ヨシフ・スターリン

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{{大統領 | 人名=ヨシフ・スターリン | 各国語表記=Иосиф Сталин| 画像=Stalin1.jpg | 代数=第2 | 職名=最高指導者 | 先代=ウラジーミル・レーニン | 次代=ゲオルギー・マレンコフ | 国名=ソヴィエト連邦 | 副大統領職=なし | 副大統領= | 就任日=[[1922年]][[4月3日]] | 退任日=[[1953年]][[3月5日]] | 出生日=[[1879年]][[12月9日]] | 生地=[[グルジア]]、[[ゴリ (グルジア)|ゴリ]] | 生死=死去 | 死亡日=[[1953年]][[3月5日]] | 没地=[[モスクワ]] | 配偶者=[[エカテリーナ・スワニーゼ]](最初の妻)<br>[[ナジェージダ・アリルーエワ]](二度目の妻) | 政党=[[ソビエト連邦共産党]] }} '''ヨシフ・スターリン'''(<strong lang="ru">Иосиф Сталин</strong>、[[1879年]][[12月9日]]([[グレゴリオ暦]][[12月21日]]) - [[1953年]][[3月5日]])は、[[ソビエト連邦]]の[[政治家]]。本名は、'''ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ'''({{Lang|ru|Иосиф Виссарионович Джугашвили}}, [[グルジア語]]:იოსებ ჯუღაშვილი)。[[20世紀]]にその名を残す[[独裁者]]の1人。 「スターリン」とは[[ペンネーム]]で、'''「鋼鉄の人」'''の意。「ジュガシヴィリ」は'''「ユダヤ人の息子」'''の意。『赤い[[ツァーリ]]』の称号で呼ばれることも多い。旧ソ連ではスターリンを、[[ドイツ]]([[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ]]政権)の侵略から祖国を守る英雄として、またソビエトを戦勝後にアメリカに次ぐ世界第二番目の経済大国へと躍進させた戦略的指導者として認識している人々も少なくない。その一方で、党内反対派や「[[反革命]]分子」「人民の敵」に対し、[[粛清]]と称して無数の国民を虐殺し、過酷な抑圧政策を取ったことでも知られる。 [[ボリシェヴィキ]]([[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]])の[[ソ連共産党書記局|書記局]]長に就任し、党員名簿と経理を掌握することで実権を握り、のちの[[権力]]の地盤を築いた。[[ロシア]]では[[総書記]]に当たる語で呼ばれる。[[ウラジーミル・レーニン]]の死後、[[レフ・トロツキー]]や[[ニコライ・ブハーリン]]など、政治的ライバルや反対派の粛清を経て実質的な最高指導者となり、[[独裁政治|独裁]]的な権力を振るうに至った。彼が存命の頃のソ連は、強力な[[プロパガンダ]]によって[[共産主義]]の希望の星として憧憬の目が注がれていた。しかし、その死後は[[ニキータ・フルシチョフ]]の[[スターリン批判]]などによって、スターリンによる独裁の時代の政治体制や主張・理論は、[[スターリン主義]]として[[右翼]]陣営だけでなく[[左翼]]陣営からも否定されるようになり、多くの共産主義者から批判・敵視された。 == 来歴 == === 生い立ち === ヨシフは現在のグルジアの[[ゴリ (グルジア)|ゴリ]]で、靴屋ヴィサリオン(ベソ)・ジュガシヴィリの息子として生まれた。彼の母親エカテリーナは[[農奴]]だった。他の3人の兄弟は幼くして死に、「ソソ」や「コバ」と呼ばれたヨシフはただ一人の子供だった。ヨシフは[[酒]]に酔った父親に、しばしば厳しく[[鞭]]で打たれた。当時のロシアでは、鞭打ちは子供をしつけるための容認された方法であった。 ヨシフの家の近所に、ダヴィド・パピスメドフ({{Lang|ru|Давид Паписмедов}} / David Papismedov)という[[ユダヤ人]]が住んでいた。パピスメドフはヨシフに金銭と本を与えて激励した。数十年後、パピスメドフは、ヨシフ少年がどうなったか知るために[[クレムリン]]を訪れた。ヨシフは初老のユダヤ人を歓待し幸福に歓談することで、同僚を驚かせた。 ヨシフの父親は、家族を残して[[トビリシ]]に行ってしまった。ヨシフはゴリの教会学校に通ったが、14歳になると[[カフカース]]地方随一の名門校トビリシ[[神学校]]への奨学金を獲得した。また、神学校の聖歌隊で歌うことで、僅かな俸給も支払われた。エカテリーナは、息子が聖職者になることをソ連の指導者になった後も望んでいた。 === 社会主義運動 === [[Image:Stalin 1902.jpg|thumb|right|200px|[[1902年]]のスターリン]] ヨシフの[[社会主義]]運動への参加は、神学校時代に始まった。[[ヴィクトル・ユゴー]]を読んで、かねてから革命家になりたがっていたヨシフは、[[1896年]]に[[マルクス主義]]のサークルを組織、[[1898年]]に[[グルジア社会民主党]]に入党している。神学校での成績は非常に優秀だったが、規則違反や教師への反抗を繰り返すようになり、[[1899年]]に学校の試験に出席しなかったことを理由に放校となる。その後トビリシの中央気象台で勤務する傍ら、[[ロシア社会民主労働党]]の地方組織に参加。[[1901年]]に中央気象台を辞めた後は、カフカース地方で政治的地下活動、活動資金調達のための現金強奪などを行い、[[1902年]]から[[1917年]]までの間、[[逮捕]]と[[シベリア]]への[[追放]]が繰り返された。なお、[[1907年]]にトビリシで、国立銀行からの金塊強奪を成功させたことが、レーニンの信頼を得る契機となっている<ref>スターリンは計画全般を指揮したが、実行には参加していない。</ref>。[[1912年]]に初めて中央委員に選出された。[[1913年]]より、ヨシフは終生の筆名となる「スターリン」を名乗り始めた。 === 権力の掌握 === [[2月革命 (1917年)|二月革命]]の後、流刑地から戻ったスターリンは[[レフ・カーメネフ]]らとともに党を指導し、臨時政府に対する条件付き支持の方針を打ち出した。しかし[[1917年]][[4月]]に帰国したレーニンは臨時政府打倒を呼びかける[[四月テーゼ]]を発表し、スターリンらの方針を否定した。同年[[11月7日]]のボリシェヴィキ革命における彼の役割は小さなものだった。 スターリンは[[ロシア内戦]]および[[ポーランド・ソビエト戦争]]中は[[赤軍]]の政治委員であった。ロシア内戦時は故郷のグルジアに派遣され、[[メンシェヴィキ]]勢力など「反革命分子」の掃討に力を揮った。 ポーランド・ソビエト戦争においては、南西正面軍の政治委員として[[ポーランド]]の[[リヴィウ]]の占領に拘泥し、赤軍敗北の一因を作っている。但し、これに関しては補給を無視した[[ミハイル・トゥハチェフスキー|トゥハチェフスキー]]にも問題があり、一概にスターリンにのみ責任があるとは言えないという論調も存在する。{{see also|ポーランド・ソビエト戦争#ヴィスワ川の奇跡}} [[Image:Vladimir Lenin and Joseph Stalin, 1919.jpg|thumb|300px|スターリンとレーニン (1919年)]] スターリンの最初の政府役職は、民族人民委員としてであった。続いて[[ソ連共産党政治局]]員となり、[[1922年]]4月には[[ソ連共産党|共産党中央委員会]]書記長に就任した。各地の党支部書記の任免権を利用し、その書記の推薦で立候補する中央委員を次第に自らの派閥で占めていった。レーニンが倒れ、後継問題が浮上するとトロツキーが有力視されたが、スターリンは政治局の中でカーメネフ、[[グリゴリー・ジノヴィエフ]]と組み、いわゆる「トロイカ」体制をつくり、トロツキーの追い落としを図る。病床のレーニンを見舞うことによって信頼を取り付けていったスターリンであったが、レーニンの妻[[ナデジダ・クルプスカヤ]]を、レーニンの政治活動への参加を巡って激しく叱責したことからレーニンの不信を買う。そしてスターリン個人への権力集中にレーニンは警鐘を発し<ref>レーニンの死後に見つかった手紙などから、レーニンがスターリンを批判したのはクルプスカヤへの叱責事件が原因だということがはっきりしている。</ref>、遺言で「無作法な」スターリンへの罷免を要求した。レーニンはスターリンの性質を見抜いており、遺書には「粗暴で背信的なスターリンを指導者にしてはならない。」という内容であった。しかしその要求は、スターリンが自制する事を条件に中央委員会メンバーによって伏せられてしまった。 [[1924年]][[1月21日]]にレーニンが死ぬと、スターリンは、カーメネフ及びジノヴィエフと共に、左派のトロツキー及び右派のブハーリンの間で党を管理した。この期間にスターリンは従来のボリシェヴィキの理論である「世界革命」路線を放棄して、一国で共産主義を構築する「一国社会主義」政策を提唱した。彼はブハーリンと行動を共にし、まずトロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフと対立することになる。[[五カ年計画]]の最初の年である[[1928年]]に、スターリンの権力は最高潮に達し、世界革命論を唱え続けたトロツキーは翌年に追放された。次いでスターリンは、ブハーリンをはじめとする党内[[右派]]の抵抗を抑え、[[コルホーズ|集団農業化]]、工業化を推し進め党および国に対する管理を強めた。しかしながら、[[セルゲイ・キーロフ]]のような他の指導者の人気が示したように、彼は[[1936年]]から[[1938年]]の間に行った「[[大粛清]]」まで、絶対的な権力を掌握することはできなかった。 === 大粛清 === スターリンは政治的、[[イデオロギー]]的反対者、ボリシェヴィキ中央委員会の古参党員を策略によって逮捕、追放した。[[1934年]][[1月]]の第17回党議会においては過半数の代議員が彼の言いなりであった<ref name="Nomenklatura">ミハイル・ヴォスレンスキー著『ノーメンクラツーラ』</ref>。見せしめの裁判あるいはトロツキーやレニングラードの政治局員セルゲイ・キーロフの[[暗殺]]の後に法律を改定し<ref name="Nomenklatura"/>、[[強制収容所]]への収監と処刑が行われた。 [[Image:Joseph Stalin and Nikita Khrushchev, 1936.jpg|thumb|300px|スターリンと[[ニキータ・フルシチョフ]](1936年)]] キーロフは政治局員であり党エリートであり、その弁舌と貧困層への真摯な態度で大きな人気があった。彼はスターリンの忠実な部下であったが、いくつかの意見の相違もあり、多くの歴史家がスターリンは彼を潜在的な脅威として考えていたとする<ref name="Nomenklatura"/>。実際、一部の党員は、スターリンの後継者としてキーロフに対し秘密裏にアプローチを行っていた。 [[1934年]][[12月1日]]にキーロフは、レオニード・ニコラエフという青年によって暗殺された。ニコラエフは、スターリンの命令によって暗殺を実行した刺客と考えられている<ref>『スターリン秘録』より。</ref>。キーロフの暗殺は、1936年から1938年まで続くことになる「[[大粛清]]」の前兆であった。 ただし37年と翌年に集中的に発生した大粛清(銃殺刑はロシア連邦国立公文書館(GARF)による資料によれば37年と翌年の合計が約78万人、対して前年の36年は1,118人。)の原因、政治的な計画性、ならびにその過程におけるスターリンの関与の程度にかんしては、上述の説明とはことなる異論もある。ソ連崩壊後に公開された公的資料にもとづく研究(『ソ連秘密資料集 大粛清への道』大月書店、東京、2001年)によれば、ノーメンクラトゥーラならびにモスクワが当時強引に進めていた農業集団化などの国家統制政策とそのもたらした混乱が一方にあり、他方でボリシェヴィキの伝統的な主意主義(「鉄の規律を誇る党」)的体質という「二つのモデルの混在」とそれに起因する矛盾が、社会全体を巻き込んだ政治的なヒステリー現象たる大粛清の社会構造的な原因であるとされている(同書618頁)。 主な犠牲者としては、かつてスターリンと共にトロイカ体制を築いたジノヴィエフ、カーメネフの両名に始まり、[[グリゴリー・ソコリニコフ]]、チュバール、[[ゲオルギ・ピャタコフ]]、[[ニコライ・ブハーリン]]、ボロージン、[[アレクセイ・ルイコフ]]、[[カール・ラデック]]、[[ミハイル・トゥハチェフスキー]]、[[スタニスラフ・コシオール]]、[[レフ・カラハン]]、[[イオナ・ヤキール]]、などである。[[アドリフ・ヨッフェ]]、[[ミハイル・トムスキー]]は[[自殺]]した。第17回大会の中央委員140人のうち、無傷で残ったのは僅か15人であった。トゥハチェフスキーを始めとする赤軍の高級将校の大部分が含まれており、将官と佐官の8割が反逆罪の名の下に殺害されたとされる。 [[俳優]]で[[演出家]]の[[フセヴォロド・メイエルホリド]]、作家の[[マクシム・ゴーリキー]]、生物学者の[[ニコライ・ヴァヴィロフ]]のような、文化人や学者も犠牲となった。外国から[[コミンテルン]]に来ていた、[[ドイツ共産党]]員のヘルツ、ノイマン、[[ハンガリー共産党]]の[[クン・ベーラ]]、ポーランド共産党中央委員のほぼ全員も処刑か強制収容所送りとなった。日本人では、[[日本共産党]]員の[[山本懸蔵]]、演出家の[[杉本良吉]]、留学中の医師・国崎定洞が行方不明となった(いずれも逮捕・処刑されていたことが判明している)。 また、後述のようにこのページに掲載されている『スターリンとレーニン(1919年)』は集合写真からの切り抜きだが(レーニンの右隣には[[ミハイル・カリーニン|カリーニン]]が座っていた)実際の写真は1919年に行われた党中央委員選出の際に撮られたものであり、素性が分からない人物1人(後列に立っているため顔が見えない)を含めて21人が写っている写真であった。この中で氏名が判明している20名(スターリンら3人を数えなければ17名)の内11名がスターリンに粛清され、他にも3名(上記のヨッフェとトムスキーの他にミハイル・ラシェビッチ)がスターリンに抗議して自殺している<ref>King, pp.44-45</ref>。 粛清の実行者である秘密警察職員ですら例外ではなく、[[ゲンリフ・ヤゴーダ]]から[[ニコライ・エジョフ]]、[[ラヴレンチー・ベリヤ]]へと長官が変わるなかでNKVD職員たちも何万人と粛清された。例えばエジョフの場合、NKVDを掌握した時点で前任者であるヤゴーダや[[ヴャチェスラフ・メンジンスキー|メンジンスキー]]の息がかかった職員を大勢粛清して組織内での自分の立場を強化している。また程なくヤゴーダ自身も粛清される事となるが、エジョフも最終的にはヤゴーダと同じようにべリヤに取って代わられ、粛清されている。ベリヤも権力を握った時点でエジョフと同じようにNKVD内のエジョフ派幹部らを粛清している。 「大粛清」の犠牲者数については諸説あるが、30年代の弾圧による死亡者は200万人前後とされる(同書624頁)。この数字は、フルシチョフが1962年から63年におこなった秘密調査における数字、ならびにゴルバチョフが1988年に行った再調査における数字とほぼ一致する(同書626頁)。 [[1997年]]の文書の公開により、少なくとも約1260万人が殺されたことを現ロシア政府が公式に認めた、とされるが根拠は不明{{要出典}}。 ===スターリン憲法=== 1936年、スターリンは「[[ソビエト社会主義共和国連邦憲法]]」いわゆる「スターリン憲法」を制定した。これは、プロレタリアート独裁に基づき、「労働者の代表であるソビエトに全ての権力を帰属させ、生産手段の私有を撤廃し、各人からはその能力に応じて、各人にはその労働に応じて」という社会主義の原則に立つもので、「労働者の利益に従って」という条件のもと、満18歳以上の国民すべてに選挙権が与えられ、普通・平等・直接・秘密選挙制を採用し、民族の平等権など、人民民主主義の理念が提唱されたもので、社会主義国家としては世界初であった。 だが、この憲法は国内よりも対外的な宣伝を意図して作られた物であり、候補者推薦制と[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]による[[一党独裁|一党独裁制]]は変わらず、民族の平等や宗教の自由などは、実際にはまるで守られることはなかった。スターリンの死後に一部が改正され、[[1977年]]に[[レオニード・ブレジネフ]]によって新しい憲法が採択されたが、内容はこのスターリン憲法が基礎となっている。後に[[ミハイル・ゴルバチョフ]]による[[ペレストロイカ]]によって、[[1988年]][[12月]]及び[[1990年]][[3月]]に改正された。後者の改正は、大統領制・複数政党制が導入されている。最終的に、[[1991年]]の[[ソ連崩壊]]により、憲法は失効するに至った。 === 第二次世界大戦 === ==== 独ソ不可侵条約 ==== [[Image:MolotovRibbentropStalin.jpg|thumb|300px|独ソ不可侵条約に調印する[[ヴャチェスラフ・モロトフ|モロトフ外相]](後列中央は[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ|リッベントロップ外相]]とスターリン)]] [[第二次世界大戦]]開戦直前の[[1939年]][[8月19日]]、スターリンは演説で[[ナチス・ドイツ]]との間に結ばれた[[独ソ不可侵条約]](モロトフ=リッベントロップ協定)に基づく政策転換を表明した。これ以降、ソ連はイデオロギーの相違を超えてドイツとの協力関係を結んでゆく。その手始めが同年9月17日の[[ポーランド侵攻]]であった。ソ連とドイツは協定の秘密議定書に基づき、ポーランドを東西分割し、これを併合したのである。こうしてポーランドの東半分を得たスターリンはポーランド軍捕虜2万5千人を処分するよう命令した。これが[[カティンの森事件]]である。後にドイツ軍により捕虜の遺体が発見されるもスターリンは一貫してこの事件をドイツ軍の捏造であると主張、戦後には[[ゲッベルス]]の日記などをでっち上げてこの虐殺をドイツ軍の仕業に見せかけている。{{see also|カティンの森事件}} その後、次第に独ソ間の対立が深まったことから[[1941年]][[5月]]、スターリンは[[人民委員会議議長]](首相)を兼任し、党と政府の統一的な指導のもと一刻も早い防衛体制の確立をめざした。一方で時間を稼ぐため、従来通りドイツ側に軍事物資を供給し続けることでドイツの攻撃の開始を遅らせることを図った。 ==== 独ソ戦 ==== しかし[[1941年]][[6月22日]]、[[アドルフ・ヒトラー]]は協定を破棄してソ連に侵入した([[バルバロッサ作戦]])。スターリンはこの情報を事前に掴んでいたが、ソ連は戦争に耐えうる状況ではなく、誤情報であると頑なに信じようとしていた。そのため、ソ連はドイツの侵入に対する準備が全く出来ていなかった。幾人かの歴史家によれば、スターリンは攻撃開始後も事実を認めることに気が進まないように思われ、数日間は茫然自失の状態だったという。 ドイツ軍は開戦初期にソ連領内に大きく進出し、何百万ものソ連兵を殺害もしくは捕虜にした。スターリン自身が行った赤軍将校の大量粛清はソ連の防衛力を著しく衰弱させていた。その結果スターリンは彼の30年間の統治下で二度国内への演説を行った。最初は[[1941年]][[7月2日]]、二度目は[[11月6日]]である。2度目の演説で彼は35万の兵士がドイツの攻撃によって戦死したが、ドイツ軍は450万人の兵士を失い(この数字に根拠はなく、不合理な過剰評価であった)ソ連の勝利は目前だと話した。東方に配備していたシベリア軍の対独戦線への投入、ヒトラーの度重なる目標変更、米英による援助物資の到着、そして氷点下50度に達した冬将軍の到来もあって[[モスクワ]]前面でドイツ軍の侵攻を停止させ、[[1942年]]12月には[[スターリングラード攻防戦|スターリングラード]]においてドイツ第6軍を包囲し、降伏させた。 スターリンの戦略家としての欠点が、ソ連の敗北と多くの市民の死に繋がったとされる。彼は[[ヴォルガ川]]の東へソ連の工業生産を移動させることによって赤軍の戦争遂行能力を保持したとされる。[[1942年]][[7月27日]]のスターリンによる有名な死守命令「ソ連国防人民委員令第227号」は、彼が軍隊の規律を保持するために発揮した無情さを例証している。同指令によると、命令なしで自らの位置を離れたものは銃撃され、敵に降伏した兵士の家族は[[NKVD]]によって逮捕され、前線では兵士を後退させないため後ろに[[スメルシ|督戦隊]]の機関銃が設置された<ref>しかしこの時期に赤軍はスターリングラード前面で大規模な戦術的後退を実施しており、同指令と明らかに矛盾する。主眼は[[独ソ戦|大祖国戦争]]の意義の強調であり、独諜報機関へのかく乱工作の側面もあったものとされている。</ref>。[[スターリングラード攻防戦|スターリングラード防衛戦]]ではこの命令により1万4千人余りの兵士が'''自軍によって'''銃殺されたとされている。真実であるとすれば、実に一個師団分の兵士が丸々味方によって殺されたことを意味する。また、当時市内には約60万人の市民が住んでいたがスターリンは「兵士の士気を上げる」という名目で市民の[[疎開]]を禁じたため、ドイツ軍の空襲により最初の一週間だけで4万人の市民が死亡したと言われる。スターリンは戦闘終結後の1943年に廃墟と化したスターリングラードを視察するが、その中で最初に復興させたのは[[内務人民委員部]]の建物であった。 [[Image:Jalta 1945.jpg|thumb|300px|ヤルタ会談で[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]と[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズヴェルト]]とともに(1945年)]] 戦争初期には、退却する赤軍がドイツ軍に利用されないためにと、[[インフラ]]と食糧供給施設を破壊する[[焦土作戦]]を行った。後にドイツ軍も撤退時に同様の戦術を行い、かつ赤軍の兵力増強を避けるために住民を共に撤退させた。このために荒廃した土地のみが残る結果となった。 スターリンは、ドイツ軍と直面した他の[[ヨーロッパ]]の軍隊が完全に能力を失ったことに気づいていた。大戦の末期、[[1945年]]になるとスターリンは[[ヤルタ会談]]に出席、同年[[ポツダム会談]]にも出席し、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[イギリス]]と戦後の処理について話し合った。 ==== 対日参戦 ==== [[8月]]、アメリカが日本に対して相次いで[[原爆]]を投下した直後に、戦前より[[日ソ中立条約]]を結んでいたが、スターリンは、ヤルタ会談での他の連合国との密約([[ヤルタ協定#極東密約(ヤルタ協定)|ヤルタ協約]])を元に日ソ中立条約を破棄し、対日宣戦布告をし、日本及び[[満州国]]に対して参戦した([[8月の嵐作戦]])。その後日本政府は[[ポツダム宣言]]の受諾の意思を提示し、[[8月15日]]正午の[[昭和天皇]]による[[玉音放送]](終戦の詔勅)をもってポツダム宣言の受諾を表明し、全ての戦闘行為は停止された。しかし、日本の領土を少しでも多く略奪することを画策していたスターリンはその後も停戦を無視し、[[南樺太]]・[[千島]]・満州国への攻撃を継続させたことにより、その後の[[北方領土問題]]を引き起こす原因を作ることになった。 ソ連は、第二次世界大戦における民間および軍事的損害の矢面に立った。2100万から2800万の国民が死に、その多くは若い男性だった。そのため[[1921年]]、[[1922年]]に生まれた若い男性の生き残りは、戦争が終わった時点で5パーセント以下で、全員に勲章が与えられた。現在ロシア、[[ベラルーシ]]および旧ソ連の国々では、[[5月9日]]は[[大祖国戦争]]の戦勝記念日として人々の間で非常に鮮明に記憶され、ロシアにおける最も大きな祝日のうちの一つである。 === 冷戦 === [[Image:Poster26.jpg|thumb|300px|毛沢東との友好関係を描くポスター]] 第二次世界大戦後、赤軍は[[枢軸国]]の領域の多くを占領した。ドイツ、[[オーストリア]]国内にはソ連の占領地帯があった。また、[[チェコスロバキア]]と[[ポーランド]]は後者が形式的に連合国だったという事実にもかかわらず両国とも実質的にソ連占領下にあった。親ソ連政権が[[ルーマニア]]、[[ブルガリア]]、[[ハンガリー]]において樹立し、[[ユーゴスラビア]]と[[アルバニア]]では独自の共産政権が権力を掌握した。[[フィンランド]]は独立を保持したが、ソ連に経済的に依存することとなった([[フィンランド化]])。[[ギリシャ]]、[[イタリア]]および[[フランス]]は、モスクワと緊密に連携した共産党の強い影響下にあった。スターリンは、ヨーロッパのアメリカ軍の撤退がヨーロッパ大陸におけるソ連の覇権に結びつくと考えた。しかしながら[[ギリシャ内戦]]中の反共勢力へのアメリカの支援は、状況を変えた。[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]は[[1949年]]に独立した国家と宣言された。さらにスターリンは、[[中央ヨーロッパ]]の[[衛星国]]を直接コントロールする決定を下した。全ての国々は、ソ連の形式を踏襲した各国共産党によって統治されることとなった。 これらの決定は[[1948年]]にポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニアおよびブルガリアの共産政権の路線変更に導かれた。これらは後に「共産主義ブロック」と呼ばれた。共産主義のアルバニアは同盟国のままだった。しかし、[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]指導下のユーゴスラビアはコミンフォルムの追放を以てソ連との国交を断絶した。 一方の[[アジア]]においては、第二次世界大戦の終結に伴う日本軍の撤退後に[[中国]]国内で行われていた[[国共内戦]]において、[[蒋介石]]率いる[[中国国民党]]と[[毛沢東]]率いる[[中国共産党]]を裏から操っており、初期は国民党を支援していたが形成不利と見るや支援を打ち切り、共産党への支援を強化した。1949年の[[中華人民共和国]]の成立により、中国を「共産主義ブロック」に置き[[中ソ対立]]まで技術交流などを積極的に行った。 更に朝鮮半島北部に[[朝鮮民主主義人民共和国]]を樹立し、[[朝鮮戦争]]の勃発の後押しを行うことで西側勢力との対立姿勢を強めていった。 「共産主義ブロック」の動きは、東欧諸国が西側に友好的であり共産勢力に対する緩衝地域を形成するだろうという西側諸国の希望と正反対となり、ソ連の共産勢力拡大に対する恐れで西側の結束を強固にした。ソ連と第二次大戦における同盟国だった西側との関係は急速に悪化し、[[冷戦]]による東西対立が引き起こされた。 === プロパガンダ === [[Image:Poster01.jpg|thumb|300px|スターリンを「偉大な指導者」として描いたプロパガンダポスター]] 国内では、スターリンは自らをソ連をナチス・ドイツに対する勝利ヘ導いた偉大な戦時指導者として宣伝し、その結果、[[1940年代]]の終了までに、強力なプロパガンダ活動によってソ連の[[ナショナリズム]]は増加した。多くの科学的な発見は、ソ連の研究者によって「取り戻された」。例として、 * [[ジェームズ・ワット]]の[[蒸気機関]]はチェレパノフ親子による発明 * [[トーマス・エジソン]]の[[白熱電球]]はヤブロクコフとロディジンによる発明 * [[グリエルモ・マルコーニ]]の[[無線通信]]は[[アレクサンドル・ポポフ (物理学者)|ポポフ]]によるもの * [[ライト兄弟]]の飛行機は[[アレクサンドル・モジャイスキー|モジャイスキー]]による発明 とされた。 また、第二次世界大戦前から戦後にかけて、スターリンを偉大な戦時指導者として、また、[[多民族国家]]であるソ連の指導者として賞賛する多数の映画とポスターが製作された。実際スターリンとレーニンはそう親密ではなかったのだが、親密であったように見せかけるために多くの写真が[[改竄]]され(例として、このページに載っている「スターリンとレーニン」写真は実は集合写真から切り出されたものである)、多くの絵画や彫刻が作成された。それらはどれも、「偉大なる同志レーニンを補佐する偉大なる指導者スターリン」といった調子のものであり、「レーニンと親しげに談笑するスターリン」や「同志レーニンに内戦の状況を報告するスターリン」など、実際にはありえない題材ばかりであった。前述のように、革命直後の彼はグルジアなどに派遣されており、レーニンに「状況報告」できるような立場にはいなかった。それどころか、スターリンはポーランド・ソビエト戦争のとき自分の戦功を優先してトゥハチェフスキーを適切に支援しなかったとレーニンに糾弾され、革命軍事会議議員から罷免されてすらいる。当然、これらの事柄は完全に無視され、隠蔽された。 また、大粛清などで粛清された人物が載っているポスターや写真も改竄された(壇上で演説するレーニンの写真に於いては、引き続き階段で待機していたトロツキーを削除したり等)。これらのポスターや写真を持っている個人は、粛清された人物の顔を切り抜くか、黒く塗りつぶすよう求められた。塗りつぶされていない写真を持っていること自体が犯罪であるとされ、もし[[秘密警察]]に見つかればそれだけで処刑される可能性すらあった。 他にも、スターリンを誹謗中傷するような言動は厳禁とされ、家族や友人の間での些細な冗談であっても、[[密告]]によって逮捕・粛清される危険があったため、国民は細心の注意を払わねばならなかった。 === 個人崇拝 === 上記のようなプロパガンダを駆使して「聖者スターリン」のイメージを作り上げた結果、スターリンに対する[[個人崇拝]]も大変なものとなった。多くの都市がスターリンの名前を含むように改名し(それらの都市や地名の[[:en:List of places named after Stalin|リスト]])、多くの賞がスターリンの名前を冠するようになった。例えば[[ソビエト連邦国家賞|スターリン国家賞]]や[[ノーベル平和賞]]のソビエト版と言われる[[:en:Lenin Peace Prize|スターリン平和賞]]などである。政権の推移に伴って名称がしばしば変更されており、現在はどちらも名称が異なる(平和賞に至っては、現存するかどうかすらもはっきりしていない)。 また、スターリン(もしくはスターリンとレーニン)の彫像が大量に作成され、ありとあらゆる場所に設置された。当然これらもプロパガンダの一環であるため、下記の容貌の部分に書かれてあるような欠点は全て「修正」されていた。また、彫像のようなものだけではなく、[[文学]]や[[音楽]]、それに詩集もスターリンを賛美するものに満ち溢れていた。それらの作品の多くでは、スターリンは神の如く崇められており、第2次世界大戦を1人で終結させたというような荒唐無稽な内容のものが多い。また、1944年発表の[[ソビエト連邦の国歌|ソビエト連邦国歌]]にスターリンの名前が現れるほどの凄まじい個人崇拝がまかり通っていた。ただし、これらの作品を書いたり作ったりした人物全員が、例えば[[ヴァーノ・ムラーデリ]]に代表される様な筋金入りのスターリン崇拝者で無い限りは、スターリンに心酔していたということを直ぐには意味しない。そのように心酔しているフリをしなければならないという、一種の[[強迫観念]]と[[社会環境]]に囚われていた可能性が高い。 === 死去 === [[Image:Stalin casket.jpg|thumb|300px|レーニン廟に置かれるスターリンの遺体]] [[1953年]][[3月1日]]、[[ラヴレンチー・ベリヤ]]、[[ゲオルギー・マレンコフ]]、[[ニコライ・ブルガーニン]]、[[ニキータ・フルシチョフ]]との徹夜の夕食の後、スターリンは寝室で[[脳卒中]]の発作で倒れた。 暗殺を恐れていたスターリンは、同じ形の寝室を複数作り、どの部屋を使うかを就寝直前に決めていた。寝室は[[鋼|鋼鉄]]の箱のような構造になっており、扉は内側から施錠すると、外から開けるには警備責任者が持つただ1本の鍵を用いるしかなかった。翌朝、予定時間を過ぎてもスターリンの指示がないことに警備責任者は不審を覚えたが、眠りを妨げられたスターリンの怒りを買うことを恐れて、午後になるまで何もしなかった。このために発見が遅れ、容態を重篤にしたと言われている。 発作は右半身を麻痺させ、昏睡状態が続いた。一時は意識を回復するも、重い障害のために意思の疎通ができなかった。4日後の[[1953年]][[3月5日]]に危篤に陥り、73歳で死去した。死因は[[脳内出血]]として公式発表された。遺体は[[1961年]][[10月31日]]まで[[レーニン廟]]で保存され、その後[[クレムリン]]の壁に埋葬された。 スターリンの死去はソ連をはじめとする社会主義陣営各国に大きな衝撃を与えたが、体制を異にする日本の経済にも影響を与えた。スターリンの重体が日本で報じられた3月5日、[[日経平均株価]]は、前日比37円80銭安の344円41銭と10%もの下落を記録し、「'''[[スターリン暴落]]'''」と呼ばれた。これは、スターリンが亡くなることで[[朝鮮戦争]]の終結が早まり、当時日本経済の急速な復興を支えた[[朝鮮特需]]が終結することが懸念されたことが原因であった。 === 死因にまつわる噂 === スターリンの死に関して、彼が殺害されたという説は根強い。[[1993年]]に公表された、元外務大臣[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]の政治回顧録によると、秘密警察長官でスターリンの右腕だったベリヤが、彼を毒殺したことをモロトフに自慢したとの記述がある。 [[2003年]]、ロシアとアメリカの歴史研究家の共同グループが、スターリンは[[ワルファリン]]を使用されたとの見解を発表した。スターリンの娘である[[スヴェトラーナ・アリルーエワ|スヴェトラーナ]]は、スターリンが[[脳卒中]]で倒れた時、フルシチョフらがいたにも関わらず医者を呼ばず、放置したことが死に繋がったと指摘している。なお、フルシチョフの回想録では、スヴェトラーナの証言とは正反対を記している。 [[2006年]]には、ロシアの週刊誌にて、ロシア公文書館で暗殺説を裏付ける有力な証拠が発見されたと報じられた。その文書記録によると、内容は、倒れたスターリンに対する治療が毒物接種時に施される物で、当初言われていた症状での治療法では絶対にあり得ない治療法を施していたことなどが記されていた。 なお、スターリンがユダヤ医師団事件を利用しモロトフ、ベリヤ、マレンコフ、フルシチョフら首脳陣を粛清する計画を練っていて、それを阻止するために上記の部下たちがベリヤを使ってスターリンを殺害し、その後ベリヤは、口封じの為に殺されたという説がある。実際に粛清する計画があったかどうかはともかく、スターリンは部下を使い捨てにすることで有名だったため首脳部の面々が常に戦々恐々としていたのは確かであろう。 == 復権への動き == [[1964年]]のフルシチョフ失脚後、スターリンに対する名誉回復の動きが始まった。 === ソ連時代 === [[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]]政権は[[1969年]]に「スターリン生誕90周年」を記念した大規模な式典を企画した。モスクワに「スターリン博物館」を建設することが検討され、[[マルクス・レーニン主義研究所]]には記念集会を開催するよう通達があった。さらに、スターリンについての論説が『プラウダ』をはじめ諸外国の共産党機関紙に掲載されることになっていた。しかし、これらの計画を知ったポーランドと[[ハンガリー]]の共産党が激しく抗議した結果、党政治局は式典の2日前の[[12月19日]]、大部分の式典を中止することを決定した。この時、スターリンの胸像製作は中止され、印刷されていた肖像画はことごとく廃棄された。また党中央委員会は、あらゆる新聞に対してスターリンに関する一切の論説を掲載しないよう指示を出した<ref>『ロシア ‐ 崩れた偶像・厳粛な夢』 下巻p.132 ただし、党中央委員会当局者による連絡不備のため、[[モンゴル国|モンゴル]]では[[12月22日]]付の地元紙にスターリンについての論説と肖像写真が掲載された。</ref>。 === ソ連崩壊後 === ソ連崩壊後のロシアでは、スターリンの再評価が進んでいる。これはロシア連邦共産党のみならず、大統領派や民族主義派などの各派にもその傾向がみられる。デモに於いてスターリンの肖像画がある事は決して珍しいものではなくなった。ソ連が崩壊した結果、富を得たのはごく少数の者だけであり、多くの市民はソ連時代以下の経済水準と、ソ連時代に比べて悪化した治安事情の中で生きている。そのような現在の状況に対する絶望感が、良くも悪くも強い指導力で国を率いた「鋼鉄の人」スターリンの再評価に繋がっているという。最近行われた[[世論調査]]の1つによれば、今日スターリンが生きていたら彼に投票すると答えた人は、35%を越えたそうである<Ref>[http://www.foreignaffairs.org/20060101facomment85101/sarah-e-mendelson-theodore-p-gerber/failing-the-stalin-test.html スターリンテストに落第]</ref>。また、[[クラスノヤルスク]]では観光客などを誘致すると言う理由があるにせよ、一度は破壊されたスターリンの記念碑を再建することを決定した<Ref>[http://findarticles.com/p/articles/mi_qn4158/is_20060420/ai_n16146985 シベリア観光庁、スターリン記念碑を再建]</ref>。この記念碑は、フルシチョフのスターリン批判を受けて[[1961年]]に一度閉鎖されている。中央に据え付けられたスターリンの銅像も、[[1980年代]]の後半、[[グラスノスチ]]のためか町の近くを流れる川の中に放り込まれている。 これは地方に限ったことではなく、[[2005年]]にはモスクワでもスターリンの銅像が新たに建設されている<Ref>[http://thescotsman.scotsman.com/international.cfm?id=69292005 スターリン人気上昇中 モスクワに新たなスターリンの銅像]</ref>。 なお、スターリンの故郷である[[グルジア]]は[[ゴリ]]市のスターリン博物館は今なお健在<Ref>[http://www.stalinmuseum.ge/ 国立スターリン博物館公式サイト(グルジア語、ロシア語、英語)]</ref>である。 後半は、[[ヨシフ・スターリン-2]]参照   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年11月18日 (火) 00:22。]    

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