箱館戦争

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{{Battlebox| battle_name=箱館戦争 |campaign=戊辰戦争 |image=[[画像:Goryokaku-Fort-01.jpg|thumb|center|280px|五稜郭跡]] [[画像:五稜郭本陣.jpg|thumb|center|280px|五稜郭本陣(明治元年冬撮影)]] |caption= |conflict=[[戊辰戦争]] |date=[[1868年]][[12月4日]] - [[1869年]][[6月27日]] |place=[[蝦夷国]][[松前藩]][[五稜郭]]([[北海道]][[函館市]]) |result=[[官軍|新政府軍]]の勝利、[[戊辰戦争]]終結 |combatant1=[[官軍|新政府軍]] |combatant2=[[江戸幕府|旧幕府軍]] |commander1=[[黒田清隆]] |commander2=[[榎本武揚]]<br />[[土方歳三]] |strength1=2,000 |strength2=約3,000 |casualties1=不明 |casualties2=全滅 |}} '''箱館戦争'''(はこだてせんそう、[[慶応]]4年/[[明治]]元年 - 明治2年([[1868年]] - [[1869年]]))は、[[王政復古 (日本)|王政復古]]により成立した[[官軍|新政府軍]]と[[江戸幕府|旧幕府軍]]との戦いである、また[[戊辰戦争]]における戦役である。旧幕府軍と新政府軍との最後の戦い。本陣が[[五稜郭]]に置かれていたため、'''五稜郭の戦い'''とも呼ばれる。また、この戦いの時には[[干支]]が[[己巳]]に替わっていたことから、'''己巳の役'''と呼ばれることもある。 == 背景 == 慶応4年/明治元年、[[江戸城]]の無血開城、[[上野戦争]]での江戸制圧後に戊辰戦争は北陸、東北へ移る。江戸城無血開城を不服とした旧幕臣で軍艦奉行の[[榎本武揚]]や旧幕府顧問の外国人らは旧幕府艦隊の[[開陽丸]]を旗艦に8隻の軍艦で江戸を出航して[[仙台]]へ向かった。 しかし[[仙台藩]]が新政府に対して降伏をしたため、榎本の提案で[[蝦夷地]](北海道)を占領し、[[征夷大将軍]]であった[[徳川将軍家|徳川家]]恩顧の家臣(新政府側からすれば旧幕府残党)の根拠地とすることとした。 == 経過 == === 旧幕府軍の五稜郭入城 === 榎本艦隊は仙台藩所有の軍艦や、歩兵奉行・[[大鳥圭介]]、[[桑名藩]]主・[[松平定敬]]、旧[[新選組]]副長・[[土方歳三]]や[[伝習隊]]、旧[[彰義隊]]などの兵を吸収して10月12日に仙台を出航。宮古湾に寄航した後に蝦夷地を目指した。[[箱館港]]は諸外国からの船が多くあり、開陽丸が入港すると混乱を招く恐れがあったので[[鷲ノ木]]に約3,000の軍勢が上陸した。 [[10月21日 (旧暦)|10月21日]]に大鳥圭介と土方歳三の二手に分かれて[[箱館]]へ進軍。[[10月22日 (旧暦)|10月22日]][[峠下の戦い]]で大鳥軍が[[箱館府]]軍を撃破した。 各地の敗戦を聞いた箱館府知事[[清水谷公考]]は[[五稜郭]]を放棄。[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]には[[秋田藩]]の艦船[[陽春]]に乗船し[[青森]]へ退却。 旧幕府軍は[[10月26日 (旧暦)|10月26日]]に五稜郭へ無血入城し、箱館港へ艦隊を入港させた。旧幕府軍は上陸5日で箱館を占領することに成功した。 === 松前攻略と開陽丸の喪失 === [[画像:復元開陽丸.jpg|thumb|right|180px|復元開陽丸]] [[画像:弁天台場跡.jpg|thumb|right|180px|[[弁天台場]]跡]] [[画像:箱館戦争供養塔.jpg|thumb|right|180px|函館市 箱館戦争供養塔]] [[松前藩]]は蝦夷で唯一の新政府軍の反撃拠点の[[藩]]であった。旧幕府軍は松前藩に対して降伏勧告の使者を送るが殺され、再び送るがこれも殺されたため戦うことを決意した。 [[10月27日 (旧暦)|10月27日]]に土方歳三を総司令とし、700の軍勢で[[松前城]]に向け出陣し、二手に分かれて[[松岡四郎次郎]]は[[館城]]攻略に向かった。[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]に敵の奇襲を受けるがこれを撃破し、[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]には[[知内・福島の戦い]]に勝利した。 松前藩は徹底抗戦の構えだったが軍式は旧式だったので旧幕府軍の新式の武器や[[蟠龍丸]]・[[回天丸]]などからの砲撃を受け数時間で松前城は落城した。[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]に[[館城]]も落城したため、松前藩主・[[松前徳広]]は青森へ敗走した。 松前攻略の過程で、[[開陽丸]]は[[江差]]の浅瀬に停泊していたが暴風雪のため座礁。箱館から回天丸と[[神速丸]]が開陽丸救出の為に江差に到着したが、また風が強くなってきたため神速丸も座礁した。開陽丸は10日後沈没した。これにより旧幕府軍は[[制海権]]の維持が困難となり、新政府軍の蝦夷地上陸を許すことになる。 === 蝦夷共和国 === {{main|蝦夷共和国}} 旧幕府軍は松前攻略により蝦夷地を平定。ここに[[蝦夷共和国]]が樹立された。総裁は入れ札により決められ、156票で[[榎本武揚]]が総裁となった。 === 宮古湾海戦 === {{main|宮古湾海戦}} 蝦夷地を平定した旧幕府軍だが、かつての強みであった海軍力も旗艦開陽丸を失い、さらにその開陽丸を上回る性能を持つ軍艦[[東艦|甲鉄]]が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]から新政府の手に渡ったため、海戦での苦戦は必至だった。 宮古付近に潜伏させていた偵察隊から官軍の艦隊が[[宮古湾]]に入ったとの情報を受け、[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]、3艦は宮古湾に向けて出航した。23日、またもや海上で嵐に遭う事となった3艦は統率が困難になり、艦隊の集結地点である[[南部大津港]]には[[回天丸]]と[[高雄丸]]が集まったが、[[蟠竜丸]]は時間になっても現れなかった。その上、高雄丸は蒸気機関のトラブルで速度が半分に落ちてしまった。このままだと勝機を逸してしまうとの土方などの意見で結局回天丸のみで奇襲を行う事となった。 回天丸は[[星条旗|アメリカ国旗]]を降ろし[[日章旗|日本国旗]]を揚げて、全速力で甲鉄へと向かったので新政府軍は驚き混乱した。奇襲は成功したが、回天丸の両舷外輪や甲鉄との船高の違いが大きく思うように戦えなかった。宮古湾内にいる他の艦船の参戦や甲鉄の反撃もあり、脱出して作戦は失敗してしまい、回天丸艦長・[[甲賀源吾]]などが戦死した。機関故障のため速力のでない高尾丸が春日に追撃され、羅賀浜へ座礁させて火を放ち自燃した。 === 新政府軍の上陸 === [[4月9日 (旧暦)|4月9日]]早朝、新政府軍の2,000の軍勢が[[乙部]]に上陸。上陸を防ごうと、旧幕府軍の守備隊230の軍勢が敵軍へ向けて発砲したが、新政府軍先鋒の松前兵によって撃退された。その後江差の守備隊約250の軍勢を撃退する。 新政府軍は木古内、松前、二股の3方向に分かれて進軍し、松前城を奪還。陸軍奉行[[大鳥圭介]]の軍勢500を[[木古内口の戦い]]で破り勝利を収め、矢不来を突破、箱館へ進軍した。 間道の[[二股口の戦い]]では地理的に有利な条件なこともあり、旧幕府軍300は[[土方歳三]]の采配により勝利を続けるものの、新政府軍は箱館へ迫っていたので本陣[[五稜郭]]へ撤退した。 その後、旧幕府軍は七重村の新政府軍本営を数度に渡って襲撃したが、失敗に終わった。箱館湾では陸戦と同時進行で数度海戦が行われ、旧幕府海軍は[[弁天台場]]の援護砲撃などにより何とか防戦を続けている状態だった([[箱館湾海戦]])。 === 箱館総攻撃 === 新政府軍は、[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]に箱館総攻撃を開始し海陸両方より箱館を攻めた。旧幕府軍は[[五稜郭]]を本陣として戦った。 新政府軍は旧幕府軍の[[四稜郭]]を攻撃し、四稜郭は[[松岡四郎次郎]]など守備隊が防戦していたが、新政府軍の兵力が増え四稜郭と五稜郭の間に位置する[[権現台場]]を新政府軍に占領された。退路を断たれることを恐れた松岡四郎次郎などの守備隊は五稜郭へ敗走した。 旧幕府軍の[[松岡磐吉]]が指揮する旧幕府軍艦[[蟠竜丸]]が、[[箱館湾海戦]]において新政府軍艦[[朝陽丸]]を撃沈し、一時的に勢いを取り戻したが、[[函館山]]から新政府軍に奇襲され、[[弁天台場]]まで撤退した[[新選組]]の救出に向かっていた陸軍奉行並・[[土方歳三]]が、[[一本木関門]]付近で敵の銃弾を受け戦死し、箱館市中が新政府軍によって占拠されると、間もなく旧幕府海軍も全滅した。 === 降伏 === 海戦を援助していた[[弁天台場]]は完全に包囲される形となり、台場に立て籠もっていた[[新選組]]や[[永井尚志]]らが防戦し続けたが、[[5月14日 (旧暦)|5月14日]]には降伏を表明した。 [[5月16日 (旧暦)|5月16日]]には[[千代ヶ岡陣屋]]が新政府軍の降伏勧告を拒否したため、陣屋隊長・[[中島三郎助]]親子は戦死し、千代ヶ岡陣屋は全滅した。 [[5月18日 (旧暦)|5月18日]]には本陣[[五稜郭]]も降伏し、[[亀田八幡宮]]で総裁・[[榎本武揚]]ら旧幕府軍幹部と新政府軍の陸軍参謀・[[黒田清隆]]との間で終戦調停が行われ、箱館戦争及び[[戊辰戦争]]は終結した。 == 箱館戦争を描いた作品 == * テレビドラマ ** 『[[獅子の時代]]』(NHK大河ドラマ)(1980年) ** 『[[五稜郭 (テレビドラマ)|五稜郭]]』(1988年。[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の「[[年末時代劇スペシャル]]」第4作目。[[榎本武揚]]の生涯を描いた作品。脚本:[[杉山義法]]。主演:[[里見浩太朗]]) ** 『[[新選組!! 土方歳三 最期の一日]]』([[日本放送協会|NHK]]の[[2006年]][[正月時代劇]]、[[大河ドラマ]]初の続編。[[新選組]]副長[[土方歳三]]の最期の一日を描く。脚本:[[三谷幸喜]]、主演:[[山本耕史]]) * ボードゲーム ** 『北海道共和国』([[アドテクノス]]) ** 『シックス・アングルズ第6号『箱館戦争』山崎雅弘 == 関連項目 == * [[高松凌雲]] * [[ジュール・ブリュネ]] * [[碧血碑]] == 外部リンク == * [http://www.hotweb.or.jp/goryokaku-sai/ 箱館五稜郭祭 公式サイト]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%AE%B1%E9%A4%A8%E6%88%A6%E4%BA%89 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年12月28日 (金) 03:35。]    
{{Battlebox |battle_name=箱館戦争 |campaign=戊辰戦争 |image=[[画像:Goryokaku fort retouched 20060814-001.jpg|300px]] |caption=五稜郭跡 (函館市) |conflict=[[戊辰戦争]] |date=<br>([[天保暦|旧暦]])[[明治元年]][[10月21日 (旧暦)|10月21日]] - [[明治2年]][[5月18日 (旧暦)|5月18日]]<br>([[グレゴリオ暦]])[[1868年]][[12月4日]] - [[1869年]][[6月27日]] |place=[[蝦夷国]][[松前藩]][[五稜郭]]([[北海道]][[函館市]]) |result=[[官軍|新政府軍]]の勝利、[[戊辰戦争]]終結 |combatant1=[[画像:Flag of the Japanese Emperor.svg|21px]] [[明治|明治政府]]<br>([[官軍|新政府軍]]) |combatant2=[[画像:Flag of the Republic of Ezo.svg|21px]] [[蝦夷共和国|箱館政権]]<br>([[江戸幕府|旧幕府軍]]) |commander1=[[清水谷公考]](総督)<br>[[山田顕義]](海陸軍参謀)<br>[[黒田清隆]](陸軍参謀) |commander2=[[榎本武揚]](総裁)<br>[[大鳥圭介]](陸軍奉行)<br>[[荒井郁之助]](海軍奉行) |strength1=9,500<br>軍艦6隻 |strength2=3,500<br>軍艦5隻 |casualties1=300 戦死<br>軍艦1隻沈没<br> <br> |casualties2=1,000 戦死<br>軍艦1隻沈没、<br>3隻座礁、1隻拿捕 }} [[画像:Land And Naval Battle of Hakodate.JPG|thumb|300px|箱館戦争を描いた錦絵]] '''箱館戦争'''(はこだてせんそう、[[慶応]]4年/[[明治]]元年 - 明治2年([[1868年]] - [[1869年]]))は、[[戊辰戦争]]の局面のひとつで、[[官軍|新政府軍]]と[[江戸幕府|旧幕府軍]]との最後の戦いである。この戦いの最中に[[干支]]が[[戊辰]]から[[己巳]]に替わったことから、'''己巳の役'''(きしのえき)と呼ばれることもある。 == 背景 == 慶応4年(1868年)4月、[[江戸城]]の無血開城により、戊辰戦争は北陸、東北へ舞台を移した。5月、新政府が決定した[[徳川将軍家|徳川家]]への処置は、[[駿河国|駿河]]、[[遠江国|遠江]]70万石への減封というものであった。これにより約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた徳川家海軍副総裁の[[榎本武揚]]は、[[蝦夷地]]に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓ににあたらせようと画策する。 [[画像:BakufuTroopsToEzo.jpg|thumb|left|200px|蝦夷へ向かう旧幕府軍]] [[画像:EnomotoFleet.jpg|thumb|200px|left|品川沖を脱走する旧幕府艦隊<br>左から美嘉保丸、長鯨丸、咸臨丸、開陽丸、回天丸]] 榎本は新政府への軍艦の引渡しに応じず、悪天候を理由に艦隊を館山沖へ移動。恭順派の幕臣[[勝海舟]]の説得で、[[富士山 (軍艦)|富士山丸]]など数隻を引渡すが、[[開陽丸]]など主力艦の温存に成功した。7月、榎本対して[[奥羽越列藩同盟]]から支援要請があり、8月20日、[[仙台藩]]支援のために、開陽丸を旗艦として8隻からなる旧幕府艦隊(開陽・[[蟠竜丸|蟠竜]]・[[回天丸|回天]]・[[千代田形丸|千代田形]]の軍艦4隻と[[咸臨丸]]・[[長鯨丸]]・[[神速丸]]・[[美嘉保丸]]の運送船4隻)が品川沖を脱走した。 この榎本艦隊には、[[若年寄]]・[[永井尚志]]、[[幕府陸軍|陸軍奉行]]並・[[松平太郎]]などの重役の他、[[大塚霍之丞]]や[[丸毛利恒]]など[[彰義隊]]の生き残りと[[人見勝太郎]]や[[伊庭八郎]]などの[[遊撃隊]]、そして、旧幕府軍事顧問団の一員だった[[ジュール・ブリュネ|ブリュネ]]らフランス軍人10名など、総勢2,000余名が乗船していた。 榎本艦隊は出航翌日から悪天候に見舞われて離散し、咸臨丸・美嘉保丸の2隻を失いながらも9月中頃までに仙台[[東松島市|東名浜]]沖に集結した。しかしその頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、仙台藩も降伏。榎本は幕府が仙台藩に貸与していた運送船[[大江丸]]、[[鳳凰丸]]と、[[桑名藩]]主・[[松平定敬]]、[[幕府陸軍|歩兵奉行]]・[[大鳥圭介]]、旧[[新選組]]副長・[[土方歳三]]らと旧幕臣からなる[[伝習隊]]、[[衝鋒隊]]、仙台藩を脱藩した[[額兵隊]]などの兵、約2,500名を吸収して、10月12日に仙台を出航、蝦夷地を目指した。 [[函館港|箱館港]]には諸外国の船が入港しており、開陽丸などが入港すると混乱を招く恐れがあったため、10月21日(グレゴリオ暦1868年12月4日)に[[函館市|箱館]]の北、[[森町 (北海道)|鷲ノ木]]に約3,000名が上陸した。 == 経過 == === 旧幕府軍の蝦夷地平定 === 蝦夷地の大部分はもともと幕府の直轄地であったが、新政府は箱館の[[五稜郭]]に[[箱館府]]を設置してこれを統治しようとしていた。旧幕府軍は大鳥圭介と土方歳三の二手に分かれて箱館へ向けて進軍するが、無用な戦闘は意図しておらず、まずは[[箱館府|箱館府知事]]・[[清水谷公考]]に使者を派遣した。新政府への嘆願書をたずさえた[[人見勝太郎]]ら30名が先行するが、明治元年(1868年)10月22日、[[七飯町|峠下]]で[[弘前藩|津軽藩]]兵などからなる箱館府軍の待ち伏せに遭い、戦端が開かれる。 [[画像:五稜郭本陣.jpg|thumb|left|200px|五稜郭本陣 (明治元年冬撮影)]] [[画像:GoryokakuPlanLarge.jpg|thumb|left|200px|五稜郭設計図]] 10月24日、人見たちと合流した大鳥軍が[[大野町 (北海道)|大野村]]と[[七飯町|七飯村]]で箱館府軍を撃破し、土方軍は[[川汲峠]]で箱館府軍を敗走させた。各地の敗戦を聞いた清水谷公考は五稜郭の放棄を決め、25日に[[秋田藩]]の[[陽春丸]]に乗船し[[青森市|青森]]へ退却した。旧幕府軍は10月26日に五稜郭へ無血入城し、榎本は艦隊を箱館へ入港させた。旧幕府軍は上陸後5日で箱館を占領することに成功した。 唯一蝦夷地を本拠とする[[松前藩]]は奥羽越列藩同盟に属していたが、東北諸藩が降伏すると寝返り、新政府軍の先鋒として旧幕府軍と対峙することになる。旧幕府軍は松前藩に対して降伏勧告の使者を送るが殺され、戦うことを決意する。 10月27日、土方歳三を総督として額兵隊・衝鋒隊などからなる700名が[[松前城]]に向けて出陣し、11月1日に敵の奇襲を受けるがこれを撃破、11月5日には[[知内町|知内]]・[[福島町|福島]]を突破して、松前城に到達した。松前藩は徹底抗戦の構えだったが軍式は旧式であり、旧幕府軍の新式の武器と蟠竜丸・回天丸などからの砲撃により、松前城は数時間で落城。松前兵は[[江差町|江差]]方面へ敗走した。 [[画像:Republic of Ezo members.jpg|thumb|200px|箱館政権の閣僚<br>後列左から[[小杉雅之進]]、[[榎本対馬]]、[[林董]]、[[松岡磐吉]]、前列左から荒井郁之助、榎本武揚]] 11月12日、旧幕府軍は[[星恂太郎]]率いる額兵隊を先鋒とする500名が松前から江差に向けて進撃。途中大滝陣屋を陥落させ、15日、江差に迫ると、すでに松前兵は敗走、江差攻略の支援に来ていた開陽丸を中心とする海軍によって無血占領されていた。しかし、この夜、天候が急変し、風浪に押されて開陽丸は座礁してしまう。箱館から回天丸と神速丸が開陽丸救出のために江差に到着したが、神速丸も座礁。為す術なく総員退艦した開陽丸は、数日後に沈没する。これにより旧幕府軍は[[制海権]]の維持が困難となり、新政府軍の蝦夷地上陸を許すことになる。 他方、11月10日、[[松岡四郎次郎]]が率いる[[一聯隊]]など500名が五稜郭を発ち、二股を経て、松前藩主・[[松前徳広]]が拠っていた[[館城]]攻略に向かった。11月15日に館城は落城するも、藩主は前日のうちに奥方と老少男女を引き連れて[[熊石町|熊石]]へ退いていた。22日、熊石に到着すると、藩主は君臣男女60余名とともに船で[[津軽地方|津軽]]へ逃亡した後だった。残された松前藩士約300名が一聯隊に投降。これにより蝦夷地平定は完了した。 12月15日、蝦夷地を平定した旧幕府軍は、[[蝦夷共和国|箱館政権]]を樹立。総裁は入れ札(選挙)によって決められ、榎本武揚が総裁となった。榎本は、改めて旧幕臣の保護を旨とする新政府への嘆願書をイギリス軍艦に仲介してもらうが、新政府はこれを黙殺した。また、旧幕府軍は、軍事組織を再編成し、来たる新政府軍の攻勢に備えて、江差、松前、鷲ノ木など支配地域の沿岸部に守備隊を配置した。 {{main|蝦夷共和国}} {| class="wikitable" style="text-align:center; margin:0 auto; font-size:89%" |+ style="font-size:115%" | ◇ 旧幕府軍参加諸隊 ◇ |- ! style="width:6em" | 隊名 ! style="width:7em" | 隊長 !! style="width:4em" | 人員 !! style="width:7em" | 出身 !! style="width:5em" | 配置 ! style="width:6em" | 隊名 ! style="width:7em" | 隊長 !! style="width:4em" | 人員 !! style="width:7em" | 出身 !! style="width:5em" | 配置 |- ! [[彰義隊]] | 菅沼三五郎 || 185 || 幕臣 || 有川〜福島 ! [[新選組]] | [[森常吉]] || 150 || 幕臣・諸藩 || 箱館 |- ! 小彰義隊 | [[渋沢成一郎]] || 54 || 幕臣(一橋派) || 箱館 ! 会津遊撃隊 | 諏訪常吉 || 70 || 会津藩 || 有川〜福島 |- ! [[遊撃隊]] | [[伊庭八郎]] || 120 || 幕臣 || 松前 ! 額兵隊 | [[星恂太郎]] || 252 || 仙台藩 || 有川〜福島 |- ! 陸軍隊 | [[春日左衛門]] || 160 || 幕臣 || 松前 ! 見国隊 | 二関源治 || 400 || 仙台藩 || 室蘭・箱館 |- ! 伝習士官隊 | 滝川充太郎 || 160 || 幕臣 || 箱館 ! 神木隊 | 酒井良助 || 70 || 高田藩 || (宮古湾) |- ! 伝習歩兵隊 | 本多幸七郎 || 225 || 幕府歩兵 || 五稜郭 ! 杜陵隊 | 伊藤善次 || 75 || 盛岡藩 || 五稜郭 |- ! 衝鋒隊 | 古屋佐久左衛門 || 400 || 幕府歩兵 || 東北 ! 砲兵隊 | 関広右衞門 || 170 || 幕府砲兵 || 各地 |- ! 一聯隊 | 松岡四郎次郎 || 200 || 幕府歩兵 || 江差 ! [[工兵隊]] | 吉沢勇四郎 || 70 || 幕府工兵 || 五稜郭 |- | colspan="10" | その他諸隊(士官付属・事務方など) 100 / 海軍 800 |} === 新政府軍集結 === [[画像:Stonewall-Kotetsu.jpg|thumb|200px|甲鉄艦]] 新政府は、11月27日、青森に避難していた箱館府知事・清水谷公考を青森口総督に任命し、諸藩兵を結集して旧幕府軍の征討に入ることを命じた。しかし、松前藩があっけなく旧幕府軍に敗北したことや、脆弱な海軍力を危惧して、箱館征討は翌年の雪解けを待って開始することに決していた。 陸軍は、奥羽征討軍参謀であった[[山田顕義]]を海陸軍参謀に任じ、明治2年(1869年)2月には松前藩、津軽藩兵を中心に7,000名が青森に集結した。一方、海軍は旧幕府軍との海軍力均衡を図るためにアメリカから最新鋭の装甲軍艦、[[東艦|甲鉄]]を購入するとともに、[[増田明道|増田虎之助]]を海軍参謀として諸藩から軍艦を集めて艦隊を編成した。3月9日、新政府軍艦隊(甲鉄・[[春日丸|春日]]・[[陽春丸|陽春]]・[[丁卯丸|丁卯]]の軍艦4隻と豊安丸・戊辰丸・晨風丸・飛龍丸の運送船4隻)は、甲鉄を旗艦として品川沖を青森に向けて出帆、4月の蝦夷地上陸を目指した。 {| class="wikitable" style="margin:0 auto; font-size:89%" |+ style="font-size:115%" | ◇ 新政府軍各藩出兵数(陸軍)◇ |- ! style="width:5em" | [[弘前藩|津軽]] | style="width:5em; text-align:right" | 2,207 ! style="width:5em" | [[松前藩|松前]] | style="width:5em; text-align:right" | 1,684 ! style="width:5em" | [[長州藩|長州]] | style="width:5em; text-align:right" | 781 ! style="width:5em" | [[備後福山藩|備後福山]] | style="width:5em; text-align:right" | 632 ! style="width:5em" | [[岡山藩|備前岡山]] | style="width:5em; text-align:right" | 541 |- ! [[熊本藩|熊本]] | style="text-align:right" | 396 ! [[徳山藩|徳山]] | style="text-align:right" | 300 ! [[薩摩藩|薩摩]] | style="text-align:right" | 293 ! [[柳河藩|筑後]] | style="text-align:right" | 243 ! [[弘前藩#黒石藩|黒石]] | style="text-align:right" | 243 |- ! [[水戸藩|水戸]] | style="text-align:right" | 219 ! [[津藩|津]] | style="text-align:right" | 199 ! [[大野藩|越前大野]] | style="text-align:right" | 170 ! [[箱館府]] | style="text-align:right" | 200 | style="text-align:right; border-right:white" | 合計 | style="font-size:105%" | '''8,108''' |} === 宮古湾海戦 === 蝦夷地を平定した旧幕府軍だが、かつての強みであった海軍は開陽丸を失い、さらに甲鉄が新政府の手に渡ったため、海戦での苦戦は必至であった。明治2年3月、新政府軍の艦隊が[[宮古市|宮古湾]]に入るとの情報を受け、甲鉄を奪取する作戦を立案する。3月20日、海軍奉行・[[荒井郁之助]]を指揮官として、陸軍奉行並・土方歳三以下100名の陸兵を乗せた回天丸と蟠竜丸、箱館で拿捕した[[高雄丸]]の3艦は宮古湾に向けて出航した。 [[画像:MiyakowanKaisen.jpg|thumb|left|200px|回天丸の戦闘]] 3月23日、暴風雨に遭遇した3艦は統率が困難となり、集結地点である[[南部地方|南部]][[大槌町|大槌湾]]には回天丸と高雄丸が到着したが、蟠竜丸は現れなかった。その上、高雄丸は蒸気機関のトラブルで速力が半分に落ちており、このままだと勝機を逸してしまうという土方などの意見で、結局回天丸のみで決行されることになった。 回天丸は、宮古湾へ突入すると[[アメリカ合衆国の国旗|アメリカ国旗]]を降ろし[[日本の国旗|日本国旗]]を揚げて、全速力で甲鉄へと向かった。奇襲は成功したが、[[蒸気船|外輪船]]の回天丸は横付けできず、甲鉄との船高の違いもあり、思うように戦えなかった。戦闘準備を整えた宮古湾内の他の艦船や甲鉄に装備されていた[[ガトリング砲]]による反撃が始まり、作戦は失敗、宮古湾を離脱した。回天艦長・[[甲賀源吾]]、旧新選組の[[野村利三郎]]など19名が戦死。機関故障のため速力が出ない高雄丸も新政府軍の[[春日丸]]に追撃され、[[田野畑村]]羅賀浜へ座礁させて火を放ち、乗組員は[[盛岡藩]]に投降した。 {{main|宮古湾海戦}} === 新政府軍上陸 === [[画像:Battle of Hakodate widemap.png|border|right|320px|箱館戦争関連地図]] 明治2年4月9日早朝、海陸軍参謀・山田顕義率いる新政府軍1,500名が江差の北、[[乙部町|乙部]]に上陸した。旧幕府軍は上陸を阻止すべく江差から一聯隊150名を派遣したが、上陸を終えていた新政府軍先鋒の松前兵によって撃退された。陸兵が小競り合いを続けている間に、春日丸を中心とする新政府軍軍艦5隻は江差砲撃を開始。江差の砲台は反撃を試みるも、敵艦に砲弾は届かず、江差奉行・松岡四郎次郎ら旧幕府軍は松前方面に後退した。新政府軍が江差を奪還すると、4月15日にはさらに陸軍参謀・[[黒田清隆]]率いる2,800名が江差へ上陸し、松前道、木古内道、二股道の三つのルートから箱館へ向けて進軍を開始する。また、旧幕府軍では、4月14日、仙台藩を脱藩した[[二関源治]]率いる[[見国隊]]400名がイギリス船で鷲ノ木近くの[[砂原町|砂原]]に到着し、[[室蘭市|室蘭]]及び箱館防備に投入されている。 ==== 松前の戦い ==== 4月11日、[[松前町 (北海道)|松前]]を守備していた伊庭八郎率いる遊撃隊と[[春日左衛門]]率いる[[陸軍隊]]を中心とする部隊500名が江差奪還のために出撃する。根武田付近で新政府軍の斥候を蹴散らし、翌日には一気に茂草まで進出、新政府軍は江差まで退却する。このまま江差奪還を目論んだが、新政府軍が後方の木古内に進出しているとの報に接し、松前への退却を余儀なくされる。 4月17日、松前の旧幕府軍500名は、改めて江差へ向けて出陣するが、新たに上陸した新政府軍1,500名と折戸浜付近で遭遇。海からは新政府軍軍艦の砲撃が轟き、双方入り乱れての激戦となった。戦力差は歴然としており、40名以上の戦死者を出した旧幕府軍は松前城に逃げ込むが、艦砲射撃にさらされ、福島まで後退を強いられた。 ==== 木古内の戦い ==== [[木古内町|木古内]]では4月12日、陸軍奉行・大鳥圭介指揮下、伝習隊、額兵隊などが駆けつけ、同地を守っていた彰義隊などと合流し、500名が布陣。新政府軍の斥候と小競り合いを繰り返していたが、松前から敗走してきた部隊を取り込み、木古内周辺の要所に部隊を配置していた。 4月20日未明、新政府軍が総攻撃を開始すると、昼ごろまで激戦が続いた。旧幕府軍は額兵隊と遊撃隊などが最後まで踏み止まっていたが、70名以上の死傷者を出して泉沢まで後退した。その後、[[本多幸七郎]]率いる伝習隊などの援軍を加え、知内に孤立した彰義隊など300名を救うために再び木古内へ向かう。孤立していた部隊も木古内突入を決め、新政府軍を挟撃する形となり、木古内奪還に成功する。しかし、旧幕府軍は、木古内を放棄し、地形的に有利な[[北斗市|矢不来]]まで後退し、砲台と胸壁を構築して布陣した。 4月28日に青森からイギリス艦で運ばれて来た新政府軍2,000名が福島へ上陸し、充分な補給を受けた新政府軍は、翌29日、陸軍参謀・[[太田黒惟信]]が2,500名を率いて本道、海岸、山上の三方から矢不来に迫った。旧幕府軍は、甲鉄・春日による艦砲射撃で衝鋒隊の大隊長・[[天野新太郎]]や[[永井蠖伸斎]]など多数の死傷者を出し、総崩れとなった。大鳥圭介は富川で部隊の立て直しを図ったが果たせず、有川まで撤退。有川では榎本武揚自ら指揮を執るが、旧幕府軍は完全に崩壊、箱館方面へ敗走を始める。旧幕府軍はこの戦闘で160名の戦死者を出している。 ==== 二股口の戦い ==== 土方歳三の指揮下、衝鋒隊・伝習隊からなる300名は、4月10日に台場山に到着し、二日がかりで16箇所に胸壁を構築、新政府軍を待ち構えた。13日正午過ぎ、700名の新政府軍が攻撃を開始し、対する土方軍は胸壁を楯に小銃で防戦。数で勝る新政府軍は、次々と兵を入替えて攻撃を繰り返すが、土方軍は雨の中、2小隊ずつが交代で小銃を撃ち続けた。翌14日早朝、新政府軍は疲労困憊して稲倉石まで撤退した。旧幕府軍が撃った弾丸は、3万5千発に及び、16時間にわたる激闘であった。 22日、新政府軍は再度攻撃を試みるが、土方軍はこれも撃退。23日午後、新政府軍は正攻法をあきらめ、急峻な山をよじ登り、側面から小銃を打ち下ろしてきた。そのまま夜を徹しての大激戦となる。24日未明には[[滝川充太郎]]率いる伝習士官隊が抜刀して敵中に突進、混乱する新政府軍を敗走させる。それでも新政府軍は次々と新しい兵を投入し、旧幕府軍は熱くなった銃身を水桶で冷やしながら、小銃で応戦し続けた。25日未明、ついに新政府軍は撤退。これ以降、新政府軍は二股口を迂回する道を山中に切り開き始める。4月29日、矢不来が新政府軍に突破されると、退路を断たれる危険があった土方軍は五稜郭への撤退を余儀なくされる。 {{main|二股口の戦い}} === 箱館総攻撃 === [[画像:Battle of Hakodate citymap.png|border|right|320px|箱館戦争関連地図]] [[画像:Benten Battery.jpg|thumb|240px|弁天台場]] 4月28日に青森口総督・清水谷公考が江差から上陸し、5月1日以降、松前・木古内から進軍した東下軍と二股から進軍した南下軍が有川付近に集結、箱館制圧の体制を整えた。旧幕府軍は、大鳥圭介らが七重浜の新政府軍本営を数度に渡って夜襲し、攻勢に出る場面もあったが、5月6日、新政府軍は旧幕府軍が箱館湾に敷設していた索鋼を住民の協力で撤去し、軍艦を箱館湾に進出させた。5月11日、新政府軍は箱館総攻撃を開始、海陸両方から箱館に迫った。 [[画像:Shiryoukaku004.jpg|thumb|left|200px|四稜郭の土塁跡]] 大鳥圭介は五稜郭北方の進入路にあたる大川村などに伝習歩兵隊、遊撃隊、陸軍隊などを配置して指揮を執っていた。5月11日、午前8時ごろ、新政府軍4,000名が大挙して押し寄せてきた。大鳥は東西を奔走し、自ら大砲を撃って力戦したが、夜には五稜郭に撤退した。また、旧幕府軍が五稜郭の北に急造した[[四稜郭]]では、松岡四郎次郎率いる一聯隊が防戦していたが、五稜郭との中間に位置する権現台場を新政府軍に占領されると、退路を断たれることを恐れ、五稜郭へ敗走した。 新政府軍に千代田形を奪われた旧幕府海軍は回天丸と蟠竜丸のみとなっていた。蒸気機関を破壊された回天丸は意図的に陸地に乗り上げさせ、[[弁天台場]]とともに箱館湾防備の砲台とした。5月11日、蟠竜丸が新政府軍の[[朝陽丸]]を撃沈し、旧幕府軍の士気は大いに高まったが、砲弾を打ちつくした蟠竜丸も座礁の上、乗組員は上陸して弁天台場に合流。戦闘は箱館市街地に移る。{{main|箱館湾海戦}} 一方同日、陸軍参謀・黒田清隆率いる新政府軍700名が[[立待岬]]から箱館に上陸、[[函館山|箱館山]]を占領し、弁天台場の背後を脅かす。箱館山の新政府軍は二手に分かれて一気に市街地へ進撃、一方は弁天台場と五稜郭との間を遮断し、もう一方は弁天台場を守る旧幕府軍を攻撃した。これによって孤立した弁天台場の救出に向かった土方歳三は、一本木関門付近で銃弾を受けて戦死。5月15日には、弁天台場を守っていた箱館奉行・永井尚志と旧新選組など240名が降伏する。これにより箱館市中は新政府軍が占領し、五稜郭の目前に迫った。 この間、[[函館病院|箱館病院]]では院長の[[高松凌雲]]が、[[赤十字社|赤十字]]の精神で病院の非武装中立を謳い、敵味方の隔てなく戦傷者の治療に当たっていた。5月11日、新政府軍が病院内に乱入してきた。殺気立った新政府軍と患者を守ろうとする高松の間で押し問答が続いていたが、薩摩藩士・池田次郎兵衛が高松の主張を聞き入れ、病院の門前に「薩州隊改め」の墨書きを残して退いた。分院の[[高龍寺]]では非武装が徹底されておらず、松前藩士により数名が切り倒されている。 総攻撃が始まると、旧幕府軍では脱走兵が相次いだ。小彰義隊長・[[渋沢成一郎]]が隊士とともに[[湯の川温泉 (北海道)|湯の川]]に遁走するなど、士官クラスまでが次々と戦線を離脱し、降伏した兵士の数は340余名にのぼった。5月12日には、五稜郭に対して箱館湾の新政府軍軍艦による艦砲射撃が始まる。 === 戊辰戦争終結 === 5月13日、新政府軍参謀・黒田清隆が箱館病院長の高松凌雲の仲介で榎本に降伏を勧告する。榎本はこれには応じなかったが、灰塵に帰するには惜しいとして榎本自身が翻訳した「万国海律全書」という本を黒田に届けさせた。これは、海事に関する国際法と外交に関する書物で、このとき黒田は、榎本が国際法に精通していることに感銘し、その後、榎本の助命に奔走することになる。 5月15日、榎本は永井の口利きにより[[千代ケ岡陣屋]]で軍監・[[田島圭蔵]]らと会見した。榎本は降伏勧告を改めて拒絶するが、五稜郭にいる傷病者の後送を申し入れた。新政府軍は攻撃を中断し、傷病者はその日のうちに湯の川へ送られるとともに、新政府軍の捕虜11名も送り返された。 五稜郭の前哨、千代ヶ岡陣屋にも降伏勧告の使者が訪れていたが、箱館奉行並・[[中島三郎助]]はこれを拒否した。5月16日、五稜郭からの撤退命令も拒否して、中島は浦賀与力時代の部下らとともに、死を覚悟して最後の抵抗をする。1時間の戦闘で守備隊は壊滅し、中島三郎助は2人の息子とともに戦死。これが箱館戦争最後の戦闘となった。千代ヶ岡陣屋陥落後、黒田は、「海律全書」の返礼として酒樽を五稜郭に送り届け、五稜郭に対する総攻撃開始の日時を通告した。これにより郭内は動揺し、衆議の結果、ついに降伏と決する。 翌17日朝、総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎ら旧幕府軍幹部は、亀田の斥候所に出頭、陸軍参謀・黒田清隆、海軍参謀・増田虎之助らと会見し、幹部の服罪と引き換えに兵士たちの寛典を嘆願した。しかし、黒田は、幹部のみに責任を負わせると榎本を始めとする有能な人材の助命が困難になると考え、これを認めなかった。これ以上の戦闘継続は困難であった榎本が折れ、無条件降伏に同意。新政府軍が降伏の手順を明らかにする実行箇条の提出を要求してこの会談は終了した。その後、榎本は降伏の誓書を亀田八幡宮に奉納して一旦五稜郭へ戻り、夜には実行箇条を提出させた。 5月18日(グレゴリオ暦1869年6月27日)早朝、実行箇条に従い、榎本ら幹部は亀田の屯所へ改めて出頭し、昼には五稜郭が開城。郭内にいた約1,000名が投降し、その日のうちに武装解除も完了した。ここに箱館戦争及び戊辰戦争は終結した。なお、室蘭の開拓と守備に当たっていた開拓奉行・[[澤太郎左衛門]]以下250名は、22日に投降している。 [[画像:箱館戦争供養塔.jpg|thumb|180px|箱館戦争供養塔 (函館市)]] == 参考文献 == *『函館市史』通説編第2巻 *『福島町史』第2巻通説編上巻  *[[小杉雅之進|小杉雅三]] 『麦叢録』 明治7年(1874年) *[[荒井宣行]] 『蝦夷錦』 明治3年(1870年) *[[大鳥圭介]] 『南柯紀行』 明治初期 == 箱館戦争を題材とした作品 == * テレビドラマ ** 『[[獅子の時代]]』([[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]) 1980年 ** 『[[五稜郭 (テレビドラマ)|五稜郭]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[年末時代劇スペシャル]]) 1988年 ** 『[[新選組!! 土方歳三 最期の一日]]』(NHK[[正月時代劇]]) 2006年 * ボードゲーム ** 『北海道共和国』([[アドテクノス]]) ** 『シックス・アングルズ』第6号「箱館戦争」([[山崎雅弘]]) == 関連項目 == * [[碧血碑]] == 外部リンク == * [http://www.hotweb.or.jp/goryokaku-sai/ 箱館五稜郭祭 公式サイト]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%AE%B1%E9%A4%A8%E6%88%A6%E4%BA%89 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月9日 (日) 16:31。]    

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