昭憲皇太后

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{{基礎情報 君主 | 人名 = 昭憲皇太后 | 各国語表記 = | 君主号 = [[日本の皇后一覧|日本の皇后]] | 画像 = Empress Shoken.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = | 在位 = [[1869年]][[2月9日]]([[明治]]元年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]) - [[1912年]][[7月30日]] | 戴冠日 = | 別号 = | 全名 = 美子(はるこ) | 出生日 = [[1849年]][[5月9日]]<br>([[嘉永]]2年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]) | 生地 = [[平安京]] | 死亡日 = [[1914年]][[4月9日]] | 没地 = [[静岡県]][[駿東郡]][[静浦村]]・[[沼津御用邸]] | 埋葬日 = 1914年 | 埋葬地 = [[伏見桃山陵|伏見桃山東陵]] | 配偶者1 = [[明治天皇]] | 子女 = | 父親 = [[一条忠香]] | 母親 = 新畑民子 }} '''昭憲皇太后'''(しょうけんこうたいごう、[[1849年]][[4月17日 (旧暦)|4月17日]](新暦[[5月9日]]) - [[1914年]][[4月9日]])は、[[日本]]の[[皇族]]。[[明治天皇]]の[[皇后]]。旧名、'''一条 美子'''(いちじょう はるこ)。[[お印]]は[[若葉]]。病弱で実子はなかったが、嫡妻として、夫の側室が生んだ[[大正天皇]]を養子とした。 == 生涯 == 嘉永2年(1849年)4月17日誕生。従一位[[左大臣]][[一条忠香]]の三女で、生母は側室新畑民子(忠香の正室は[[伏見宮]]順子女王)。[[右大臣]][[一条実良]](1835-1868年)の妹。[[徳川慶喜]]の婚約者であった千代君(照姫)は実の姉であり、千代君に代わって慶喜に嫁いだ[[一条美賀子|美賀子]](忠香養女、実は今出川公久の娘)とも義理の姉妹となる。 はじめの諱は'''勝子'''(まさこ)。通称は'''富貴君'''(ふきぎみ)、'''富美君'''(ふみぎみ)など。[[安政]]5年([[1858年]])6月、'''寿栄君'''(すえぎみ)と改名。 [[慶応]]3年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]([[1867年]][[7月29日]])、新帝明治天皇の[[女御]]に治定。伏見宮家の縁故で、女流漢学者で勤王論者の[[若江薫子]](1835―1881年)が家庭教師として忠香の娘たちの養育に携わっていたが、女御を一条家から出すのに際し、薫子は姉姫を差し置いて妹姫の寿栄君を推薦したと言われている。 [[明治]]元年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]([[1869年]][[2月7日]])、美子(はるこ)と改名。[[12月28日 (旧暦)|同月28日]](1869年[[2月9日]])入内して女御の宣下を蒙り、即日皇后に立てられた。この際、天皇より3歳年長であることを忌避して、公式には嘉永3年([[1850年]])の出生とされた。当初、中世以来の慣行に従って[[中宮職]]を付置され、[[中宮]]と称されたが、翌年、中宮職が[[皇后宮職]]に改められ、称号も皇后宮と改められた。このときを最後に、中宮職は廃止され、中宮の称号も絶えた。 [[Image:Empress Consort Haruko.jpg|thumb|1872年撮影]] [[1914年]]([[大正]]3年)[[4月9日]]午前2時10分、[[沼津御用邸]]にて崩御。公式には[[4月11日]]同時刻。まる2日ずらされたのは、宮内省[[内蔵頭]]当時の収賄で司直の手が及びかけていた[[渡辺千秋]][[宮内大臣]]を急遽更迭させるための措置。[[大喪]]最高責任者となるはずであった渡辺が大喪の終るまでの約3ヶ月の間に逮捕されると、皇太后の遺徳は汚され宮内省の威信は地に落ちると考えられたためであろう。同年[[5月9日]]、[[宮内省]]告示第9号により「昭憲皇太后」と追号され、翌年[[5月1日]]に、明治天皇とともに[[明治神宮]]の祭神とされた。陵墓は伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)。 ==業績== 維新期の皇后として社会事業振興の先頭に立ち、華族女学校(現[[学習院]]女子部)や、お茶の水の東京女子師範学校(現[[お茶の水女子大学]])の設立、[[日本赤十字社]]の発展などに大きく寄与した(赤十字社の正式紋章「赤十字桐竹鳳凰章」は、紋章制定の相談を受けた際、皇后がたまたま被っていた冠が[[桐]]と[[竹]]の組み合わせで出来ていた事から、「これがよかろう」という事で決められたという)。[[津田梅子]]ら女子留学生の派遣にも関わったとされている。皇后として欧化政策の先頭に立たなければいけない立場をよく自覚しており、[[1886年]](明治19年)以降は、着用の衣服を寝間着を除いてすべて[[洋服]]に切り替えた。洋服を率先着用した理由としてもう一つ「上半身と下半身の分かれていない着物は女子の行動を制限して不自由である」という皇后自身の言葉も伝えられている。現在の皇室で意外なほど[[和服]]が着られないのは、この時の方針が踏襲されているからである。 また、生涯に3万首を超える[[和歌]]を詠み、その一部が『昭憲皇太后御集』として伝わる。昭憲皇太后の御歌としては、[[1876年]](明治9年)2月、東京女子高等師範学校に下賜した校歌「磨かずば玉も鏡もなにかせむ学びの道もかくこそありけれ」(玉も鏡も磨かなければ何にもならない。勉強もそういうもの)が著名であり、また、華族女学校の教育指針を詠んだ「金剛石」「水は器」等も、[[尋常小学校]][[唱歌]]として広く歌われた。 [[崩御]]に際して「[[ロンドンタイムズ]]」は彼女を高く評価した(出雲井晶『エピソードでつづる 昭憲皇太后』参照)。 ==逸話== *[[1884年]](明治17年)に宮中改革を巡って明治天皇とギクシャクしていた[[伊藤博文]]が病気で倒れた際には、天皇に代わって見舞いの使者を出して両者の仲直りのきっかけを作った。また、同年に[[宮内大輔]]の[[吉井友実]]が以前に社長を務めていた[[日本鉄道]]の[[上野駅|上野]]-[[高崎駅|高崎]]間開通式典に出席した際に、明治天皇は出席に乗り気ではなく天気も一日中雨であったが、皇后は終始笑顔で応対し吉井を感激させた(吉井の[[宮島誠一郎]]宛書簡)。 *明治になって再び朝廷に政権が返った事により、[[江戸幕府]]の[[大奥]]や西洋の宮廷の例のように皇后やその周辺の側近が国政に関与する可能性も存在したが、彼女は自らを律して国政に直接関与する事を戒めた。また、[[香川敬三]]や[[下田歌子]]などの周囲の側近に恵まれて、近代日本の皇后としての役割を確立することができた。 *[[1904年]](明治37年)2月、[[日露戦争]]の前夜、葉山の御用邸に皇后が滞在していた折であったが、37,8歳の[[武士]]が白衣で皇后の夢枕に立ち、戦いの際の[[海軍 (日本)|海軍]]守護を誓ったという。皇后が侍臣に下問したところ、[[坂本龍馬]]の霊であるとわかった。これが新聞に載って国民の士気を鼓舞し、[[京都霊山護国神社|霊山官祭招魂社内]]にある坂本龍馬の墓前に忠魂碑が立てられるに至った。 *その当時の日本女性には珍しく鼻筋の通った顔立ちであり、夫君の明治天皇にからかい混じりに「[[天狗]]さん」と渾名されていたという。 ==追号について== 皇后・皇太后・太皇太后の3つの身位の班列は、[[皇族身位令]]により、1.皇后、2.太皇太后、3.皇太后の順と定められ、諡号・追号には生前帯びていた身位のうち最高のものをつけることになっている。皇后であった彼女の追号は、本来なら「昭憲皇后」とされるはずであった。それが「皇太后」になった理由は、孝明天皇の正妻であり明治天皇の「実母」(嫡母)であった[[英照皇太后]]の追号が「皇太后」であったことから、誤ってそれに倣って命名してしまったものとされている。 また、皇族身位令の制定が1910年(明治43年)であっていまだその内容が充分に定着していなかったこと、さらに[[大宝律令]]の規定ではこれとは違い、1.太皇太后、2.皇太后、3.皇后の順と定められていたことも影響していると考えられる。英照皇太后は生前女御のままで皇后には冊立されず、明治天皇の即位にともなって皇太后とされたので、その追号は正確なものであったが、昭憲皇太后にはこれは当てはまらない。追号は勅裁により定められたものであるから、誤りが判明しても「[[綸言汗の如し]]」としてこれを改めることが出来ず、現在に至っている。彼女を祭神とする[[明治神宮]]は、[[1920年]](大正9年)と[[1963年]]([[昭和]]38年)の2度にわたって「昭憲皇后」への改号を宮内省・宮内庁に要請しているが、いずれも拒否された。 続く[[貞明皇后]]と[[香淳皇后]]の2人の皇后は、生前皇后であったことを正確に反映した追号を贈られている。 ==参考文献== *[[明治神宮]]編 『新抄明治天皇御集・昭憲皇太后御集』 角川書店〈[[角川文庫]]〉、1967年。 :現在この文庫版は明治神宮で購入可能 *山本和子文 外山勝志監修 村上正師画 『歴史絵本 明治天皇と昭憲皇太后』 善本社 2007年 *『明治神宮叢書』全20巻、[[国書刊行会]]、2006年完結 基本文献 *出雲井晶 『エピソードでつづる昭憲皇太后』 錦正社、2001年。ISBN 4764602555 *出雲井晶 『春の皇后 小説・明治天皇と昭憲さま』 中公文庫 1999年 ISBN 4122033489 *若桑みどり 『皇后の肖像 ―昭憲皇太后の表象と女性の国民化―』 筑摩書房、2001年。ISBN 4480873309 *小田部雄次 『四代の天皇と女性たち』 [[文藝春秋]]〈文春新書〉、2002年。ISBN 416660273X *片野真佐子 『皇后の近代』 講談社〈講談社選書メチエ〉、2003年。ISBN 406258283X *河原敏明 『昭和天皇の妹君』 文藝春秋〈文春文庫〉、2002年。ISBN 4167416042 ==外部リンク== *[http://j-texts.com/taisho/shoken.html 〔類題謹解〕昭憲皇太后御集] *[http://space.geocities.jp/keiun17/ 昭憲皇太后史]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%98%AD%E6%86%B2%E7%9A%87%E5%A4%AA%E5%90%8E 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月8日 (土) 02:12。]    

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