禁門の変

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[[画像:蛤御門.jpg|thumb|right|蛤御門(2004年8月31日撮影)]] [[画像:Hamagurigomon-dankon1.JPG|thumb|right|蛤御門・弾痕(2005年10月撮影)]] '''禁門の変'''(きんもんのへん)は、[[江戸時代]]後期の[[元治]]元年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]([[1864年]][[8月20日]])に起きた事変。'''蛤御門の変'''(はまぐりごもんのへん)、'''元治の変'''(げんじのへん)、'''元治甲子の変'''とも呼ばれる。 「禁門」とは「[[禁裏]]の御門」の略した呼び方である。[[蛤御門]]の名前の由来は、[[天明の大火]]([[1788年]][[1月30日 (旧暦)|1月30日]])の際、それまで閉じられていた門が初めて開門されたので、焼けて口を開ける蛤に例えられた為である。蛤御門は現在の[[京都御苑]]の西側に位置し、天明の大火以前は新在家御門と呼ばれていた。禁門の変が蛤御門の変とも呼ばれるのは、蛤御門付近が激戦区であった為である。その為今も門の梁には弾痕が残る。 == 概要 == [[尊皇攘夷]]論を掲げて京都での政局に関わっていた[[長州藩]]は、[[1863年]]([[文久]]3年)に[[会津藩]]と[[薩摩藩]]が協力した[[八月十八日の政変]]で[[京都]]を追放されていた。 [[藩主]]の[[毛利敬親]]と子の[[毛利定広]]は国許へ謹慎を命じられて政治主導権を失っており、京や[[大坂]]に密かに潜伏した数名の長州[[尊攘派]]はにわかに行動を続けていた。 [[元治]]元年(1864)に入ると、[[孝明天皇]]を再び長州陣営のものとする為、京都に乗り込もうとする積極策が長州で論じられた(この時の積極的に上洛を説いたのが、[[来島又兵衛]]、[[久坂玄瑞]]。反対、慎重派が[[桂小五郎]]と[[高杉晋作]])。[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]の[[池田屋事件]]で[[新選組]]に[[藩士]]を殺された変報が長州にもたらされると、慎重派の[[周布政之助]]、高杉晋作や[[宍戸左馬之助]]らは藩論の沈静化に努めるが、[[福原元僴|福原越後]]や[[益田兼施|益田右衛門介]]、[[国司親相|国司信濃]]の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」などと称して挙兵し、益田、久坂玄瑞らは[[大山崎町|山崎]][[天王山]]、宝山に、国司、来島又兵衛らは嵯峨[[天龍寺]]に、福原越後は[[伏見]]長州屋敷に兵を集めて陣営を構える。 この不穏な動きを察知して、薩摩藩士[[吉井幸輔|吉井幸輔友実]]、土佐藩士[[乾正厚|乾市郎平正厚]]、久留米藩士[[大塚敬介]]らは議して、長州兵の入京を阻止せんとの連署の意見書を、同7月17日朝廷に建白した。 朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、禁裏御守衛総督を勤める一橋慶喜([[徳川慶喜]])は退兵を呼びかけるが、京都蛤御門([[京都市]][[上京区]])付近で長州藩兵が、会津・[[桑名藩|桑名]]藩兵と衝突した。一時長州勢は筑前藩が守る[[中立売門]]を突破して禁裏([[京都御所]]内)に侵入するも、[[乾門]]を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退した。尊皇攘夷を唱える長州勢は壊滅、禁裏内で来島又兵衛、久坂玄瑞、[[寺島忠三郎]]らは戦死した。当時、[[京都守護職]]であった会津藩主・[[松平容保]]は、これにより長州の尊攘急進派を弾圧する体制を整えることになる。 禁門の変に於いて長州藩兵が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に幕府は長州藩を[[朝敵]]として、[[第一次長州征伐]]を行う。 戦闘の後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。この二箇所から上がった火で京都市街は「[[どんどん焼け]]」と呼ばれる大火に見舞われ、北は一条通から南は七条の[[真宗本廟|東本願寺]]に至る広い範囲の[[街区]]や[[社寺]]が焼失した。長州側は、この惨敗から「討薩賊会奸」などと称して後々まで恨みを抱き続けた。 == 関連項目 == *[[十七烈士]] *[[倉敷浅尾騒動]]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A6%81%E9%96%80%E3%81%AE%E5%A4%89 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月7日 (日) 04:27。]    
{{Battlebox| battle_name=禁門の変 |compaign=禁門の変 |image= |caption= |conflict=禁門の変 |date=[[元治]]元年[[7月19日]](1864年8月20日) |place=[[御所]][[蛤御門]]周辺 |result=[[幕府]]側の勝利、[[長州藩]]の撤退 |combatant1=[[長州藩]]<br/> |combatant2=[[遊撃隊]]<br/>[[会津藩]]<br/>[[新選組]]<br/>[[大垣藩]]<br/>[[桑名藩]]<br/>[[薩摩藩]] |commander1=[[福原越後]](総大将)<br/>[[久坂玄瑞]]<br/>[[来島又兵衛]]<br/>[[国司信濃]]<br/>[[益田右衛門介]] |commander2=[[近藤勇]]([[新選組]])<br/>[[会津藩]]<br/>[[大垣藩]] |strength1=[[久坂玄瑞]]・[[真木保臣]]1600名<br/>[[福原越後]]・[[国司信濃]]・[[益田右衛門介]]1600名 |strength2=[[新選組]]隊士<br/>[[会津藩]]<br/>[[桑名藩]]<br/>[[大垣藩]]<br/>[[薩摩藩]] |casualties1=約400名[[死亡]]<br/>[[福原越後]]負傷<br/>[[久坂玄瑞]]自害<br/>[[来島又兵衛]]自害 |casualties2=約60名死亡 }} [[画像:蛤御門.jpg|thumb|right|蛤御門(2004年8月31日撮影)]] [[画像:Hamagurigomon-dankon1.JPG|thumb|right|蛤御門・弾痕(2005年10月撮影)]] '''禁門の変'''(きんもんのへん)は、[[江戸時代]]後期の[[元治]]元年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]([[1864年]][[8月20日]])に起きた事変。'''蛤御門の変'''(はまぐりごもんのへん)、'''元治の変'''(げんじのへん)、'''元治甲子の変'''とも呼ばれる。 「禁門」とは「[[禁裏]]の御門」の略した呼び方である。[[蛤御門]]の名前の由来は、[[天明の大火]]([[1788年]][[1月30日 (旧暦)|1月30日]])の際、それまで閉じられていた門が初めて開門されたので、焼けて口を開ける蛤に例えられた為である。蛤御門は現在の[[京都御苑]]の西側に位置し、天明の大火以前は新在家御門と呼ばれていた。禁門の変が蛤御門の変とも呼ばれるのは、蛤御門付近が激戦区であった為である。その為今も門の梁には弾痕が残る。 == 概要 == [[尊皇攘夷]]論を掲げて京都での政局に関わっていた[[長州藩]]は、[[1863年]]([[文久]]3年)に[[会津藩]]と[[薩摩藩]]が協力した[[八月十八日の政変]]で[[京都]]を追放されていた。 [[藩主]]の[[毛利敬親]]と子の[[毛利定広]]は国許へ謹慎を命じられて政治主導権を失っており、京や[[大坂]]に密かに潜伏した数名の長州[[尊攘派]]はにわかに行動を続けていた。 [[元治]]元年(1864)に入ると、[[孝明天皇]]を再び長州陣営のものとする為、京都に乗り込もうとする積極策が長州で論じられた(この時の積極的に上洛を説いたのが、[[来島又兵衛]]、[[久坂玄瑞]]。反対、慎重派が[[桂小五郎]]と[[高杉晋作]])。[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]の[[池田屋事件]]で[[新選組]]に[[藩士]]を殺された変報が長州にもたらされると、慎重派の[[周布政之助]]、高杉晋作や[[宍戸左馬之助]]らは藩論の沈静化に努めるが、[[福原元僴|福原越後]]や[[益田兼施|益田右衛門介]]、[[国司親相|国司信濃]]の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」などと称して挙兵し、益田、久坂玄瑞らは[[大山崎町|山崎]][[天王山]]、宝山に、国司、来島又兵衛らは嵯峨[[天龍寺]]に、福原越後は[[伏見]]長州屋敷に兵を集めて陣営を構える。 この不穏な動きを察知して、薩摩藩士[[吉井幸輔|吉井幸輔友実]]、土佐藩士[[乾正厚|乾市郎平正厚]]、久留米藩士[[大塚敬介]]らは議して、長州兵の入京を阻止せんとの連署の意見書を、同7月17日朝廷に建白した。 朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、禁裏御守衛総督を勤める一橋慶喜([[徳川慶喜]])は退兵を呼びかけるが、京都蛤御門([[京都市]][[上京区]])付近で長州藩兵が、会津・[[桑名藩|桑名]]藩兵と衝突した。一時長州勢は筑前藩が守る[[中立売門]]を突破して禁裏([[京都御所]]内)に侵入するも、[[乾門]]を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退した。尊皇攘夷を唱える長州勢は壊滅、禁裏内で来島又兵衛、久坂玄瑞、[[寺島忠三郎]]らは戦死した。当時、[[京都守護職]]であった会津藩主・[[松平容保]]は、これにより長州の尊攘急進派を弾圧する体制を整えることになる。 禁門の変に於いて長州藩兵が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に幕府は長州藩を[[朝敵]]として、[[第一次長州征伐]]を行う。 戦闘の後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。この二箇所から上がった火で京都市街は「[[どんどん焼け]]」と呼ばれる大火に見舞われ、北は一条通から南は七条の[[真宗本廟|東本願寺]]に至る広い範囲の[[街区]]や[[社寺]]が焼失した。長州側は、この惨敗から「討薩賊会奸」などと称して後々まで恨みを抱き続けた。 == 関連項目 == *[[十七烈士]] *[[倉敷浅尾騒動]]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A6%81%E9%96%80%E3%81%AE%E5%A4%89 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月24日 (水) 02:17。]    

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