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{{Infobox 軍人
|name=真崎 甚三郎
|lived=[[1876年]][[11月27日]] - [[1956年]][[8月31日]]
|placeofbirth=佐賀県
|placeofdeath=
|image=[[Image:Masaki Jinzaburo.jpg|180px]]
|caption=陸軍大将 真崎甚三郎
|nickname=
|allegiance=大日本帝国陸軍
|serviceyears=[[1898年]] - [[1936年]]
|rank=陸軍大将
|commands=[[第8師団]]長<br />[[第1師団]]長<br />台湾軍司令官<br />参謀次長<br />[[教育総監]]
|unit=
|battles=[[日露戦争]]
|awards=
|laterwork=
}}
'''眞崎 甚三郎'''(まさき じんざぶろう、[[明治]]9年([[1876年]])[[11月27日]] - [[昭和]]31年([[1956年]])[[8月31日]])は、[[日本]]の[[軍人]]。[[陸軍大将]]。[[皇道派]]の中心人物。[[佐賀県]]出身。弟に[[海軍少将]]・[[衆議院議員]]の[[眞崎勝次]]。
==来歴・人物==
佐賀中学(現・[[佐賀県立佐賀西高等学校]])から[[1895年]]12月、士官候補生を経て、[[1896年]]9月、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]へ。陸士第9期卒後[[日露戦争]]に従軍。
[[陸軍大学校]]第19期卒業。[[荒木貞夫]]、[[阿部信行]]、[[松木直亮]]、[[本庄繁]]、[[小松慶也]]が同期にいる。荒木が首席で卒業している。
[[久留米]][[板東俘虜収容所#第一次世界大戦期のドイツ人俘虜収容所|俘虜収容所長]]<ref>2006年公開の映画「[[バルトの楽園]]」で[[板東英二]]が演じた久留米俘虜収容所長は真崎がモデルとみられる。</ref>、[[陸軍大佐]]、軍務局軍事課長、近衛歩兵第1連隊長、[[陸軍少将]]、歩兵第1旅団長、陸軍士官学校本科長、教授部長兼幹事、陸軍士官学校長、[[陸軍中将]]、[[第8師団 (日本軍)|第8師団]]長、[[1929年]]7月1日からは[[第1師団 (日本軍)|第1師団長]]、[[台湾軍_(日本軍)|台湾軍]][[司令官]]、[[参謀次長]]兼軍事参議官を歴任。
陸軍士官学校校長時代、尊皇絶対主義の訓育に努め、[[安藤輝三]]、[[磯部浅一]]らを輩出。[[1932年]]参謀次長に就任後、[[荒木貞夫]][[陸軍大臣]]とともに国家革新を図る[[皇道派]]を形成。勢力伸張を図り、中堅[[将校]]たちの信望を担ったが、後に党派的な行動が反発を買い、[[統制派]]を生むことになる。
肩書きは参謀次長であったが、当時参謀総長[[閑院宮載仁親王]]の下で事実上の参謀総長として[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]を動かした。[[満州事変]]では勢力拡大を主張した。
[[1934年]]1月[[教育総監]]に就任、[[天皇機関説]]問題では[[国体明徴運動]]を積極的に推進し率先して天皇機関説を攻撃。この流れを危惧し陸軍の改革を断行しようとした荒木の後任、[[岡田啓介]]内閣の[[林銑十郎]][[陸軍大臣]]とその懐刀である[[陸軍省#軍務局|軍務局長]][[永田鉄山]]少将が、1935年7月真崎を[[陸軍大将]]に昇進させるかたわら「陸軍三長官」の一つである教育総監から下ろし、後任に[[渡辺錠太郎]]を据えた 。この人事に反発した皇道派の[[相沢三郎]]陸軍中佐が8月[[相沢事件]]を引き起こし永田鉄山を殺害した。
更にこの後陸軍の改革に反発した[[皇道派]]の若手将校により[[二・二六事件]]が起きた。真崎自身は直接的には加担しなかったと言われるが真偽は明らかでない。反乱首謀者の[[安藤輝三]]、[[磯部浅一]]らに実行支持と受け取れる態度を事件前から示し、組閣命令を期待して行動する。これが元で、[[1936年]]7月に拘留され、[[憲兵隊]]本部の取調べを受けた後、反乱幇助で軍法会議に起訴されたが、事件関与を否認。論告求刑は反乱者を利す罪で禁錮13年であったが、[[1937年]]9月25日の判決で無罪となる。しかし、この結果皇道派の力が衰え、統制派の力が増すことになる。
終戦後の[[1945年]]11月19日に、[[A級戦犯]]として逮捕命令が発令され、[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]に入所する。第一回の尋問は巣鴨への収監に先立つ12月2日に[[阪急ホテルマネジメント|第一ホテル]]で行われた。以降は、3回に亘って尋問が行われたが、供述内容は責任転嫁と自己弁明に終始した。特に、敵対していた[[東條英機]]等統制派軍人や[[木戸幸一]]に対する敵意と憎悪に満ちた発言と、[[親米]]主義の強調は事あるごとに繰り返しており、その態度からは「皇道派首領としての威厳や格調、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]を過ちへ導いた事への自責の念は全く見られなかった」と[[野口恒]]等から酷評されている。[[極東国際軍事裁判]]で不起訴処分。
1956年死去。
== 年譜 ==
*[[1897年]](明治30年)11月 - [[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]卒業(9期)。
*[[1898年]](明治31年)6月 - [[少尉]]に昇進。[[歩兵]]第46[[連隊]]附。
*[[1899年]](明治32年)5月 - 対馬警備隊附
*[[1900年]](明治33年)11月 - [[中尉]]に昇進。
**12月 - 陸軍士官学校附(区隊長)。
*[[1904年]](明治37年)2月 - [[日露戦争]]に従軍(~[[1905年]]12月)。
**6月 - [[大尉]]に昇進。歩兵第46連隊中隊長。
*[[1907年]](明治40年)11月 - [[陸軍大学校]]卒業(19期恩賜)。[[陸軍省]]軍務局出仕。
*[[1908年]](明治41年)10月 - 軍務局課員(軍事課)。
*[[1909年]](明治42年)1月 - [[少佐]]に昇進。
*[[1911年]](明治44年)5月 - [[ドイツ]]駐在(~[[1914年]]6月)。
*[[1914年]](大正3年)6月 - [[歩兵第42連隊]]大隊長。
**11月 - [[中佐]]に昇進。歩兵第53連隊附。
*[[1915年]](大正4年)5月25日 - 久留米俘虜収容所長。
*[[1916年]](大正5年)11月15日 - [[教育総監]]第2課長。
*[[1918年]](大正7年)1月18日 - [[大佐]]に昇進。
*[[1920年]](大正9年)8月10日 - 陸軍省軍事課長。
*[[1921年]](大正10年)7月20日 - 近衛歩兵第1連隊長。
*[[1922年]](大正11年)8月15日 - [[少将]]に昇進。歩兵第1[[旅団]]長。
*[[1923年]](大正12年)8月6日 - 陸軍士官学校本科長。
*[[1924年]](大正13年)3月 - [[欧米]]出張(~9月)。
*[[1925年]](大正14年)5月1日 - 陸軍士官学校幹事兼教授部長。
*[[1926年]](大正15年)3月2日 - 陸軍士官学校校長。
*[[1927年]](昭和2年)3月5日 - [[中将]]に昇進。
**8月26日 - [[第8師団]]長。
*[[1929年]](昭和4年)7月1日 - [[第1師団]]長。
*[[1931年]](昭和6年)8月1日 - 台湾軍司令官。
*[[1932年]](昭和7年)1月9日 - 参謀次長。
*[[1933年]](昭和8年)6月19日 - [[陸軍大将|大将]]に昇進。[[軍事参議院|軍事参議官]]。
*[[1934年]](昭和9年)1月23日 - 教育総監(軍事参議官との兼任)。
*[[1936年]](昭和11年)3月10日 - [[予備役]]編入。
== 脚注 ==
<references/>
_
[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%9C%9F%E5%B4%8E%E7%94%9A%E4%B8%89%E9%83%8E 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月28日 (日) 04:37。]
{{Infobox 軍人
|name=真崎 甚三郎
|lived=[[1876年]][[11月27日]] - [[1956年]][[8月31日]]
|placeofbirth=佐賀県
|placeofdeath=
|image=[[Image:Masaki Jinzaburo.jpg|180px]]
|caption=陸軍大将 真崎甚三郎
|nickname=
|allegiance=大日本帝国陸軍
|serviceyears=[[1898年]] - [[1936年]]
|rank=陸軍大将
|commands=[[第8師団]]長<br />[[第1師団]]長<br />台湾軍司令官<br />参謀次長<br />[[教育総監]]
|unit=
|battles=[[日露戦争]]
|awards=
|laterwork=
}}
'''眞崎 甚三郎'''(まさき じんざぶろう、[[明治]]9年([[1876年]])[[11月27日]] - [[昭和]]31年([[1956年]])[[8月31日]])は、[[日本]]の[[軍人]]。[[陸軍大将]]。[[皇道派]]の中心人物。[[佐賀県]]出身。弟に[[海軍少将]]・[[衆議院議員]]の[[眞崎勝次]]。
==来歴・人物==
佐賀中学(現・[[佐賀県立佐賀西高等学校]])から[[1895年]]12月、士官候補生を経て、[[1896年]]9月、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]へ。陸士第9期卒後[[日露戦争]]に従軍。
[[陸軍大学校]]第19期卒業。[[荒木貞夫]]、[[阿部信行]]、[[松木直亮]]、[[本庄繁]]、[[小松慶也]]が同期にいる。荒木が首席で卒業している。
[[久留米]][[板東俘虜収容所#第一次世界大戦期のドイツ人俘虜収容所|俘虜収容所長]]<ref>2006年公開の映画「[[バルトの楽園]]」で[[板東英二]]が演じた久留米俘虜収容所長は真崎がモデルとみられる。</ref>、[[陸軍大佐]]、軍務局軍事課長、近衛歩兵第1連隊長、[[陸軍少将]]、歩兵第1旅団長、陸軍士官学校本科長、教授部長兼幹事、陸軍士官学校長、[[陸軍中将]]、[[第8師団 (日本軍)|第8師団]]長、[[1929年]]7月1日からは[[第1師団 (日本軍)|第1師団長]]、[[台湾軍_(日本軍)|台湾軍]][[司令官]]、[[参謀次長]]兼軍事参議官を歴任。
陸軍士官学校校長時代、尊皇絶対主義の訓育に努め、[[安藤輝三]]、[[磯部浅一]]らを輩出。[[1932年]]参謀次長に就任後、[[荒木貞夫]][[陸軍大臣]]とともに国家革新を図る[[皇道派]]を形成。勢力伸張を図り、中堅[[将校]]たちの信望を担ったが、後に党派的な行動が反発を買い、[[統制派]]を生むことになる。
肩書きは参謀次長であったが、当時参謀総長[[閑院宮載仁親王]]の下で事実上の参謀総長として[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]を動かした。[[満州事変]]では勢力拡大を主張した。
[[1934年]]1月[[教育総監]]に就任、[[天皇機関説]]問題では[[国体明徴運動]]を積極的に推進し率先して天皇機関説を攻撃。この流れを危惧し陸軍の改革を断行しようとした荒木の後任、[[岡田啓介]]内閣の[[林銑十郎]][[陸軍大臣]]とその懐刀である[[陸軍省#軍務局|軍務局長]][[永田鉄山]]少将が、1935年7月真崎を[[陸軍大将]]に昇進させるかたわら「[[陸軍三長官]]」の一つである教育総監から下ろし、後任に[[渡辺錠太郎]]を据えた 。この人事に反発した皇道派の[[相沢三郎]]陸軍中佐が8月[[相沢事件]]を引き起こし永田鉄山を殺害した。
更にこの後陸軍の改革に反発した[[皇道派]]の若手将校により[[二・二六事件]]が起きた。真崎自身は直接的には加担しなかったと言われるが真偽は明らかでない。反乱首謀者の[[安藤輝三]]、[[磯部浅一]]らに実行支持と受け取れる態度を事件前から示し、組閣命令を期待して行動する。これが元で、[[1936年]]7月に拘留され、[[憲兵隊]]本部の取調べを受けた後、反乱幇助で軍法会議に起訴されたが、事件関与を否認。論告求刑は反乱者を利す罪で禁錮13年であったが、[[1937年]]9月25日の判決で無罪となる。しかし、この結果皇道派の力が衰え、統制派の力が増すことになる。
終戦後の[[1945年]]11月19日に、[[A級戦犯]]として逮捕命令が発令され、[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]に入所する。第一回の尋問は巣鴨への収監に先立つ12月2日に[[阪急ホテルマネジメント|第一ホテル]]で行われた。以降は、3回に亘って尋問が行われたが、供述内容は責任転嫁と自己弁明に終始した。特に、敵対していた[[東條英機]]等統制派軍人や[[木戸幸一]]に対する敵意と憎悪に満ちた発言と、[[親米]]主義の強調は事あるごとに繰り返しており、その態度からは「皇道派首領としての威厳や格調、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]を過ちへ導いた事への自責の念は全く見られなかった」と[[野口恒]]等から酷評されている。[[極東国際軍事裁判]]で不起訴処分。
1956年死去。
== 年譜 ==
*[[1897年]](明治30年)11月 - [[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]卒業(9期)。
*[[1898年]](明治31年)6月 - [[少尉]]に昇進。[[歩兵]]第46[[連隊]]附。
*[[1899年]](明治32年)5月 - 対馬警備隊附
*[[1900年]](明治33年)11月 - [[中尉]]に昇進。
**12月 - 陸軍士官学校附(区隊長)。
*[[1904年]](明治37年)2月 - [[日露戦争]]に従軍(~[[1905年]]12月)。
**6月 - [[大尉]]に昇進。歩兵第46連隊中隊長。
*[[1907年]](明治40年)11月 - [[陸軍大学校]]卒業(19期恩賜)。[[陸軍省]]軍務局出仕。
*[[1908年]](明治41年)10月 - 軍務局課員(軍事課)。
*[[1909年]](明治42年)1月 - [[少佐]]に昇進。
*[[1911年]](明治44年)5月 - [[ドイツ]]駐在(~[[1914年]]6月)。
*[[1914年]](大正3年)6月 - [[歩兵第42連隊]]大隊長。
**11月 - [[中佐]]に昇進。歩兵第53連隊附。
*[[1915年]](大正4年)5月25日 - 久留米俘虜収容所長。
*[[1916年]](大正5年)11月15日 - [[教育総監]]第2課長。
*[[1918年]](大正7年)1月18日 - [[大佐]]に昇進。
*[[1920年]](大正9年)8月10日 - 陸軍省軍事課長。
*[[1921年]](大正10年)7月20日 - 近衛歩兵第1連隊長。
*[[1922年]](大正11年)8月15日 - [[少将]]に昇進。歩兵第1[[旅団]]長。
*[[1923年]](大正12年)8月6日 - 陸軍士官学校本科長。
*[[1924年]](大正13年)3月 - [[欧米]]出張(~9月)。
*[[1925年]](大正14年)5月1日 - 陸軍士官学校幹事兼教授部長。
*[[1926年]](大正15年)3月2日 - 陸軍士官学校校長。
*[[1927年]](昭和2年)3月5日 - [[中将]]に昇進。
**8月26日 - [[第8師団]]長。
*[[1929年]](昭和4年)7月1日 - [[第1師団]]長。
*[[1931年]](昭和6年)8月1日 - 台湾軍司令官。
*[[1932年]](昭和7年)1月9日 - 参謀次長。
*[[1933年]](昭和8年)6月19日 - [[陸軍大将|大将]]に昇進。[[軍事参議院|軍事参議官]]。
*[[1934年]](昭和9年)1月23日 - 教育総監(軍事参議官との兼任)。
*[[1936年]](昭和11年)3月10日 - [[予備役]]編入。
== 脚注 ==
<references/>
_
[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%9C%9F%E5%B4%8E%E7%94%9A%E4%B8%89%E9%83%8E 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月27日 (木) 19:59。]