加藤高明

「加藤高明」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

加藤高明」(2009/01/07 (水) 22:14:32) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

{{日本の内閣総理大臣 |[[加藤高明内閣|24]] |加藤 高明<br />(かとう たかあき)<br />[[Image:Takaaki Kato suit.jpg|200px]] |[[1860年]][[1月25日]] |[[尾張藩]] |[[東京大学]] |正二位[[大勲位]][[伯爵]]<br />[[法学士]] |[[衆議院議員]]<br />[[憲政会]][[総裁]] |本文参照 |[[大正]]13年([[1924年]])[[6月11日]]|大正15年([[1926年]])[[1月28日]] | |衆、貴 |憲政会 |[[1926年]][[1月28日]]}} '''加藤 高明'''(かとう たかあき)、[[1860年]][[1月25日]]([[安政]]7年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - [[1926年]]([[大正15年]])[[1月28日]])は[[日本]]の[[外交官]]、[[政治家]]。第24代[[内閣総理大臣]]。[[正二位]] [[大勲位]] [[伯爵]]。幼名は総吉。娘は[[岡部長景]]の妻。[[新選組]]隊士[[佐野七五三之助]]は母方の伯父にあたる。 == 生涯 == === 財界への歩み === [[尾張藩]]の下級藩士・服部重文、久子の次男として生まれた。父は尾張海東郡佐屋(後の[[愛知県]][[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[佐屋町]]、現在は愛知県[[愛西市]])の[[代官]]の[[手代]]だった。[[明治]]5年([[1872年]])祖母加奈子の姉あい子の加藤家に養子に入り、高明と改名。旧制愛知県立第一中学校(現・[[愛知県立旭丘高等学校]])・名古屋洋学校を経て、[[東京大学]]法学部を首席で卒業。[[三菱財閥|三菱]]に入社し[[イギリス]]に渡る。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、[[岩崎弥太郎]]の長女春路と結婚(このことから後に政敵から「三菱の大番頭」と揶揄される)。明治20年([[1887年]])より官界入りした。 === 財界から官界、政界へ === [[画像:Takaaki Kato.jpg|thumb|left|150px|外相時代の加藤]] 明治20年から[[大隈重信]][[外務大臣 (日本)|外相]]の秘書官兼政務課長や駐英[[公使]]を歴任。 明治33年([[1900年]])には第4次[[伊藤博文]]内閣の外相に就任し、[[日英同盟]]の推進などに尽力した。その後、東京日日新聞(後の[[毎日新聞]])社長、第1次[[西園寺公望]]内閣の外相<ref>[[鉄道国有化]]反対を理由にわずか2ヶ月で辞任したが、実際には[[日露戦争]]後の[[陸軍_(日本)|陸軍]]の撤兵の遅さに対する不満と健康問題もあったとされている。</ref>、駐英大使、第3次[[桂太郎]]内閣の外相を歴任する。その間、[[衆議院]]議員を1期務め、後に[[貴族院 (日本)|貴族院勅撰議員]]となった。 [[大正]]2年([[1913年]])、桂の主導による[[立憲同志会]]の結成に参画して、桂の死後に総理(立憲同志会は[[総裁]]職を総理と呼称していた)となった。翌年第2次[[大隈重信]]内閣の外相として、[[第一次世界大戦]]への参戦、[[対華21ヶ条要求]]などに辣腕を振るった。大隈退陣後は、同志会と中正会が合同して成立した[[憲政会]]の総裁として[[元老]]政治の打破・選挙権拡張をめざす。しかし、同志会結成の過程で[[犬養毅]]らと対立し、元老の西園寺公望からは対華21ヶ条要求を出した事に対して批判を加えられた。また総選挙のたびに議席数を減らすなど平坦な道のりではなく、苦節十年と呼ばれる長期にわたる在野生活を送った<ref>唯一、[[高橋内閣]][[内閣総辞職|総辞職]]の際に、「[[加藤友三郎]]が辞退した場合には、加藤高明を後継総理とする」決定が[[元老会議]]で出された事があったが、これを知った[[立憲政友会]]が辞退を決意していた加藤友三郎を説得して翻意させてしまったために政権獲得の好機を逸している。</ref>。 === 組閣以降 === [[Image:Members of the Capital Restoration Board.jpg|thumb|150px|震災復興院委員 左から右に[[澁澤栄一]]、[[伊東巳代治]]、[[加藤高明]]]] 第二次護憲運動で[[清浦奎吾|清浦]]内閣が倒れ、[[立憲政友会]]、憲政会、[[革新倶楽部]]の所謂、[[護憲三派]]が新しく組閣することになった。 大正13年([[1924年]])6月11日、憲政会が比較第一党となり加藤は[[内閣総理大臣]]となった。加藤は東京帝国大学出身初の首相である。選挙公約であった[[普通選挙法]]を成立させ、[[日ソ基本条約]]を締結し[[ソビエト連邦|ソ連]]と国交を樹立するなど、一定の成果をあげた。しかし一方では[[日本共産党|共産党]]対策から[[治安維持法]]を同時に成立させた。この法規は言論弾圧の法規であり、特に戦時中に乱用されたとして治安維持法反対派からは強く批判されている。一方で治安維持法擁護派からはこの時代には労働者の権利意識が高まり、労働者運動が多発しており、また[[ロシア革命]]の成功も記憶に新しく普通選挙法によって共産主義が爆発的に広がる可能性もあったことから出されたもので当時の各国も同様の法規を有していたことからやむを得ぬものであったとする意見もある。また、[[宇垣軍縮]]に見られるような陸軍の軍縮を進める一方で陸軍現役将校学校配属令を公布し、中等学校以上における学校教練を創設した。 こうした革新的な政治と、保守的な政治を使い分けた加藤の治世を[[飴と鞭]]と称することもある。 また、この内閣から以降7代、衆議院の多数政党が内閣を交互に組織する「[[憲政の常道]]」が確立され、[[大正デモクラシー]]の成果が実った内閣でもあった。この内閣には元総理の[[高橋是清]]、加藤のあと次々と総理となる[[若槻禮次郎]]、[[濱口雄幸]]、[[幣原喜重郎]](臨時)、[[犬養毅]]が閣僚におり、本格的な政党政治時代のスタートに相応しい内閣であったと言えよう。 翌年、憲政会と政友会のつなぎ役であった[[横田千之助]][[司法大臣]]が急死すると、政友会と憲政党は内紛を起こして護憲三派連立は崩れて加藤内閣は崩壊する。だが、元老の西園寺公望は自らが次の政友会内閣の首班に期待していた横田が死ぬとたちまちその遺志を踏みにじって護憲三派を崩壊させた政友会に失望して、個人的には好意的ではなかった加藤に政権を続投させる決断をした。これを受けて大正14年([[1925年]])[[8月2日]]、加藤の憲政会単独内閣となる<ref> *現代ではこれを[[内閣改造]]とみなすことが多いが、加藤はこのとき内閣総辞職してからあらためて二度目の組閣の大命を受けているので、この日以後を「第二次加藤内閣」とする方が合理的である。実際1980年代はじめごろまでは教科書や参考文献の多くが「護憲三派の第一次加藤高明内閣」「憲政会単独の第二次加藤高明内閣」といった書き方をしていたが、首相官邸ホームメージができてその歴代内閣一覧で第二次加藤内閣が無視された結果、多くの文献がこれを踏襲することになってしまった。なおこのあと、近衛文麿は第二次近衛内閣で意見が衝突した[[松岡洋右]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]を辞めさせるため、やはりいったん内閣総辞職してからあらためて組閣の大命を受けて松岡抜きの内閣を組織しているが、この明確に内閣改造を目的とした再組閣の後の内閣を、今日の総理官邸や日本人も、「第三次近衛内閣」と呼んでおり、明らかに一貫性を欠いている。 *新内閣の組織は、主権者の意思によるものであり、戦前は「大命降下」、戦後は「内閣総辞職」か「総選挙による新しい国会(実質衆議院)構成」の後に行われる。戦前は時折、この内閣総辞職にあたる全閣僚の辞表を取りまとめての提出がされており、しかしその都度受理されずに却下させる事も多かった。加藤高明内閣においては、支持基盤の瓦解が理由であり、一旦はその後継の検討がなされ、大命が再降下されている事からも、別の新しい第二次内閣とした方が合理的であるが、大命再降下の後に辞表の差し戻しをしており、親任式も交替した3閣僚しか行われていない。教科書や歴史関連の専門書に第二次内閣扱いをしたものは多かったが、あくまで手続き的には内閣改造にあたると考えて問題はない。よく近衛内閣の第二次と第三次の違いと比較されるが、この際は辞表差し戻しが行われておらず、再度の首相拝命扱いとなっているので、事務的には明らかに違いが生じる。</ref>。 しかし、その翌年の[[1月22日]]、加藤は[[帝国議会]]内で[[肺炎]]をこじらせて倒れてそのまま6日後に死去、政権は若槻内閣へと交代する。 == 栄典 == * [[明治35年]]12月28日:[[勲一等瑞宝章]] * 明治44年8月24日:男爵 * [[大正5年]]7月14日:[[勲一等旭日桐花大綬章]]、子爵(陞爵) * [[大正15年]]1月28日:[[大勲位菊花大綬章]]、伯爵(陞爵) == 脚注 == <references/> == 関連項目 == {{commonscat|Takaaki Kato}} * [[加藤高明内閣]] * [[華族]] * [[岩崎家]] * [[佐野七五三之助]] * [[普通選挙法]] == 外部リンク == *[http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/54.html?c=4 加藤高明肖像] *[http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man14.html 三菱人物伝 加藤高明] *[http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/katoutakaaki.html 加藤高明関係文書 | 国立国会図書館]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%98%8E 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月20日 (月) 13:36。]     

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。