伊藤博文

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{{日本の内閣総理大臣 |[[第1次伊藤内閣|1]]・[[第2次伊藤内閣|5]]・[[第3次伊藤内閣|7]]・[[第4次伊藤内閣|10]] |伊藤 博文<br/>(いとう ひろぶみ)<br/>[[画像:Itô Hirobumi.jpg|200px]] |[[1841年]][[10月16日]]<br/>([[天保]]12年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]) |[[周防国]][[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]]束荷村</br>(現・山口県光市) |[[松下村塾]] |[[従一位]][[大勲位]][[公爵]]<br/>[[名誉博士]]([[イェール大学|エール大学]]) |<!-->外国事務局判事<br/>[[兵庫県]][[知事]]<br/>[[工部卿]]<br/>[[内務卿]]<br/><!-->[[枢密院議長]] |- |第1次:<br/>[[1885年]][[12月22日]]|[[1888年]][[4月30日]]<br/>第2次:<br/>[[1892年]][[8月8日]]<br/> ‐ [[1896年]][[8月31日]]<br/>第3次:<br/>[[1898年]][[1月12日]]<br/> ‐ [[1898年]][[6月30日]]<br/>第4次:<br/>[[1900年]][[10月19日]]<br/> ‐ [[1901年]][[5月10日]] |- |- |- |[[1909年]](明治42年)[[10月26日]] }} [[画像:Hirobumi Ito 2.jpg|180px|thumb|志士時代の伊藤博文]] '''伊藤 博文'''('''いとう ひろぶみ'''、[[天保]]12年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]([[1841年]][[10月16日]]) - [[明治]]42年([[1909年]])[[10月26日]])は、[[日本]]の[[政治家]]である。 [[大日本帝国憲法|明治憲法]]の起草に関わり、初代・第5代・第7代・第10代の[[内閣総理大臣]]および初代[[枢密院]]議長・[[韓国統監府]]統監・[[貴族院議長]]・[[兵庫県]][[都道府県知事|知事]](官選)を務めた。[[立憲政友会]]を結成・初代総裁。[[元老]]。[[位階]][[勲等]]は[[従一位]][[大勲位]]。[[爵位]]は[[公爵]]。[[称号]]は[[名誉博士|名誉博士]](エール大学)。死後に[[大韓帝国]]より功績を讃えられ、「'''文忠公'''」の諡号が送られた。 幼名は利助、のち'''俊輔'''(春輔、舜輔)とも称した。「'''[[春畝]]'''(しゅんぽ)」、「'''滄浪閣主人'''(そうろうかくしゅじん)」などと号し、「'''春畝公'''」と表記されることも多い。名の博文を「ハクブン」と[[有職読み]]することもある。 == 生涯 == === 幼年期 - 挙兵 === [[周防国]][[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]]束荷村字野尻(現・[[山口県]][[光市]]束荷字野尻)に、[[農民]]・十蔵、琴子の長男として生まれる。家が貧しく12歳ころから奉公に出る。父が[[萩藩]]の[[中間]]水井武兵衛(後に伊藤直右衛門と改名)の養子となり、下級武士の身分を得る。[[吉田松陰]]の[[松下村塾]]に学び、[[高杉晋作]]、[[井上馨|井上聞多]]らと[[倒幕運動]]に加わった。 [[文久]]2年([[1862年]])には[[公武合体]]論を主張する[[長井雅楽]]の[[暗殺]]を画策し、[[英国公使館焼き討ち事件|イギリス公使館焼き討ち]]に参加するなど[[尊王攘夷]]の志士として活躍した。また、[[山尾庸三]]とともに[[塙忠宝|塙次郎]]・[[加藤甲次郎]]を暗殺した。 文久3年([[1863年]])には井上聞多、[[遠藤謹助]]、山尾庸三、[[井上勝|野村弥吉]]らと共に([[長州五傑]])[[イギリス]]に渡航。翌[[元治]]元年([[1864年]])、四国連合艦隊による[[長州藩]]攻撃が近いことを知ると、井上とともに急ぎ帰国し戦争回避に奔走するもかなわず[[下関戦争]](馬関戦争)が勃発する。戦後は和平交渉に通訳として参加した。 長州藩が[[長州征伐#第一次|第一次長州征伐(幕長戦争)]]で幕府に恭順の姿勢を見せると、高杉らに従い[[力士隊]]を率いて挙兵。後に[[奇兵隊]]も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、[[長州正義派|正義派]](革新派)が藩政を握った。 [[画像:Iwakura mission.jpg|250px|thumb|[[岩倉使節団]]。右から[[大久保利通]]、伊藤博文、[[岩倉具視]]、[[山口尚芳]]、[[木戸孝允]]]] === 明治維新 - 初代首相 === 維新後は'''伊藤博文'''と改名し、長州閥の有力者として、また[[英語]]に堪能な事を買われて参与、外国事務局判事、[[兵庫県]][[知事]](当時の県知事は民選ではなく官選であった)、初代[[工部省|工部卿]]など[[明治政府]]の様々な要職を歴任する。当初、伊藤が新政府に提出した『[[国是綱目]]』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた[[版籍奉還]]に触れていたために[[大久保利通]]や[[岩倉具視]]の不興を買い、また[[大蔵省]]の権限を巡る論争でも大久保とは対立関係にあった。だが、[[征韓論|征韓論争]]では「内地優先」路線を掲げた大久保・岩倉らを支持して大久保の信任を得るようになった。 [[大阪会議]]を斡旋し、大久保が暗殺された後に[[内務省 (日本)|内務卿]]を継承し、[[維新の三傑]]なき後の指導者の一人として辣腕を振るう。[[明治14年の政変]]で[[大隈重信]]らが失脚すると[[憲法]]制定のために[[ヨーロッパ]]へ渡り、初代枢密院議長として[[大日本帝国憲法]]制定に関わる。明治17年([[1885年]])に[[内閣]]制度が創設され、初代内閣総理大臣となる。のち枢密院議長、貴族院議長などを経て3回組閣、合わせて4度にわたって内閣総理大臣を務めた。 明治33年([[1900年]])には立憲政友会を創立、初代総裁を務める。[[日露戦争]]前は、日露協商論・満韓交換論を主張し、[[ロシア]]との不戦を説き、[[日英同盟]]に反対した。講和後、戦後処理に奔走する。後に元老の一員となる。 === 韓国統監府初代統監就任 - 暗殺 === [[画像:Hirobumi Ito.jpg|250px|thumb|長谷川大将と共に統監府へ向かう伊藤博文(手前)]] 明治37年([[1905年]])11月の[[第二次日韓協約]](韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)によって大韓帝国が日本の保護国となり、[[韓国統監府]]が設置されると初代統監に就任した。日本は実質的な朝鮮の支配権を掌握した(韓国では広義の日本統治時代として植民地時代35年と保護国時代5年をひとつながりでとらえることもある)。 [[韓国併合|日韓併合]]について、当初は保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから、反対の立場を取っていた伊藤だが、韓国国内の抵抗派に手を焼き、最終的には殺害される前の閣議で併合による植民地化を、猶予を設けて承認した。伊藤はその施策から韓国国民の恨みを買うことになり、結果的に暗殺へと繋がることになる。 明治42年([[1909年]])、統監を辞任、枢密院議長に復帰したが同年10月、[[ロシア]]蔵相[[ウラジーミル・ココツェフ]](ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れた[[ハルビン]]駅で、[[大韓帝国|韓国]]の民族運動家[[安重根]]によって狙撃され、死亡した(安は直ちに捕縛され、共犯者[[禹徳淳]]、[[曹道先]]、[[劉東夏]]の3名もまたロシア官憲に拘禁され、日本政府はこれを関東都督府地方法院に移し、1910年2月14日、安を死刑に、禹を懲役2年に、曹および劉を懲役1年6ヶ月に処する判決が下された)<ref>死の間際に、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされた伊藤は、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれる。</ref>。[[11月4日]]に[[日比谷公園]]で国葬が営まれた。 ただし、日本の保守派の間では「実行犯である安重根自身の取調べ供述において事実誤認、[[李氏朝鮮]]および当時の[[韓国]]国内の情勢への不理解も見られ、また当時の韓国最大の政治勢力であった[[一進会]](自称会員100万人)が日韓合邦推進派であった事から、この事件が韓国国民全体の意見を代表したものであったか否かは議論の余地がある」という意見が広く唱えられている([[韓国併合#歴史認識の差異]]も参照)。 また、暗殺に関しては、安重根単独説のほかにも、暗殺時に伊藤の着用していたコートに残る弾痕から発砲位置を算出した結果、併合強硬派による謀殺説もある。 伊藤の死に際しては、 :日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢を見て、東洋の平和を念じた者はいない。実に伊藤はわが国(韓国)の慈父である。 [[高宗 (朝鮮王)|高宗]] :韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで 起こった。その時、武断派及び言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた 高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。公を泰西の政治家と比較するに、公は[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]の如く武断的でなく、 平和的であったことはむしろ[[グラッドストン]]に類するところである。 [[エルヴィン・フォン・ベルツ]] :我輩は伊博(伊藤博文の略)を平凡の常人なりとは云はない、されど彼の死は世界の大損失ドコロか、日本の小損失にもあらずとするのである。(中略)明治十三四頃、國會願望者なる者全國に蜂起して東京に押寄せ、若し之を聴かずんば極端の暴動も起こるべき[[世論|輿論]]の大勢に迫られ、餘義なく十年後を期して輿望を達せしむる事にしたのであって、在朝伊博の輩は、只其時代の要求に屈服したに過ぎないのである。斯かる輩を指して立憲の大元首と賞揚するが如きは、往事迫害を恐れずして[[自由民権運動|自由民権]]の論を主張せし民間の志士を無視するの甚だしき者である。(中略)非命の死に同情を寄せて、死者を哀惜するのは人情の常であるから、我輩とても亦其事を非難しないが、其程度を過ごせし没理狂的の哀惜には寧ろ大反対である。 [[宮武外骨]]、『大阪滑稽新聞』11月25日号、通巻26号 などの評価がある。宮武の評価は、時としては異例のものであった。これまで伊藤を攻撃していた[[マスメディア]]までも、その死に際して「伊藤公の死は日本の大損失である、否世界の大損失であると叫び、明治維新の大功臣、憲法政治の大元首、古今無類の大偉人を失ひたりと嘆き」と、伊藤を高く評価した。 === 死後 === 埋葬は[[東京都]][[品川区]]西大井六丁目の伊藤家墓所。霊廟として、山口県熊毛郡[[大和町 (山口県)|大和町]]束荷(現[[光市]]束荷)の伊藤公記念公園内に伊藤神社があったが、[[昭和]]34年([[1959年]])に近隣の束荷神社境内に遷座した。記念公園には生家(復元)や銅像、伊藤公記念館、伊藤公資料館などがあり、[[サクラ|桜]]に混じって韓国[[国花]][[ムクゲ]]が植えられている。[[平成]]18年([[2006年]])5月、山口県はこの公園に隣接した山林に、森林づくり県民税で「伊藤公の森」を整備して光市に引き渡した。後に[[日本銀行券]]C千円券([[1963年]][[11月1日]] - [[1984年]]11月1日発行)の肖像として採用された。 == 人物 == === 苦悩 === 4度も内閣総理大臣を務めた国家の重鎮・伊藤と[[明治天皇]]の関係は常に順風満帆であったわけではない。明治10年代、天皇は[[元田永孚]]・[[佐々木高行]]ら保守的な宮中側近らを信任したため、近代化を進める伊藤ら[[太政官]]首脳との関係は円滑でない事もあった(後年、伊藤が初代の内閣総理大臣と宮内大臣を兼ねた背景には宮中保守派を抑えるとともに、天皇に[[立憲君主制]]に対する理解を深めて貰う側面もあった)。また、伊藤が立憲政友会を結成する際には[[政党]]嫌いの天皇の不興を買い、その説得に苦慮したという。 === 芸者好き === 伊藤の女好きは当時から非常に有名であり、女性と遊んでは捨て去ることから、「箒」というあだ名がついた。また、[[宮武外骨]]の発行した一連の新聞では、好色漢の代表格としてパロディの手法を使い伊藤を度々取り上げた(それに次ぐのが、同じ艶福家として知られていた[[松方正義]]である)。地方に行った際には一流の[[芸者]]ではなく、二流・三流の芸者をよく指名していたという。これは、伊藤の論理によると「その土地その土地の一流の芸者は、地元の有力者が後ろ盾にいる。そういう人間と揉め事を起こさないようにするには、一流ではない芸者を指名する必要がある」とのこと。40度の高熱でうなされている時でも両側に芸者ふたりをはべらせたという。もっとも、同じ女好きの松方とは違って伊藤にはそれほど多くの子供はできなかった。[[衆議院]]議員[[松本剛明]]は子孫の一人という。 === 民族衣装 === [[画像:Hirobumi_Ito_as_Governor_of_Korea.jpg|thumb|right|275px|韓国の民族衣装を着て記念撮影におさまる伊藤<br /><small>韓国統監時代、前列左から二番目が梅子夫人</small>]] [[扶桑社]]刊の『[[新しい歴史教科書]]』には、伊藤と妻の梅子が韓国の民族衣装を着ている写真がある。韓国統監として韓国人の衣装を身に纏った。伊藤はまた韓国皇太子・[[李垠]]を日本に招き、日本語教育を行っている。 === 操り人形 === [[お雇い外国人]]であった[[ドイツ]]人医師の[[エルヴィン・フォン・ベルツ]]は『ベルツの日記』の中で、伊藤が「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と言いながら、操り人形を糸で踊らせるような身振りをしたことを紹介している。 === 通称の変遷 === 当初は「利助(りすけ)」だったようだが「としすけ」とも読み、「としすけ」の音から「俊輔」とも書かれるようになり、そうなると今度は「しゅんすけ」と読まれることになり、その音から「春輔」とも表記され、こんどはそれが「しゅんぽ」と音読されたので、最終的に「春畝」を号にしたものである。 == 栄典・爵位 == *[[1877年]]11月2日:[[勲一等旭日大綬章]] *[[1884年]]7月7日:[[伯爵]]授爵 *[[1885年]]5月25日:[[スウェーデン王国]] ヴァーサ勲章一等 *[[1889年]]2月11日:[[勲一等旭日桐花大綬章]] *[[1895年]]8月5日:[[大勲位菊花大綬章]] [[侯爵]]陞爵 *[[1896年]]3月19日:[[ロシア帝国]] アレクサンドル・ネフスキー勲章一等 *[[1897年]]10月4日:[[ベルギー王国]] レオポルト勲章一等 *[[1898年]]4月29日:[[フランス共和国]] [[レジョン・ド・ヌール]]グランクロワ章 *[[1906年]]4月1日:[[大勲位菊花章頸飾]] *[[1907年]]9月21日:[[公爵]]陞爵 == 家族・親族 == *妻・梅子([[芸者]]時代はお梅と名乗る) *長男・文吉(養子。木田幾三郎・長男。文吉の妻は元首相[[桂太郎]]の娘・寿満子) *二女・生子(福岡県。[[末松謙澄]]子爵に嫁する) *孫・[[伊藤博精|博精]](妻は元首相[[高橋是清]]の孫娘) *曾孫・文子([[出雲国造]]家の[[千家達彦]]妻) == 系譜 == 林家は[[越智氏]]の流れを汲むと称している。[[江戸時代]]、林家は代々[[農業]]を営んでいた<ref>『日本の上流社会と閨閥』には「もともと伊藤の家は[[小作人|水呑み百姓]]で父親十蔵は馬車ひきなどをしていたが食い詰めて長州藩の伊藤という[[中間]]の家に[[使用人|下僕]]として住み込んでいるうちに子供のない同家の養子になり伊藤を名乗った。博文は幼名を利助といい[[孤児|捨て子]]だったという説もある。それが[[武士]]のはしくれから明治の指導者に出世すると家系が気になりだしたのか[[孝霊天皇]]の息子伊予皇子の三男小千王子が祖先とか、[[河野通有]]の子孫とか言い出した。…偉くなってからの彼は[[故郷]]へはほとんど帰らなかった。昔の素性を知るものには頭が上がらないからである…。」と記されている</ref>。博文の父・十蔵が伊藤家の[[養子]]に入ったことで伊藤姓を称するようになった。博文の跡は養子の博邦(盟友井上馨の[[甥]])が継いだ<ref>『日本の名家・名門 人物系譜総覧』 226、227頁</ref>。[[家紋]]は上がり藤。 <pre> 助左衛門━十蔵━博文┳博邦━┳博精━┳博雅━┳智明           ┣生子 ┣博春 ┣邦子 ┗八重子           ┣朝子 ┣博通 ┣雪子           ┣文吉 ┣琴子 ┣文子           ┗眞一 ┣博約 ┣典子               ┣愛子 ┗久子               ┣博忠               ┣博臣               ┣博則               ┣博経               ┣十四子               ┣博孝               ┗博英 </pre> == 邸宅 == [[画像:!!!!開東閣80185.jpg|250px|thumb|開東閣]] *[[山口県]][[萩市]]椿東 *[[東京都]][[品川区]]大井 *東京都[[港区 (東京都)|港区]]高輪四丁目([[開東閣]]) *[[神奈川県]][[大磯町]]西小磯([[滄浪閣]]) *神奈川県[[横浜市]][[金沢区]]野島町 [[野島公園]] == 参考文献 == *早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 211-215頁 *別冊歴史読本57 第28巻26号 『日本の名家・名門 人物系譜総覧』 新人物往来社 2003年 226-227頁 == 登場作品 == *テレビドラマ **[[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]] 役者:[[中村敦夫]] **[[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]] 役者:[[尾藤イサオ]] **[[獅子の時代]] 役者:[[根津甚八 (俳優)|根津甚八]] **[[春の波涛]] 役者:[[伊丹十三]] **[[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]] 役者:[[小倉久寛]] *映画 **[[二百三高地]] 役者:[[森繁久弥]] **[[長州ファイブ|長州ファイブ -CHOSHU Five-]] 役者:[[三浦アキフミ]] **[[ロスト・メモリーズ]] 役者:[[ウ・サンジョン]] == 脚註 == {{reflist}} == 関連項目 == {{Commons|Ito Hirobumi}} *[[出雲国造]] *[[内閣総理大臣]] *[[第1次伊藤内閣]] *[[第2次伊藤内閣]] *[[第3次伊藤内閣]] *[[第4次伊藤内閣]] *[[練兵館]] *[[長州五傑]] *[[韓国併合]] *[[安重根]] *[[大日本帝國憲法]] == 外部リンク == *[http://burari2161.fc2web.com/itouhirobumi.htm 伊藤博文] *[http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/12.html?c=2 伊藤博文肖像写真](国立国会図書館) *[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40015966&VOL_NUM=00000&KOMA=32&ITYPE=0 『現代名士の演説振』「伊藤博文」]([[1908年]]文献)[[国立国会図書館]] *[http://www.boj.or.jp/type/list/yuko/data/sen.htm 伊藤博文の千円紙幣(日本銀行)] *[http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/05-31.html 日本の墓 伊藤博文] *[http://www5b.biglobe.ne.jp/~bosou/sansaku/itou/itou.htm 墓所:伊藤博文] *[http://1868.fc2web.com/anzaiito.html 伊藤博文と明治前期政治史に関する基礎的書誌] *[http://www.kvision.ne.jp/~momorx/index.html 伊藤公資料館電脳頁] *[http://www.city.hagi.yamaguchi.jp/portal/miru/new-spot/ito/index.htm 伊藤博文別邸] *[http://hagi.jp/~y-kaji/modules/xfsection/article.php?articleid=22 伊藤博文旧宅] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年6月24日 (火) 11:32。]     

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