世界恐慌

「世界恐慌」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

世界恐慌」(2008/11/20 (木) 22:39:27) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

[[画像:Crowd outside nyse.jpg|thumb|200px|right|[[ニューヨーク]]・[[ウォール街]]の群衆]] '''世界恐慌'''(せかいきょうこう)とは[[1929年]][[10月24日]]に[[ニューヨーク証券取引所]]で株価が大暴落したことをきっかけに生じた金融恐慌に対する、[[金本位制]]であるがゆえのシステム的な不備と当時の各国当局の対応のまずさから生じた1930年代の世界規模の[[恐慌]]を指す。'''大恐慌'''、'''世界大恐慌'''ともいう。 == 背景 == [[第一次世界大戦]]後、[[1920年代]]の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は大戦への輸出によって発展した[[重工業]]の[[投資]]、帰還兵による[[消費]]の拡張、[[モータリゼーション]]のスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への[[輸出]]の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的[[好況]]を手に入れた。 1920年代前半に既に[[農作物]]を中心に余剰が生まれていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題は発生しなかった。しかし農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの復興、相次ぐ異常気象から[[農業恐慌]]が発生。また、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国の購買力も追いつかず、社会主義化による[[ソビエト連邦|ソ連]]の世界市場からの離脱などによりアメリカ国内の他の生産も過剰になっていった。 また、農業不況に加えて[[鉄道]]や[[石炭産業]]部門も不振になっていたにもかかわらず[[投機]]熱があおられ、適切な抑制措置をとらなかった。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[株式市場]]は[[1924年]]中頃から投機を中心とした資金の流入によって長期上昇トレンドに入った。株式で儲けを得た話を聞いて好景気によってだぶついた資金が市場に流入、さらに投機熱は高まり、[[ダウ平均株価]]は5年間で5倍に高騰。1929年[[9月3日]]にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。市場はこの時から調整局面を迎え、続く1ヶ月間で17%下落したのち、次の1週間で下落分の半分強ほど持ち直し、その直後にまた上昇分が下落するという神経質な動きを見せた。それでも投機熱は収まらず、[[ジョセフ・P・ケネディ]]はウォール街の有名な靴磨きの少年が投資を薦めた事から不況に入る日は近いと予測したという。 ==展開== そのような状況の下1929年10月24日10時25分、[[ゼネラルモーターズ]]の株価が80セント下落した。下落直後の寄り付きは平穏だったが、間もなく売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落した。この日だけで1289万4650株が売りに出されてしまった。ウォール街周囲は不穏な空気につつまれ、警官隊が出動して警戒にあたらなければならなかった。 シカゴとバッファローの市場は閉鎖され、投機業者で自殺したものはこの日だけで11人に及んだ。この日は[[木曜日]]だったため、後にこの日は「'''暗黒の木曜日'''(Black Thursday)」と呼ばれるようになった。翌[[10月25日|25日]]金曜の13時、[[ウォール街]]の大手株仲買人と銀行家たちが協議し、買い支えを行うことで合意した。このニュースでその日の相場は平静を取り戻したが、効果は一時的なものだった。 週末に全米の新聞が暴落を大々的に報じたこともあり、[[10月28日|28日]]には921万2800株の出来高でダウ平均が一日で13%下がるという暴落が起こり、更に[[10月29日]]、24日以上の大暴落が発生した。この日は取引開始直後から急落を起こした。最初の30分間で325万9800株が売られ、午後の取引開始早々には市場を閉鎖する事態にまでなってしまった。当日の出来高は1638万3700株に達し(これは5日前に続く記録更新であり、以後[[1969年]]まで破られなかった)、株価は平均43ポイント(ダウ平均で12%)下がり、9月の約半分ぐらいになってしまったのである。一日で時価総額140億ドルが消し飛び、週間では300億ドルが失われた計算になったが、これは当時の米国連邦年間予算の10倍に相当し、アメリカが[[第一次世界大戦]]に費やした総戦費をも遥かに上回った。 投資家はパニックに陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始めていった。この日は[[火曜日]]だったため、後にこの日は「'''悲劇の火曜日'''(Tragedy Tuesday)」と呼ばれるようになった。そしてアメリカ経済への依存を深めていた脆弱な各国経済も連鎖的に破綻することになる。 過剰生産によりアメリカ工業セクターの[[設備投資]]縮小が始まったのが大きな要因であり世界恐慌がさらに投資縮小を誘引したため、強烈な景気後退に見舞われることになった。 [[産業革命]]以後、工業国では10年に1度のペースで恐慌が発生していた。しかし[[1930年代]]における恐慌(世界恐慌)は規模と影響範囲が絶大で、自律的な回復の目処が立たないほど困難であった。 ===大不況から世界恐慌へ=== [[第1次世界大戦]]後の[[アメリカ合衆国|米国]]経済の圧倒的な存在感(当時世界の[[金]]の半分以上が米国に集まっていた)のため、一般的には米国の株価暴落がそのまま世界恐慌につながったとされているが、[[バーナンキ]]をはじめとする経済学者は異なる見解を示している<ref>Ben S. Bernanke "The Macroeconomics of the Great Depression: A Comparative Approach," Journal of Money, Credit, and Banking, 27(1), 1995.</ref>。 [[1929年]]の[[ウォール街]]の暴落は米国経済に大きな打撃を与えた。しかし当時は[[株式市場]]の役割が小さかったために被害の多くはアメリカ国内にとどまっており、当時の米国経済は循環的不況に耐えてきた実績もあった。不況が大恐慌に繋がったのは、その後銀行倒産の連続による金融システムの停止に、[[連邦準備制度理事会|FRB]](アメリカ連邦準備制度理事会)の金融政策の誤りが重なったためであった。<!--(もっとも当時のFRBの地位はとても低かった。)--> 大不況が世界に広まるきっかけとなったのは[[1931年]]5月11日の[[オーストリア]]の大銀行[[クレジットアンシュタルト]](Creditanstalt [[1855年]]に[[ロスチャイルド家|ロスチャイルド]][[男爵]]により設立)の破綻であったとされる。クレジットアンシュタルトは株価暴落に伴う[[信用収縮]]の中で突然閉鎖した。東欧諸国の輸出が激減し[[経常収支]]が赤字となり、旧[[オーストリア帝国]]領への[[融資]]が焦げ付いたこと、加えて政府による救済措置が適切に行われなかったことが破綻の原因となった。オーストリア向けの融資が焦げ付いた要因としては、3月の[[独オーストリア関税同盟]]の暴露に対する[[フランス]]の[[経済制裁]]により、[[オーストリア]]経済が弱体化したことが致命的であった。 クレジットアンシュタルトの破綻を契機として、7月に[[ドイツ]]の銀行が倒産し、その影響はドイツ、東欧諸国と世界に及んだ。 <!--専門家の学んだ教訓は、「株価暴落は自然に手当できるが、信用収縮(=金融恐慌)は[[資本注入]]できちんと手当てしなければならない」ということである。(日本の[[バブル崩壊]]も[[資本注入]]が遅れ傷が広がった。[[モラル・ハザード]]懸念が、政策決定の遅れを引き起こしたからである。国民も経済的苦境の中で、巨額の税金や[[国債]]が銀行や[[バブル]]企業に浪費されるのを嫌うためである。) --> 当時の米国大統領、[[ハーバート・フーヴァー|フーバー]]の「株価暴落は経済のしっぽであり、[[ファンダメンタルズ]]が健全で生産活動がしっかり行われている(ので大丈夫)」という発言は末永く戒めとして記憶されることになった。(当時の大経済学者[[アーヴィング・フィッシャー]][[エール大学]]教授の所論でもあった。) [[金本位制]]の元で、経済危機はそのまま経済の根幹を受け持つ[[本位貨幣|正貨]](金)の流出につながる。7月のドイツからの流出は10億[[マルク]](2.4億ドル)、イギリスからの流出は3000万[[ポンド]](14億$?1.4億$かも知れない)だった。さらに数千万ポンドを失った[[イングランド銀行]]は[[1931年]]9月[[金本位制]]を停止し、[[第1次世界大戦]]後の復興でやっと金本位制に復帰したばかりの各国に壊滅的打撃を与えた。その対策として英国が始め、世界中に普及し、[[第2次世界大戦]]の素地を作ったのが[[ブロック経済]]である。 特に1929年2月に[[金本位制]]に復帰したばかりの日本は色々な思惑から、世界経済混乱の中で[[本位貨幣|正貨]]を流出させた([[金解禁]]は[[1930年]]1月から[[1931年]]12月まで) 。「嵐の中で雨戸を開けた」と評され、[[昭和恐慌]]から[[太平洋戦争]]へ至る道筋を作った決定と言われる。 (当時金価格は1[[トロイオンス]]20.67$、4.25[[UKポンド#過去のポンド|スターリングポンド]]であった。 戦後は[[ニクソンショック]]まで1[[トロイオンス]]あたり35$の固定相場である。 今1[[トロイオンス]]の地金は約8万円なので、1億$=現在金価値約4000億円相当と考えられる。(2008年10月現在)。ただし当時の経済規模を考えると、10倍以上のインパクトがあったと思われる) == 各国の状況 == 未曾有の恐慌に[[資本主義]][[先進国]]は例外なくダメージを受けることになった。[[植民地]]を持っている国(アメリカ・[[イギリス]]・[[フランス]])は様々な政策を採りダメージの軽減に努めたが、持っていない国([[日本]]・[[ドイツ]]・[[イタリア]])はそれができず国によっては[[全体主義]]の台頭を招くことになる。第一次世界大戦後、世界恐慌まで続いていた国際協調の路線は一気に崩れ、[[第二次世界大戦]]への大きな一歩を踏み出すこととなった。この中で経済政策で対応し、かつ満州を経済圏として持った日本のGDPは1934年に恐慌前の水準に戻り、ニューディール政策も取ったアメリカは1941年まで恐慌前の水準に回復することができなかった<ref>[[中村政則]]『昭和の歴史 第2巻』小学館 1994年</ref>。 [[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ハーバート・フーヴァー|フーヴァー]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は古典的[[経済学]]の信奉者であり、国内経済において自由放任政策を採った。その一方で[[1930年]]には[[スムート・ホーリー法]]を定めて保護貿易政策を採り、世界各国の恐慌を悪化させた。[[1931年]]、オーストリア最大の銀行が倒産してヨーロッパ経済の更なる悪化が予想されたことに対しようやく[[フーヴァーモラトリアム]]と称される支払い猶予を行ったが、既に手遅れであり恐慌は拡大する一方だった。[[1932年]]後半から[[1933年]]春にかけてが恐慌のピークだったようで恐慌発生直前と比べて株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した。閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止、社会主義革命の発生すら懸念された。 こうした中、[[修正資本主義]]に基いた[[ニューディール政策]]を掲げて当選した[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[フランクリン・ルーズベルト|フランクリン・ルーズヴェルト]]大統領は公約通り[[テネシー川流域開発公社]]を設立、更に[[農業調整法]]や[[全国産業復興法]]を制定し、更に[[ラテンアメリカ]]との外交方針を以前の棍棒外交から善隣外交へ転換した。ただ、ニューディール政策は1930年代後半の景気回復を前に規模が縮小されるなどしたため、1930年代後半には再び危機的な状況となった。このため、同政策にどれほど効果があったかについては今日でも賛否両論がある。 アメリカ経済の本格的な回復はその後の第二次世界大戦参戦による莫大な軍需景気を待つこととなる。 === イギリス === [[労働党 (イギリス)|労働党]]の[[ラムジー・マクドナルド|マクドナルド]][[内閣]]は[[失業保険]]の削減など[[緊縮財政]]を敷くがその政策から労働党を除名され、代わりに[[保守党 (イギリス)|保守党]]と[[自由党 (イギリス)|自由党]]の援助を受けてマクドナルド挙国一致内閣を組閣する。それとほぼ同時期の1931年[[9月21日]]、ポンドと金の兌換を停止、いわゆる[[金本位制]]の放棄を行った。なおイギリスが金本位制の放棄を行ったのをきっかけに金本位制を放棄する国が続出、[[1937年]]6月にフランスが放棄したのを最後に国際的な信用秩序としての金本位制は停止した。勢力にかなりの蔭りが出ていたイギリスでは広大な植民地を維持していくことができず[[ウェストミンスター憲章]]により自治領と対等な関係を持ち、新たに[[イギリス連邦]]を形成、これを母体に[[ブロック経済]]([[スターリングブロック]])を推し進めていくことになる(ただし[[インド帝国]]はブロック経済下でも東アジアと密接な経済関係にあったことが知られる)。 === フランス === イギリスと同様、[[ブロック経済]]([[フランブロック]])を形成したフランスは[[ファシズム]]に対抗するため、[[仏ソ相互援助条約]]を締結。そして[[コミンテルン]]の指導を受けた[[レオン・ブルム]]人民戦線内閣を組閣する。 === ドイツ === 元々、第一次世界大戦の敗戦で各国から巨額の賠償金を請求され、[[ハイパーインフレーション]]や[[フランス]]の[[ルール占領]]などにより極度に弱体化が進んでいた[[ドイツ]]経済は世界恐慌によって深刻な状態へ陥った。アメリカ企業も次々と撤退、少しずつ復興しかけていた経済は一気にどん底に突き落とされた。結果、大量の失業者が街に溢れ国内経済は破綻状態となる。 その中、[[共産主義]]と[[ナチズム]]が台頭。失望した人々の期待を受けて[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチス)が大躍進を遂げ1933年、[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]大統領の下で[[国家社会主義ドイツ労働者党]]党首の[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]内閣が成立。[[ドイツ国会議事堂放火事件]]で[[ドイツ共産党]]を弾圧し[[全権委任法]]を成立させる。[[1934年|翌年]]、[[大統領]]の死去と共にヒトラーは[[総統]]に就任、[[第三帝国]]が成立した。 ヒトラーはソ連での[[計画経済]]の成功を受けて作成された[[:en:Four Year Plan|四カ年計画]]に基づき[[軍拡]]と[[公共事業]]の拡大([[アウトバーン]]の建設等)を実施した。また、民間の重工業化を支援した。二次に亘るこの計画により失業者は劇的に減少し、経済的な回復は達成された。 その後、[[ヴェルサイユ条約]]、[[ロカルノ条約]]を相次いで破棄、[[ラインラント]]に軍隊を進駐させる。 === イタリア === 第一次世界大戦直後から経済混乱に陥り[[ファシスト党]]の一党独裁が始まっていたイタリアでは世界恐慌後も更にその傾向を強め、[[エチオピア]]を侵略した。 === 日本 === 大戦後の恐慌、[[関東大震災]]、[[昭和金融恐慌]]([[昭和恐慌]])によって弱体化していた日本経済は世界恐慌発生とほぼ同時に行った[[金解禁]]と生糸などの輸出の落ち込みにより危機的状況に陥る。株の暴落により都市部では多くの会社が倒産し就職難の者([[学歴難民]])や失業者があふれた(『[[大学は出たけれど]]』)。農作物は売れ行きが落ち価格が低下、冷害・凶作のために疲弊した農村では娘を売る[[身売り]]や[[欠食児童]]が急増して社会問題化。生活できなくなり大陸へ渡る人々も増えた。 国民が困窮する中、[[労働者]]や[[小作農]]の立場に立つ[[政党]]が代表者を[[国会]]に送るようになり[[労働争議]]や[[小作争議]]が増え、政府は[[治安維持法]]を改めて最高刑を死刑にし、[[特別高等警察]]を全国に設置して[[社会主義運動]]の取締りを強化。 [[高橋是清]]蔵相による積極的な歳出拡大(一時的軍拡を含む)、円の[[切下げ]]、アジア貿易への依存、[[重工業]]化へ向けた官民一体の経済体制転換を打ち出す。安価な綿布や雑貨を大量に輸出して1930年代後半には世界に先駆けいち早く大恐慌前の水準を回復したが、[[ブロック経済]]政策をとる欧米諸国との[[貿易摩擦]]が起こった。この間にも[[財閥]]は産業界を支配し、利権を求めて政治や軍に対する影響力を強めた。その後も目白押しの大規模プロジェクトなどで経済的成長が図られたが、資源配分転換と国際協調を背景にした[[軍縮]]への軍部の抵抗を止められず[[太平洋戦争]]へと向かうことになる。 この間「[[満州]]は日本の生命線である」と言った言葉の通り、日本は大陸進出へと進んでいくことになる。ドイツやイタリアのようにファシズムを唱える政党の躍進はなかったものの軍部の発言力は強まり、[[満州事変]]を引き起こして政府の不拡大方針を無視し、さらに[[五・一五事件]]で政党政治の幕引きをし、[[ワシントン海軍軍縮条約]]、[[ロンドン海軍軍縮会議|ロンドン海軍軍縮条約]]の破棄、[[二・二六事件]]、[[日独伊防共協定]]の締結、そして[[日中戦争]]、第二次世界大戦に突入していく。 === ソ連 === ソ連は[[共産主義]]国家だったため、主要国の中でただ一国世界恐慌の影響を全く受けず非常に高い経済成長を続けた。以後、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の推進する[[五カ年計画]]で着々と工業化を進めていった。 == 世界恐慌中の各国[[工業]]生産の推移 == {| class="wikitable" !年!![[アメリカ合衆国|アメリカ]]!![[イギリス]]!![[フランス]]!![[ドイツ]]!![[日本]]!![[ソビエト連邦|ソ連]] |- |[[1928年]]||93||94||92||99||90||79 |- |[[1929年]]||100||100||100||100||100||100 |- |[[1930年]]||81||92||100||86||95||131 |- |[[1931年]]||68||84||86||68||92||161 |- |[[1932年]]||54||84||72||53||98||183 |- |[[1933年]]||64||88||81||61||113||196 |- |[[1934年]]||66||99||75||80||128||238 |- |[[1935年]]||76||106||73||94||142||193 |} (1929年=100) ==社会主義・共産主義への傾倒== 世界各国が大恐慌に苦しむ中、[[NEP]]([[ネップ]])で経済発展を続けるソ連([[ソビエト社会主義共和国連邦]])と[[スターリン]]の美化が進んだ。大恐慌下での救いを求める人々の一部は[[共産主義]]に未来の輝かしい経済体制を夢見た。<ref>日本で有名なのは女優[[岡田嘉子]]のソ連亡命である。しかし、スパイの嫌疑をかけられ、岡田は収容所10年、同時に亡命した杉本は銃殺刑となった。</ref>特に英国の[[支配階級]]で裏切りが続出した事は[[冷戦]]時代に大きな意味を持った<ref>アンドリュー・ボイル著「裏切りの季節」 Climate of Treason </ref>。しかしスターリンの目指したのは[[トロツキー]]の国際主義ではなくソ連の国益であり、自分の独裁であった。 戦後の日本でも[[マルクス主義]]経済学(通称[[マル経]])が主流となった。また労働者は組合で「[[インターナショナル]]」の歌を歌った。[[歌声喫茶]]「灯」が東京の若者の共通体験となった<ref>[[光瀬龍]](高校生物教師)のSFには未来の太陽系の姿としてソ連最高会議幹部会を模した「惑星間経営機構」、[[KGB]]を模した「調査局(元宇宙省星域調査局、後に機構直轄)」が描かれている。</ref>。 ==社会科学における解釈とその影響== ===政治経済学=== 世界恐慌は「[[基軸通貨]]交替」「[[覇権国]]交替」に伴う当然の、あるいは必然的な事態と考えられる。英仏を中心とする世界体制が第1次世界大戦でくずれ、米国が覇権国になる途中の出来事であった。(後に英国は米国に「世界を任せる」という電報を打っている)世界の富を集めた結果世界的に通貨が必要であったが、金本位制のもとで[[通貨創造]]が出来ない各国は米国からの資金還流を待つしかなかった。しかし米国には覇権国の責任を受ける準備が出来ておらず、[[国際連盟]]には参加せず、ドイツなどの経済的苦境を放置した。さらに[[保護貿易]]主義を取り、米国の繁栄を世界各国に分かち合うことがなかったため、世界各国の経済的苦境が結局米国自身に跳ね返った。米国の生産量に見合う需要がどこにもないからである。[[モンロー主義]]([[孤立主義]])が優勢で、[[ウィルソン]]の国際主義ではなかった。[[第1次世界大戦]]の参戦も、[[ルシタニア号]]事件と[[ツィンメルマン電報]]事件が必要であった。 [[レンテンマルク]]を発行しドイツの天文学的インフレ凱<ref>[世界最悪のインフレは1946年に10垓(がい=京の1000倍、兆の100万倍。)ペンゴ紙幣が発行されたハンガリーである。10億兆ペンゴ=10垓(がい)ペンゴ=1×10の21乗ペンゴ=1,OOO,OOO,OOO,OOO,OOO,OOO,OOO ゼロが21個も並びます][http://www.77bank.co.jp/museum/okane/0104.htm 実物写真]</ref>を収束させた[[ワイマール共和国]]の[[シュトレーゼマン]]の功績は結局彼の死とともに水泡に帰し、[[ナチス]]の勃興を促した。 これらの教訓が、第2次世界大戦以来の主要国(特に米国)の政策決定を縛ることになる。 最大の問題は、軍国主義を取った日本などが急速に復興し、米国のニューディール政策が景気の回復にむすびつかなかった事である。ニューディールはケインズ主義の需要喚起策の成功のように考えられている場合があるが、そうではなかった。ケインズ自身も自覚していたように、戦争が強力に余剰生産力を解消するのである。そういう意味でも大恐慌は第2次世界大戦の素地を作ったと言える。 ===経済学=== 当時は「市場は自身で調整を行う機能を持っており、政府の介入は極力すべきではない」という[[自由放任主義]]の考え方が主流であった。また、オーストリア学派などによって大恐慌は蓄積した市場の歪みを調整するための不可避の現象であるという見方もなされた。しかし、<!--大恐慌が「[[神の見えざる手]]」への信頼を打ち砕いた。-->このような考え方では大恐慌を説明することができず、新しい経済理論が求められた。 その後、ニューディール政策のなかで[[ケインズ]]によって『[[雇用・利子および貨幣の一般理論]]』が出版された。一般理論では、有効需要の創造がこの大恐慌を脱する方策であるという見解が示された。 <!--大恐慌の解釈は経済循環説をとるケインジアンや通貨供給に原因を取るマネタリストなど、経済学派により異なる。ケネディ時代はケインズ派が主流であった([[サミュエルソン]]の「経済学」が基本教科書だった)。80年代から勢力を伸ばしたのは[[ミルトン・フリードマン]]を中心とするシカゴ学派(マネタリズム、新古典派)である。マネタリストの[[アラン・グリーンスパン]]前FRB議長は経済危機を受けた2008年10月の議会証言で「自分の自由放任は間違っていた」と証言した。--> <!--== 今後起きる可能性 == [[1929年]]の世界大恐慌以降、一国家規模での[[バブル崩壊]]などは起きたが全世界規模での大恐慌は起きてはいなかった。しかし、[[2007年]]にアメリカのサブプライムローン問題に端を発する金融危機が発生。[[ニューヨーク証券取引所]]の株価の不安定化により、世界的な株価下落を招いている。アメリカ大手の[[リーマン・ブラザーズ]]といった会社が破綻するなど、[[2008年]]10月時点でも世界経済の不安定な状態は続いている。そのため、近い将来に第二の世界大恐慌が起きる危険性、可能性は否定できない。 '''※詳細は[[世界金融危機 (2007年-)]]を参照''' --> ==関連項目== {{Commonscat|Great Depression}} *[[サブプライムローン]] *[[株式市場]] *[[クレジット・デフォルト・スワップ]] *[[世界金融危機 (2007年-)]] ==参考文献== (日本語訳があるもの) *[[ポール・アードマン]]著 竹内宏監訳 『ポール・アードマンのマネー大予言』 東洋経済新報社、1984年。<!-- 世界的作家の経済解説。経済の一流専門家(バーゼル大経済学博士)が、社長としてココア投機に失敗し転身。(米国一の投資専門家としてウォレン・バフェットを絶賛している。またクレジットアンシュタルトの役割について日本語通俗本としてたぶん初めて記した)--> *ゴードン・トマス マックス・モーガン=ウィッツ著 常盤新平監訳 『アメリカの死んだ日』 (改題『ウォール街の崩壊』) 講談社学術文庫、1979年。(英国人記者チームによる歴史検証シリーズの一冊 。中心人物は世界最大の銀行だった[[バンクオブアメリカ]]の創始者A・P・ジャンニーニ([[:en:Amadeo Giannini]])など。一般市民の様子もいきいきとして描かれている) *[[F・L・アレン]]著 藤久ミネ訳 『オンリーイエスタディ--1920年代・アメリカ』(原著1931年) ちくま文庫、1993年。([[ハーパーズ]]誌の編集者、実地ルポと分析。米国での古典) *[[ガルブレイス|J・K・ガルブレイス]]著 鈴木哲太郎訳 『バブルの物語』 ダイヤモンド社、1991年。(<!--米国経済学会会長による-->一般向け歴史検証。世界最古のバブルと言われるオランダの「[[チューリップ・バブル|チューリップ投機]]」や英国の大事件「[[南海泡沫事件|南海泡沫(southsea bubble)会社事件]]」について詳しい。目立たない古い薄い英語本がバブル時代に日本語訳された。) *J・K・ガルブレイス著 村井章子訳 『大暴落1929』(原著1954年) 日経BP、1997年初訳、2008年新訳。  *エドワード・チャンセラー著 山岡洋一訳 『バブルの歴史』 日経BP、2000年。 *[[石ノ森章太郎]] 『日本経済入門』 日本経済新聞社、1986年。(漫画によるバブル批判で、多面的に分かりやすく要点を押さえている。大恐慌については上掲『アメリカの死んだ日』からの引用があり、昭和の恐慌については中村本から引用している。一冊本10cm厚とハードカバー分冊がある。) *[[中村政則]] 『昭和の恐慌』 小学館、1982年。(昭和恐慌の様子を多角的に分析。分かりやすい一般向け歴史書。特に経済面からの記述が詳しい。渡辺銀行について青木の証言をそのまま引用) *高橋亀吉 森垣淑 『昭和金融恐慌史』 講談社学術文庫、1993年。(原本は清明会出版部、1968年発行。在野の研究者による良書。一時期初学者の必読本だった) *ピーター・テミン著 猪木武徳 ばん沢歩 山本貴之訳 『大恐慌の教訓』 東洋経済新報社、1994年。(米国の大恐慌の原因を株価暴落ではないなど多角的に検証した古典。専門書) *"Echoes of the Depression" ,The Economist ,Oct 2nd 2008 *林敏彦 「経済教室---新たな政策の枠組み必要」 『日本経済新聞』 平成20年10月10日版。[http://hayashiland.com/20081010_nikkei.pdf PDF原文](「“大恐慌前夜”の認識は誤り」と主張。「NY株式暴落が大恐慌の原因でない」と強調。) *アンソニー・ サンプソン著 小林薫訳「ザ・マネー―世界を動かす“お金”の魔力 」"Midas Touch" (1989) 全国朝日放送 (1990/04)(バブル時代にお金の魅力と怖さに伝えた本。当時あった[[三洋証券]]の巨大なディーリングルームに写真1ページを当てている。題名は触るものをすべて金(きん)に変えた[[ミダス王]]にちなむ。1年前のニューヨークの様子と酷似する) *ティモシー・S・グリーン著 氷川秀男 石川博文訳 『金の世界』 金融財政事情研究会、1968年。(金本位制の基礎知識が得られる。経済危機で注目される金についての一般的解説本。再版されて内容が薄められた分わかりやすくなった) ==脚注== <references /> _   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%81%90%E6%85%8C 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月9日 (日) 04:00。]    

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。