ジョン・マギー

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'''ジョン・マギー'''('''John Magee''', [[1884年]] - [[1956年]])は、[[アメリカ合衆国]][[ペンシルバニア州]][[ピッツバーグ]]出身の牧師。[[1912年]] - [[1940年]]まで中国で[[宣教師]]として活動した。[[日本軍]]による南京占領期間中は、[[国際赤十字]]南京委員会主席・南京国際委員会会長を務めた。<!-- Reverendとは聖職者のこと。 --> == 極東国際軍事裁判での証言 == [[極東国際軍事裁判]](東京裁判、[[1946年]] - [[1948年]])では[[南京大虐殺]]の証人として証言台に立ち、日本軍による殺人、強姦、略奪事件について、被害者からの直接聴取、自ら行った被害調査などを基礎に膨大な証言を行った。例えばその中の[[夏淑琴]]事件の場合、マギーは現場で死体を確認し、関係者から事情聴取を行った上で証言を行っている。<ref>「マギー牧師の解説書」参照=『ドイツ外交官の見た南京事件』資料51</ref> これに対して[[アルフレッド・W・ブルックス|ブルックス]]弁護人は「不法行為若しくは殺人行為と云ふものの現行犯を、あなた御自身幾ら位御覧になりましたか」との反対尋問を行い、マギーは「唯僅か一人の事件だけは自分で目撃致しました」と回答し、誰何されて逃げ出した人物を、竹垣があって行詰りになっていたところに歩哨が追い詰めて、顔に向けて発砲して射殺した件のみ自身が目撃したと認めた。 上記の目撃証言について、[[渡部昇一]]・[[田中正明]]等は「直接目撃は一件だけ」の部分に着目して、マギー証言の信憑性に否定的な見解を示している。しかしこれに対して、[[洞富雄]]・[[立花隆]]・[[藤原彰]]等は「“唯僅か一人の事件だけは自分で目撃致しました”と、正直に陳述しているだけのことである」(洞)<ref>『南京大虐殺の証明』P23、ISDN4-02-255451-7</ref>、「東京裁判の南京大虐殺の証拠となったのは、マギー牧師の証言だけではない」(立花)<ref>「ロッキード裁判を斬る」(13)(『朝日ジャーナル』一九八五年一月四・十一日合併号) </ref> 、「しかし安全区で、もっぱら怪我人や強姦の被害者の救護活動をしていたマギーが殺害現場に立ち会わなかったのは当然で、マギー証言の意義は夥しい数の被害者と接していたことにこそあるのだ。・・・それらを無視して、殺害現場を見たのは一人だけだという部分のみが、何回も持ち出されるのである」(藤原)<ref>『「東京裁判によるデッチ上げ」説こそがデッチ上げ』=『南京大虐殺否定論13のウソ』所収(P20)</ref>と反論している。 <small><references /></small> == 「マギーフィルム」について == 南京大虐殺とされるシーンをリアルタイムで記録した16ミリフィルム(通称マギーフィルム)もマギー牧師の撮影によるものである。字幕の説明によれば、日本軍の暴行を受けた幼い子供や女性、中国兵や民間人の死体等が映っており、フィルムの解説文は、ドイツ外交文書『ローゼン報告』の中で読むことができる(邦訳『ドイツ外交官の見た南京事件』)。このフィルムは、のちにフィッチらが欧米で映写会を開いて日本軍の蛮行を訴えるのにも使用された。 このフィルムは長年行方不明になっていたが、1991年、マギーの次男デヴィット・マギーの自宅から再発見された。 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AE%E3%83%BC 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年2月24日 (日) 03:37。]    

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