殺の原因となったか否かが議論の中心となっている。(後述参照) == 構成 == 「序」と「本訓」「結」から成っており、「本訓」はさらに「其の一」から「其の三」までに分かれている。 *「序」では'''「[[軍人勅諭]]」の具体的な行動の基準を示す'''としている。 *「本訓(其の一)」はさらに第一「皇国」、第二「皇軍」、第三「皇紀」、第四「団結」、第五「協同」、第六「攻撃精神」、第七「必勝の精神」からなり、第一「皇国」は「大日本は皇国なり。万世一系の天皇……」と始まり、'''天皇の永遠の「君臨」'''を宣言している。 *「本訓(其の二)」はさらに、第一「敬神」、第二「孝道」、第三「敬礼挙措」、第四「戦友道」、第五「率先躬行」、第六「責任」、第七「生死観」、第八「名を惜しむ」、第九「質実剛健」、第十「清廉潔白」からなり、第一「敬神」は「神霊上に在りて照覧し給ふ」'''(天皇家の祖先神が兵隊の行動を見ている)から「忠孝」に励みなさい'''と述べている。 *「本訓(其の三)」は第一「戦陣の戒」、第二「戦陣の嗜」のみで、さらにそれぞれが九個の小項目の個条書きになっている。第一「戦陣の戒」の「一」は「一瞬の油断、不測の大事を生ず。常に備へ厳に警(いまし)めざるべからず。 」などとしている。 *「結」は「序」と同じく「以上述ぶる所は、悉(ことごと)く勅諭に発し」と'''「[[軍人勅諭]]」を元にしている'''と強調している。(ただし、新たに付加された徳目もある。後述参照。) ==示達と流布== 陸軍省が制定し、[[1941年]]([[昭和]]16年)[[1月8日]]に示達した。同日に[[新聞]]等のメディアはこれを大きく報じた。<ref>例えば「読売新聞」は「昭和の軍人魂昂揚『戦陣訓』を制定す―けふ全将兵に配布―」と題する記事で「世界動乱に対応し最精強の皇軍錬成を目ざす陸軍では皇軍兵士が座右において実践服行するいはゆる昭和武人鑑ともいふべき「戦陣訓」を新たに制定、七日午後上奏御裁可を経たので八日の陸軍始観兵式の佳日を下し東條陸相の名において全軍に示達、各兵士に一葉宛を配布(後略)」と報道し、『戦陣訓』の全文も掲載している。</ref>また、15日付けの週報(内閣情報局編集)では、「国民の心とすべき」と民間人にも実践を求めている。 ===示達まで=== 当時、中国戦線では戦況が膠着状態に入ったことにより、兵士の士気は落ち、放火、略奪、婦女暴行といった不祥事が度重なるようになっていた<ref>ただし[[日清戦争]]から[[通州事件]]を経て、[[渡洋爆撃]]などにおける中国軍側の俘虜に対する伝統的な残忍な扱いもその背景にあった。</ref>。軍紀建て直しの必要性を感じた陸軍は、「焼くな」「盗むな」「殺すな」の「三戒」を徹底させ、規律ある軍人となるような方法を模索していた。ただ、「犯すな」といった「強姦してはならない」などという表現は、とても勅語に書けないため、勅語ではなく別の形式、すなわち戦陣訓という形で発布することとした。もちろん「戦陣訓」にもそのような直截の表現はしていない。したがって「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節のみが主旨であったわけではない<ref>たとえば「本訓 其の三 第一」「戦陣の戒」には次のように記されている :六 敵産、敵資の保護に留意するを要す。徴発、押収、物資の燼滅等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。 :七 皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。 :八 戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。 :九 怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情悔を後日に残すこと多し。</ref> 。当時の陸軍大臣であった[[畑俊六]]が発案し、教育総監部が作成を推進した。当時の[[教育総監]]であった[[山田乙三]]や、本部長の[[今村均]](戦後に「聖将」との評価もある)も関っている。東條が陸軍大臣となってからは、彼の意向で[[島崎藤村]](文語詩や[[写生文]]を得意とした)や[[土井晩翠]]などの文化人も参加している。 ===戦陣訓の浸透=== 軍人への浸透のため、陸軍省は『[[軍隊手帳|軍隊手牒]]』と同サイズの『戦陣訓』を作製した。翌[[1942年]]の版からは軍隊手牒に印刷する事とした。また別に『戦陣訓解釈』(1942年)も発行している。 「戦陣訓」の軍隊内部への浸透を示すものとして、「奉読することが習慣になっていた」という再評価・調査報告<ref>「野砲兵第22連隊」では「起床後「戦陣訓」を奉読することが習慣になっていた」([http://lib1.kyokyo-u.ac.jp/kiyou/kiyoupdf/no108/bkue10804.pdf 武島良成「京都師団の日常―文献史料による「戦争遺跡」の検証―」「京都教育大学紀要」108号、2006年、p40。])</ref>や同様の体験談がある一方で、『軍人勅諭』は新兵に対し丸暗記を強制させるほど重要性が高い物であったが、戦陣訓にはその様な強制が行われなかった事例<ref>[[山本七平]]『私の中の日本軍 (下)』(文芸春秋(文庫)、1983)、340頁。</ref>も見られ、浸透の程度は不均一であったと言えよう。ただし、丸暗記を否定するもので、戦陣訓の内容は理解していることが当然とされていた。東條英機と対立していた[[石原莞爾]]陸軍中将(「戦陣訓」発令の同年8月東條により罷免され予備役)は、[[1941年]]9月には著書で「戦陣訓」の重要性を力説<ref>石原莞爾「最終戦争論・戦争史大観」は「蒋介石抵抗の根抵は、一部日本人の非道義に依り支那大衆の敵愾心を煽った点にある。『派遣軍将兵に告ぐ』『'''戦陣訓'''』の重大意義もここにありと信ずる。」と述べている。(「戦争史大観」の「第二節 歴史の大勢」。[[1941年]]9月に東亜聯盟協会関西事務所編『世界最終戦論』として刊行。)本書は数十万部も売れたベストセラーであった。</ref>していながら、「軍人勅諭を読むだけで充分」と部下には一切読ませなかったという説がある。なお、玉砕戦において自決した諸将兵は死んでいるために彼等の「戦陣訓」に関する正確な詳しい証言は得ることができない。 一般国民に対しては[[用紙統制]]が行われているなか、1941年だけでも少なくとも『戦陣訓述義』『戦陣訓話』等12種の解説書、『たましひをきたへる少国民の戦陣訓』『少年愛国戦陣訓物語』等5種の教材が出版許可を受けて出版されており、以後も敗戦まで種々のものが出ている<ref>国会図書館所蔵目録による調査。</ref>。このほかに、「戦陣訓カルタ」<ref>[http://www.library.pref.nara.jp/sentai/gallery002/gallery002003.html 「戦陣訓カルタ」の画像]</ref>なども作られた他、「戦陣訓の歌」([[梅木三郎]]作詞・[[須摩洋朔]]作曲)が作成されて陸軍軍楽隊で演奏されたレコードがビクターから発売された。また、学校での教育にとりいれられ、暗記が推奨された。そのため、現在でも「暗誦できる」人もいる<ref>[http://www.kochi-tech.ac.jp/publicseminar/2003kinen/okano.htm  高知工科大学における[[岡野俊一郎]]の講演]</ref>。 なお現在でも陸上自衛隊中央音楽隊による演奏の行進曲「戦陣訓」(発売:日本クラウン)がある。 ==『生きて虜囚の辱を受けず』== 今日では太平洋戦争中で発生した日本軍の[[玉砕]]や全滅、民間人の[[自決]]を推奨し、[[降伏]]を禁止させる原因であると理解されている。 特に本訓其の二第八「名を惜しむ」の「'''生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ'''」の一節が、戦後に製作された太平洋戦争を題材とした小説や映画・ドラマ等で旧日本軍の人命軽視の行動を否定する際に引用される事も多い。戦時中は例えば戦国時代に『生きて虜囚の辱を受けず』を実践した人物をモデルとして[[映画法]]による[[国策映画]]『[[鳥居強右衛門]]』(日活[[1942年]])が作られ、この一節は推奨されていた。 ただしこの一文は「本訓 其の二」の「第八 名を惜しむ」の一部を引用したものであり、全文では無い。「生死を超越し一意任務の完遂に邁進(まいしん)すべし」で知られる「第七 生死観」につづくもので、全文は以下の通りである。 <blockquote>『恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう)家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)してその期待に答ふべし、'''生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ'''』</blockquote> 以下、解釈が分かれているので両論並記とする。(ただし、2番目のものは現時点では論拠が不明な個所が多く、事実性・信頼性は低い。) #「郷党家門の面目を思い、捕虜となって恥を晒したり、捕虜として相手に協力してあとでその罪を問われるようなことが無いように覚悟している者は強い。だから強くあるためにはそのような覚悟をしておけ。」という意味である。戦陣訓で示された規範に付いては『[[軍人勅諭]]』の内容とほぼ同じであるが、『国史大辞典』は『生きて虜囚の辱を受けず』の徳目を例にあげて「(軍人勅諭)を敷衍するための説明であるという態度をとっているが」、「新たに強調した徳目も多い」としている<ref>国史大辞典編纂委員会『国史大辞典』第8巻(吉川弘文館、1987年)、441頁。</ref>。しかし、菊池寛は「これは、おそらく軍人に賜りし勅諭の釈義として、またその施行細則として、発表されたものであろう。」と「話の屑籠」(1941年(昭和16年)『文芸春秋』に連載)に記していることから、当時はその解釈については様々であった。当時は単に「軍人勅諭」の「施行細則」とのみ意識し、「新たに強調した徳目」に気づかぬ者もいたのである。 #「軍人として恥ずかしい行いをすれば、捕虜になった時はもちろん、死んでからも罪禍の汚名を着ることになったり、同郷の者や故郷の家族から面目の立たない事になるのであるから、そういった軍人として恥ずべき行い<!--「生きて虜囚の辱を受けること」ならば上記と同解釈-->はやってはいけない。」という意味である。今日では戦陣訓自身を再評価しようとする研究家・歴史家や、戦陣訓の絶対性を否定する研究者も存在する。 当時の陸海軍の[[軍法]]において捕虜となることを禁止したり捕虜となった者を処罰するような条文は存在しない。 軍法において捕虜となる権利が否定されたことは無い。 捕虜となった者が帰ってきた場合に[[軍法会議]]で裁かれることはなかったが、自決が強要されたり実質上の死刑とも言えるような過酷な最前線行きの命令が下された。 戦陣訓は一つの行政組織にすぎない陸軍の通達であり立法機関によって制定された軍法が上位の存在であることは明白であったが、実質的には戦陣訓が軍法よりも上位であるかのように扱われていた。 当時の日本国の司法制度においても戦陣訓はあくまでも軍法に反しない解釈が行われなければ違法行為になってしまうため、軍法で認められている捕虜の権利を否定する解釈は違法判断になるはずである。しかし、当時の軍人がそのような法制度の認識があったとは考えにくい。 ==降伏・投降の否定の思想== 日本軍による降伏拒否や自決は、「戦陣訓」が示達される以前から発生しており、「戦陣訓」のみによって日本軍の玉砕や自決が強制されたようになったとは考えられにくい。例えば、日清戦争中に第一軍司令官であった[[山県有朋]]による、「捕虜となるくらいなら死ぬべきだ」という趣旨の訓令<ref>敵国側の俘虜の扱いは極めて残忍の性を有す。決して敵の生擒する所となる可からず。寧ろ潔く一死を遂げ、以て日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全うせよ。([[1894年]]8月13日、山県有朋、平壌にて)</ref>(これが『生きて虜囚の辱を受けず』の原型であろうとの指摘もある)や、[[俘虜の待遇に関する条約]](ジュネーヴ条約)を調印しながら批准しなかった理由とのひとつとして、軍部による「日本軍は決して降伏などしないのでこの条約は片務的なものとなる」と反発した例{{要出典|そのことが記載されている論文タイトル、もしくはその反発をした軍部の部署や代表者名など)}}が有る。しかし、「戦陣訓」は複数の戦場において、[[玉砕]] <ref>『北斉書』の「元景安伝」の「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(立派な男子は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい)」による表現。第二次大戦の中で最初に使われたのは、1943年5月29日のアッツ島の日本軍守備隊約2600名の全滅の発表時であった。</ref>を命令する際の命令文中に引用されている。(以下抄録) ;[[1941年]]12月8日[[真珠湾攻撃]]時の俘虜となった日本兵の家族への扱い :太平洋戦争での日本人捕虜第1号となった[[酒巻和男]]海軍少尉([[海軍兵学校]]卒)は[[真珠湾攻撃]]で、小型潜水艇「[[特殊潜航艇]]」に艇長として搭乗した。しかし、機器の故障や米軍の攻撃などで座礁した。そこで自爆を試み、海に飛び込んだが、意識を失った状態で米兵に捕らえられた。[[大本営]]は傍受した[[VOA]]の報道から捕虜第1号の存在を初めて知り、同時に出撃した10名の写真から酒巻だけを削除し、「九軍神」として発表した([[大本営発表]])。酒巻の家族は人々から「非国民」と非難された<ref>酒巻和男『捕虜第一号』新潮社、1949年</ref>。そして、それ以後捕虜になった者たちは親族が「[[非国民]]」とされるのを恐れ、偽名を申告し、[[ジュネーブ条約]]に基づいて家族に手紙を出すようなことも控えることが多かった <ref>[[ハリー・ゴードン]]著・[[山田真美]] 訳『生きて虜囚の辱めを受けず ―カウラ第十二戦争捕虜収容所からの脱走―』清流出版、 1995年</ref>。結果、その者達は“未帰還”(戦死または行方不明)となった。 ;[[アッツ島]]玉砕 :1943年5月29日 北海守備隊第二地区隊[[山崎保代]]大佐発令 :非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り、陸海軍共一隊を編成、攻撃隊の後方を前進せしむ。'''共に生きて捕虜の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり''' :なお、アッツ島玉砕をつたえる[[朝日新聞]]1943年5月31日朝刊には、「一兵も増援求めず。'''烈々、戦陣訓を実践'''」との見出しを見ることができる。(谷萩[[報道部長]]の談話) サイパン島玉砕 :1944年7月3日 サイパン島守備隊[[南雲忠一]]中将、<!--[[斉藤義次]]中将連名{{要出典}}-->「サイパン島守備兵に与える訓示」 :サイパンの戦いにおいて総切り込みの行動開始時刻決定の際に以下の発表を行った。<blockquote>断乎(だんこ)進んで米鬼(べいき)に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。'''戦陣訓'''に曰く『'''生きて虜囚の辱を受**けず'''』。勇躍全力を尽して従容(しょうよう)として悠久(ゆうきゅう)の大義に生きるを悦びとすべし。 <ref>[http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/gyoku-saipan.htm 南雲忠一海軍中将「最期の訓示」]。全文はこの四倍ほどあるが末尾部分のみ引用した。</ref></blockquote>この結果、戦死約21,000、自決約8,000、捕虜921名となった。そして南雲自身も自決したと伝えられている。([[サイパンの戦い|サイパンの戦い]]参照。サイパン島の民間人については[[バンザイクリフ]]参照。) ;沖縄戦 :[[沖縄戦]]では日本軍将兵による沖縄県民への「[[集団自決]]」強制が為され、結果、[[座間味島]]では少なくとも島民130人が死に追いやられたとされる(2008年3月28日最高裁判所「沖縄ノート」名誉毀損訴訟判決)。 このように、投降を拒否する考えを示すために、わかりやすい表現の一つとして「戦陣訓」が引用されていたことは事実である。さらにアッツ島の玉砕においては、[[軍属]]に対しても投降拒否の考えに従うことが命令されていることは注目に値する。 また、上記命令が海軍中将から発令されていること、新聞紙上の見出しとして使われていることからも、陸海軍、民間を問わず「戦陣訓」の存在は広く知られていたこと{{要出典}}<!--詳細はノート参照-->が再確認できる。 このような考え方により、兵士に対し万が一捕虜になってしまった場合の立ち回り方などの教育がなされないという状況を招き、生き残って捕虜になった者が敵軍に尋問された際に機密事項を話してしまうなどの弊害を招いた。 現在では降伏をしないなどという思想は時代遅れと考えがちだが、現代でも似たような思想はあり、元傭兵高部正樹によると、傭兵は条約適用外なので拷問を受けるため捕まりそうになると自決をするらしい。その為自決用の弾丸を必ず持っているということである。 == その他の関連エピソード == *訓を垂れた当の東條は、示達の同年[[10月18日]]に[[内閣総理大臣]]に就任し、[[1944年]][[7月22日]]まで務めた。しかし敗戦後に自殺に失敗して占領軍の虜囚となったうえ、占領軍に[[軍刀]]を送るなどした。 *書籍出版時の著作権は東條が有していたが、印税の受け取りの有無は不明である。当時は軍人や官僚の書籍を出版し、印税という形式で賄賂を送り(あるいは媚びを売り)、他の出版物の出版許可を得る風潮 <ref>佐藤卓己『言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家―』中公新書、2004年。</ref>があったが、『戦陣訓』での東條の印税受領の証拠は無い。 ==参考文献・注釈== ===参考文献=== *『帝国陸海軍の光と影』・[[大原康男]]・日本教文社 *『図説・玉砕の戦場』・森山康平・河出書房新社 *『日本軍の捕虜政策』・内海愛子・青木書店 ===注釈=== <references /> _ [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%88%A6%E9%99%A3%E8%A8%93 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月16日 (水) 08:02。]     

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