高橋是清

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{{日本の内閣総理大臣 |[[高橋内閣|20]] |高橋 是清<br />(たかはし これきよ)<br />[[Image:Korekiyo Takahashi formal.jpg|200px]] |[[安政]]元年[[閏]][[7月27日 (旧暦)|7月27日]]([[1854年]][[9月19日]]) |[[江戸]] |[[開成学校]] |[[大勲位]][[子爵]] |[[貴族院議員]]<br />[[大蔵大臣]]<br />[[日本銀行|日本銀行総裁]] |無 |[[大正]]10年([[1921年]])[[11月13日]]|大正11年([[1922年]])[[6月12日]] | |貴、衆 |政友会 |昭和11年(1936年)2月26日}} '''高橋 是清'''(たかはし これきよ、愛称'''だるまさん'''、[[安政]]元年[[閏]][[7月27日 (旧暦)|7月27日]]([[1854年]][[9月19日]]) - [[昭和]]11年([[1936年]])[[2月26日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[立憲政友会]]第4代総裁。第20代[[内閣総理大臣]](在任: [[1921年]]([[大正]]10年)[[11月13日]] - [[1922年]](大正11年)[[6月12日]])。[[大勲位]][[子爵]]。[[幼名]]は和喜次。 == 経歴 == 安政元年閏7月27日[[江戸幕府|幕府]]御用[[絵師]]・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、[[江戸]]芝中門前町に生まれた。母のきんは[[魚]]屋の娘で川村家に子守奉公にきていた女中であった。庄右衛門の妻は[[妊娠|身重]]になったきんに同情しこっそり中門前町のおばの家へ帰して静養させときどき見舞って世話をしたという<ref>『高橋是清―<small>財政家の数奇な生涯</small>』 7頁</ref> 。生後まもなく[[仙台藩]]の[[足軽]]高橋覚治の[[養子]]に出される。 その後、横浜のアメリカ人[[医師]][[ジェームス・カーティス・ヘボン|ヘボン]]の私塾(現・[[明治学院大学]])にて学び、[[慶応]]3年([[1867年]])仙台藩の命令により、[[勝海舟]]の息子・小鹿(ころく)と海外へ留学した。しかし、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、[[ユージン・M・ヴァンリード]](Eugene M. Van Reed)によって学費や渡航費を着服され、更にホームステイ先である彼の両親に騙され奴隷契約書にサインし奴隷として[[オークランド]]のブラウン家に売られる。牧童やぶどう園で奴隷としての生活を強いられ、いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねる。[[明治]]元年([[1868年]])帰国する。帰国後の明治6年([[1873年]])[[サンフランシスコ]]で知遇を得た[[森有礼]]に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。英語の教師もこなし、[[大学予備門]]で教える傍ら当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現・[[開成中学校・高等学校|開成高校]])の初代校長をも一時務めた。その間、[[文部省]]、[[農商務省 (日本)|農商務省]](現・[[経済産業省]]及び[[農林水産省]])の官僚としても活躍、農商務省の外局として設置された[[特許庁|特許局]]の初代局長に就任し、日本の[[特許|特許制度]]を整えた。[[官僚]]としてのキャリアを中断して赴いた[[ペルー]]で銀鉱事業を行うが失敗、再び帰国した後に[[川田小一郎]]日銀総裁に声をかけられ、[[日本銀行]]に入行。その後、日銀副総裁、日銀総裁などを務め、[[ロンドン]]留学時代の人脈を利用して[[日露戦争]]の戦時[[外債]]の公募などで活躍した。明治38年([[1905年]])、[[貴族院議員]]に勅選。 [[Image:Takahashi korekiyo giving an address.jpg|thumb|left|175px|八度目の大蔵大臣(昭和10~11年)]] [[大正]]2年([[1913年]])、第1次[[山本権兵衛]]内閣の[[大蔵大臣]]に就任、この時[[立憲政友会]]に入党する。また、政友会の[[原敬]]が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第20代[[内閣総理大臣]]に就任、同時に立憲政友会の第4代総裁となった。しかし高橋自身思わぬ総裁就任だったため、大黒柱の原を失い混乱する政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解している。 政友会はその後も迷走し、[[清浦奎吾]][[超然内閣]]が出現した際には支持・不支持を巡って大分裂、脱党した[[床次竹二郎]]らは[[政友本党]]を結成し清浦の支持に回った。これに対し高橋率いる政友会は、[[憲政会]]および[[革新倶楽部]]と[[護憲三派]]を結成し、[[第二次護憲運動]]を起こした。これにより清浦内閣打倒に成功する。新たに総理大臣となった憲政会総裁の[[加藤高明]]は、高橋を農商務相に任じた。 [[Image:Korekiyo Takahashi and Makoto Saito last pic together.jpg|thumb|right|200px|高橋と齋藤内府(右) ----- <small>ともに滞米経験がある高橋と斎藤は、個人的に親しい友人でもあった。画像は1936年2月20日、斎藤が蔵相官邸に高橋を訪れた際に撮影されたもの。この六日後に両者は悲劇的な最期をむかえる(→ 詳細は「[[二・二六事件]]」を参照)。</small>]] その後高橋は政友会総裁を[[田中義一]]に譲り政界を引退するが、昭和2年([[1927年]])に[[昭和金融恐慌]]が発生し、瓦解した第1次[[若槻礼次郎]]内閣に代わって組閣した[[田中義一]]に請われ自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった[[井上準之助]]と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。 政友会総裁[[犬養毅]]が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任、金輸出再禁止([[12月13日]])・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額などで、[[世界恐慌]]により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。また、[[五・一五事件]]で犬養が暗殺された際に総理大臣を[[内閣総理大臣臨時代理|臨時兼任]]している。続いて親友である[[斎藤実]]が組閣した際も留任(5度目)。また[[1934年]]に、共立学校での教え子にあたる[[岡田啓介]]首班の[[岡田内閣]]にて6度目の[[大蔵大臣]]に就任。[[インフレーション|インフレ]]を抑えるために軍事予算を縮小しようとしたことが[[軍部]]の恨みを買い、[[二・二六事件]]で[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の自宅二階で青年将校達に[[暗殺]]された。 == 逸話 == *高橋はそのふくよかな容貌から「[[だるま|ダルマ]]蔵相」、「達磨さん」と呼ばれて親しまれた。 *在任中は主に積極財政政策をとり、[[井上準之助]]が行った緊縮財政としばしば対比される。また、[[公債]]発行による[[財政政策]]、また[[乗数効果]]を説いたことから、「日本の[[ジョン・メイナード・ケインズ|ケインズ]]」とも呼ばれている<!--(ちなみに、ケインズの『[[雇用・利子および貨幣の一般理論|一般理論]]』が発表されたのは高橋が暗殺された年の[[1936年]]である)--><!-- 脱線 -->。 *高橋が岡田内閣に入閣した際に、既に同内閣に対して野党宣言をしていた立憲政友会総裁の[[鈴木喜三郎]]は同内閣に入閣した政友会党員4名全員を[[除名]]しようとした。だが、元総裁の高橋を除名した際の党内に与える動揺を恐れて、高橋を「離別」すると宣言(あとの3名は除名処分)してお茶を濁した。 *高橋と同じように[[ケインジアン]]を自認していた[[宮澤喜一]]は、総理退任後5年を経て[[小渕内閣]]の大蔵大臣に就任、その後の六つの内閣<ref>[[小渕内閣第1次改造内閣]]、[[小渕内閣第2次改造内閣]]、[[第1次森内閣]]、[[第2次森内閣]]、[[第2次森改造内閣]]、[[第2次森改造内閣 (中央省庁再編後)]]。</ref>で留任して<ref>ただし最後は[[財務大臣]]。</ref>積極財政を主導したことから「平成の高橋是清」と呼ばれた。 [[Image:Series B 50 yen Banknote.jpg|thumb|200px|[[日本銀行券]]B50円券]] * 高橋是清は歴代[[日本銀行|日銀総裁]]のなかで唯一その肖像が[[日本銀行券]]に使用された人物。[[1951年]]から[[1958年|58年]]にかけて発行された五十円券がそれである。 *旧高橋邸の跡は[[高橋是清翁記念公園]]([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]7丁目)となり、建物の一部は[[江戸東京たてもの園]](東京都[[小金井市]])に移築されて一般公開されている<ref>建物は高橋是清が暮らしていた建物そのものであり、2階はかつての二・二六事件の現場でもあり、ありし日の高橋是清を偲ぶことができる。1階の南側の一室は和風(座敷)の喫茶コーナーになっており、緑茶やあんみつを楽しみつつ身体を休めることができる。昔風のガラスが入ったガラス戸、美しい日本庭園に面していて、情緒豊かな空間。</ref> ==年譜== [[Image:Takahashi_family_photo_op.jpg|thumb|right|300px|衆議院議員選挙に初当選後に撮影した家族との記念写真(1924年)]] *[[1854年]]7月27日:[[江戸]]芝中門前町(現[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]])に[[幕府]][[絵師]]川村庄右衛門の[[私生児]]として生まれ間もなく[[仙台藩]]の[[足軽]]高橋覚治の家に[[里子]]に出され後[[養子]]となる *[[1864年]]:[[横浜市|横浜]]の[[ジェームス・カーティス・ヘボン|ヘボン]]夫人家塾に学ぶ *[[1866年]]:[[イギリス|英]]人シャンドの[[ボーイ]]となる *[[1867年]]:渡米し[[オークランド]]で[[奴隷]]労働しながら勉強する *[[1868年]]12月:帰国し[[森有礼]]家の[[書生]]となる *[[1869年]]1月:大学南校に入学 3月:同校教官三等手伝 *[[1870年]](秋)頃:[[堕落|放蕩]]生活に入り[[教官]]を辞める *[[1871年]]:[[唐津藩]]の英語学校耐恒寮の教員となる *[[1872年]](秋):耐恒寮の教員を辞めて上京する 駅逓寮で[[翻訳]]の仕事をするが間もなく辞職 [[開成学校]]に入学する *[[1873年]]7月:[[文部省]]督学局十等出仕としてモーレー博士の通訳をする *[[1876年]]5月:[[東京英語学校|官立東京英語学校]]教員に雇われる *[[1877年]]3月:東京英語学校教員を辞める [[翻訳]]、予備校([[共立学校]])教師などをする *[[1878年]]9月:東京大学予備門英語教員として雇われる *[[1881年]]4月:[[文部省]]御用掛に転じ東京大学予備門教員を兼務 5月:[[農商務省]]御用掛に転ずる *[[1884年]]7月:任農商務権少書記官 10月農商務省工務局商標登録所長 *[[1885年]]4月:専売特許所長兼務 11月商標登録専売特許制度視察のため欧米各国へ差遣  *[[1887年]]12月:特許局長 *[[1889年]]3月:東京農林学校長兼任 11月:[[ペルー]]のカラワクラ銀山経営のため横浜出帆 *[[1890年]]1月:ペルーのカオヤ港着 2月:カラワクラ鉱山開坑式を行う 3月:鉱山が廃坑であることがわかる 4月:帰国の途につく *[[1892年]]6月:日本銀行建築所事務主任 *[[1893年]]9月:日銀支配役、西部支店長 *[[1895年]]8月:横浜正金銀行本店支配人 *[[1897年]]3月:[[横浜正金銀行]]副頭取 *[[1899年]]2月:[[日本銀行]]副総裁となる *[[1905年]]1月:貴族院議員に勅選 *[[1907年]]9月:勲功により[[男爵]]授爵 *[[1911年]]6月:日本銀行総裁となる *[[1913年]]2月:大蔵大臣に就任する 政友会入党 *[[1914年]]4月:依願免本官 *[[1918年]]9月:大蔵大臣に就任する *[[1920年]]9月:[[子爵]]陞爵 *[[1921年]]11月:内閣総理大臣兼大蔵大臣に就任する 政友会総裁となる *[[1924年]]3月:貴族院議員を辞任 5月:[[岩手県]][[盛岡市]]の[[原敬]]の旧選挙区から衆議院議員選挙に立候補し当選 *[[1925年]]4月:商工大臣兼農林大臣に就任する 政友会総裁を辞任する *[[1927年]]4月:大蔵大臣に就任する *[[1931年]]12月:大蔵大臣に就任する *[[1932年]]5月:総理大臣を臨時兼任する *[[1934年]]11月:大蔵大臣に就任する *[[1936年]]2月26日:赤坂の自宅二階で暗殺され、死去 享年82歳 == 家族・親族 == [[Image:Korekiyo Takahashi with his grandchildren.jpg|thumb|right|200px|[[葉山]]の別邸で孫たちとくつろぐ高橋 (1935年8月)]] *二女の和喜子は[[明治時代|明治]]の元勲[[大久保利通]]の八男・利賢に嫁ぐ。 *孫の[[高橋豊二]](長男・是賢の次男)は[[東京大学|東京帝国大学]]サッカー部に所属し、[[1936年]][[1936年のオリンピックサッカー競技|ベルリンオリンピック・サッカー競技]]に出場した[[サッカー日本代表|日本代表]]に名を連ねた。 *孫娘の福子が首相[[伊藤博文]]の孫・博精に嫁いでいる。博精の娘文子は[[出雲国造|出雲国造家]]の千家達彦に嫁いでいる。 <pre> 是清━━┳是賢━━━━━━┳賢一━━┳秀昌     ┣是福━━福子  ┣照   ┣禮子     ┣和喜子     ┣豊二  ┗康秀     ┣是孝      ┣艶     ┗是彰      ┣康三              ┗多恵 </pre> == 著作 == *『高橋是清山県有朋経済問題論争』(高橋是清・[[山縣有朋]] 口述記録、[[千倉書房]]、1911年、ASIN B000JBP4A6) *『立身の径路』(高橋是清 著、丸山舎書籍部、[[1912年]]、絶版) **『高橋是清 ― 立身の経路』(高橋是清 著、[[日本図書センター]]、[[1999年]]再版、ISBN 978-4820543275) *『随想録』(高橋是清 著、千倉書房、[[1936年]]、絶版) **『高橋是清 随想録』(高橋是清 著、上塚司 編、本の森、1999年再版、ISBN 978-4938965150) *『高橋是清自伝』(高橋是清 稿、山崎源太郎 編、斗南書院、1936年、ASIN B000JBLTFK) **『高橋是清自伝』(高橋是清 稿、山崎源太郎 編、上塚司 再編、[[中央公論新社]]、1976年、上巻 ISBN 978-4122003477、下巻 ISBN 978-4122003613) **『高橋是清の日本改造論 ― “デフレ大恐慌” のいま、死中に活路を見い出す』(高橋是清 稿、山崎源太郎 編、矢島裕紀彦 再再編、[[中央公論新社]]、[[1998年]]、ISBN 978-4413031240) == 参考文献 == 上記著作の他: *[[大島清 (筑波大学)|大島清]] 『高橋是清 ― <small>財政家の数奇な生涯</small>』 [[1969年]] [[中央公論新社#旧中央公論社のその後|中央公論社]] == 注釈 == {{脚注ヘルプ}} <references/> ==関連項目== {{commons|Category:Takahashi Korekiyo}} *[[高橋内閣]] *[[二・二六事件]] ==外部リンク== *[http://www3.boj.or.jp/shimonoseki/kengaku/korekiyo.html 高橋是清経歴] *[http://www.jpo.go.jp/seido/rekishi/kore.htm 高橋是清について] *[http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/takahashi_ko.html 高橋是清墓所] *[http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person867.html 高橋是清:作家別作品リスト]([[青空文庫]]) [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年6月24日 (火) 11:42。]     
{{日本の内閣総理大臣 |[[高橋内閣|20]] |高橋 是清<br />(たかはし これきよ)<br />[[Image:Korekiyo Takahashi formal.jpg|200px]] |[[1854年]][[9月19日]]([[嘉永]]7年[[閏]][[7月27日 (旧暦)|7月27日]]) |[[江戸]] |[[開成学校]] |[[大勲位]][[子爵]] |[[貴族院議員]]<br />[[大蔵大臣]]<br />[[日本銀行|日本銀行総裁]] |無 |[[大正]]10年([[1921年]])[[11月13日]]|大正11年([[1922年]])[[6月12日]] | |貴、衆 |政友会 |昭和11年(1936年)2月26日}} '''高橋 是清'''(たかはし これきよ、愛称'''だるまさん'''、[[1854年]][[9月19日]]([[嘉永]]7年[[閏]][[7月27日 (旧暦)|7月27日]]) - [[1936年]]([[昭和]]11年)[[2月26日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[立憲政友会]]第4代総裁。第20代[[内閣総理大臣]](在任: [[1921年]]([[大正]]10年)[[11月13日]] - [[1922年]](大正11年)[[6月12日]])。[[大勲位]][[子爵]]。[[幼名]]は和喜次。 == 経歴 == 嘉永7年閏7月27日[[江戸幕府|幕府]]御用[[絵師]]・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、[[江戸]]芝中門前町に生まれた。母のきんは[[魚]]屋の娘で川村家に子守奉公にきていた女中であった。庄右衛門の妻は[[妊娠|身重]]になったきんに同情しこっそり中門前町のおばの家へ帰して静養させときどき見舞って世話をしたという<ref>『高橋是清―<small>財政家の数奇な生涯</small>』 7頁</ref> 。生後まもなく[[仙台藩]]の[[足軽]]高橋覚治の[[養子]]に出される。 その後、横浜のアメリカ人[[医師]][[ジェームス・カーティス・ヘボン|ヘボン]]の私塾(現・[[明治学院大学]])にて学び、[[慶応]]3年([[1867年]])仙台藩の命令により、[[勝海舟]]の息子・小鹿(ころく)と海外へ留学した。しかし、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、[[ユージン・M・ヴァンリード]](Eugene M. Van Reed)によって学費や渡航費を着服され、更にホームステイ先である彼の両親に騙され奴隷契約書にサインし奴隷として[[オークランド]]のブラウン家に売られる。牧童やぶどう園で奴隷としての生活を強いられ、いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねる。[[明治]]元年([[1868年]])帰国する。帰国後の明治6年([[1873年]])[[サンフランシスコ]]で知遇を得た[[森有礼]]に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。英語の教師もこなし、[[大学予備門]]で教える傍ら当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現・[[開成中学校・高等学校|開成高校]])の初代校長をも一時務めた。その間、[[文部省]]、[[農商務省 (日本)|農商務省]](現・[[経済産業省]]及び[[農林水産省]])の官僚としても活躍、農商務省の外局として設置された[[特許庁|特許局]]の初代局長に就任し、日本の[[特許|特許制度]]を整えた。[[官僚]]としてのキャリアを中断して赴いた[[ペルー]]で銀鉱事業を行うが、すでに廃坑のため失敗。再び帰国した後に[[川田小一郎]]日銀総裁に声をかけられ、[[日本銀行]]に入行。その後、日銀副総裁、日銀総裁などを務め、[[ロンドン]]留学時代の人脈を利用して[[日露戦争]]の戦時[[外債]]の公募などで活躍した。明治38年([[1905年]])、[[貴族院議員]]に勅選。 [[Image:Takahashi korekiyo giving an address.jpg|thumb|left|175px|八度目の大蔵大臣(昭和10~11年)]] [[大正]]2年([[1913年]])、第1次[[山本権兵衛]]内閣の[[大蔵大臣]]に就任、この時[[立憲政友会]]に入党する。また、政友会の[[原敬]]が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第20代[[内閣総理大臣]]に就任、同時に立憲政友会の第4代総裁となった。しかし高橋自身思わぬ総裁就任だったため、大黒柱の原を失い混乱する政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解している。 政友会はその後も迷走し、[[清浦奎吾]][[超然内閣]]が出現した際には支持・不支持を巡って大分裂、脱党した[[床次竹二郎]]らは[[政友本党]]を結成し清浦の支持に回った。これに対し高橋率いる政友会は、[[憲政会]]および[[革新倶楽部]]と[[護憲三派]]を結成し、[[第二次護憲運動]]を起こした。これにより清浦内閣打倒に成功する。新たに総理大臣となった憲政会総裁の[[加藤高明]]は、高橋を農商務相に任じた。 [[Image:Korekiyo Takahashi and Makoto Saito last pic together.jpg|thumb|right|200px|高橋と齋藤内府(右) ----- <small>ともに滞米経験がある高橋と斎藤は、個人的に親しい友人でもあった。画像は1936年2月20日、斎藤が蔵相官邸に高橋を訪れた際に撮影されたもの。この六日後に両者は悲劇的な最期をむかえる(→ 詳細は「[[二・二六事件]]」を参照)。</small>]] その後高橋は政友会総裁を[[田中義一]]に譲り政界を引退するが、昭和2年([[1927年]])に[[昭和金融恐慌]]が発生し、瓦解した第1次[[若槻禮次郎]]内閣に代わって組閣した[[田中義一]]に請われ自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった[[井上準之助]]と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。 政友会総裁[[犬養毅]]が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任、金輸出再禁止([[12月13日]])・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額などで、[[世界恐慌]]により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。また、[[五・一五事件]]で犬養が暗殺された際に総理大臣を[[内閣総理大臣臨時代理|臨時兼任]]している。続いて親友である[[斎藤実]]が組閣した際も留任(5度目)。また[[1934年]]に、共立学校での教え子にあたる[[岡田啓介]]首班の[[岡田内閣]]にて6度目の[[大蔵大臣]]に就任。[[インフレーション|インフレ]]を抑えるために軍事予算を縮小しようとしたことが[[軍部]]の恨みを買い、[[二・二六事件]]で[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の自宅二階で青年将校達に[[暗殺]]された。 == 逸話 == *高橋はそのふくよかな容貌から「[[だるま|ダルマ]]蔵相」、「達磨さん」と呼ばれて親しまれた。 *在任中は主に積極財政政策をとり、[[井上準之助]]が行った緊縮財政としばしば対比される。また、[[公債]]発行による[[財政政策]]、また[[乗数効果]]を説いたことから、「日本の[[ジョン・メイナード・ケインズ|ケインズ]]」とも呼ばれている<!--(ちなみに、ケインズの『[[雇用・利子および貨幣の一般理論|一般理論]]』が発表されたのは高橋が暗殺された年の[[1936年]]である)--><!-- 脱線 -->。 *高橋が岡田内閣に入閣した際に、既に同内閣に対して野党宣言をしていた立憲政友会総裁の[[鈴木喜三郎]]は同内閣に入閣した政友会党員4名全員を[[除名]]しようとした。だが、元総裁の高橋を除名した際の党内に与える動揺を恐れて、高橋を「離別」すると宣言(あとの3名は除名処分)してお茶を濁した。 *高橋と同じように[[ケインジアン]]を自認していた[[宮澤喜一]]は、総理退任後5年を経て[[小渕内閣]]の大蔵大臣に就任、その後の六つの内閣<ref>[[小渕内閣第1次改造内閣]]、[[小渕内閣第2次改造内閣]]、[[第1次森内閣]]、[[第2次森内閣]]、[[第2次森改造内閣]]、[[第2次森改造内閣 (中央省庁再編後)]]。</ref>で留任して<ref>ただし最後は[[財務大臣]]。</ref>積極財政を主導したことから「平成の高橋是清」と呼ばれた。 [[Image:Series B 50 yen Banknote.jpg|thumb|200px|[[日本銀行券]]B50円券]] * 高橋是清は歴代[[日本銀行|日銀総裁]]のなかで唯一その肖像が[[日本銀行券]]に使用された人物。[[1951年]]から[[1958年|58年]]にかけて発行された五十円券がそれである。 *旧高橋邸の跡は[[高橋是清翁記念公園]]([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]7丁目)となり、建物の一部は[[江戸東京たてもの園]](東京都[[小金井市]])に移築されて一般公開されている<ref>建物は高橋是清が暮らしていた建物そのものであり、2階はかつての二・二六事件の現場でもあり、ありし日の高橋是清を偲ぶことができる。1階の南側の一室は和風(座敷)の喫茶コーナーになっており、緑茶やあんみつを楽しみつつ身体を休めることができる。昔風のガラスが入ったガラス戸、美しい日本庭園に面していて、情緒豊かな空間。</ref> ==年譜== [[Image:Takahashi_family_photo_op.jpg|thumb|right|300px|衆議院議員選挙に初当選後に撮影した家族との記念写真(1924年)]] *[[1854年]]閏7月27日:[[江戸]]芝中門前町(現[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]])に[[幕府]][[絵師]]川村庄右衛門の[[私生児]]として生まれ間もなく[[仙台藩]]の[[足軽]]高橋覚治の家に[[里子]]に出され後[[養子]]となる *[[1864年]]:[[横浜市|横浜]]の[[ジェームス・カーティス・ヘボン|ヘボン]]夫人家塾に学ぶ *[[1866年]]:[[イギリス|英]]人シャンドの[[ボーイ]]となる *[[1867年]]:渡米し[[オークランド]]で[[奴隷]]労働しながら勉強する *[[1868年]]12月:帰国し[[森有礼]]家の[[書生]]となる *[[1869年]]1月:大学南校に入学 3月:同校教官三等手伝 *[[1870年]](秋)頃:[[堕落|放蕩]]生活に入り[[教官]]を辞める *[[1871年]]:[[唐津藩]]の英語学校耐恒寮の教員となる *[[1872年]](秋):耐恒寮の教員を辞めて上京する 駅逓寮で[[翻訳]]の仕事をするが間もなく辞職 [[開成学校]]に入学する *[[1873年]]7月:[[文部省]]督学局十等出仕としてモーレー博士の通訳をする *[[1876年]]5月:[[東京英語学校|官立東京英語学校]]教員に雇われる *[[1877年]]3月:東京英語学校教員を辞める [[翻訳]]、予備校([[共立学校]])教師などをする *[[1878年]]9月:東京大学予備門英語教員として雇われる *[[1881年]]4月:[[文部省]]御用掛に転じ東京大学予備門教員を兼務 5月:[[農商務省 (日本)|農商務省]]御用掛に転ずる *[[1884年]]7月:任農商務権少書記官 10月農商務省工務局商標登録所長 *[[1885年]]4月:専売特許所長兼務 11月商標登録専売特許制度視察のため欧米各国へ差遣  *[[1887年]]12月:特許局長 *[[1889年]]3月:東京農林学校長兼任 11月:[[ペルー]]のカラワクラ銀山経営のため横浜出帆 *[[1890年]]1月:ペルーのカオヤ港着 2月:カラワクラ鉱山開坑式を行う 3月:鉱山が廃坑であることがわかる 4月:帰国の途につく *[[1892年]]6月:日本銀行建築所事務主任 *[[1893年]]9月:日銀支配役、西部支店長 *[[1895年]]8月:横浜正金銀行本店支配人 *[[1897年]]3月:[[横浜正金銀行]]副頭取 *[[1899年]]2月:[[日本銀行]]副総裁となる *[[1905年]]1月:貴族院議員に勅選 *[[1907年]]9月:勲功により[[男爵]]授爵 *[[1911年]]6月:日本銀行総裁となる *[[1913年]]2月:大蔵大臣に就任する 政友会入党 *[[1914年]]4月:依願免本官 *[[1918年]]9月:大蔵大臣に就任する *[[1920年]]9月:[[子爵]]陞爵 *[[1921年]]11月:内閣総理大臣兼大蔵大臣に就任する 政友会総裁となる *[[1924年]]3月:貴族院議員を辞任 5月:[[岩手県]][[盛岡市]]の[[原敬]]の旧選挙区から衆議院議員選挙に立候補し当選 *[[1925年]]4月:商工大臣兼農林大臣に就任する 政友会総裁を辞任する *[[1927年]]4月:大蔵大臣に就任する *[[1931年]]12月:大蔵大臣に就任する *[[1932年]]5月:総理大臣を臨時兼任する *[[1934年]]11月:大蔵大臣に就任する *[[1936年]]2月26日:赤坂の自宅二階で暗殺され、死去 享年82 == 家族・親族 == [[Image:Korekiyo Takahashi with his grandchildren.jpg|thumb|right|200px|[[葉山]]の別邸で孫たちとくつろぐ高橋 (1935年8月)]] *二女の和喜子は[[明治時代|明治]]の元勲[[大久保利通]]の八男・利賢に嫁ぐ。 *孫の[[高橋豊二]](長男・是賢の次男)は[[東京大学|東京帝国大学]]サッカー部に所属し、[[1936年]][[1936年のオリンピックサッカー競技|ベルリンオリンピック・サッカー競技]]に出場した[[サッカー日本代表|日本代表]]に名を連ねた。 *孫娘の福子が首相[[伊藤博文]]の孫・博精に嫁いでいる。博精の娘文子は[[出雲国造|出雲国造家]]の千家達彦に嫁いでいる。 <pre> 是清━━┳是賢━━━━━━┳賢一━━┳秀昌     ┣是福━━福子  ┣照   ┣禮子     ┣和喜子     ┣豊二  ┗康秀     ┣是孝      ┣艶     ┗是彰      ┣康三              ┗多恵 </pre> == 著作 == *『高橋是清山県有朋経済問題論争』(高橋是清・[[山縣有朋]] 口述記録、[[千倉書房]]、1911年、ASIN B000JBP4A6) *『立身の径路』(高橋是清 著、丸山舎書籍部、[[1912年]]、絶版) **『高橋是清 ― 立身の経路』(高橋是清 著、[[日本図書センター]]、[[1999年]]再版、ISBN 978-4820543275) *『随想録』(高橋是清 著、千倉書房、[[1936年]]、絶版) **『高橋是清 随想録』(高橋是清 著、上塚司 編、本の森、1999年再版、ISBN 978-4938965150) *『高橋是清自伝』(高橋是清 稿、山崎源太郎 編、斗南書院、1936年、ASIN B000JBLTFK) **『高橋是清自伝』(高橋是清 稿、山崎源太郎 編、上塚司 再編、[[中央公論新社]]、1976年、上巻 ISBN 978-4122003477、下巻 ISBN 978-4122003613) **『高橋是清の日本改造論 ― “デフレ大恐慌” のいま、死中に活路を見い出す』(高橋是清 稿、山崎源太郎 編、矢島裕紀彦 再再編、[[中央公論新社]]、[[1998年]]、ISBN 978-4413031240) == 参考文献 == 上記著作の他: *[[大島清 (筑波大学)|大島清]] 『高橋是清 ― <small>財政家の数奇な生涯</small>』 [[1969年]] [[中央公論新社#旧中央公論社のその後|中央公論社]] == 注釈 == {{脚注ヘルプ}} <references/> ==関連項目== {{commons|Category:Takahashi Korekiyo}} *[[高橋内閣]] *[[二・二六事件]] ==外部リンク== *[http://www3.boj.or.jp/shimonoseki/kengaku/korekiyo.html 高橋是清経歴] *[http://www.jpo.go.jp/seido/rekishi/kore.htm 高橋是清について] *[http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/takahashi_ko.html 高橋是清墓所] *[http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person867.html 高橋是清:作家別作品リスト]([[青空文庫]]) [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月30日 (日) 08:24。]     

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