盧溝橋事件

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'''盧溝橋事件'''(ろこうきょうじけん、中国では'''七七事変'''ともいう)は、[[1937年]](昭和12年)[[7月7日]]に[[北京]](当時は[[北平]]と呼ぶ)西南方向の[[盧溝橋]]で起きた発砲事件。[[日中戦争]](支那事変、日華事変)の発端となった。この事件をきっかけに、[[大日本帝国|日本]]軍と[[中華民国|国民党]]政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していった。 == 事件の経緯 == === 7月7日 === <!-- このコメントは削除しないで下さい。このページ、「盧溝橋事件」は編集合戦などを回避する目的でローカル・ルールが適用されています。このページの編集を行う際には、ノートに記載されているローカル・ルールに従って編集を行って下さい。 --> * 22時40分頃:永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃を行う。同中隊はただちに集合、兵一名が行方不明と判明する。事件発生の報告は、清水節郎中隊長より、まず豊台の一木清直大隊長、ついで北平の[[牟田口廉也]]連隊長に伝達される。 * 23時00分頃:行方不明であった兵が帰隊。(野地小隊長の手記によれば、伝令に出たまま行方不明になったとのこと。他に「用便」説あり) === 7月8日 === <!-- このコメントは削除しないで下さい。このページ、「盧溝橋事件」は編集合戦などを回避する目的でローカル・ルールが適用されています。このページの編集を行う際には、ノートに記載されているローカル・ルールに従って編集を行って下さい。 --> <現地の動き> * 3時25分:竜王廟方面から3発の銃声あり。伝令に出た岩谷曹長らが、中国軍陣地に近づき過ぎて発砲を受けた、と見られている。 * 4時00分:日中合同調査団が、北京を出発した。メンバーは、日本側が森田徹中佐・赤藤庄次少佐・桜井徳太郎少佐・寺平忠輔補佐官、他に通訳二名・一個分隊の護衛兵、中国側は王冷斎宛平県長・林耕宇冀察政務委員、他1名。5時00分前後、うち桜井中佐、寺平補佐官らは宛平県城(盧溝橋城)内に入り、中国側と交渉を開始した。 * 4時20分:一木大隊長が牟田口連隊長に電話にて再度の銃撃を報告。これを聞いた連隊長は戦闘開始を許可。大隊長はこれを受けて歩兵砲の砲撃を命令。しかし、連隊長の戦闘許可を知らない森田中佐の命令によって、砲撃はいったん中止された。 * 5時30分:第8中隊が国府軍部隊に向けて前進を開始。これに対し国府軍は激しい射撃を開始し、日本側もそれに応射。ついに全面衝突となった。 * 約2時間後、現地での激戦はいったん収まった。以降、15時30分頃に戦闘が再発するなど一時的な戦闘はあったものの、概ね小康状態にて推移。北平及び盧溝橋城内で、停戦に向けた交渉が行なわれる。 <中央の動き> * 早朝、事件の第一報を知らせる電報が陸軍中央に到着。以降中央では、これを機に中国に「一撃」を加えて事態の解決を図ろうとする拡大派、対ソ軍備を優先しようとする不拡大派のせめぎあいが続く。 * 18時42分:参謀本部より支那派遣軍司令官宛、「事件の拡大を防止する為、更に進んで兵力の行使することを避くべし」と、不拡大を指示する総長電が発せられる。これは、参謀本部の実質的な責任者であった、石原莞爾少将のリードによるものであった。 === 7月9日 === <!-- このコメントは削除しないで下さい。このページ、「盧溝橋事件」は編集合戦などを回避する目的でローカル・ルールが適用されています。このページの編集を行う際には、ノートに記載されているローカル・ルールに従って編集を行って下さい。 --> <現地の動き> * 2時00分頃:「とりあえず日本軍は永定河の東岸へ、中国軍は西岸」へ、との日本側の「兵力引き離し」提案を中国側が呑む形で、停戦協議が成立。撤退予定時刻は当初5時00分であったが、中国側内部の連絡の不備からその後も戦闘が散発し、最終的な撤退完了は12時20分頃までずれ込んだ。 <中央の動き> * 8時50分頃:臨時閣議。陸相より三個師団派遣等の提案が行なわれたが、米内海相などの反対により見送りとなった。 * 夜:参謀本部より支那駐屯軍参謀長宛、「中国軍の盧溝橋付近からの撤退」「将来の保障」「直接責任者の処罰」「中国側の謝罪」を対支折衝の方針とするよう通達する電文が、次長名をもって発せられる。 === 7月10日 === <!-- このコメントアウトは削除しないで下さい。このページ、「盧溝橋事件」は編集合戦などを回避する目的でローカル・ルールが適用されています。このページの編集を行う際には、ノートに記載されているローカル・ルールに従って編集を行って下さい。 --> <現地の動き> * 前日の次長電を受けた形で、橋本群参謀長は中国側に対して、「謝罪」「責任者の処罰」「盧溝橋付近からの撤退」「抗日団体の取締」を骨子とする要求を提出。以降、この内容を軸に、交渉が継続される。 <中央の動き> * 午前:参謀本部第三課と第二部が、「支那駐屯軍の自衛」「居留民保護」を理由とする派兵提案を含む情勢判断を提出。参謀本部内にも異論はあったが、最終的には石原少将も同意、案は陸軍省に送付された。「国民党中央軍の北上」「現地情勢の緊迫」の報が実態以上に過大に伝えられたことが、派兵の決定に大きな影響を与えた、と言われる。 === 7月11日 === <!-- このコメントは削除しないで下さい。このページ、「盧溝橋事件」は編集合戦などを回避する目的でローカル・ルールが適用されています。このページの編集を行う際には、ノートに記載されているローカル・ルールに従って編集を行って下さい。 --> <現地の動き> * 20時00分:「責任者の処分」「中国軍の盧溝橋城郭・竜王廟からの撤退」「抗日団体の取締」を骨子とする現地停戦協定が成立した(松井-秦徳純協定)。 <中央の動き> * 11時30分:五相会議にて、陸相の、「威力の顕示」による「中国側の謝罪及保障確保」を理由とした内地三個師団派兵等の提案が合意された。 * 14時00分:臨時閣議にて、北支派兵が承認された。 * 16時20分:近衛首相は葉山御用邸に伺侯、北支派兵に関し上奏御裁可を仰いだ。 * 18時24分:「北支派兵に関する政府声明」により、北支派兵を発表。 * 21時00分:近衛首相は政財界有力者、新聞・通信関係者代表らを首相官邸に集め、国内世論統一のため協力を要請。以降、有力紙の論調は、「強硬論」が主流となる。 本来事件は、現地での停戦交渉の成立をもって終息に向かうはずのものであった。しかし、現地情勢を無視した政府の派兵決定は、拡大派を勢いづかせ、また中国側の反発を招くことにより、以降の事件拡大の大きな要因となった。 === 7月12日以降 === <!-- このコメントは削除しないで下さい。このページ、「盧溝橋事件」は編集合戦などを回避する目的でローカル・ルールが適用されています。このページの編集を行う際には、ノートに記載されているローカル・ルールに従って編集を行って下さい。 --> 19日、蒋介石はいわゆる「最後の関頭」演説を公表して、中国の抗戦の覚悟を公式に明らかにした。以降、25日の郎坊事件、26日の広安門事件を経て、28日、ついに北支における日中の全面衝突が始まることになる。 == 事件の謎 ~1発目を誰が撃ったか?~ == <!-- このコメントは削除しないで下さい。このページ、「盧溝橋事件」は編集合戦などを回避する目的でローカル・ルールが適用されています。このページの編集を行う際には、ノートに記載されているローカル・ルールに従って編集を行って下さい。 --> 日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ている([[秦郁彦]]『盧溝橋事件の研究』175頁;安井三吉『盧溝橋事件』19頁)。中国側研究者は「日本軍の陰謀」説を、また、日本側研究者の一部には「中国共産党の陰謀」説を唱える論者も存在するが、いずれも大勢とはなっていない。 「中国共産党陰謀説」の有力な根拠としてあげられているのは、葛西純一が、中国共産党の兵士向けパンフレットに盧溝橋事件が[[劉少奇]]の指示で行われたと書いてあるのを見た、と証言していることであるが、葛西が現物を示していないことから、事実として確定しているとはいえない、との見方が大勢である。 <!-- ソースの提示を希望して一旦元に戻してコメントアウトします。//しかし当時、事件に関与した朝鮮人がその後、華北交通に入社、複数の日本人社員に証言していたため、元社員間では日本軍の謀略説が有力なものとなっている。--> <!--又[[1949年]][[10月1日]]、[[中華人民共和国]]」成立のその日に[[周恩来]]首相も、「あの時(廬溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」という演説を行っている。←それほど決定的な演説なら、検索一発で見つかりそうなものですが……ソース求む。--> == 参考文献 == <!-- このコメントは削除しないで下さい。このページ、「盧溝橋事件」は編集合戦などを回避する目的でローカル・ルールが適用されています。このページの編集を行う際には、ノートに記載されているローカル・ルールに従って編集を行って下さい。 --> 以下、盧溝橋事件に関する参考文献を挙げる(順序は著者名による五十音順)。 * 江口圭一『盧溝橋事件』(岩波書店、1988年12月)ISBN 4-00-003433-2 * 岡野篤夫『蘆溝橋事件の実相 平和主義から軍国主義へ』(旺史社、2001年8月)ISBN 487119129X * 葛西純一『新資料盧溝橋事件』(成祥出版社、1975年) * 肥沼茂『盧溝橋事件 嘘と真実』(叢文社、2000年7月)ISBN 4794703392 * 坂本夏男『盧溝橋事件勃発についての一検証』(國民會館、1993年5月) * 寺平忠輔『蘆溝橋事件 日本の悲劇』(読売新聞社、1970年) * 秦郁彦『昭和史の謎を追う(上)』(文春文庫、1999年12月)ISBN 4167453045 * 秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会、1996年12月)ISBN 4-13-020110-7 * 安井三吉『柳条湖事件から盧溝橋事件へ 一九三〇年代華北をめぐる日中の対抗』(研文出版、2003年12月)ISBN 4876362254 * 安井三吉『盧溝橋事件』(研文出版、1993年9月)ISBN 4-87636-113-4 [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2006年8月25日 (金) 20:12。]    

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