米内光政

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{{日本の内閣総理大臣 |[[米内内閣|37]] |米内 光政<br/>(よない みつまさ)<br/>[[Image:Mitsumasa Yonai smiling cropped.jpg|200px]] |[[明治]]13年([[1880年]])[[3月2日]]<br/> |[[岩手県]][[盛岡市]] |[[海軍大学校]] |[[海軍大将]]<br/>[[従二位]]<br/>[[勲一等]]<br/>[[功一級]][[金鵄勲章]] |[[軍事参議官]] | |[[1940年]]([[昭和]]15年)[[1月16日]]|1940年(昭和15年)[[7月22日]] |非議員 | |[[挙国一致内閣|中間内閣]] |[[1948年]](昭和23年)[[4月20日]]}} '''米内 光政'''('''よない みつまさ'''、[[1880年]]([[明治]]13年)[[3月2日]] - [[1948年]]([[昭和]]23年)[[4月20日]])は[[大日本帝国|日本]]の[[大日本帝国海軍|海軍]][[海軍軍人|軍人]]。[[連合艦隊司令長官]]、[[海軍大臣]]、第37代[[内閣総理大臣]]などを歴任、その後最後の海軍大臣として日本を[[太平洋戦争]]の終戦へと導くことに貢献した。[[海軍大将]]・[[従二位]]・[[勲一等]]・[[功一級]]。 == 生涯 == === 生い立ち === 1880年(明治13年)旧[[盛岡藩]]士米内受政の長男として現在の[[岩手県]][[盛岡市]]に生まれる。父が選挙に落選したり事業に失敗したため一家は困窮の中にあった。その中で、米内は幼少の頃から新聞配達、牛乳配達などをして家計を助け苦学の後、1901年(明治34年)[[岩手県立盛岡第一高等学校|旧制盛岡第一中学校]]を卒業、[[海軍兵学校 (日本海軍)|海軍兵学校]]へ進む。 1903年(明治36年)任海軍少尉。1905年(明治38年)[[日露戦争]]に従軍。1914年(大正3年)[[海軍大学校]]を卒業。[[第一次世界大戦]]後のロシアとポーランドに[[大使館]]付[[駐在武官]]として駐在し、革命の混乱のなかで冷静に国際情勢を分析していた。[[ロシア革命]]に関する論文もある。大戦後の[[ドイツ]]の首府[[ベルリン]]でも情報収集の任に当たっている。[[将官]]昇進後は中国勤務も多かった。 === 海軍内部の良識派 === [[画像:Mitsumasa Yonai.jpg|thumb|連合艦隊司令長官当時(1936年頃)]] [[画像:Yonai Mitsumasa.jpg|thumb|海軍大将礼装(1936年頃)]] 1930年(昭和5年)には中将になり[[鎮海]]要港部司令官に任じられるが、この地位は「クビ5分前」と言われる閑職であり、本人も「いつでも辞める覚悟はできてるよ」と同期に語っているが、この時に読書三昧の日々を過ごし、その読書の範囲は漢書からロシア文学や社会科学、果ては中学の後輩である[[野村胡堂]]の小説まで、軍人の範疇を超えたもので「本は三度読むべし。1回目は始めから終わりまで大急ぎで、2度目は少しゆっくり、3度目は咀嚼して味わうように読む」という米内独特の読書法もこの頃に確立したものと思われる。この読書で培った知識・教養は後に海軍大臣や総理大臣になった際に大いに役立てている。 1932年(昭和7年)以後、艦隊司令長官を歴任する。[[佐世保鎮守府]]長官のとき[[友鶴事件]]が発生する。米内は事件をあらゆる角度から検証して根本的な原因を見つけ出し、事件を解決に導いている。 [[二・二六事件]]の起こった1936年(昭和11年)年[[2月26日]]、米内は[[横須賀鎮守府]]司令長官だったが、[[新橋]]の[[待合茶屋]]に泊まっていた。事件のことは何も知らず、朝の始発電車で横須賀に帰ったらしい。その直後に[[横須賀線]]はストップしたというから危ないところだった。鎮守府に着いた米内は参謀長の[[井上成美]]とともにクーデター部隊を「反乱軍」と断定、制圧の方向で大いに働いた。その後の人事異動で連合艦隊に転出、連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官に親補された。 1937年(昭和12年)[[林内閣|林銑十郎内閣]]で[[海軍大臣]]、任[[海軍大将]]。その後[[第1次近衛内閣|第一次近衛文麿内閣]]、[[平沼内閣|平沼騏一郎内閣]]でも海相を務めた。 極端に口数が少なく、演説の類が大嫌いだった。平沼内閣の閣僚中、演説回数が一番少なく、1回の演説字数が461字と、他の大臣の半分という記録が残る。終生抜けなかった[[南部弁]]を気にしたという説もあるが、面倒くさがり屋で、くどくど説明するのを嫌った。 近衛内閣時代、[[ナチス・ドイツ]]を仲介とした対中和平交渉である[[トラウトマン工作]]の打ち切りを主張。[[平沼内閣]]時代には[[山本五十六]]海軍次官、井上成美軍務局長とともに、ドイツや[[イタリア]]との提携に反対する。 === 首相就任 === [[1940年]](昭和15年)1月16日、[[予備役]]編入とともに[[内閣総理大臣]]に就任する。米内を総理に強く推したのは[[昭和天皇]]自身だったようだ。この頃、ドイツ総統[[アドルフ・ヒトラー]]はヨーロッパで破竹の猛進撃を続け、軍部はもとより、世論にも[[日独伊三国軍事同盟]]締結を待望する空気が強まった。天皇はそれを憂慮し、良識派の米内を任命したと『[[昭和天皇独白録]]』の中で述べている。天皇に呼ばれた時、当初米内は組閣を断るつもりだった。しかし、「朕、卿に組閣を命ず」という天皇の甲高い声を聞き、「電気に打たれたようになって」断りを言い出せなくなったという。 そんな米内は[[大日本帝国陸軍|陸軍]]とうまく行かず、[[倒閣]]の動きは就任当日から始まったといわれる。半年も経った頃、陸軍は日独伊三国同盟の締結を要求する。米内が「我国はドイツのために火中の栗を拾うべきではない」として、これを拒否すると、陸軍は[[畑俊六]][[陸軍大臣]]を辞任させて後継陸相を出さず、[[米内内閣]]を総辞職に追い込んだ<ref>倒閣は陸軍だけが考えた訳ではない。[[6月7日]]に[[立憲政友会|立憲政友会正統派]][[総裁]][[久原房之助]]が同様の要求を行って拒絶されると、[[内閣参議]]を辞職して[[松野鶴平]][[鉄道大臣]]ら閣僚・政務官の引揚を通告した。だが、正統派内部では久原のように[[新体制運動]]を支持する意見と[[鳩山一郎]]のように[[立憲民政党]]と合同してでも[[政党政治]]を守るべきとの意見が対立しており、鳩山側の松野が辞任に同調しなかった事と、新体制運動を進めていた近衛の側近達からも久原の行動を時期尚早として相手にされなかったため、最終的に久原1人が辞任する羽目となった。</ref>。米内はその経過を公表して、総辞職の原因が陸軍の横槍にあった事を明らかにした。昭和天皇も「米内内閣だけは続けさせたかった」と後に述懐している。 === 帝国海軍の幕引き役 === [[画像:Yonai reading a memo at the House cainber during the assembry.jpg|thumb|right|240px|衆議院本会議場の総理大臣席でメモに目を通す米内総理(1940年2月2日)]] [[画像:Yonai comforting kids 29 March 1940.jpg|thumb|right|戦地で父を失った郷里岩手県の遺児たちを官邸に招いて励ます米内総理(1940年3月29日)]] 1943年(昭和18年)、盟友・[[山本五十六]]の[[国葬]]委員長をつとめる。だが軍人が神格化されることを毛嫌いしていた山本をよく知る米内は、後に山本神社建立の話などが出るたびに「山本が迷惑する」と言ってこれをつぶしていた<ref>阿川『米内』</ref>。山本五十六の戦死の直前、米内の夢の中に山本が現れたという。山本の戦死が公表されると、米内は[[朝日新聞]]に追悼文を寄稿、その中で「不思議だと思ふのは四月に實にはつきりした夢を見た、何をいつたか忘れたが、今でも顔がはつきりする夢を見た、をかしいなと思つてゐたが、まさかかうなるとは思はなかつた」とその夜のことを振り返っている<ref>朝日新聞昭和18年5月22日号</ref>。 1944年(昭和19年)現役に復帰して[[小磯内閣]]で海軍大臣となる。[[小磯國昭]]と共に組閣の大命を受けた経緯から「小磯米内連立内閣」とも呼ばれた。1945年(昭和20年)[[鈴木貫太郎内閣]]に海相として留任。米内本人は「連立内閣」の片方小磯だけが辞めてもう片方米内が残るというのは道義上問題があると考えていた。だが次官の[[井上成美]]が米内の知らないところで「米内海相の留任は絶対に譲れない」という「海軍の総意(実は井上の独断)」を、大命の下った鈴木や[[木戸幸一]]内大臣に申し入れていたのだった<ref>この経緯を後年井上は「ワンマン次官、いけなかったかしら」と述懐している(井上成美『想い出の記』)。</ref>。 米内は海相として[[太平洋戦争]]終結の道を探った。天皇の真意は和平にあると感じていたからで、1945年5月末の会議では[[阿南惟幾]]陸相と論争し、「一日も早く講和を結ぶべきだ」、「この大事のために、私の一命がお役に立つなら喜んで投げ出すよ」と言い切った。終戦直前の1945年8月12日、主戦派の[[大西瀧治郎]]中将([[軍令部]]次長)が[[豊田副武]][[軍令部総長]]を通じ終戦反対の意を勝手に[[帷幄上奏]]し、激怒した米内は大臣室に大西・豊田の両名を呼びつけ叱責した。大西と豊田は抗弁したが、普段寡黙な米内は、このときばかりは大声で両名を叱りつけ、その声はドアごしに筒抜けになるほどであった。 阿南惟幾は[[終戦の日]]当日に「米内を斬れ」と言い残して自害したが、米内本人は軍人として法廷で裁かれる道を選んだ。戦犯として拘束されることを予期し、[[巣鴨拘置所]]へ収監される場合に備えていたものの、結局米内は容疑者には指定されなかった。戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、[[東久邇内閣|東久邇宮稔彦王内閣]]、[[幣原喜重郎内閣]]でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。幣原内閣の組閣時には健康不安から([[血圧]]は最高250、戦前の豊頬が見る影もなく痩せ細っていた)辞意を固めていたにもかかわらず[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の意向で留任している。 === 東京裁判 === [[画像:Shidehara cabibet.jpg|thumb|right|240px|幣原内閣で「最後のご奉公」(前列左から三人目、1945年10月9日)]] 戦後の[[東京裁判]]では[[証人]]として[[1946年]]3月・5月の2度に亘って出廷し、「当初から、この戦争は成算のなきものと感じて、反対であった」「天皇は、開戦に個人的には強く反対していたが、開戦が内閣の一致した結論であった為、やむなく開戦決定を承認した」と、天皇の立場を擁護する発言に終始した。その上で、[[満州事変]]、[[日中戦争]]、日米開戦を推進した責任者として、[[土肥原賢二]]、[[板垣征四郎]]、[[武藤章]]、文官では[[松岡洋右]]の名前も挙げて、陸軍の戦争責任を追及している。しかし、何故か[[東條英機]]の責任については言明する事がなかった<ref>1941年(昭和16年)10月に[[近衞文麿]]が内閣を投げ出すと、後継首班を決める[[重臣会議]]では[[及川古志郎]]海相の名も候補に上ったが、これに猛反対して潰したのが米内と[[岡田啓介]]で、もう一人の候補だった東條はこの海軍の「消極的賛成」のおかげで次期首班に選ばれたという経緯があった。</ref>。 一方で、陸軍大臣単独辞任で[[米内内閣]]を瓦解させた事でA級戦犯として裁かれる事になった畑に対しては、これをかばって徹底的にとぼけ通し、[[ウィリアム・ウェブ]]裁判長から「こんな愚鈍な提督は見たことがない」と罵られても平然としていた。一方で、[[ジョセフ・キーナン]]首席検事はむしろ「あれは畑を庇っていたのだ。米内は素晴らしい」敬意を表し、日本を離れる際、自筆の晩餐会招待状を送っている<ref>[[山田風太郎]]は、米内はこのような腹芸をするタイプではなく、通訳がいい加減だった為に頓珍漢なやり取りになったのではないかと記している(『人間臨終図巻II』徳間文庫 ISBN 4-19-891491-5)。また、そもそも米内内閣倒閣を推進した一派が[[参謀総長]]の[[閑院宮載仁親王]]を御輿に担いでいたため、米内は皇室に累を及ぼす事を恐れて実状を口にする事を避けたともいわれている。しかし他の検事団も概ね米内を評価しており、ある若い検事が米内の後姿を見て「ナイス・アドミラル」と言っていたのを、『一軍人の生涯 提督・米内光政』を書いた[[緒方竹虎]]は聞いている。</ref>。 1948年(昭和23年)[[肺炎]]により死去。68歳と1ヵ月だった。軽い[[脳溢血]]に肺炎を併発したのが直接の死因だが、長年の[[高血圧症]]に[[腎臓病|慢性腎臓病]]の既往症があり、さらに[[帯状疱疹]]にも苦しめられるなど、実際は体中にガタがきていた<ref>阿川『米内』</ref>。実際、戦後になって少し体調は落ち着きを見せていただけあって、帯状疱疹が彼の寿命を縮めたと言える。 米内の死後12年を経た1960年(昭和35年)、盛岡八幡宮境内に背広姿の米内の銅像<ref>[http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/ren-yonai04.jpg 背広姿の米内の銅像]</ref>が立てられ、10月12日に除幕式が行われた。その直前に、[[巣鴨プリズン]]から仮釈放された81歳の畑俊六が黙々と会場の草むしりをしていたという<ref>阿川弘之『米内光政』</ref>。 == 人物 == [[Image:Yonai, Itagaki, Tojo.jpg|thumb|right|240px|[[板垣征四郎]]陸相(中央右)の就任祝賀会に参加する米内海相 (中央左)。板垣の右には陸軍次官の[[東條英機]]も見える。(1938年)]] [[Image:Yonai and Itagaki honoring their teacher.jpg|thumb|right|240px|[[岩手県立盛岡第一高等学校|盛岡中学]]時代の恩師・冨田小一郎(左から二人目)を囲む板垣陸相(最左)と米内海相。<br />米内と板垣は政治的立場も思想も異なったが、同郷出身の先輩後輩ということで公務の外ではなにかとウマが合った。東京の料亭で開かれたこの恩師への謝恩会も両大臣の呼びかけで行われたもので、他にも作家の[[野村胡堂]]、言語学者の[[金田一京助]]など、冨田の教え子たちが多く集った。(1939年6月3日)]] [[Image:Yonai and his staff.jpg|thumb|right|240px|親睦会で米内 (中央) を囲む「一六会」の面々(1940年10月)]] 海軍兵学校での成績は良い方ではなく、卒業時の席次は67番であった。卒業時席次が退役に至るまで出世に影響した日本海軍にあって、この成績で大将に昇り[[海軍大臣]]や[[連合艦隊司令長官]]に就任したのは極めて異例のことであった。後の研究でわかったことだが、当時の米内のノートを見ると記述の質・量が圧倒的であり、ひとつの問題に対して自分が納得が行くまであらゆる角度からアプローチをかけ問題を解決していた。これは詰め込み式教育が当たり前だった海軍教育においては異彩を放つ勉強法であり、兵学校のテストの点数が上がらなかったのもそのためであったのだろうと推測される。米内の勉強法を知っていた当時の教官は「彼は上手くいけば化ける。いや、それ以上の逸材になるかも知れない」と目を掛け、多少の成績の不振でも米内をかばい続け、何とか米内を兵学校から卒業させた。後に同期の[[藤田尚徳]]は人事局長時代、当時の[[谷口尚真]][[呉鎮守府]]司令長官から「君のクラスでは誰が一番有望かね?」と聞かれ即座に「それは米内です」と答えたという。 その藤田が海軍次官の時、[[第三艦隊]][[司令長官]]に就いていた米内が[[インフルエンザ]]をこじらせて[[胸膜炎]]になり療養を必要としたのだが米内は拒否。同期である藤田と[[高橋三吉]]軍令部次長が相談し、「米内君の気持ちはよくわかる。しかし第三艦隊司令長官は米内君でなくとも勤まる。だが帝国海軍の将来を考える時必ずこの人に大任を託す時期が来ると思う。今米内君を再起不能の状態に陥れてはならぬ。たとえ今はその気持ちを蹂躙しても、また後で怒られても良い」と海軍次官と軍令部次長の権限で無理矢理療養させた。米内の底知れぬ能力を知っている同期の計らいで療養生活に入り、早期治療の効果か1ヵ月後には職務に復帰することが出来た。 米内は当時の軍人としては珍しく、幅広い視野を持っていた。[[ロシア語]]が堪能なことで知られ、[[大使館]]付[[駐在武官]]として[[ロシア]]・[[ポーランド]]・[[ドイツ]]・[[中華民国の歴史|中国]]に赴任した経験があり、将官昇進後は中国勤務も多く、国際的視野を持った国家指導者だったといえる。日本の国力や国際情勢を見極め、英米と協調する現実的な政治姿勢を終始貫いた。 米内が内閣総理大臣を辞した後、陸軍を除く秘書官達で米内の親睦会が作られた。米内内閣が成立も総辞職も16日だったことから「一六会」と名付けられ、戦後も長く存続した。戦前の閣僚中、米内は鈴木貫太郎と並び昭和天皇の信任が最も篤かったといわれている。退任の際、挨拶の際参内した米内に、天皇は使用されていた硯をその場で直接下賜している。 米内の下で軍務局長・海軍次官を務めた[[井上成美]]は戦後、「[[海軍大将]]にも一等大将、二等大将、三等大将とある」と言っていたが、文句なしの一等大将と認めたのは[[山本権兵衛]]、[[加藤友三郎]]、米内の三人だけであったという(井上自身は、「海軍の中で誰が一番でしたか?」の質問に「海軍を預かる人としては米内さんが抜群に一番でした」と語っている)。また親交のあった[[小泉信三]]は「国に大事が無ければ、人目に立たないで終わった人」と米内を評している。 趣味は[[長唄]]と[[日曜大工]]だった。長唄は[[遊女]]の哀れを歌った色っぽいものを好んだ。[[ロシア文学]]にも親しみ、19世紀の進歩的詩人[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]を愛読した。坊主頭が当然とされた日本の軍隊で、米内は髪をポマードで整えて七三に分け、若い頃から[[鼻メガネ|鼻眼鏡]]を愛用した。上官から髪を切るよう勧められても「ウフフ」と笑うだけ、切ろうとしなかった。坊主頭は海外では囚人の髪型であることを知っており、海外と直接接する海軍の髪型としてふさわしくない、という理念からであったという。また長身で日本人離れした風貌でもあり女性によくもてた。特に[[花柳界]]では、[[山本五十六]]とともに圧倒的な人気があった。長男の剛政は父の死後、[[愛人]]だったと称する女性にあちこちで会って困ったという。 海相時代、華南で[[ハンセン氏病]]に罹ってしまったある兵が、戦いではなく病気で軍を離れたことに対する苦悩を手記にして[[清水光美]]人事局長に送った。人事局長を経てその手記を見た米内は漢詩を書いた書と絵画を送り、「これを送って慰めてやってくれ」と清水に伝え、一人の兵に大臣が送ったその気持ちに感動したという。 また、下士官・兵の家族の[[福利厚生]]、特に病気になった時の対策が資金面の都合で滞り歴代海相の悩みの種だったのだが、米内は[[大蔵大臣]]に相談して一発で許諾をもらい、[[要港]]の大規模病院の建設は支出を[[大蔵省]]に渋られたものの、それを民間からの寄付で補おうと海相官邸に財界の有力者を呼び寄付を呼びかけたら、予定額をはるかに超える寄付金が集まった。これで歴代大臣の懸案であった医療問題が解決したのだが、これも米内の人柄であろうと誰もが絶賛した。 昭和14年に[[豊後水道]]で潜水艦が沈没し[[呉鎮守府]]が引き揚げ作業に当たったのだが、沈没場所が水深数百メートルな上に潮の流れが速く作業は難航、外部からも経費の無駄遣いと批判を浴びて現場も「こっちも好きでやっているのではない。非難があるならやめてしまえ」とモチベーションが下がっていたのだが、それを察した鎮守府[[参謀]]長が[[海軍省]]に報告に行ったところ、当時次官の[[山本五十六]]は「経費はいくらかかってもいいからしっかりやれ。しかし無理して人を殺さぬように」と激励、米内も「次官から聞いた。御苦労」とただそれだけ。それを現場に伝えたところ非常にモチベーションが上がり作業も無事終了、参謀長は戦後に「あの短い大臣の言葉と次官の人を殺すなという一言は、千万言にも勝る温かい激励でした」と回想している。 戦後に[[昭和天皇]]も招かれた[[学士院]]会員の会食の際、天皇が[[小泉信三]]に、「雑誌(『心』昭和24年1月号)に米内のことを書いたね」と尋ねて小泉も「拙文がお目に触れてしまいましたか」と恐縮すると、「米内は懐かしいね。惜しい人であった」と語り、その後は参加者で米内の思い出を語ったと言う。 == 評価 == 林銑十郎内閣で[[海軍大臣]]であった際、1938年1月15日の[[大本営政府連絡会議]]において、[[蒋介石]]政権との和平交渉継続を強く主張する[[多田駿]]参謀次長に反対して交渉打切りを主張し、近衛総理をして「爾後国民政府を対手とせず」という発言にいたらしめたことが、中国における最も有力な交渉相手をみすみす捨て去って泥沼の長期戦に道を拓いた上、アメリカ政府の対日感情を著しく悪化させたとして批判の対象となることがある。 ただし当時のアメリカのメディアはというと、意外なほど米内に対して親米英派の提督として好意的な好奇心を抱いていた。ニュース雑誌の草分けとして1923年の創刊以来内外のさまざまな出来事を取材してきた[[タイム誌]]は、海軍大臣のとき<ref>タイム [http://www.time.com/time/covers/0,16641,19370830,00.html 1937年8月30日号]</ref>と総理のとき<ref>タイム [http://www.time.com/time/covers/0,16641,19400304,00.html 1940年3月4日号]</ref>の二度にわたって米内の特集記事を組んでおり、いずれも表紙を飾る[[タイム誌#表紙を飾った日本人|カバーパーソン]]として扱かっている。タイム誌の表紙を日本人が飾ったのは現在に至るまでたったの30回で、そのうち一人で複数回登場しているのは他には昭和天皇の6回と近衛文麿の2回を見るのみとなっており、米内に対する破格の関心が窺える。 米内にはその他にも、「言葉は不適当と思うが原爆やソ連の参戦は天佑だった」という発言をしたこと<ref>読売新聞、2006年8月15日、第46850号 12版</ref>、戦争への危機感が高まる中、[[海軍左派]]を自認しながら海軍部内への意思浸透を怠ったこと、同じ海軍左派である山本五十六を右翼勢力や過激な青年将校から護るためとして連合艦隊司令長官に転出させたことなどに対する批判や非難、また軍政家・政治家としての力量に疑問を投げかける意見もある。 その一方で、当時の状況下で、他には誰も何もしようとする者がいない中、公人として「アメリカと戦争をしても負ける。海軍は専守防衛の軍隊である」「統制経済のやりすぎは国を滅ぼす」「軍人は政治に深入りするな」と公の場で発言した唯一の人であり、やれるだけの事はやったという見方もある。重臣の一人として、また海軍の大御所として、小磯・鈴木の両内閣では重石のような役割を果たし、落ちるべきものを落ちるべきところへ落とさせたその手腕は並大抵のものではないという意見も根強く、山本五十六と同様、人によって「名将」か「愚将」で評価が二分されている。 == 略歴 == [[画像:Koiso cabinet photo op.jpg|thumb|right|240px|小磯内閣に副総理格の海相として入閣(前列最右、1944年7月22日)]] [[画像:Kantaro Suzuki cabinet.jpg|thumb|right|240px|鈴木内閣で海相に留任(前列右、1945年4月7日)]] [[画像:Cabinet_of_Prince_Higashikuni_Naruhiko.jpg|thumb|right|240px|東久邇宮内閣で再び近衛と閣内に(二列目左から二人目、1945年8月17日)]] * [[1880年]]([[明治]]13年) - 現在の[[岩手県]][[盛岡市]]に生まれる。 * [[1894年]](明治27年) - 岩手尋常中学校(現[[岩手県立盛岡第一高等学校]])に入学。 * [[1901年]](明治34年) - [[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]卒業(第29期)。 * [[1903年]](明治36年) - 任[[海軍少尉]]。 * [[1904年]](明治37年) - 任[[海軍中尉]]。 * [[1906年]](明治39年) - 任[[海軍大尉]]。 * [[1912年]]([[大正]]元年) - 任[[海軍少佐]]、海大甲種学生。 * [[1914年]](大正3年) - [[海軍大学校]]卒業(第12期)。 * [[1915年]](大正4年) - [[ロシア]][[出張]]。 * [[1916年]](大正5年) - 任[[海軍中佐]]。 * [[1920年]](大正9年) - 任[[海軍大佐]]。 * [[1921年]](大正10年) - [[ポーランド]]駐在員監督。 * [[1922年]](大正11年) - [[装甲巡洋艦]]『[[春日 (装甲巡洋艦)|春日]]』艦長。 * [[1923年]](大正12年) - 装甲巡洋艦『[[磐手 (装甲巡洋艦)|磐手]]』艦長。 * [[1924年]](大正13年) - [[戦艦]]『[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]』、『[[陸奥 (戦艦)|陸奥]]』艦長。 * [[1925年]](大正14年) - 任[[海軍少将]]、[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]参謀長。 * [[1928年]]([[昭和]]3年) - [[第一遣外艦隊]]司令官。 * [[1930年]](昭和5年) - 任[[海軍中将]]、鎮海要港部司令官。 * [[1932年]](昭和7年) - [[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]司令長官。 * [[1933年]](昭和8年) - [[佐世保鎮守府]]司令長官。 * [[1934年]](昭和9年) - 第二艦隊司令長官。 * [[1935年]](昭和10年) - [[横須賀鎮守府]]司令長官。 * [[1936年]](昭和11年) - [[連合艦隊]]兼第一艦隊司令長官。 * [[1937年]](昭和12年) - 海軍大臣、任[[海軍大将]]。 * [[1939年]](昭和14年) - [[軍事参議官]]。 * [[1940年]](昭和15年) - [[予備役]]に編入され[[内閣総理大臣]]となる。 * [[1943年]](昭和18年) - [[山本五十六]]の[[国葬]]委員長をつとめる。 * [[1944年]](昭和19年) - 現役に復帰して海軍大臣となる。 * [[1945年]](昭和20年) - [[鈴木貫太郎]]内閣に海相として留任。 * [[1948年]](昭和23年) - [[肺炎]]により死去。68歳と1ヵ月だった。 == 系譜 == 米内家は[[摂津国]]大坂から盛岡に移住し、[[南部信直]]に仕えた[[宮崎庄兵衛勝良]]を祖とし、三代目[[傳左衛門秀政]]の時に祖母で勝良の妻方の姓「米内」を名乗るようになった。この「米内」は祖母の出身地が[[出雲国]][[米内郷]]から来るもので、本来の[[陸奥国]]の[[米内氏]]の一族ではない。しかし、陸奥在住の縁で次第に陸奥米内氏の一族であるかのように自覚し、また周囲からもそのように評価されて幕末に至った。 陸奥米内氏は[[一方井]]氏の分家筋にあたり、[[一方井氏]]は[[俘囚]]長[[安倍頼良]]・貞任父子の末裔であることから、米内光政も自身を[[安倍貞任]]の末裔だと称していた。 三女和子が元[[竹中工務店]]会長の[[竹中錬一]]に嫁いでいる。 <pre>   ┏竹中藤右衛門━━┳寿美   ┃        ┃   ┃        ┣竹中宏平   ┃        ┃  ┣━━竹中祐二   ┗竹中藤五郎   ┃ りゅう子  ┃            ┃       ┃            ┃竹下登━━━━公子              ┃(首相)            ┃            ┃(15代)            ┗竹中錬一              ┣━━━竹中統一     米内光政━━━┳和子      (首相)  ┃            ┗米内剛政 </pre> == 伝記 == *『米内光政』([[阿川弘之]] 著、[[新潮社]])ISBN 4-10-300413-2 C0093 *『一軍人の生涯』([[緒方竹虎]] 著) *『静かなる楯 ― 米内光政』(高田万亀子 著) *『海軍大将米内光政覚書』([[高木惣吉]] 著、光人社)ISBN 4-7698-0021-5 C0095 *『米内光政』(実松譲 著・光人社NF文庫)ISBN 4-7698-2020-8 C0195 *『激流の小舟 提督・米内光政の生涯』([[豊田穣]] 著) *『米内光政と山本五十六は愚将だった 「海軍善玉論」の虚妄を糺す』(三村文男 著、テーミス) ISBN 978-4901331067 *『海軍 一軍人の生涯 最後の海軍大臣 米内光政』(松田十刻 著、光人社NF文庫) ISBN 4-7698-2512-9 == 参考文献 == * 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年、213-216頁 == 脚注 == <references/> ==関連項目== {{Commonscat|Mitsumasa Yonai}} *[[米内内閣]] *[[竹中工務店]] *[[大日本帝国海軍軍人一覧]] == 外部リンク == *[http://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/ren-yonai.htm 米内光政] *[http://www.city.morioka.iwate.jp/14kyoiku/senjin/senjin/yonai/index.html ウェブもりおか:先人記念館:米内光政の生涯と略歴] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年6月25日 (水) 06:49。]     

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