松井石根

「松井石根」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

松井石根」(2009/01/16 (金) 23:51:57) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

{{Infobox Military Person |name=松井 石根 |lived=[[1878年]][[7月27日]] - [[1948年]][[12月23日]] |placeofbirth=[[愛知県]] |placeofdeath= |image=[[Image:Iwane Matsui.jpg|250px]] |caption= |nickname= |allegiance=[[大日本帝国陸軍]] |serviceyears= |rank=[[陸軍大将]] |commands=[[中支那方面軍]]司令官<br/>[[上海派遣軍]]司令官<br/>[[ハルピン特務機関|ハルピン特務機関長]] |unit= |battles=[[第二次上海事変]]<br/>[[南京攻略戦]] |awards=[[勲一等旭日大綬章]]<br/>死刑(東京裁判) |laterwork= }} '''松井 石根'''('''まつい いわね'''、[[明治]]11年([[1878年]])[[7月27日]] - [[昭和]]23年([[1948年]])[[12月23日]])、[[中支那方面軍]]司令官兼[[上海派遣軍]]司令官、[[ハルピン特務機関|ハルピン特務機関長]]、[[陸軍大将]]。[[正三位]][[勲一等]][[功一級]]。ポツダム宣言受諾後、[[南京大虐殺]]の責任を問われて[[極東国際軍事裁判]](東京裁判)にて死刑判決を受け、処刑された。現在は[[靖国神社]]に合祀されている。 == 出自 == [[愛知県]]出身。旧[[尾張藩]]士松井武国、ひさの六男として生まれた。[[成城中学校・高等学校|成城学校]]から[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](9期)卒。[[陸軍大学校]](18期)卒。陸大在学中に[[日露戦争]]に従軍した。 中国に駐在中は[[孫文]]の[[大亜細亜主義]]に強く共鳴し、[[孫文]]の[[辛亥革命|革命]]を支援。[[中国国民党]]の[[袁世凱]]打倒に協力。昭和8年([[1933年]])に[[大亜細亜協会]]の設立発起人となり(後に会長に就任)、同年8月には[[台湾亜細亜協会]]を設立した。また日本に留学した[[蒋介石]]とも親交があり、蒋が政治的に困難な際に時の日本の首相[[田中義一]]との会談を取り持ち事態を打開させたのも松井である。昭和9年([[1934年]])4月[[勲一等旭日大綬章]]。[[軍紀]]に厳しいことで知られ、昭和3年([[1928年]])に起きた[[張作霖爆殺事件]]では、首謀者である[[関東軍]][[河本大作]]の厳罰を要求した。 [[日中戦争]]勃発前は[[予備役]]であったが、[[第二次上海事変]]が勃発すると軍務に復帰、[[上海派遣軍]]司令官として上海に派遣された。[[参謀本部]]と政府は上海事件の不拡大を望んでいたが、松井は上海近辺に限定されていた権限を逸脱して、当時の首都[[南京]]を攻撃・占領した。その際に南京攻略戦前に当時の中国の首都であった“南京攻略要綱”を兵士に徹底していたつもりであったが、南京戦後に、一部の兵士によって略奪行為が発生したと事件の報を聞いたとき、彼は「[[皇軍]]の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。 昭和13年3月に帰国後に、静岡県熱海市伊豆山に滞在中に、今回の日中両兵士の犠牲は、アジアのほとんどが欧米諸国の植民地がいずれ独立する事の犠牲であると位置づけ、その供養についての考えている事を、滞在先の宿の主人に相談したところ、昭和15年([[1940年]])2月、[[日中戦争]]における日中双方の犠牲者を弔う為、[[静岡県]][[熱海市]]伊豆山に[[興亜観音]]を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝[[法華経|観音経]]をあげていた。[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]に収監されてからも毎朝、観音経をあげるのが習慣だった。また、[[重光葵]]によると、人の依頼に応じて揮毫する文字は決まって「殺身為仁」であり、獄中では常に[[人民服]]姿だったという。 == 敗戦と東京裁判 == [[画像:MatuiIwane.jpg|200px|thumb|東京裁判での松井石根。]] 戦後、[[戦争犯罪人]]として逮捕、[[極東国際軍事裁判]]において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして[[死刑]]の判決を受ける。翌昭和23年([[1948年]])12月23日に[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]内で処刑(絞首刑)が執行された。辞世の句は、「''天地も人もうらみずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く''」、「''いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば''」、「''世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等誠の心''」。昭和53年([[1978年]])年、他の[[A級戦犯]]と共に[[靖国神社]]へ合祀された。 松井は東京裁判で[[A級戦犯]]容疑で起訴されて有罪判決を受けたが、「a項-平和に対する罪」では無罪であり、訴因第55項で有罪となったため、実際には[[BC級戦犯]]である。しかし、世間では東京裁判が日本の戦争犯罪人を裁く裁判として強く印象に残っていること、東京裁判は「a項-平和に対する罪」によって有罪判決を受けた被告で殆ど占められたために「東京裁判の被告人=A級戦犯」という印象が強く、松井石根がA級戦犯であるという認識が浸透している。現在の中国においては、国民党、共産党を問わず、南京大虐殺の責任者として松井は日本軍による非道の象徴的人物と位置づけられており、単なる軍司令官にもかかわらず、国家中枢にあったとされるA級戦犯と同格に位置づけられた。 == 資料 == * {{imdb title|id=0184254|title=The Battle of China}} * [http://www.archive.org/details/BattleOfChina ''The Battle of China'' ダウンロード] on the [[Internet Archive]] * [http://www.youtube.com/watch?v=uwqFOxmr2to ''THE FAKE OF NANKING''] on [[Youtube]] == 外部リンク == * [http://www.history.gr.jp/~koa_kan_non/gmatsui.jpg 写真] * [http://www.history.gr.jp/~koa_kan_non/ 興亜観音ホームページ] (略伝他) {{A級戦犯}} [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%9F%B3%E6%A0%B9 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年10月5日 (金) 19:30。]   <br/><br/><br/><br/><br/>'''考察'''<br/> '''松井大将は、南京の軍事法廷で裁くべきであった。そうすれば、谷寿夫は死なずにすんだであろう。'''    
{{Infobox 軍人 |name=松井 石根 |lived=[[1878年]][[7月27日]] - [[1948年]][[12月23日]] |placeofbirth=[[愛知県]] |placeofdeath=[[東京都]] |image=[[Image:Iwane Matsui.jpg|200px]] |caption=陸軍大将 松井石根 |nickname= |allegiance=[[大日本帝国陸軍]] |serviceyears= |rank=[[陸軍大将]] |commands=[[ハルピン]][[特務機関]]長<br/>[[第11師団 (日本軍)|第11師団]]長<br/>台湾軍司令官<br/>[[上海派遣軍]]司令官<br/>[[中支那方面軍]]司令官 |unit= |battles=[[日露戦争]]<br/>[[第二次上海事変]]<br/>[[南京攻略戦]] |awards=[[勲一等旭日大綬章]]<br/>死刑(東京裁判) |Mausoleum=[[殉国七士廟]]<br />[[靖国神社]] }} '''松井 石根'''('''まつい いわね'''、[[明治]]11年([[1878年]])[[7月27日]] - [[昭和]]23年([[1948年]])[[12月23日]])、[[中支那方面軍]]司令官兼[[上海派遣軍]]司令官、[[ハルピン]][[特務機関]]長、[[陸軍大将]]。[[正三位]][[勲一等]][[功一級]]。[[ポツダム宣言]]受諾後、[[南京大虐殺]]の責任を問われて[[極東国際軍事裁判]](東京裁判)にて死刑判決(BC級戦犯<ref><small>松井は東京裁判で[[A級戦犯]]容疑で起訴されて有罪判決を受けたが、「a項-平和に対する罪」では無罪であり、訴因第55項で有罪となったため、実際には[[BC級戦犯]]である。しかし、世間では東京裁判が日本の戦争犯罪人を裁く裁判として強く印象に残っていること、東京裁判は「a項-平和に対する罪」によって有罪判決を受けた被告で殆ど占められたために「東京裁判の被告人=A級戦犯」という印象が強く、松井石根がA級戦犯であるという認識が浸透している。</small></ref>)を受け、処刑された。現在は[[靖国神社]]に合祀されている。 == 生涯 == === 出自 === [[愛知県]]出身。旧[[尾張藩]]士松井武国、ひさの六男として生まれた。[[成城中学校・高等学校|成城学校]]から[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](9期次席)、[[陸軍大学校]](18期首席)を卒業。陸大在学中に[[日露戦争]]に従軍した。 中国に駐在中は[[孫文]]の[[大亜細亜主義]]に強く共鳴し、[[孫文]]の[[辛亥革命|革命]]を支援。[[中国国民党]]の[[袁世凱]]打倒に協力。昭和8年([[1933年]])に[[大亜細亜協会]]の設立発起人となり(後に会長に就任)、同年8月には[[台湾亜細亜協会]]を設立した。また日本に留学した[[蒋介石]]とも親交があり、蒋が政治的に困難な際に時の日本の首相[[田中義一]]との会談を取り持ち事態を打開させたのも松井である。昭和9年([[1934年]])4月[[勲一等旭日大綬章]]。[[軍紀]]に厳しいことで知られ、昭和3年([[1928年]])に起きた[[張作霖爆殺事件]]では、首謀者である[[関東軍]][[河本大作]]の厳罰を要求した(この事から、若手の将校の間では、松井を頑固者扱いして、敬遠する声も多かったと言われている)。 [[画像:Iwane Matui and Asakanomiya on Parade of Nanking.jpg|thumb|300px|南京で閲兵する松井石根]] === 日中戦争期 === [[日中戦争]]勃発前は[[予備役]]であったが、[[第二次上海事変]]が勃発すると軍務に復帰、[[上海派遣軍]]司令官として上海に派遣された。[[参謀本部]]と政府は上海事件の不拡大を望んでいたが、松井は上海近辺に限定されていた権限を逸脱して、当時の首都[[南京]]を攻撃・占領した。その際に南京攻略戦前に当時の中国の首都であった“南京攻略要綱”を兵士に徹底していたつもりであったが、南京戦後に、一部の兵士によって略奪行為が発生したと事件の報を聞いたとき、彼は「[[皇軍]]の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。 昭和13年3月に帰国後に、静岡県熱海市伊豆山に滞在中に、今回の日中両兵士の犠牲は、アジアのほとんどが欧米諸国の植民地がいずれ独立する事の犠牲であると位置づけ、その供養についての考えている事を、滞在先の宿の主人に相談したところ、昭和15年([[1940年]])2月、[[日中戦争]]における日中双方の犠牲者を弔う為、[[静岡県]][[熱海市]]伊豆山に[[興亜観音]]を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝[[法華経|観音経]]をあげていた。[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]に収監されてからも毎朝、観音経をあげるのが習慣だった。また、[[重光葵]]によると、人の依頼に応じて揮毫する文字は決まって「殺身為仁」であり、獄中では常に[[人民服]]姿だったという。 === 敗戦と東京裁判 === [[画像:MatuiIwane.jpg|200px|thumb|東京裁判での松井石根]] 戦後、[[戦争犯罪人]]として逮捕、[[極東国際軍事裁判]]において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして[[死刑]]の判決を受ける<ref><small>[[ラダ・ビノード・パール]]判事は、南京で日本軍による一定の犯罪行為の存在を認定する一方で、「裁判の在り方自体に有効性がないため『有罪』という概念そのものが成立しない」との立場から、松井を含めた被告全員の無罪を主張した。</small></ref>。 === 処刑 === 昭和23年([[1948年]])12月23日に[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]内で処刑(絞首刑)が執行された。辞世の句は、「''天地も人もうらみずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く''」、「''いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば''」、「''世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等誠の心''」。昭和53年([[1978年]])年、他の[[A級戦犯]]と共に[[靖国神社]]へ合祀された。 ==評価== ===中国の見方=== 現在の中国においては、国民党、共産党を問わず、[[南京大虐殺]]の責任者として松井は日本軍による非道の象徴的人物と位置づけられており、単なる軍司令官にもかかわらず、国家中枢にあったとされるA級戦犯と同格に位置づけられている。   <references /> == 年譜 == *[[1896年]](明治29年)5月 - [[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]卒業。 *[[1897年]](明治30年)11月 - [[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]卒業(9期)。 *[[1898年]](明治31年)6月 - [[少尉]]に昇進。[[歩兵]]第6[[連隊]]附。 *[[1900年]](明治33年)11月 - [[中尉]]に昇進。 *[[1904年]](明治37年)2月 - [[歩兵]]第6[[連隊]]中隊長。 **4月 - 日露戦争に従軍(~[[1906年]]1月)。 **8月 - [[大尉]]に昇進。 *[[1905年]](明治38年)7月 - 第2軍副官。 **12月 - 第2軍兵站監部参謀。 *[[1906年]](明治39年)11月 - [[陸軍大学校]]卒業(18期恩賜)。[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]出仕。 *[[1907年]](明治40年)1月 - [[清]]([[北京]]・[[上海]])駐在(~[[1911年]]4月)。 *[[1908年]](明治41年)11月 - 参謀本部員。 *[[1909年]](明治42年)11月 - [[少佐]]に昇進。 *[[1913年]](大正2年)4月 - [[フランス領インドシナ]]出張。 *[[1914年]](大正3年)5月 - [[欧米]]出張(~[[1915年]]8月)。 *[[1915年]](大正4年)8月 - [[中佐]]に昇進。歩兵第22連隊附。 **12月 - 参謀本部附(上海駐在)(~[[1919年]]2月)。 *[[1918年]](大正7年)7月24日 - [[大佐]]に昇進。 *[[1919年]](大正8年)2月20日 - 歩兵第29連隊長。 *[[1921年]](大正10年)5月26日 - [[ウラジオストク]]派遣軍[[参謀]]。 *[[1922年]](大正11年)11月6日 - [[関東軍]][[司令部]]附([[ハルビン]][[特務機関]]長)。 *[[1923年]](大正12年)3月17日 - [[少将]]に昇進。 *[[1924年]](大正13年)2月4日 - 歩兵第35[[旅団]]長。 *[[1925年]](大正14年)5月1日 - 参謀本部第2部長。 *[[1927年]](昭和2年)7月26日 - [[中将]]に昇進。 *[[1928年]](昭和3年)12月21日 - 参謀本部附(欧米出張)。 *[[1929年]](昭和4年)8月1日 - 第11師団長。 *[[1931年]](昭和6年)12月9日 - ジュネーブ一般軍縮会議全権委員。 *[[1933年]](昭和8年)3月18日 - [[軍事参議院|軍事参議官]]。 **8月1日 - 台湾軍司令官。 **10月20日 - [[陸軍大将|大将]]に昇進。 *[[1935年]](昭和10年)8月28日 - 予備役編入。 *[[1937年]](昭和12年)8月15日 - 召集。上海派遣軍司令官(~12月1日)。 **10月30日 - 中支那方面軍司令官(~[[1938年]]3月5日)。 *[[1938年]](昭和13年)7月 - [[内閣参議]](~[[1940年]]1月)。 == 関連項目 == * [[田中正明]] == 資料 == * {{imdb title|id=0184254|title=The Battle of China}} * [http://www.archive.org/details/BattleOfChina ''The Battle of China'' ダウンロード] on the [[Internet Archive]] * [http://www.youtube.com/watch?v=uwqFOxmr2to ''THE FAKE OF NANKING''] on [[Youtube]] == 外部リンク == * [http://www.history.gr.jp/~koa_kan_non/gmatsui.jpg 写真] * [http://www.history.gr.jp/~koa_kan_non/ 興亜観音ホームページ] (略伝他) [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%9F%B3%E6%A0%B9 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月20日 (土) 10:36。]   <br/><br/><br/><br/><br/>'''考察'''<br/> '''松井大将は、南京の軍事法廷で裁くべきであった。そうすれば、谷寿夫は死なずにすんだであろう。'''    

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。