ジョン・ラーベ

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'''ジョン・ラーベ'''('''John H. D. Rabe''', [[1882年]][[11月23日]] - [[1950年]][[1月5日]])は、[[ドイツ]]の[[実業家]]<ref>一説には、ラーべは対[[中国国民党]]の武器商人とされている([[田中正明]]による主張。ただし田中はその根拠を示しておらず、また田中の説に同調する歴史学者も存在しない。)</ref>。[[南京安全区国際委員会]]委員長。 == 経歴 == [[ハンブルク]]に生まれる。商社での修業ののち[[アフリカ]]にわたって数年を過ごし、[[1908年]]に[[中華人民共和国|中国]]に移り、[[1910年]]から[[シーメンス|ジーメンス]]社の中国支社で勤務。[[1937年]]、日本軍による[[南京攻略戦]]の際に、他の10数人の外国人と共同で組織した南京安全区国際委員会の委員長となって、中国民間人を保護する。そのほか自分の所有する土地に[[ハーケンクロイツ]]旗を掲げ、民間人を日本軍の爆撃から守ろうとした(602人が避難してきたという)。南京陥落後は、非人道的行為の防止に尽力する。 [[1938年]][[2月28日]]に[[南京]]を去りドイツに帰国。[[ベルリン]]などで日本軍の残虐行為についてのフィルム上映・写真の展示をおこなった他、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]に上申書を送付し、日本軍による非人道的行為を止めさせるよう働きかけることを提言したが、直後に[[ゲシュタポ]]によって逮捕された。ジーメンス社の介入によってすぐに釈放されるが、フィルムを没収されると共に日本軍の行為については緘口令を敷かれた。その後[[アフガニスタン]]での一時的な勤務の後、終戦までジーメンス社のベルリン本社で勤務した。 戦後、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]党員(南京では党副支部長を自称していた)であったことを理由に[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]と[[イギリス軍]]に相次いで逮捕されるが、中国での人道的行為を考慮され、[[非ナチ化]]の審査を受けた後釈放された。中華民国政府から、少額の年金を支給されていたが、戦中・戦後の混乱の影響で貧しい生活を余儀なくされることになり、長らく[[糖尿病]]に苦しんだ末、[[1950年]]に脳卒中のため死去。 == 死後と顕彰 == [[1996年]]、[[南京大虐殺]]当時の日記が孫によって出版された。英語、中国語及び日本語に翻訳されているが、日本語訳は誤訳が多い。 南京でラーベが暮らしていた住居は、[[2006年]]にドイツ政府の資金拠出(225万元)によって修理・保存されており、彼の銅像も置かれている。ラーベのドイツでの知名度は低いが、[[ヨハネス・ラウ]]大統領は中国訪問の際に記念碑を訪れてその功績を顕彰した。[[ハイデルベルク]]にもラーベの名を冠した施設と胸像がある。 ラーベを主人公に南京大虐殺をテーマとしたドイツ・中国合作映画の撮影が、[[2007年]]10月から上海で始まっている[http://www.zelluloid.de/news/index.php3?id=9011]。ドイツでの公開予定は[[2008年]]末。 == 著作 == * 『南京の真実』講談社、1997年、ISBN 4062088665 == 脚注 == <references /> [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%99 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年2月24日 (日) 03:38。]    

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