榎本武揚

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{{Infobox Military Person {{Infobox 軍人 |name=榎本 武揚 |lived=[[1836年]][[10月5日]] - [[1908年]][[10月26日]] |placeofbirth=江戸下谷御徒町 |placeofdeath= |image=[[image:Takeaki Enomoto.gif|200px|榎本武揚]] |caption= |nickname=明治最良の官僚 |allegiance=[[江戸幕府]]<br />[[蝦夷共和国|蝦夷島政府]]<br />[[明治政府]] |serviceyears= |rank=海軍奉行(幕府)<br />海軍副総裁(徳川家)<br />総裁(蝦夷島政府)<br />海軍中将(明治政府) |commands= |unit= |battles=[[箱館戦争]] |awards=<!--従五位下和泉守(幕府)<br / >-->投獄(明治政府)<!--<br / >[[子爵]](明治政府)--> |laterwork=駐露特命全権公使<br />[[海軍卿]]<br />駐清公使<br />[[逓信大臣]]<br />[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]<br />[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]<br />[[文部大臣]]<br />[[農商務大臣]] }} <!-- 武家官位は賞ではなく単なる便宜上の肩書きです。授爵は「皇室の藩屏」としての役割を果たす義務を負うことを意味するもので、賞や栄典とは性格が異なります。 --> [[画像:Takeaki Enomoto 3.jpg|thumb|200px|和装の榎本武揚]] '''榎本 武揚'''(えのもと たけあき、[[天保]]7年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]([[1836年]][[10月5日]]) - [[明治]]41年([[1908年]])[[10月26日]])は、江戸幕末~明治期の[[武士]]・[[幕臣]]、政治家。[[海軍中将]][[正二位]][[勲一等]][[子爵]]。徳川育英会育英黌農業科([[東京農業大学]]の前身)の創設者でもある。 通称は釜次郎、号は梁川。名前は「えのもとぶよう」と[[有職読み]]されることもある。父は幕臣榎本武規(円兵衛)、妻は[[林洞海]]の娘で[[林研海]]の妹でもある[[榎本たつ|たつ]]。[[家紋]]は丸に梅鉢。 == 生涯 == === 海軍副総裁就任まで === のちに榎本武揚を称する榎本釜次郎は、[[江戸]]下谷御徒町(現[[東京都]][[台東区]][[御徒町]])に生まれた。父はもとの名を箱田良助といい、[[備後福山藩]]箱田村(現[[広島県]][[福山市]]神辺町箱田)出身で、江戸へ出て幕臣榎本家の株を買い、榎本家の娘と結婚することで養子縁組みして幕臣となり、榎本円兵衛武規を称した。 釜次郎は幼少の頃から[[昌平坂学問所]]で[[儒学]]・[[漢学]]、[[ジョン万次郎]]の私塾で[[英語]]を学び、19歳で[[遠国奉行|箱館奉行]][[堀利煕]]の従者として[[蝦夷地]]箱館(現[[北海道]][[函館市]])に赴き、[[樺太]]探検に参加する。[[安政]]3年([[1856年]])には幕府が新設した[[長崎海軍伝習所]]に入所、国際情勢や[[蘭学]]と呼ばれた西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学んだ。 [[文久]]2年([[1862年]])から[[慶応]]3年([[1867年]])まで[[オランダ]]に留学。[[普墺戦争]]を[[観戦武官]]として経験、国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、完成した[[開陽丸]]で帰国して、軍艦頭並を経て[[大政奉還]]後の慶応4年([[1868年]])1月に徳川家家職の海軍副総裁に任ぜられ、実質的に徳川海軍のトップとなった。 === 箱館戦争 === 慶応4年(1868年)、[[徳川慶喜]]が[[大政奉還]]を行い、続いて[[戊辰戦争]]が起こった。開戦直後、榎本の率いる[[旧幕府艦隊]]は大坂の[[天保山]]沖に停泊していたが、[[鳥羽・伏見の戦い]]で旧幕府軍が敗北すると、[[大坂城]]にいた慶喜らは、主戦派の幕臣に無断で旗艦開陽丸に座乗し江戸へ引き揚げた。 新政府軍が江戸を占領すると、徳川家に対する政府の処置を不満とし榎本は抗戦派の旧幕臣とともに開陽丸、[[回天丸]]、[[千代田形丸]]、[[神速丸]]他の旧幕府艦隊を率いて脱出する。[[新選組]]や[[奥羽越列藩同盟]]軍、[[桑名藩]]藩主[[松平定敬]]らを収容し[[蝦夷地]]([[北海道]])に逃走、[[箱館]]の[[五稜郭]]に拠り、[[蝦夷共和国|蝦夷島政府]]を設立して[[入札]]の実施により総裁となった。 翌明治2年([[1869年]])、開陽丸座礁沈没、戦費の枯渇、相次ぐ自軍兵士の逃亡、新政府軍斥候による弁天台場砲台閉鎖、箱館湾海戦による全軍艦喪失など劣勢は決定的となり、榎本は降伏した。降伏を決意した榎本は、オランダ留学時代から肌身離さず携えていたオルトラン著「万国海律全書」(自らが書写し数多くの脚注等を挿入)を戦災から回避しようと蝦夷征討軍海軍参謀黒田了介([[黒田清隆]])に送った。黒田は榎本の非凡な才に感服し、皇国無二の才として断然助命しようと各方面に説諭、その熱心な助命嘆願活動により一命をとりとめ、江戸辰の口の牢に投獄された。また、榎本には批判的であった[[福澤諭吉]]も助命に尽力したひとりでもある。福沢は黒田から前記「海律全書」の翻訳を依頼されたが、一瞥した福沢は、その任に当たるについては榎本の他にその資格なしとして辞退したと伝えられている。 === 明治期 === 明治5年([[1872年]])1月6日、榎本は特赦出獄、その才能を買われて新政府に登用された。同年3月8日、黒田清隆が次官を務める[[開拓使]]に四等出仕として仕官、北海道鉱山検査巡回を命じられた。 明治7年([[1874年]])1月、[[ロシア|駐露]][[特命全権公使]]となり、[[樺太・千島交換条約]]を締結した。また[[マリア・ルス号事件]]でペルー政府が国際法廷に対し日本を提訴した件で、露帝[[アレクサンドル2世]]が調停に乗り出したことから、[[サンクトペテルブルク]]での裁判に臨んで勝訴を得た。駐露公使就任にあたって、榎本は[[海軍中将]]に任命されたが、これは当時の外交慣例で[[武官]]公使の方が交渉上有利と判断されたためで、[[伊藤博文]]らの建言で実現したものである。旧幕時代の経歴と直接の関係はない。 帰国後は外務省二等出仕、[[外務大輔]]、[[議定官]]、[[海軍卿]]、皇居御造営御用掛、皇居御造営事務副総裁、駐清公使等を歴任し、[[内閣]]制度の成立後は能力を買われ6度の内閣で連続して、[[逓信大臣]]、[[文部大臣]]、[[外務大臣]]、[[農商務大臣]]を歴任した(文相・外相の前後に[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]就任)。閣僚交代が頻繁であった当時、特に日清戦争只中の戦時内内閣時の農相在任期間は3年余に及び、歴代農相の中で最長を記録していることからも[[藩閥|薩長藩閥]]にあってバランサーとして重用された榎本の稀代の才が窺い知れる。 農商務大臣時代には、懸案であった[[足尾鉱毒事件]]について初めて予防工事命令を出し、私的ながら大臣自ら初めて現地視察を行った。また、企業と地元民の間の私的な事件であるとしてきたそれまでの政府の見解を覆し、国が対応すべき[[公害]]であるとの立場を明確にし帰郷後、大隈重信らにその重要性を説諭、鉱毒調査委員会を設置し、後の抜本的な対策に向けて先鞭をつけ、自身は引責辞任した。 明治23年([[1890年]])には[[子爵]]となる。また[[大日本帝国憲法|憲法]]発布式では儀典掛長を務めた。 その一方で、旧幕臣子弟への英才教育を目的に、様々な援助活動を展開した。[[北海道]]開拓に関与した経験から、[[農業]]の重要性を痛感、明治24年([[1891年]])に'''徳川育英会育英黌農業科'''(現在の[[東京農業大学]])を創設し自ら黌長となった。また、明治21年([[1888年]])から同41年([[1908年]])まで[[電気学会]]初代会長を務めている。また、黒田清隆が死去したときには並み居る薩摩出身の高官をさしおいて葬儀委員長を務めている。これは一説には黒田が晩年、薩閥の中にあって疎外されていて引き受ける者がいなかったためともいわれる。 明治41年(1908年)に死去、享年73。墓所は東京都[[文京区]]の[[吉祥寺 (東京都文京区)|吉祥寺]]。 なお、添付の画像は左右が反転している(ネガを裏返しでプリントしたため)。 == 人物 == [[Image: LaterEnomoto.jpg|thumb|200px|晩年の榎本武揚]] 思想は開明、外国語にも通じた。蝦夷島政府樹立の際には、[[国際法]]の知識を駆使して自分たちのことを「事実上の政権」であるという覚書を現地にいた列強の関係者から入手する(交戦団体という認定は受けていない。また、この覚書は本国や大使の了解なく作られたものである。[[蝦夷共和国|蝦夷島政府]]の項を参照)という、当時の日本としては画期的な手法を採るなど、外交知識と手腕を発揮した。 明治政府官僚となってからも、その知識と探求心を遺憾なく発揮し、民衆から「明治最良の官僚」と謳われたほどであったが、[[藩閥|藩閥政治]]の明治政府内においては肩身の狭い思いもしばしばであった。義理・人情に厚く、涙もろいという典型的な江戸っ子で[[明治天皇]]のお気に入りだった。また海外通でありながら極端な洋化政策には批判的で、[[園遊会]]ではあえて和装で参内するなど粋な行動に終始した。 これらの偉業に対し、[[福澤諭吉]]は榎本を嫌い、彼を「無為無策の伴食大臣。二君に仕えるという武士にあるまじき行動をとった典型的な[[オポチュニスト]]。挙句は、かつての敵から爵位を授けられて嬉々としている「痩我慢」を知らぬ男」と罵倒している(『[[痩我慢の説]]』)。福澤は海軍大輔、海軍卿、枢密顧問官などを務めた伯爵[[勝海舟]]も同書で攻撃しており、官職に就いた旧幕臣を批判的視点で見ていた。 [[山田風太郎]]は「もし彼が五稜郭で死んでいたら、[[源義経]]や[[楠木正成]]と並んで日本史上の一大ヒーローとして末長く語り伝えられたであろう。しかし本人は『幕臣上がりにしてはよくやった』と案外満足して死んだのかもしれない」と書いている。(『人間臨終図巻』) 五稜郭で敗れて、獄中にいる時、兄の家計を助けようとして手紙で、[[孵卵器]]や[[石鹸]]などの作り方や、新式の養蚕法・藍の採り方等詳細に知らせている。また舎密学(化学)については日本国中で自分に及ぶものはいないと自信を持っていたフシがある。 余談だが、彼が初代逓信大臣を勤めたとき、[[逓信省]]の「徽章」を決めることになった。明治20年([[1887年]])[[2月8日]]、「今より(T)字形を以って本省全般の徽章とす」と告示したものの、これが万国共通の料金未納・料金不足の記号「T」と紛らわしいことが判明した。そこで榎本は「Tに棒を一本加えて「[[〒]]」にしたらどうだ」と提案し、[[2月19日]]の官報で「実は〒の誤りだった」ということにして変更したといわれている。これは、あくまでも郵便マーク誕生に関する諸説のうちのひとつであるが、「テイシンショウ」の「テ」にぴたりと合致しており、彼の聡明さを象徴するようなエピソードでもある。 著作に『渡蘭日記』『北海道巡回日記』『西比利亜日記』『流星刀記事』など。 曾孫に、作家で[[東京農業大学]]客員教授の[[榎本隆充]]がいる。 == 参考文献 == * 『榎本武揚 シベリア日記』[[講談社学術文庫]]、2008年。 * 榎本隆充、高成田亨編『榎本武揚』[[藤原書店]]、2008年。 * 榎本隆充『榎本武揚未公開書簡集』新人物往来社、2003年。 * 『東京農業大学百年史』東京農業大学、1993-1994年。 * 加茂儀一『榎本武揚』 [[中公文庫]]、1988年。 * 加茂儀一編『榎本武揚 資料』新人物往来社、1969年。 * [[安部公房]]『榎本武揚』中央公論社、1965年。のち同文庫 == 榎本武揚が登場する作品 == * 「[[大奥 (テレビドラマ)#1968年版|大奥]]」([[1968年]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、演:[[波多野博]]) * 「[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]」([[1974年]]、[[NHK大河ドラマ]]、演:[[村井国夫]]) * 「[[獅子の時代]]」([[1980年]]、NHK大河ドラマ、演:[[新克利]]) * 「[[五稜郭 (テレビドラマ)|五稜郭]]」([[1988年]]、[[日本テレビ]][[年末時代劇スペシャル]]、演:[[里見浩太朗]]) * 「[[勝海舟 (テレビドラマ)|勝海舟]]」([[1990年]]、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:[[吉岡祐一]]) * 「[[またも辞めたか亭主殿〜幕末の名奉行・小栗上野介〜]]」(2003年、[[NHK]]、演:[[大塚幸太]]) * 「[[新選組!]]」([[2004年]]、NHK大河ドラマ、演:[[草なぎ剛|草彅剛]]) * 「[[新選組!! 土方歳三 最期の一日]]」([[2006年]]、NHK、演:[[片岡愛之助 (6代目)]]) * 「[[幕末機関説 いろはにほへと]]」(2006年(登場は[[2007年]])、[[GyaO]]、声:[[中多和宏]]) * 「[[篤姫]]」([[2008年]]NHK大河ドラマ)演:[[鈴木綜馬]] == 関連項目 == * [[メキシコ]] - 榎本移民団を組織した。 == 外部リンク == {{Commons|Enomoto Takeaki}} * [http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1264.html 榎本 武揚:作家別作品リスト]([[青空文庫]])   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E6%8F%9A 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月24日 (月) 04:51。]    

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