平沼騏一郎

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{{日本の内閣総理大臣 |[[平沼内閣|35]] |平沼 騏一郎<br/>(ひらぬま きいちろう)<br/>[[Image:Kiichiro Hiranuma.jpg|150px]] |[[1867年]][[10月25日]])<br/>(旧暦[[慶応]]3年[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]) |[[美作国]][[津山藩]]<br>(後の[[岡山県]][[津山市]]) |[[帝国大学]]<br>(後の[[東京大学]]) |[[従二位]][[勲一等]][[男爵]]<br/>[[博士 (法学)|法学博士]] |<!-->[[貴族院議員]]<br/><!-->[[枢密院議長]] |無し([[#家族|家族]]参照) |[[1939年]][[1月5日]]|[[1939年]][[8月28日]] |[[貴族院 (日本)#華族議員|貴族院華族議員]]| |[[挙国一致内閣|中間内閣]] |[[1952年]](昭和27年)[[8月22日]]}} '''平沼 騏一郎'''(ひらぬま きいちろう、[[1867年]][[10月25日]]([[慶応]]3年[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]) - [[1952年]]([[昭和]]27年)[[8月22日]])は、日本の[[官僚]]。第35代[[内閣総理大臣]]。[[従二位]][[勲一等]]、[[男爵]]、[[博士 (法学)|法学博士]]。[[日本大学]]第2代総長。大東文化学院(後の[[大東文化大学]])初代総長。大東文化協会(大東文化大学の設立母体)三代会頭。[[国本社]]の創設者。[[法曹界]]で権力を持ち、[[右翼]]勢力の拡大に尽力した。戦後、東京裁判で[[A級戦犯]]で訴追され終身刑の判決。1952年、病気仮釈放、直後に死去。1978年に[[靖国神社]]に合祀された。 == 人物像 == === 生い立ち === [[1867年]](慶應3年)[[9月28日]]、[[津山城]]下[[南新座]](後の[[岡山県]][[津山市]])に[[津山藩]][[武士|士]]平沼晋の次男としてうまれる。 [[1872年]](明治5年)に[[上京]]して同郷・[[箕作秋坪]]の三叉学舎(さんさがくしゃ)にて英語・漢文・算術を学び、[[1878年]](明治11年)に[[第一高等学校 (旧制)|東京大学予備門]]入学。[[1888年]](明治21年)[[帝国大学]]法科大学(のちの[[東京大学|東京帝国大学]]法科大学、戦後の[[東京大学]]法学部)を卒業し、その後司法界で出世していった。 === 首相就任まで === [[Image:Yuasa visits Hiranuma.jpg|thumb|200px|left|[[林内閣]]の総辞職を受けて後継首班の選出に奔走する[[湯浅倉平]]内大臣 (右) の訪問を受ける平沼枢密院議長(1937年(昭和12年)5月31日)]] [[1908年]]、[[刑法]]改正(現行刑法制定)を機に設置された犯罪者の前科を記録するための方法を検討する「犯罪者異同識別法取調会」の中心メンバーとなる。平沼の報告書に基づいて、[[指紋]]による前科登録が導入される事となった。 [[1910年]]の[[大逆事件]]では、[[検事]]として[[幸徳秋水]]らに極刑を要求した。<ref>[http://members2.jcom.home.ne.jp/anarchism/koutoku-giken.html  幸徳事件]</ref> [[1913年]]4月、司法相の[[松室致]]とはかり、「裁判所廃止及名称変更ニ関スル法律」「判事及検事ノ休職並判事ノ転所ニ関スル法律」を成立させ、229人の判事・検事を一挙に休・退職とし、443人にのぼる異動を発令した。この法律は、裁判官と検事を、司法界粛清の嵐と震え上がらせた。 政治姿勢はきわめて保守的かつ[[右翼]]国本主義的であり、[[ナチス]]や[[ファシスト党]]を範とした[[ファシズム]]体制の構築を最大の目標にしていた。経歴を生かして主に司法界と[[枢密院]]に大きな影響力を持ち、これに国本社を中心とした大衆的な支持を加えて日本型[[ナチズム]]を確立しようとしたが、あまりに官界に軸足を置きすぎたその政治姿勢は、庶民からはまったく支持されなかった。 過去、[[第2次若槻内閣]]や[[浜口内閣]]に対する攻撃、[[天皇機関説排撃事件]]などで、[[元老]][[西園寺公望]]に嫌われており、本人のつよい希望にもかかわらず首相候補に推されることがなく、また[[枢密院議長]]に就任する事も出来ずに副議長に留め置かれたままであった。そこで平沼は西園寺と彼が育てた[[立憲政友会]]を潰すために[[スキャンダル]]の捜査([[帝人事件]])を行わせたが、彼の意向を受けた検事達の捜査は政友会幹部らの逮捕を優先して裏付けとなる証拠収集が余りにも杜撰であっために、[[公判]]では全員無実無根であるとして[[無罪]][[判決]]が出されてしまった。 さすがに帝人事件後は慎重を期して西園寺が老齢により政治の表舞台から一歩引いた後に、枢密院議長に就任すると国本社を解散し、親米英派と妥協する事で漸く首相の座に就く事を得た。 平沼自身も西園寺の事を敵視しており、戦後、A級戦犯として収監された[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]内における[[重光葵]]との会話の中で、「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の[[財閥]]の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。之を矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と語ったことがある。 === 平沼内閣 === [[Image:Hiranuma_cabinet_photo_op.jpg|thumb|right|300px|「交流内閣」 ----- <small>平沼内閣には[[近衛文麿|近衛]]前総理(一段目、平沼総理の右)が班列として加わったうえ、近衛内閣から塩野法相兼逓相(二段目最右)、[[荒木貞夫|荒木]]文相(三段目最左)、[[木戸幸一|木戸]]内相(四段目平沼と近衛の後方)、[[有田八郎|有田]]外相(四段目後ろ向き)、[[八田嘉明|八田]]商工相兼拓務相(五段目最左、荒木の後方)[[米内光政|米内]]海相(六段目最左、八田の後方)、[[板垣征四郎|板垣]]陸相(七段目、米内の右)の七閣僚が留任、あたかも首のすげ替えの様相を呈した。週刊『アサヒグラフ』はこれを「平沼・近衛 交流内閣」と皮肉っている。</small>]] [[平沼内閣]]は基本的に[[第1次近衛内閣]]の後継[[内閣]]としての性格がつよく、政策、人事の大部分を引き継ぐとともに、[[枢密院]]に転じた[[近衛文麿]]自身も[[無任所大臣|班列 (無任所大臣) ]]として残留してこれに協力した。 最大の懸案である対中問題では、「自今国民党([[蒋介石]]政権)を相手とせず」という近衛声名にもとづいて、[[汪兆銘]]政権を成立させてこれと外交的解決を図ることで[[日中戦争]]の幕引きを狙ったが、意図したような[[中国国民党]]内部の分断が成功せず、まったくの失敗に終わる。 一方[[内政]]問題としては、戦争にともなう経済圧迫に対応するために[[第1次近衛内閣]]以来の国民総動員体制を実務的に推進し、警防団の設置など、米穀配給統制法、国民徴用令などの制定とともに、国民精神総動員委員会などを設置して挙国一致体制を整えてゆくものの、[[天津市|天津]]の親日派海関監督が[[イギリス]][[租界]]で抗日派に暗殺される事件がおこり、事件調査をめぐって[[イギリス]]と対立した[[大日本帝国陸軍|陸軍]]が同租界封鎖するという問題に発展してゆく。 平沼は外交交渉によってこの問題の解決を図り、[[有田・クレーギー協定]]で英国の譲歩を勝ち取るものの、これが[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の反発を呼び、また閣内の英米派とドイツ派との対立を深める結果となり、政権は混迷する。さらに[[8月20日]]にノモンハンで日本軍が記録的大敗を喫し([[ノモンハン事件]])、また[[8月23日]]に[[独ソ不可侵条約|独ソ相互不可侵条約]]が締結されるに至って、防共を課題として[[ドイツ]]、[[中国]]などの反共勢力との同盟を模索していた平沼は衝撃を受け、[[8月28日]]、「'''欧州の天地は複雑怪奇'''」という珍声明とともに内閣は総辞職した。彼にとって規範となる国家像であった[[ナチス]][[第三帝国]]がその最も憎む[[社会主義国]][[ソビエト連邦|ソ連]]と同盟を結んだは、もはや彼の理解を超えていたのであろう。しかし枢軸派の一部には今こそがドイツ外相[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ|リッベントロップ]]のとなえる日独伊ソ連四国同盟締結の好機と考えるものも多く、この時期から平沼は現状維持派と目され批判を受けるようになる。 === 退陣後 === 近衛文麿の[[新体制運動]]に関しては[[皇道派]]軍人とともに批判的な立場をとった。 11月の下旬に新体制推進派から手を引くことを考え始めた近衛は、[[第2次近衛内閣]]で平沼を国務相として閣内に迎えた後、新体制推進派を閣外におい、[[皇道派]]の[[柳川平助]]を法相、平沼を内相とした。平沼は財界から批判のあった経済新体制要綱を骨抜きにし、新体制推進派から協力的であるとして賞賛されていた[[矢野兼三]][[富山県知事]]を休職処分したのを手始めに内務省の人事を一新、この原案を作成した企画院の官僚らを共産主義運動、人民戦線運動にかかわったものとして逮捕を指令し、([[企画院事件]])その余波で[[岸信介]]商工次官を辞職に追い込んだ。さらに平沼は[[大政翼賛会]]を公事結社として政治活動を禁じ、[[有馬頼寧]]らを辞職させ、新体制推進勢力を後退させた。また平沼は米国駐日大使である[[ジョセフ・グルー]]らと面会して、米国との関係修復を目指した。 このような平沼の行動は革新勢力の批判を浴び、ドイツ、ソ連から帰国した[[松岡洋右]]外相は平沼を強く非難した。[[第3次近衛内閣]]においては[[内閣参議]]・国務大臣となり、自分の代わりとして[[田辺治通]]を内務大臣に据えた。こうして平沼は対米関係修復を目指す第3次近衛内閣での実力者と目され、右翼団体[[勤王まことむすび]]から狙撃される。弾丸6発を被弾する重傷だったが一命をとりとめた。 その後は重臣として[[岡田啓介]]、[[近衛文麿]]、[[若槻礼次郎]]らとともに東条内閣倒閣に活躍。東条内閣辞職後の重臣会議では『敬神家』として[[小磯國昭]]を推し、小磯内閣辞職後には他の重臣とともに[[鈴木貫太郎]]を推した。1945年には[[鈴木貫太郎]]の後をついで[[枢密院議長]]となった。この時期、彼は和平派と協調するかと思えば降伏反対を唱え、天皇への上奏の折には明確な主張を見せないなどその立場は一貫せず、その態度は『昭和天皇独白録』で特に強く批判されている。最終的には、日本の国体が護持される確認した事から、[[ポツダム宣言]]を受諾する事に賛成したが、その事に反発する横浜警備隊長であった[[佐々木武雄]]陸軍[[大尉]]を隊長として、[[横浜高等工業学校]]の学生らによって構成された『国民神風隊』によって、自宅を焼き討ちされた。 === 終戦後 === [[太平洋戦争]]後、[[A級戦犯]]として[[終身刑]]が言い渡されるが、[[1952年]]、病気仮釈放。直後に死去した。 == 略歴 == *[[1867年]](慶応3年) **9月28日:津山城下南新座(後の[[岡山県]][[津山市]])に[[津山藩]]士 平沼晋の次男としてうまれる。 *[[1888年]](明治21年) **7月:帝国大学法科大学(後の[[東京大学]]法学部)を首席卒業 **12月:[[司法省]]参事官試補 *[[1890年]](明治23年) **8月:判事試補・芝区治安裁判所詰 **10月:京橋区裁判所判事 **12月:東京地方裁判所判事 *[[1892年]](明治25年) **11月:千葉地裁部長 *[[1893年]](明治26年) **12月:横浜地裁部長 *[[1895年]](明治28年) **9月:東京控訴院判事 *[[1898年]](明治31年) **7月:東京控訴院部長 *[[1899年]](明治32年) **4月:東京控訴院検事 *[[1903年]](明治36年) **10月:司法省参事官兼検事 *[[1905年]](明治38年) **11月:[[大審院]]検事 *[[1906年]](明治39年) **1月:司法省民刑局長兼検事 *[[1909年]](明治42年) **7月:大審院検事局次席検事 **7月:兼民刑局長 *[[1911年]](明治44年) **9月:[[第2次西園寺内閣]]で[[司法次官]]に就任 *[[1912年]](大正1年) **12月:検事総長に就任 *[[1921年]](大正10年) **10月:大審院長に就任 *[[1922年]](大正11年) **3月[[日本大学]]総長に就任(~1923年11月) *[[1923年]](大正12年) **9月:[[第2次山本内閣]]で[[司法大臣]]に就任 *[[1924年]](大正13年) **1月:貴族院議員 **2月:枢密顧問官 **[[右翼]]団体[[国本社]]創立 復古的日本主義を標榜 *[[1926年]](大正15年) **4月:[[枢密院]]副議長に就任 **10月:[[男爵]] *[[1936年]](昭和11年) **3月:枢密院議長に就任 *[[1939年]](昭和14年) **1月:内閣総理大臣に就任 *[[1945年]](昭和20年) **12月:[[A級戦犯]]に指定 *[[1946年]](昭和21年) **4月:[[巣鴨プリズン|巣鴨拘置所]]入所 *[[1948年]](昭和23年) **11月:判決・[[終身禁固]] *[[1952年]](昭和27年) **8月22日:死去 墓所は岡山県津山市の安国寺、東京の多磨霊園 === その他 === *[[千葉県]][[一宮町]]に別荘を所有していた。 == 栄典・授爵 == *1916年(大正5年)1月19日:[[勲一等瑞宝章]] *1926年(大正15年)10月28日:[[男爵]] *1928年(昭和3年)4月21日:[[勲一等旭日桐花大綬章]] == 家族 == なお、元[[経済産業省|経済産業大臣]]で[[衆議院]]議員の[[平沼赳夫]]は、平沼騏一郎の兄である経済史学者で早稲田大学学長を務めた[[平沼淑郎]]の[[曾孫]]である。赳夫の父は[[コスモ石油|大協石油]]勤務の中川恭四郎で、彼は[[石川県]][[金沢市]]出身の内務官僚・中川友次郎の四男であった。また、赳夫の母は[[平沼淑郎|淑郎]]の孫娘である節子(東京裁判においては、老齢である平沼の代理として証言台に立った)である。つまり赳夫は平沼家とは女系での繋がりとなる。当初は[[平沼赳夫|赳夫]]だけを養子にするつもりだったが、思うところあって恭四郎一家ごと養子とし、平沼姓を名乗らせた。 == 系譜 == <!--半角細罫線(┌┼┘)を使用したら系図が滅茶苦茶になるので半角細罫線の使用は絶対にやめて下さい。--> '''平沼家''' [[江戸時代]]は代々[[津山藩]][[武士|士]] <pre>   (長州藩士)      飯田信臣……飯田包亮             ┃             ┣━━節子             ┃   ┃     ┏平沼淑郎━━廣女   ┃     ┃           ┃     ┃           ┃   ┏宣子 平沼晋━┫           ┣━━━┫     ┃           ┃   ┗平沼赳夫     ┃           ┃     ┃     ┗平沼騏一郎…┏━平沼恭四郎    ┃    ┏平沼慶一郎            ┃          ┃    ┃            ┃          ┃    ┃            ┃          ┣━━━━╋廣子      中川友次郎 ┃          ┃    ┃       ┣━━━━┛          ┃    ┃      貞以               ┃    ┗平沼正二郎                       ┃  (将軍)                 ┃  徳川慶喜━━徳川慶久━┳徳川慶光━━━┳真佐子             ┃       ┃             ┗喜久子    ┗徳川慶朝               ┃             高松宮宣仁 </pre> == 脚注 == {{reflist}} ==関連項目== {{Commons|Category:Kiichiro Hiranuma}} *[[平沼内閣]] *[[国本社]] ==外部リンク== *[http://ndl.go.jp/portrait/datas/179.html?c=5 平沼騏一郎 | 近代日本人の肖像] *[http://www.hiranuma.org/japan/talk.html 平沼赳夫オフィシャルホームページ「平沼は語る」(平沼騏一郎に関するエッセイあり)] *[http://www.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/person/hiranuma/hiranuma.htm 平沼騏一郎について(おかやま人物往来)] *[http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/hiranumakiichirou.html 平沼騏一郎関係文書 | 国立国会図書館] *[http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/fam/19390121.SXJ.html 平沼騏一郎 内閣 第74回帝国議会(通常会)における国務大臣の演説] *[http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hiranuma_k.html 墓所(多磨霊園)] *[http://www2.pf-x.net/~sanraku/okayama02/images/0035.htm 墓所(安国寺)] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B9%B3%E6%B2%BC%E9%A8%8F%E4%B8%80%E9%83%8E 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年6月7日 (土) 10:01。]     

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