フランクリン・ルーズベルト

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{{大統領 | 人名=フランクリン・D・ルーズベルト | 各国語表記=Franklin Delano Roosevelt | 画像=FDR in 1933.jpg | 代数=32 | 職名=大統領 | 国名=[[アメリカ合衆国]] | 副大統領職=あり | 副大統領=[[ジョン・N・ガーナー]]([[1933年]]-41)<BR>[[ヘンリー・A・ウォレス]]([[1941年]]-45)<BR>[[ハリー・S・トルーマン]]([[1945年]]) | 就任日=[[1933年]][[3月4日]] | 退任日=[[1945年]][[4月12日]] | 出生日=[[1882年]][[1月30日]] | 生地=[[ニューヨーク州]]ハイドパーク | 生死=死去 | 死亡日=[[1945年]][[4月12日]] | 没地=[[ジョージア州]]ウォームスプリング | 配偶者=[[エレノア・ルーズベルト|アンナ・エレノア・ルーズベルト]] | 政党=[[民主党 (アメリカ)|民主党]] }} '''フランクリン・デラノ・ルーズベルト'''('''Franklin Delano Roosevelt''', '''FDR''', [[1882年]][[1月30日]] - [[1945年]][[4月12日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[政治家]]。'''ローズベルト'''、'''ローズヴェルト'''とも(英語音はローズヴェルトに近い)。民主党出身の第32代[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]]([[1933年]] - [[1945年]])。アメリカ史上唯一、4選された大統領。米国史上唯一の重度の身体障害を持つ大統領でもある。 ==人物== ルーズベルトは、任期中に[[世界恐慌]]と[[第二次世界大戦]]を経験し、20世紀の国際政治における中心人物の一人だった。ルーズベルトの[[ニューディール政策]]はアメリカ合衆国を世界恐慌から回復させた。アメリカ経済の回復は同時に、第二次世界大戦が起こるまでの間、枢軸国に対する「民主主義の兵器廠」に発展させた。これは戦後、アメリカが国際的な覇権を握る原動力となった。しかし、戦争協力を取りつけるため[[ヨシフ・スターリン]]に対する[[容共]]的な姿勢を取ったことは、後に批判の対象となった。彼の平和に対する国際組織の展望は死後に[[国際連合]]として結実した。 ルーズベルトの評価は立場によって正反対に変わってくる。自由主義者から見ると、第二次世界大戦中における[[日系アメリカ人]]の強制収容や、[[アフリカ系アメリカ人]]の公民権運動に対する失政が批判の対象となっている。一方、[[ロナルド・レーガン]]のような保守的な指導者は、彼の社会施策におけるリーダーシップを賞賛した。 また、アメリカ国民が「歴代大統領で最も尊敬する指導者は?」と聞かれると上位に位置する人物でもある。アメリカ国民からの人気は高いが一方で、親中・親ソ派である反面、日本人に対する[[人種差別]]的な感情の持ち主であり、[[日系アメリカ人]]の強制隔離や交戦国である日本へ対する原爆投下の原因となった[[マンハッタン計画]]を推し進めていた。 == 生い立ちと家族 == フランクリン・ルーズベルトは1882年1月30日に[[ニューヨーク州]]北部のハイドパークで生まれる。彼の父親ジェームズ・ルーズベルト (1828 – 1900) は、デラウェア・アンド・ハドソン鉄道の副社長であり裕福な地主であった。ルーズベルト家は[[1650年]]頃に[[オランダ]]のハールレムからニューヨーク(当時はニュー・アムステルダムと呼ばれていた)に移住したクラース・ヴァン・ルーズベルトに始まるユダヤ系の家系とする説がある(※ ルーズベルト家はクリスチャン・もともとの姓はローゼンベルツ)。[[1788年]]にアイザック・ルーズベルトがポキプシーで行われたアメリカ合衆国憲法制定会議のメンバーとなり、それは曾々孫であるフランクリンの大きな誇りとなった。 [[Image:FDR with Fala riding in car.jpg|220px|thumb|愛犬ファーラとともに]] 18世紀にルーズベルト家は「ハイドパーク・ルーズベルト」家(19世紀には[[民主党 (アメリカ)|民主党]]支持となる)と「オイスター・ベイ・ルーズベルト」家([[共和党 (アメリカ)|共和党]]支持)の二つに分かれる。オイスター・ベイの共和党員であった第26代大統領の[[セオドア・ルーズベルト]]はフランクリンの五番目の従兄弟であった。両家は政治的な違いにもかかわらず、親交が続いた。ジェームズ・ルーズベルトはオイスター・ベイの一家の集いで妻に出会い、またフランクリンはセオドア・ルーズベルトの姪と結婚する予定であった。<!--このフランクリンは誰?--> フランクリンの母親サラ・デラノ (1854 – 1941) は、[[フランス]]系[[プロテスタント]]教徒(ユグノー)であり、彼女の祖先は[[1621年]]にマサチューセッツに移住したフェリペ・デ・ラ・ノイであった。彼女の母親ライマンはアメリカの非常に古い家系のうちの一つの出身であった。フランクリンはサラが生んだ唯一の子供であり、ジェームズはフランクリンが生まれたとき54歳と高齢であったため、サラはフランクリンの幼少時に非常に支配的な影響を与えた。フランクリンは後に友人に生涯母親を恐れていたと語っている。 この時代の富豪の子弟の例に漏れず、フランクリンは学校には通わずに家庭教師の手によって教育を施された。父母や家庭教師などに過保護に育てられ、同世代の子供と交わる機会はほとんどなかった。14歳の時、名門[[w:en:Groton School|グロトン校]]に入学を果たしたものの、周りに父母や家庭教師しかいない環境と厳しい寄宿舎生活とのギャップにとまどい、学校にはあまりなじめなかったという。 フランクリンは[[1904年]]に[[アイビーリーグ]]のひとつ[[ハーバード大学]]、および[[1908年]]同じくアイビーリーグの[[コロンビア大学]]ロースクールを卒業した。大学時代のフランクリンは学内紙の編集長を務める活躍ぶりを見せる一方で、セオドアも会員名簿に名を連ねていた名門クラブ『ポーセリアン』への入会に失敗している。 [[1908年]]にウォール・ストリート法律事務所での仕事を引き受ける前、[[1905年]]の[[聖パトリックの祝日]]にセオドア・ルーズベルトの姪の[[エレノア・ルーズベルト|アナ・エレノア・ルーズベルト]]と結婚した。彼らは6人の子供をもうけた。4番目の息子エリオットは作家となった。 *アナ・エレノア・ルーズベルト(Anna Eleanor Roosevelt...母親と同名 1906年5月3日 - 1975年12月1日) *ジェームズ・ルーズベルト(James Roosevelt 1907年12月23日 - 1991年8月13日) *フランクリン・デラノ・ルーズベルト・ジュニア(The first Franklin Delano Roosevelt Jr. 1909年3月18日 - 1909年11月1日) *エリオット・ルーズベルト(Elliott Roosevelt 1910年9月23日 - 1990年10月27日) *フランクリン・デラノ・ルーズベルト・ジュニア(The second Franklin Delano Roosevelt Jr. 1914年8月17日 - 1988年8月17日) *ジョン・アスピノール・ルーズベルト(John Aspinwall Roosevelt 1916年3月13日 - 1981年4月27日) *愛犬・ファーラ(他、犬を数匹飼っていた) ファーラはフランクリンの死後も、車のクラクションを聞いては主人が帰ってきたと思ったらしく、立ち上がったという。 *愛人・ルーシー・ページ・マーサー・ラザーフォード(Lucy Page Mercer Rutherfurd 1891年4月26日 - 1948年7月31日)  元エノリア・ルーズベルトの個人秘書。1918年以前にフランクリン・ルーズベルトの愛人になる。フランクリン・ルーズベルトの急死時(1945年)に付き添っていた。 == 政治経歴 == 28歳で民主党ニューヨーク州議会上院議員に選ばれた後、ルーズベルトは次の役職を歴任した。 *海軍次官 1913年 - 1920年 *[[ニューヨーク州]]知事 1929年 - 1933年。 [[1920年]]の大統領選で、ルーズベルトは民主党大統領候補ジェームズ・M・コックスの副大統領候補だった。 ルーズベルトの[[1932年]]の大統領選挙戦は、「三つのR - 救済、回復および改革」(Three R's - relief, recovery and reform.)の綱領で世界恐慌と戦うとして行われた。彼はそのスピーチの中で“'''ニューディール'''”の用語を造った。「私は誓約します。私は、米国民のための新規まき直し政策を誓約します。 ''I pledge you, I pledge myself, to a '''new deal''' for the American people.''」。1932年の選挙における勝利後の1933年2月15日に、ルーズベルトは[[フロリダ州]][[マイアミ]]で暗殺されそうになった。暗殺者は[[シカゴ]]市長アントン・J・サーマクを殺害した。 == 大統領職 == [[世界恐慌]]に対しては「[[ニューディール政策]]」と呼ばれる、政府による経済への介入(積極的な[[経済政策]])を行なった。[[団体交渉権]]保障などによる労働者の地位向上・[[テネシー渓谷開発公社]] (TVA) などの大規模公共事業による[[失業者]]対策・社会保障の充実などの政策を行って克服を図ったが、なかなか成果が上がらず、やがて反発もおきるようになった。しかしながら、1941年の第二次世界大戦参戦による軍需の増大によってアメリカ経済は回復し、失業者も激減した。近年では[[太平洋戦争]]が無くても成功したのではないかという意見と、最初から太平洋戦争の開戦が無ければ成功しえない政策であったという意見が対立し、議論の対象になっている。 == 第二次世界大戦 == [[Image:Franklin Roosevelt signing declaration of war against Japan December 1941.jpg|220px|thumb|日本への宣戦布告文章に署名するルーズベルト]] [[1939年]]に始まったヨーロッパにおける戦争に対しては、当初イギリス寄りではあったものの、武器援助以外には基本的には介入しない政策を取っていた。これは、[[第一次世界大戦]]に参戦した経験からヨーロッパの戦争に関わるのは極力避けたいと考えていたアメリカ国民の世論を意識してのことであった。 当時欧州戦線において[[ナチス・ドイツ]]に押され気味であった[[イギリス]]の[[ウィンストン・チャーチル]][[首相]]や、[[蒋介石]]総統の夫人でアメリカ[[留学]]経験もある[[宋美齢]]が、数度にわたり第二次世界大戦への参戦をルーズベルトに訴えかけており、この様な背景が「ルーズベルトが第二次世界大戦へ参戦したがっていた」という意見の根拠になっている。ただし、ルーズベルトが参戦を望んでいたのはアメリカの権益・領土に直接害が及ばないヨーロッパ戦線であり、[[ハワイ]]や[[フィリピン]]などの、アメリカ領土や[[植民地]]に直接被害が及ぶ可能性の高くヨーロッパと太平洋の二つの戦線で戦うことになる対日開戦には消極的であったとも言われている。 ===太平洋戦争=== [[大日本帝国陸軍]]の北部[[仏印]]進駐を契機に日米関係は悪化し、1年間にわたる[[日米交渉]]を続けるも[[ハル・ノート]]により交渉も破綻、ついに[[1941年]][[12月7日]](日本時間で[[12月8日]])の日本軍の[[真珠湾攻撃]]により[[太平洋戦争]]が開戦した。ルーズベルトは日中戦争で中国を侵略する日本に圧力をかけ、開戦に踏み切るように仕組んでいった(その時点で中国では事実上開戦状態にあり)。真珠湾攻撃を報告され「これは戦争ということだ」と言っている。その後、英国首相チャーチルに「我々は同じ船に乗りました、日本は攻撃してきました」と発言している。その後議会で日本軍の「卑劣なだまし討ち」を非難し、[[宣戦布告]]の誓約に署名した。 幾人かの歴史家や野党の共和党議員などは、ルーズベルトは真珠湾攻撃についての情報を前もって入手しており、アメリカが第二次世界大戦に参戦する理由づけとしてそれを看過したと主張しているが、「知っていた」とする証拠は存在せず、一般には[[陰謀論]]と見られている。また、ルーズベルトの親族が[[阿片戦争|アヘン戦争]]の頃から[[中国]]と[[アヘン]][[貿易]]を手広く行っていたことから、ルーズベルト本人も中国人に対して同情的、かつ友好的な考えを持つ[[親華派]]であったことが、[[日中戦争]]に関する政策に影響を与えたとする見方がある。さらに、日本の中国大陸や[[仏領インドシナ]]における活動が、アメリカの[[満州]]や[[中国大陸]]、[[東南アジア]]への進出に邪魔になるためそれを排除しようとしていたという説もある。 [[Image:American P-40 fighter planes.jpg|thumb|220px|フライングタイガースの戦闘機を護衛する[[中華民国]]の兵士]] 実際に、蒋介石と宋美齢による働きかけを受け、アメリカ軍人の[[クレア・リー・シェンノート|クレア・L・シェンノート]]を中国大陸において日本軍と対峙する[[中華民国国軍]]に「軍事顧問」として派遣すると同時に、[[戦闘機]]などの軍事物資を送り、「アメリカ義勇航空隊(通称:[[フライング・タイガース]])」を組織させていた。なお、アメリカ義勇航空隊による中国大陸における活動を、「事実上のアメリカによる日中戦争に対する参戦」と見做す意見もあるが、日米開戦前から戦闘に向けた準備は行っていたものの、様々な障壁から実際に戦闘を開始するのは日米開戦後である。 1939年、[[レオ・シラード]]と[[アルベルト・アインシュタイン]]のからの書簡を契機に、[[原子爆弾]]の開発計画である[[マンハッタン計画]]を推進した。 またルーズベルトは、大戦以前からのアメリカにおける日本人に対する人種差別的感情を背景に、大戦中にアメリカ国内とアメリカの影響下にあった中南米諸国において、[[日系人の強制収容]]を推し進めた。 === 連合国首脳との会談 === [[Image:Yalta Conference.jpg|220px|thumb|ヤルタ会談の三巨頭]] [[Image:Cairo conference.jpg|220px|thumb|カイロ会談で[[蒋介石]]とチャーチルとともに]] ルーズベルトは、大戦中に数度にわたり他の連合国首脳と会談している。[[1943年]][[1月14日]]には、イギリスのチャーチル首相と会談するため[[フロリダ州]][[マイアミ]]から[[モロッコ]]の[[カサブランカ]]に出発した。彼は飛行機で外国を訪問した最初のアメリカ大統領になった。会合は1月24日に終えた。 同年11月には[[エジプト]]のカイロで行われた[[カイロ会談]]において、[[中華民国]]の[[蒋介石]]総統とチャーチル首相とアジアにおける戦後処理について話し合った。 その後チャーチル首相とともに[[イラン]]の[[テヘラン]]に移動して[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ヨシフ・スターリン]]書記長と会談。[[1945年]][[2月]]にはスターリン書記長、チャーチル首相とともに[[ヤルタ会談]]に出席した。 === 勝利を目前にした死 === ルーズベルトは[[共和党 (アメリカ)|共和党]]候補[[トーマス・E.デューイ]]に勝ち、1944年11月7日に先例のない4選を果たした。しかしながら肖像画の制作途中、1945年4月12日の昼食前に[[脳卒中]]で死亡し、[[副大統領]]ハリー・S・トルーマンが大統領に昇格した。その後5月にはドイツが降伏、8月には日本が降伏して第二次世界大戦が終結する目前の死であった。なおこの時、当時のドイツ政府は公式にルーズベルトの死を喜ぶ声明を発したが、日本政府・[[鈴木貫太郎内閣]]はアメリカの敵国であったにも拘らず、ルーズベルトの死を悼む内容の声明を発表した。 墓はニューヨーク市のウッドロン墓地にある。 ==その他== [[1921年]]に[[急性灰白髄炎|ポリオ]]に罹り、その後遺症により、下半身が不自由で[[車椅子|車いす]]を常用していた。生前は車いすの姿をマスコミに見られるのを非常に嫌った(そのために、訪問先の植木や立ち木のカムフラージュのための植え替えなどを神経質なまでに指示している)上、マスコミもあえて積極的に報道しなかったため、TV時代の現代では考えられないことだが、ルーズベルトが[[身体障害]]者であったことは米国民にはほとんど知られなかった。実際、彼の車椅子姿の写真は2枚しか知られていない。 [[画像:fdr on wheel.png|right|200px|thumb|車いす姿のルーズベルトの銅像]] 2001年に米国の身障者協会の運動で、ワシントンに車いす姿のルーズベルトの銅像が立てられたが、幾人かはこれを不必要な[[ポリティカル・コレクトネス]]だとして非難した。 またラジオ放送を通して演説し、直接国民に訴えかけるスタイルを重視した、メディアを巧みに利用した大統領として知られている。彼の行った毎週のラジオ演説は「[[炉辺談話]] fireside chats」と呼ばれ、国民に対する彼の見解の発表の場となった。それは彼の人気を支え、大戦中のアメリカ国民の重要な士気高揚策となった。 ルーズベルトの肖像は、[[10セント硬貨 (アメリカ合衆国)|米国の10セント銀貨]]に採用されている。 ルーズベルトは切手収集家としても有名であった。そのため在任中に発行された多くの切手について、郵政当局に発行の要望を提案、これを実現させるのみならず、(歴代大統領肖像図案の普通切手、国立公園切手、韓国も含む枢軸国に占領された国の国旗切手など)デザインの選定やシリーズの構成にまで関与した。切手収集家のためのサービス向上にも熱心で、切手カタログへの図版掲載に柔軟に対応できるよう法改正を進めた(これ以前は、たとえモノクロであっても切手の一部しか掲載することはできなかった)ほか、切手発行初日に特別の消印を使用させるなど、様々な施策をとった。個人的な趣味が行政に影響を与えたが、切手や彼が導入した施策は内外の切手収集家により、現在でも高く評価されている。また[[モナコ]]で戦後発行された彼の追悼切手には切手を整理する姿が描かれている。 [[推理小説]]の大ファンでもあり、[[ベーカー・ストリート・イレギュラーズ]]の会員であった。また、彼自身が思いついたプロットで[[S・S・ヴァン=ダイン]]らが『大統領のミステリ』と題するリレー長編を執筆したこともある。 ルーズベルトは唯一'''四選された大統領'''であるが、それ以前も大統領は二選までというのが慣例だった。後に憲法が改正され(修正第22条)、正式に大統領は二選までと定められた。 <!--[[ジーン・ディクソン]]の予言を重用した。--> === 内閣 === {| cellpadding="1" cellspacing="4" style="margin:3px; border:3px solid #000000;" align="left" !bgcolor="#000000" colspan="3"| |- |align="left"|'''職名'''||align="left"|'''氏名'''||align="left"|'''任期''' |- !bgcolor="#000000" colspan="3"| |- |[[アメリカ合衆国大統領|大統領]] || '''フランクリン・D・ルーズベルト''' || 1933 - 1945 |- |[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]] || '''[[ジョン・ナンス・ガーナー]]''' || 1933 - 1941 |- | || '''[[ヘンリー・A・ウォレス]]''' || 1941 - 1945 |- | || '''[[ハリー・S・トルーマン]]''' || 1945 |- !bgcolor="#000000" colspan="3"| |- |[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]] || '''[[コーデル・ハル]]''' || 1933 - 1944 |- | || '''[[エドワード・ステッティニアス・ジュニア]]''' || 1944 - 1945 |- |[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]] || '''[[ジョージ・H・ダーン]]''' || 1933 - 1936 |- | || '''[[ハリー・H・ウッドリング]]''' || 1936 - 1940 |- | || '''[[ヘンリー・L・スティムソン]]''' || 1940 - 1945 |- |[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]] || '''[[ウィリアム・ウッディン]]''' || 1933 - 1934 |- | || '''[[ヘンリー・モーゲンソウ (政治家)|ヘンリー・モーゲンソウ]]''' || 1934 - 1945 |- |[[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]] || '''[[ホーマー・S・カミングス]]''' || 1933 - 1939 |- | || '''[[ウィリアム・F・マーフィー]]''' || 1939 - 1940 |- | || '''[[ロバート・ジャクソン (法律家)|ロバート・H・ジャクソン]]''' || 1940 - 1941 |- | || '''[[フランシス・ビドル]]''' || 1941 - 1945 |- |[[アメリカ合衆国郵政長官|郵政長官]] || '''[[ジェームズ・A・ファーレイ]]''' || 1933 - 1940 |- | || '''[[フランク・C・ウォーカー]]''' || 1940 - 1945 |- |[[アメリカ合衆国海軍長官|海軍長官]] || '''[[クロード・スワンソン]]''' || 1933 - 1939 |- | || '''[[チャールズ・エジソン]]''' || 1940 |- | || '''[[ウィリアム・フランクリン・ノックス]]''' || 1940 - 1944 |- | || '''[[ジェイムズ・フォレスタル]]''' || 1944 - 1945 |- |[[アメリカ合衆国内務長官|内務長官]] || '''[[ハロルド・L・アイクス]]''' || 1933 - 1945 |- |[[アメリカ合衆国農務長官|農務長官]] || '''[[ヘンリー・A・ウォレス]]''' || 1933 - 1940 |- | || '''[[クロード・R・ウィッカード]]''' || 1940 - 1945 |- |[[アメリカ合衆国商務長官|商務長官]] || '''[[ダニエル・C・ローパー]]''' ||1933 - 1938 |- | || '''[[ハリー・L・ホプキンス]]''' || 1939 - 1940 |- | || '''[[ジェス・H・ジョーンズ]]''' || 1940 - 1945 |- | || '''[[ヘンリー・A・ウォレス]]''' || 1945 |- |[[アメリカ合衆国労働長官|労働長官]] || '''[[フランシス・パーキンス]]''' || 1933 - 1945 |- |} <br clear="all"> ===最高裁判所判事=== *[[ヒューゴー・ブラック]] (AL) [[1937年]][[8月19日]] - [[1971年]][[9月17日]] *[[スタンリー・フォーマン・リード]] (KY) [[1938年]][[1月31日]] - [[1957年]][[2月25日]] *[[フェリックス・フランクヒューター]] (MA) [[1939年]][[1月30日]] - [[1962年]][[8月28日]] *[[ウィリアム・O・ダグラス]] (CT) [[1939年]][[4月17日]] - [[1975年]][[11月12日]] *[[ウィリアム・F・マーフィー]] (MI) [[1940年]][[2月5日]] - [[1949年]][[7月19日]] *[[ハーラン・F・ストーン]] (最高裁長官, NY) [[1941年]][[7月3日]] - [[1946年]][[4月22日]] *[[ジェームズ・F・バーンズ]] (SC) [[1941年]][[7月8日]] - [[1942年]][[10月3日]] *[[ロバート・H・ジャクソン]] (NY) [[1941年]][[7月11日]] - [[1954年]][[10月9日]] *[[ウィリー・B・ラトレッジ]] (IA) [[1943年]][[2月15日]] - [[1949年]][[9月10日]] ===在職中に設立された機関=== *テネシー渓谷開発公社 (''Tennessee Valley Authority, TVA'') *民間植林治水隊 (''Civilian Conservation Corps, CCC'') *公共工事局 (''Public Works Administration, PWA'') *[[公共事業促進局]] (''Works Progress Administration, WPA'') *社会保障局 (''Social Security Administration'') *連邦住宅局 (''Federal Housing Administration, FHA'') ==関連項目== *[[ニューディール政策]] *[[ウィンストン・チャーチル]] * [[大西洋憲章]] * [[国際連合]] * [[日中戦争]] * [[中国国民党]] * [[フォーリン・アフェアーズ]] * [[トヨタ博物館]] - 大統領専用車 ([[パッカード]]) が展示されている。 *[[切手]]:コレクターとして有名。 *[[アニー]] ==外部リンク== {{Wikiquote|{{PAGENAME}}}} {{Commons|Franklin D. Roosevelt}} *[http://www.whitehouse.gov/history/presidents/fr32.html President Roosevelt White House Biography] *[http://www.nps.gov/hofr/ Hyde Park NY Home of FDR] *[http://www.nps.gov/roca/ Campobello Island Summer Home of FDR] *[http://www.fdr-littlewhitehouse.org/ Warm Springs GA FDR Retreat] *[http://www.nps.gov/frde/ FDR Memorial Washington DC] * [http://www.fdrlibrary.marist.edu/ The Franklin D. Roosevelt Presidential Library and Museum] ** [http://www.fdrlibrary.marist.edu/audio.html Audio Archive] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/data.php Academic Data Related to the Roosevelt Administration] *[http://www.nisk.k12.ny.us/fdr/ FDR cartoon archive] ===スピーチ=== * [http://en.wikiquote.org/wiki/Franklin_D._Roosevelt famous quotes] * [http://www.presidency.ucsb.edu The American Presidency Project] at University of California at Santa Barbara ** [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php Public Papers of the Presidents: Franklin D. Roosevelt] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/sou.php State of the Union Addresses] *** [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=14683 1934], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=14890 1935], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=15095 1936], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=15336 1937], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=15517 1938], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=15684 1939], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=15856 1940], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=16092 1941], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=16253 1942], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=16386 1943], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=16518 1944] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/sou.php State of the Union Written Messages] *** [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=16595 1945] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/inaugurals.php Inaugural Addresses] *** [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=14473 1933], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=15349 1937], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=16022 1941], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=16607 1945] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/fireside.php Fireside Chats] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/elections.php Presidential Elections] *** [http://www.presidency.ucsb.edu/showelection.php?year=1932 1932], [http://www.presidency.ucsb.edu/showelection.php?year=1936 1936], [http://www.presidency.ucsb.edu/showelection.php?year=1940 1940], [http://www.presidency.ucsb.edu/showelection.php?year=1944 1944] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/medialist.php?presid=32 32 Audio/Video Clips of FDR] * [http://www.whitehousetapes.org/pages/tapes_fdr.htm Roosevelt's Secret White House Recordings] via University of Virginia * [http://www.evtv1.com/index.asp-itemnum-220 FDR - Day of Infamy video clip] (2 min.) * [http://vvl.lib.msu.edu/showfindingaid.cfm?findaidid=RooseveltFD Audio clips of speeches] * [http://www.yale.edu/lawweb/avalon/presiden/inaug/froos1.htm 第1の就任演説] * [http://www.yale.edu/lawweb/avalon/presiden/inaug/froos2.htm 第2の就任演説] * [http://www.yale.edu/lawweb/avalon/presiden/inaug/froos3.htm 第3の就任演説] * [http://www.yale.edu/lawweb/avalon/presiden/inaug/froos4.htm 第4の就任演説] * [http://www.hpol.org/fdr/chat/ Court "Packing" Speech March 9, 1937] * [http://history.acusd.edu/gen/text/us/fdr1940.html University of Virginia graduating class speech ("Stab in the Back" speech) June 10, 1940] === その他 === * [http://www.potus.com/fdroosevelt.html IPL POTUS &mdash; Franklin Delano Roosevelt] * [http://gi.grolier.com/presidents/ea/bios/32proos.html Encyclopedia Americana: Franklin D. 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{{大統領 | 人名=フランクリン・D・ルーズベルト | 各国語表記=Franklin Delano Roosevelt | 画像=FDR in 1933.jpg | 代数=32 | 職名=大統領 | 国名=[[アメリカ合衆国]] | 副大統領職=あり | 副大統領=[[ジョン・N・ガーナー]]([[1933年]]-41)<BR>[[ヘンリー・A・ウォレス]]([[1941年]]-45)<BR>[[ハリー・S・トルーマン]]([[1945年]]) | 就任日=[[1933年]][[3月4日]] | 退任日=[[1945年]][[4月12日]] | 出生日=[[1882年]][[1月30日]] | 生地=[[ニューヨーク州]]ハイドパーク | 生死=死去 | 死亡日=[[1945年]][[4月12日]] | 没地=[[ジョージア州]]ウォームスプリング | 配偶者=[[エレノア・ルーズベルト|アンナ・エレノア・ルーズベルト]] | 政党=[[民主党 (アメリカ)|民主党]] | サイン=Franklin D. Roosevelt signature.gif }} '''フランクリン・デラノ・ルーズベルト'''('''Franklin Delano Roosevelt''', '''FDR''', [[1882年]][[1月30日]] - [[1945年]][[4月12日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[政治家]]。'''ローズベルト'''、'''ローズヴェルト'''とも([[アメリカ英語]]音は「ローズヴェルト」に近い)。民主党出身の第32代[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]]([[1933年]] - [[1945年]])。アメリカ史上唯一、4選された大統領で、アメリカ史上唯一の重度の[[身体障害]]を持つ大統領でもある。[[ウィンストン・チャーチル]]、[[ダグラス・マッカーサー]]とは遠戚関係にある。 ==人物== ルーズベルトは、任期中に[[世界恐慌]]と[[第二次世界大戦]]を経験し、[[20世紀]]の国際政治における中心人物の一人だった。ルーズベルトの[[ニューディール政策]]はアメリカ合衆国経済を世界恐慌のどん底から回復させた。アメリカ経済の回復は同時に、第二次世界大戦が起こるまでの間、枢軸国に対する「民主主義の兵器廠」に発展させた。これは戦後、アメリカが国際的な覇権を握る原動力となった。しかし、戦争協力を取りつけるため[[ヨシフ・スターリン]]に対する[[容共]]的な姿勢を取ったことは、後に批判の対象となった。彼の平和に対する国際組織の展望は死後に[[国際連合]]として結実した。 ルーズベルトの評価は立場によって正反対に変わってくる。自由主義者から見ると、[[ニューディール政策]]をはじめとしたケインズ福祉国家的政策の開始は恐慌への対策を具体化したものとして評価され、はじめて本格的な貧困層対策に取り組んだ大統領として評価される。それまで南部の地域政党的色彩が強かった民主党に弱者救済という新たな目的を打ち出し、この二つの支持基盤を合わせる事によって[[ニューディール連合]]と呼ばれる大きな民主党支持基盤を形成してその後数十年に渡る議会における民主党の優位をもたらした。 だが、第二次世界大戦中における[[日系人の強制収容]]や、[[アフリカ系アメリカ人]]の公民権運動に対する失政が批判の対象となっている。この民主党政権としての貧困層と人種マイノリティという同じ弱者に対する矛盾した態度の解決は[[ジョン・F・ケネディ]]と[[リンドン・B・ジョンソン]]まで持ち越される事となる。一方、[[ロナルド・レーガン]]のような保守的な指導者は、ルーズベルトの社会施策におけるリーダーシップを賞賛した。 しかし、現在においては小さな政府を唱える保守派はルーズベルトのニューディールにきわめて否定的評価をしており、民主党のニューディール連合を崩すことで1980年代以降の共和党の勢力拡大は成功したといえる。ニューディール政策については、現在でも経済学者の間でその評価は分かれている。だが「[[炉辺談話]] fireside chats」に象徴されるように国民との対話を重視したとされ、アメリカ国民が「歴代大統領で最も尊敬する指導者は?」と聞かれると上位に位置する人物でもある<ref>[[歴代アメリカ合衆国大統領のランキング]]に拠れば各種調査でほぼ上位5傑に入っている。</ref>ように、アメリカ国民からの人気は高い。 == 生い立ちと家族 == [[Image:Fdrwithparents.jpg|220px|thumb|両親とともに]] フランクリン・ルーズベルトは1882年1月30日に[[ニューヨーク州]]北部のハイドパークで生まれる。彼の父親ジェームズ・ルーズベルト (1828 – 1900) は、デラウェア・アンド・ハドソン鉄道の副社長であり裕福な地主であった。ルーズベルト家は[[1650年]]頃に[[オランダ]]のハールレムからニューヨーク(当時はニュー・アムステルダムと呼ばれていた)に移住したクラース・ヴァン・ルーズベルトに始まるユダヤ系の家系とする説がある(※ ルーズベルト家はクリスチャン・もともとの姓はローゼンベルツ)。[[1788年]]にアイザック・ルーズベルトがポキプシーで行われたアメリカ合衆国憲法制定会議のメンバーとなり、それは曾々孫であるフランクリンの大きな誇りとなった。 18世紀にルーズベルト家は「ハイドパーク・ルーズベルト」家(19世紀には[[民主党 (アメリカ)|民主党]]支持となる)と「オイスター・ベイ・ルーズベルト」家([[共和党 (アメリカ)|共和党]]支持)の二つに分かれる。オイスター・ベイの共和党員であった第26代大統領の[[セオドア・ルーズベルト]]はフランクリンの<!--五番目★意味不明★-->の従兄弟であった。両家は政治的な違いにもかかわらず、親交が続いた。ジェームズ・ルーズベルトはオイスター・ベイの一家の集いで妻に出会い、またフランクリンはセオドア・ルーズベルトの姪と結婚する予定であった。<!--このフランクリンは誰?--> フランクリンの母親サラ・デラノ (1854 – 1941) は、[[フランス]]系[[プロテスタント]]教徒(ユグノー)であり、彼女の祖先は[[1621年]]にマサチューセッツに移住したフェリペ・デ・ラ・ノイであった。彼女の母親ライマンはアメリカの非常に古い家系のうちの一つの出身であった。フランクリンはサラが生んだ唯一の子供であり、ジェームズはフランクリンが生まれたとき54歳と高齢であったため、サラはフランクリンの幼少時に非常に支配的な影響を与えた。フランクリンは後に友人に生涯母親を恐れていたと語っている。 この時代の富豪の子弟の例に漏れず、フランクリンは学校には通わずに家庭教師の手によって教育を施された。父母や家庭教師などに過保護に育てられ、同世代の子供と交わる機会はほとんどなかった。14歳の時、名門[[w:en:Groton School|グロトン校]]に入学を果たしたものの、周りに父母や家庭教師しかいない環境と厳しい寄宿舎生活とのギャップにとまどい、学校にはあまりなじめなかったという。 フランクリンは[[1904年]]に[[アイビーリーグ]]のひとつ[[ハーバード大学]]、および[[1908年]]同じくアイビーリーグの[[コロンビア大学]]ロースクールを卒業した。大学時代のフランクリンは学内紙の編集長を務める活躍ぶりを見せる一方で、セオドアも会員名簿に名を連ねていた名門クラブ『ポーセリアン』への入会に失敗している。 [[1908年]]にウォール・ストリート法律事務所での仕事を引き受ける前、[[1905年]]の[[聖パトリックの祝日]]にセオドア・ルーズベルトの姪の[[エレノア・ルーズベルト|アナ・エレノア・ルーズベルト]]と結婚した。彼らは6人の子供をもうけた。4番目の息子エリオットは作家となった。 [[Image:FDR with Fala riding in car.jpg|220px|thumb|愛犬ファーラとともに]] *アナ・エレノア・ルーズベルト(Anna Eleanor Roosevelt...母親と同名 1906年5月3日 - 1975年12月1日) *ジェームズ・ルーズベルト(James Roosevelt 1907年12月23日 - 1991年8月13日) *フランクリン・デラノ・ルーズベルト・ジュニア(The first Franklin Delano Roosevelt Jr. 1909年3月18日 - 1909年11月1日) *エリオット・ルーズベルト(Elliott Roosevelt 1910年9月23日 - 1990年10月27日) *フランクリン・デラノ・ルーズベルト・ジュニア(The second Franklin Delano Roosevelt Jr. 1914年8月17日 - 1988年8月17日) *ジョン・アスピノール・ルーズベルト(John Aspinwall Roosevelt 1916年3月13日 - 1981年4月27日) *愛犬・ファーラ(他、犬を数匹飼っていた) ファーラはフランクリンの死後も、車のクラクションを聞いては主人が帰ってきたと思ったらしく、立ち上がったという。 *愛人・ルーシー・ページ・マーサー・ラザーフォード(Lucy Page Mercer Rutherfurd 1891年4月26日 - 1948年7月31日)  元エノリア・ルーズベルトの個人秘書。1918年以前にフランクリン・ルーズベルトの愛人になる。フランクリン・ルーズベルトの急死時(1945年)も付き添っていて最期を看取った。 == 政治経歴 == 28歳で民主党ニューヨーク州議会上院議員に選ばれた後、ルーズベルトは次の役職を歴任した。 *海軍次官 1913年 - 1920年 *[[ニューヨーク州]]知事 1929年 - 1933年。 [[1920年]]の大統領選で、ルーズベルトは民主党大統領候補ジェームズ・M・コックスの副大統領候補だった。 ルーズベルトの[[1932年]]の大統領選挙戦は、「三つのR - 救済、回復および改革」(Three R's - relief, recovery and reform.)の綱領で世界恐慌と戦うとして行われた。彼はそのスピーチの中で“'''ニューディール'''”の用語を造った。「私は誓約します。私は、米国民のための新規まき直し政策を誓約します。 ''I pledge you, I pledge myself, to a '''new deal''' for the American people.''」。1932年の選挙における勝利後の1933年2月15日に、ルーズベルトは[[フロリダ州]][[マイアミ]]で暗殺されそうになった<ref>Freidel, Frank. Franklin D. Roosevelt (4 vol 1952–73), the most detailed scholarly biography; ends in 1934. </ref>。暗殺者は[[シカゴ]]市長アントン・J・サーマクを殺害した。 == 大統領職 == ===ニューディール政策=== [[世界恐慌]]に対しては有効的な対策を取れないまま大統領職を退いた前任の[[ハーバート・フーヴァー]]に対し、「[[ニューディール政策]]」と呼ばれる、政府による経済への介入(積極的な[[経済政策]])を行なった。[[団体交渉権]]保障などによる労働者の地位向上・[[テネシー川流域開発公社]] (TVA) などの大規模公共事業による[[失業者]]対策・社会保障の充実などの政策を行って克服を図ったが、なかなか成果が上がらず、やがて労使双方から反発もおきるようになった。 しかしながら、1941年の第二次世界大戦参戦による軍需の増大によってアメリカ経済は回復し、失業者も激減した。近年では[[太平洋戦争]]が無くても成功したのではないかという意見と、最初から太平洋戦争の開戦が無ければ成功しえない政策であったという意見が対立し、議論の対象になっている。 ===炉辺談話=== [[Image:FDRfiresidechat2.jpg|220px|thumb|マイクの前に座るルーズベルト]] なお、当時最も浸透していた[[メディア]]であった[[ラジオ]]放送を通して演説し、直接国民に訴えかけるスタイルを重視した、メディアを巧みに利用した大統領として知られている。ルーズベルトの行った毎週のラジオ演説は「[[炉辺談話]] fireside chats」と呼ばれ、国民に対するルーズベルトの見解の発表の場となった。それはルーズベルトの人気を支え、大戦中のアメリカ国民の重要な士気高揚策となった。 === 内閣 === {| cellpadding="1" cellspacing="4" style="margin:3px; border:3px solid #000000;" align="left" !bgcolor="#000000" colspan="3"| |- |align="left"|'''職名'''||align="left"|'''氏名'''||align="left"|'''任期''' |- !bgcolor="#000000" colspan="3"| |- |[[アメリカ合衆国大統領|大統領]] || '''フランクリン・D・ルーズベルト''' || 1933 - 1945 |- |[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]] || '''[[ジョン・ナンス・ガーナー]]''' || 1933 - 1941 |- | || '''[[ヘンリー・A・ウォレス]]''' || 1941 - 1945 |- | || '''[[ハリー・S・トルーマン]]''' || 1945 |- !bgcolor="#000000" colspan="3"| |- |[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]] || '''[[コーデル・ハル]]''' || 1933 - 1944 |- | || '''[[エドワード・ステティニアス]]''' || 1944 - 1945 |- |[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]] || '''[[ジョージ・ヘンリー・ダーン]]''' || 1933 - 1936 |- | || '''[[ハリー・ハインズ・ウッドリング]]''' || 1936 - 1940 |- | || '''[[ヘンリー・L・スティムソン]]''' || 1940 - 1945 |- |[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]] || '''[[ウィリアム・ウッディン]]''' || 1933 - 1934 |- | || '''[[ヘンリー・モーゲンソウ (政治家)|ヘンリー・モーゲンソウ]]''' || 1934 - 1945 |- |[[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]] || '''[[ホーマー・S・カミングス]]''' || 1933 - 1939 |- | || '''[[ウィリアム・F・マーフィー]]''' || 1939 - 1940 |- | || '''[[ロバート・ジャクソン (法律家)|ロバート・H・ジャクソン]]''' || 1940 - 1941 |- | || '''[[フランシス・ビドル]]''' || 1941 - 1945 |- |[[アメリカ合衆国郵政長官|郵政長官]] || '''[[ジェームズ・A・ファーレイ]]''' || 1933 - 1940 |- | || '''[[フランク・C・ウォーカー]]''' || 1940 - 1945 |- |[[アメリカ合衆国海軍長官|海軍長官]] || '''[[クロード・スワンソン]]''' || 1933 - 1939 |- | || '''[[チャールズ・エジソン]]''' || 1940 |- | || '''[[ウィリアム・フランクリン・ノックス]]''' || 1940 - 1944 |- | || '''[[ジェイムズ・フォレスタル]]''' || 1944 - 1945 |- |[[アメリカ合衆国内務長官|内務長官]] || '''[[ハロルド・L・アイクス]]''' || 1933 - 1945 |- |[[アメリカ合衆国農務長官|農務長官]] || '''[[ヘンリー・A・ウォレス]]''' || 1933 - 1940 |- | || '''[[クロード・レイモンド・ウィッカード]]''' || 1940 - 1945 |- |[[アメリカ合衆国商務長官|商務長官]] || '''[[ダニエル・C・ローパー]]''' ||1933 - 1938 |- | || '''[[ハリー・L・ホプキンス]]''' || 1939 - 1940 |- | || '''[[ジェス・H・ジョーンズ]]''' || 1940 - 1945 |- | || '''[[ヘンリー・A・ウォレス]]''' || 1945 |- |[[アメリカ合衆国労働長官|労働長官]] || '''[[フランシス・パーキンス]]''' || 1933 - 1945 |- |} {{clear}} ===最高裁判所判事=== *[[ヒューゴー・ブラック]] (AL) [[1937年]][[8月19日]] - [[1971年]][[9月17日]] *[[スタンリー・フォーマン・リード]] (KY) [[1938年]][[1月31日]] - [[1957年]][[2月25日]] *[[フェリックス・フランクヒューター]] (MA) [[1939年]][[1月30日]] - [[1962年]][[8月28日]] *[[ウィリアム・O・ダグラス]] (CT) [[1939年]][[4月17日]] - [[1975年]][[11月12日]] *[[ウィリアム・F・マーフィー]] (MI) [[1940年]][[2月5日]] - [[1949年]][[7月19日]] *[[ハーラン・F・ストーン]] (最高裁長官, NY) [[1941年]][[7月3日]] - [[1946年]][[4月22日]] *[[ジェームズ・F・バーンズ]] (SC) [[1941年]][[7月8日]] - [[1942年]][[10月3日]] *[[ロバート・H・ジャクソン]] (NY) [[1941年]][[7月11日]] - [[1954年]][[10月9日]] *[[ウィリー・B・ラトレッジ]] (IA) [[1943年]][[2月15日]] - [[1949年]][[9月10日]] ===在職中に設立された機関=== *テネシー渓谷開発公社 (''Tennessee Valley Authority, TVA'') *民間植林治水隊 (''Civilian Conservation Corps, CCC'') *公共工事局 (''Public Works Administration, PWA'') *[[公共事業促進局]] (''Works Progress Administration, WPA'') *社会保障局 (''Social Security Administration'') *連邦住宅局 (''Federal Housing Administration, FHA'') === 第二次世界大戦 === [[1939年]]に始まったヨーロッパにおける戦争に対しては、当初イギリス寄りではあったものの、武器援助以外には基本的には介入しない政策を取っていた。これは、[[第一次世界大戦]]に参戦した経験からヨーロッパの戦争に関わるのは極力避けたいと考えていたアメリカ国民の世論を意識してのことであった。 [[Image:Eleanor Roosevelt with Soong Mei-ling.jpg|220px|thumb|蒋介石の妻の[[宋美齢]]と[[エレノア・ルーズベルト|エレノア]]]] 当時ヨーロッパ戦線において[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[ドイツ軍]]に押され気味であった[[イギリス]]の[[ウィンストン・チャーチル]][[首相]]や、日中戦争下にあった[[中華民国]]の[[蒋介石]]総統の夫人でアメリカ[[留学]]経験もある[[宋美齢]]が、数度にわたり第二次世界大戦への参戦や日中戦争におけるアメリカの支援、参戦をルーズベルトに訴えかけており、この様な背景が「ルーズベルトが第二次世界大戦へ参戦したがっていた」という意見の根拠になっている。 ただし、ルーズベルトが参戦を望んでいたのはアメリカの権益・領土に直接害が及ばないヨーロッパ戦線であり、[[ハワイ]]や[[フィリピン]]などの、アメリカ領土や[[植民地]]に直接被害が及ぶ可能性の高く、(ヨーロッパと太平洋の)二つの戦線で戦うことになる対日開戦には消極的であったとも言われている。 なおルーズベルトは、1939年に[[レオ・シラード]]と[[アルベルト・アインシュタイン]]のからの書簡を契機に、[[原子爆弾]]の開発計画である[[マンハッタン計画]]を推進した。 ====対中支援==== [[Image:American P-40 fighter planes.jpg|220px|thumb|駐機するアメリカ軍機を警護する[[中華民国軍]]の兵士]] [[Image:CongressRoosevelt1941.jpg|220px|thumb|日本への宣戦布告を行うルーズベルト]] [[Image:SanPedro to SantaAnita.gif|right|220px|thumb|[[アメリカ軍]]兵士の監視下で強制収容所に運ばれる日系アメリカ人]] いずれにしてもルーズベルトは、[[1937年]]の[[日中戦争|支那事変]]勃発後に日中戦争で中国国民党を追い込む日本に圧力をかけ、大量の物資を[[援蒋ルート]]を通じて蒋介石率いる中華民国の[[中国国民党|国民党]]政権に送り続けた。また自らが率先して組織させたアメリカの「退役軍人」を中心とした義勇軍「[[フライング・タイガース]]」や「軍事顧問」を中華民国に派遣させるなど、日本に対する態度を硬化させていった。 [[1941年]]3月には[[レンドリース法]](武器貸与法)により大量の武器・軍需物資を中華民国へ援助した。[[大日本帝国陸軍]]の北部[[仏印]]進駐を契機に日米関係は悪化し、ルーズベルト政権は[[くず鉄]]を始めとする各種資源の対日禁輸に踏み切った。 ====太平洋戦争==== その後、日本が[[南部仏印進駐]]を行うと、在英米蘭の日本資産凍結、[[日米通商航海条約]]の廃棄、対日[[石油]]禁輸といった強行的な政策を立て続けに行った。1年間にわたる[[日米交渉]]を続けるも[[ハル・ノート]]により交渉も破綻、ついに[[1941年]][[12月7日]](日本時間で[[12月8日]])の日本軍の[[真珠湾攻撃]]により大東亜戦争([[連合国]]側の呼称は[[太平洋戦争]])が開戦した。 ルーズベルトは、真珠湾攻撃を報告され「これは戦争ということだ」と言っている。その後、イギリス首相チャーチルに「我々は同じ船に乗りました、日本は攻撃してきました」と発言している。その後議会で日本軍の「卑劣なだまし討ち」を非難し、[[宣戦布告]]の誓約に署名した。 幾人かの歴史家や野党の共和党議員などは、「ルーズベルトは真珠湾攻撃についての情報を前もって入手しており、アメリカが第二次世界大戦に参戦する理由づけとしてそれを看過した」と主張しているが、「知っていた」とする証拠は存在せず、一般には[[陰謀論]]と見られている。また、ルーズベルトの親族が[[阿片戦争|アヘン戦争]]の頃から[[中国]]と[[アヘン]][[貿易]]を手広く行っていたことから、ルーズベルト本人も中国人に対して同情的、かつ友好的な考えを持つ[[親華派]]であったことが、[[日中戦争]]に関する政策に影響を与えたとする見方がある。さらに、日本の中国大陸や[[仏領インドシナ]]における活動が、アメリカの[[満州]]や[[中国大陸]]、[[東南アジア]]への進出に邪魔になるためそれを排除しようとしていたという説もある。 実際に、蒋介石と宋美齢による働きかけを受け、上記のようにアメリカ軍人の[[クレア・リー・シェンノート|クレア・L・シェンノート]]を中国大陸において日本軍と対峙する[[中華民国国軍]]に「軍事顧問」として派遣すると同時に、[[戦闘機]]などの軍事物資を送り、「アメリカ義勇航空隊(通称:[[フライング・タイガース]])」を組織させていた。なお、アメリカ義勇航空隊による中国大陸における活動を、「事実上のアメリカによる日中戦争に対する参戦」と見做す意見もあるが、日米開戦前からアメリカは戦闘に向けた準備は行っていたものの、様々な障壁から直接に戦闘を開始するのは日米開戦後である。 ====人種改良論者==== イギリスのロナルド・キャンベル駐アメリカ[[公使]]がイギリス政府へ行った報告によると、ルーズベルトは「人種間の差異を重視し、人種交配によって文明が進歩する」と信じていたという。「インド系やユーラシア系とアジア人種、欧州人とアジア人種を交配させるべきだ。だが日本人は除外する」とキャンベルに語ったという。 この様な自らの人種差別的感情と、第二次世界大戦以前からのアメリカにおける日本人に対する人種差別的感情を背景に、1941年12月の対日開戦後には、エレノアからの反対を押しのけて、大戦中にアメリカ国内とアメリカの影響下にあった[[ブラジル]]や[[メキシコ]]、[[ペルー]]などの中南米諸国において、[[日系人の強制収容]]政策を推し進めた。 ==== 連合国首脳との会談 ==== [[Image:Yalta_summit_1945_with_Churchill,_Roosevelt,_Stalin.jpg|220px|thumb|ヤルタ会談の三巨頭]] [[Image:Cairo conference.jpg|220px|thumb|カイロ会談で[[蒋介石]]とチャーチルとともに]] ルーズベルトは、大戦中に数度にわたり他の連合国首脳と会談している。[[1943年]][[1月14日]]には、イギリスのチャーチル首相と会談するため[[フロリダ州]][[マイアミ]]から[[モロッコ]]の[[カサブランカ]]に出発した。彼は飛行機で外国を訪問した最初のアメリカ大統領になった。会合は1月24日に終えた。 同年11月には[[エジプト]]のカイロで行われた[[カイロ会談]]において、[[中華民国]]の[[蒋介石]]総統とチャーチル首相とアジアにおける戦後処理について話し合った。 その後チャーチル首相とともに[[イラン]]の[[テヘラン]]に移動して[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ヨシフ・スターリン]]書記長と会談。[[1945年]][[2月]]にはスターリン書記長、チャーチル首相とともに[[ヤルタ会談]]に出席した。しかし、この頃になるとルーズベルトの体調は悪化し、急激に痩せ衰えていたことが[[ヤルタ会談]]での映像・写真から見て取れる。ヤルタ会談においてルーズベルトは、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]降伏後も当分の継続が予想された対日戦を早期に終結させるため、[[スターリン]]に対し、[[千島列島]]、[[南樺太]]のソ連への割譲を条件にドイツ降伏後3ヶ月以内の[[ソ連対日参戦|対日参戦]]を要求した。その一方で露骨な領土的野心を露わにしていた[[スターリン]]の要求をほぼ丸呑みする形となり、戦後の[[東西冷戦]]を招く要因を作ったとも言われる。 === 勝利を目前にした死 === ルーズベルトは[[共和党 (アメリカ)|共和党]]候補[[トーマス・E.デューイ]]に勝ち、1944年11月7日に先例のない4選を果たした。しかしながら肖像画の制作途中、[[1945年]][[4月12日]]の昼食前に[[脳卒中]]で死亡し、[[副大統領]][[ハリー・S・トルーマン]]が大統領に昇格した。その後5月にはドイツが降伏、8月には日本が降伏して第二次世界大戦が終結する目前の死であった。 なお、この時、当時のドイツ政府は[[アドルフ・ヒトラー]]が公式声明を発表。「ルーズベルトは今次の戦争を第二次世界大戦に拡大させた扇動者であり、さらに最大の対立者であるソ連を強固にした大統領として史上最悪な戦争犯罪者として歴史に残るだろう」とルーズベルトを徹底的に罵倒し、死を喜ぶ声明を発した。 一方、日本の[[鈴木貫太郎内閣]]は同じく敵国であったにも拘らず、「今日の戦争においてアメリカが優勢であるのは、ルーズベルト大統領の指導力が極めて優れているからです。その偉大な大統領を失ったアメリカ国民に、深い哀悼の意を送るものであります」と[[同盟通信社]]の[[短波放送]]で、ルーズベルトの死を悼む内容の声明を発表した。墓はニューヨーク市のウッドロン墓地にある。 ==その他== *[[1921年]]に[[急性灰白髄炎|ポリオ]]に罹り、その後遺症により、下半身が不自由で[[車椅子|車いす]]を常用していた。生前は車いすの姿をマスコミに見られるのを非常に嫌った(そのために、訪問先の植木や立ち木のカムフラージュのための植え替えなどを神経質なまでに指示している)上、マスコミもあえて積極的に報道しなかったため、TV時代の現代では考えられないことだが、ルーズベルトが[[身体障害]]者であったことは米国民にはほとんど知られなかった。実際、彼の車椅子姿の写真は2枚しか知られていない。 *2001年に米国の身障者協会の運動で、ワシントンに車いす姿のルーズベルトの銅像が立てられたが、幾人かはこれを不必要な[[ポリティカル・コレクトネス]]だとして非難した。 *ルーズベルトの肖像は、[[10セント硬貨 (アメリカ合衆国)|米国の10セント銀貨]]に採用されている。 *ルーズベルトは切手収集家としても有名であった。そのため在任中に発行された多くの切手について、郵政当局に発行の要望を提案、これを実現させるのみならず、(歴代大統領肖像図案の普通切手、国立公園切手、韓国も含む枢軸国に占領された国の国旗切手など)デザインの選定やシリーズの構成にまで関与した。切手収集家のためのサービス向上にも熱心で、切手カタログへの図版掲載に柔軟に対応できるよう法改正を進めた(これ以前は、たとえモノクロであっても切手の一部しか掲載することはできなかった)ほか、切手発行初日に特別の消印を使用させるなど、様々な施策をとった。個人的な趣味が行政に影響を与えたが、切手や彼が導入した施策は内外の切手収集家により、現在でも高く評価されている。また[[モナコ]]で戦後発行された彼の追悼切手には切手を整理する姿が描かれている。 *[[推理小説]]の大ファンでもあり、[[ベーカー・ストリート・イレギュラーズ]]の会員であった。また、彼自身が思いついたプロットで[[S・S・ヴァン=ダイン]]らが『大統領のミステリ』と題するリレー長編を執筆したこともある。 *ルーズベルトは唯一'''四選された大統領'''である。初代のワシントン大統領が三選を固辞した故事から大統領は二選までというのが慣例だったが、戦時・有事を理由に1940年と1944年の大統領選に立候補し当選した。後に憲法が改正され(修正第22条)、正式に大統領は二選までと定められた。 <!-- [[ジーン・ディクソン]]の予言を重用した。 --> == マルチメディア == {| | [[Image:FDR video montage.ogg|thumb|300px|center|ルーズベルトの映像集]] | {{multi-listen start}} {{multi-listen item |filename=Roosevelt Pearl Harbor.ogg |title=ルーズベルトの対日宣戦布告演説 |description=[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]、1941年12月8日。(3.1 MB、[[ogg]]/[[Ogg Vorbis|Vorbis]] 形式) |format=[[Vorbis]] }} {{multi-listen item |filename=Roosevelt Infamy.ogg |title="A date which will live in infamy" |description=同演説の {{lang|en|"A date which will live in infamy"}}「屈辱のもとに生きる日」という有名な箇所。(168 KB、[[ogg]]/[[Ogg Vorbis|Vorbis]] 形式) |format=[[Vorbis]] }} {{multi-listen end}} |} == 脚注 == {{reflist}} ==関連項目== *[[ニューディール政策]] *[[ウィンストン・チャーチル]] * [[大西洋憲章]] * [[国際連合]] * [[日中戦争]] * [[中国国民党]] * [[フォーリン・アフェアーズ]] * [[トヨタ博物館]] - 大統領専用車 ([[パッカード]]) が展示されている。 *[[切手]]:コレクターとして有名。 *[[アニー]] *[[ボナパルティズム]] *[[真珠湾攻撃陰謀説]] ==外部リンク== {{Wikiquote|フランクリン・デラノ・ルーズベルト}} {{Wikisourcelang|en|Author:Franklin Delano Roosevelt|フランクリン・ルーズベルトの著作}} {{Commons|Franklin D. Roosevelt}} *[http://www.whitehouse.gov/history/presidents/fr32.html President Roosevelt White House Biography] *[http://www.nps.gov/hofr/ Hyde Park NY Home of FDR] *[http://www.nps.gov/roca/ Campobello Island Summer Home of FDR] *[http://www.fdr-littlewhitehouse.org/ Warm Springs GA FDR Retreat] *[http://www.nps.gov/frde/ FDR Memorial Washington DC] * [http://www.fdrlibrary.marist.edu/ The Franklin D. Roosevelt Presidential Library and Museum] ** [http://www.fdrlibrary.marist.edu/audio.html Audio Archive] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/data.php Academic Data Related to the Roosevelt Administration] *[http://www.nisk.k12.ny.us/fdr/ FDR cartoon archive] ===スピーチ=== * [http://en.wikiquote.org/wiki/Franklin_D._Roosevelt famous quotes] * [http://www.presidency.ucsb.edu The American Presidency Project] at University of California at Santa Barbara ** [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php Public Papers of the Presidents: Franklin D. Roosevelt] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/sou.php State of the Union Addresses] *** [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=14683 1934], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=14890 1935], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=15095 1936], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=15336 1937], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=15517 1938], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=15684 1939], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=15856 1940], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=16092 1941], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=16253 1942], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=16386 1943], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=16518 1944] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/sou.php State of the Union Written Messages] *** [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=16595 1945] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/inaugurals.php Inaugural Addresses] *** [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=14473 1933], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=15349 1937], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=16022 1941], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=16607 1945] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/fireside.php Fireside Chats] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/elections.php Presidential Elections] *** [http://www.presidency.ucsb.edu/showelection.php?year=1932 1932], [http://www.presidency.ucsb.edu/showelection.php?year=1936 1936], [http://www.presidency.ucsb.edu/showelection.php?year=1940 1940], [http://www.presidency.ucsb.edu/showelection.php?year=1944 1944] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/medialist.php?presid=32 32 Audio/Video Clips of FDR] * [http://www.whitehousetapes.org/pages/tapes_fdr.htm Roosevelt's Secret White House Recordings] via University of Virginia * [http://www.evtv1.com/index.asp-itemnum-220 FDR - Day of Infamy video clip] (2 min.) * [http://vvl.lib.msu.edu/showfindingaid.cfm?findaidid=RooseveltFD Audio clips of speeches] * [http://www.yale.edu/lawweb/avalon/presiden/inaug/froos1.htm 第1の就任演説] * [http://www.yale.edu/lawweb/avalon/presiden/inaug/froos2.htm 第2の就任演説] * [http://www.yale.edu/lawweb/avalon/presiden/inaug/froos3.htm 第3の就任演説] * [http://www.yale.edu/lawweb/avalon/presiden/inaug/froos4.htm 第4の就任演説] * [http://www.hpol.org/fdr/chat/ Court "Packing" Speech March 9, 1937] * [http://history.acusd.edu/gen/text/us/fdr1940.html University of Virginia graduating class speech ("Stab in the Back" speech) June 10, 1940] === その他 === * [http://www.potus.com/fdroosevelt.html IPL POTUS &mdash; Franklin Delano Roosevelt] * [http://gi.grolier.com/presidents/ea/bios/32proos.html Encyclopedia Americana: Franklin D. 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