東方会議 (1921年)

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'''東方会議'''(とうほうかいぎ)は、[[1921年]]5月16日から26日まで[[東京市]]で開催された会議。資料によっては'''時局会議'''(じきょくかいぎ)とも呼ばれているが、[[外務省|外務]]・[[陸軍省|陸軍]]・[[海軍省]]における公式名称は東方会議である。 == 背景 == [[1917年]]11月に[[ロシア]][[十月革命]]が発生すると[[寺内内閣]]は警戒感を強め、翌年1月に[[居留民]]の保護のために[[ウラジオストク]]に兵を送った([[シベリア出兵]])。翌年8月、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[イギリス]]・[[フランス]]などと協調して本格的なシベリア派兵に踏み切って、[[ロシア革命]]への本格的な干渉に乗り出した。9月に成立した[[原内閣]]も出兵継続を決めたが、あくまでも各国との合意の範疇に留める考えであり、当時の[[陸軍大臣]][[田中義一]]もその方針であった。 ところが、[[ロシア革命]]では革命政府([[ボリシェヴィキ]]、後の[[ソ連共産党]])が次第と優勢となり、また[[朝鮮半島]]における[[三・一独立運動]]、[[中華民国]]における[[五四運動]]など、[[日本]]に大陸進出に対する反対運動が高揚した。更にアメリカとの合意によって[[1920年]]4月に日米両軍はシベリアからの撤退をする事を合意したものの、[[参謀総長]][[上原勇作]]は政府が軍の派遣・撤退を定めた国際条約・協定を結ぶこと自体が[[統帥権干犯]]であるとして強く反発し、日本と現地政府の間で撤退協定が結ばれる前夜の[[4月4日]]夜に総攻撃をかけてウラジオストクや[[シベリア鉄道]]沿線部などを制圧してしまった。その結果、日本だけがシベリアに駐留することとなったために国際的非難を浴びた上に[[尼港事件]]などの事件が発生した。 [[6月1日]]に閣議は[[チタ]]・[[ハバロフスク]]からの撤退を決定したが、上原はこれにも激しく抵抗した。一方、「[[統帥権]]独立」の生みの親とも言える[[元老]][[山縣有朋]]は、基本的には[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]を支持したものの、[[軍令]]を担当する参謀本部が[[軍政]]を担当する陸軍省本省(この場合は田中義一陸相)、更に政府による政策決定を拘束したり、これに反した行動を採るのは統帥権独立の論外であると考えており、閣議決定には従うべきだと考えていたがその調整に苦慮していた。だが、その後も10月に行われた[[間島出兵]]や中国での[[反日運動]]の一因となっていた[[山東還付]]問題([[第一次世界大戦]]の勝利によって日本が[[ドイツ帝国|ドイツ]]から獲得した[[山東省]]における利権の中国への返還)など、政府と参謀本部の対立を惹き起こす問題が相次いだ。1921年に入ると、田中は一連の問題を解決するために、東京に閣僚・[[外務省]]首脳陣、中国公使、軍部首脳陣などをかき集めて、対ロシア・中国政策についての方針を決めるための「東方会議」を開く事を[[内閣総理大臣|首相]][[原敬]]に提案した。原もこれに同意して[[4月8日]]の閣議で開催を決定したのである。 == 東方会議開催 == 5月16日に東方会議が開催された。この会議は原内閣の閣僚及び[[斎藤実]]([[朝鮮総督]])・[[水野錬太郎]](同[[朝鮮総督府政務総監|政務総監]])・[[大庭二郎]]([[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍司令官]])・[[山縣伊三郎]]([[関東長官]]・有朋[[養子]])・[[河合操]]([[関東軍司令官]])・[[立花小一郎]]([[西伯利亜司令官]])・[[由比光衛]]([[青島市|青島]]軍司令官)・[[小幡酉吉]](中国[[公使]])・[[赤塚正助]]([[奉天]][[総領事]])が出席した。会議は5日間(5月16日 - 18日及び20日・25日)にわたって開催され、主に以下の決定がなされた。 *シベリア出兵を中止してウラジオストクから撤退して[[極東共和国]]との外交交渉を開始する(ただし、[[北樺太]]占領は継続する)。 *[[間島]]の警備は当面[[警察力]]により、朝鮮独立派の活動が活発化した場合に備えて派兵の準備を行う。また、[[満洲]]においても独立派の取締を強化する。 *[[奉天軍閥]]の[[張作霖]]を支援するが満洲経営の必要の範囲内に留め、張の中央政権進出([[安直戦争]]・[[奉直戦争]])には加担しない。 *満洲における日本利権の確保と方針統一のため、[[関東庁]]・[[関東軍]]・[[朝鮮総督府]]・現地[[領事館]]・南満洲鉄道などが協議を持つこと。 *ロシア革命後に経営が悪化していた[[東支鉄道]]に対する経営支援を行うとともに[[南満洲鉄道]]との直通運転を強化する。また、スキャンダルが噂されていた南満洲鉄道首脳部を交替させて経営透明化を図る。 *[[山東鉄道]]沿線からの撤兵を図り、将来的には青島のみの駐在に留める。山東鉄道の中国側([[北京政府]])との共同経営を提案する。 *北京政府に対する[[借款]]は[[西原借款]]のような日本単独の借款は避け、今後はアメリカ・イギリス・フランスとの4ヶ国共同の「4ヶ国借款」に切替、[[対華21ヶ条要求]]のうち、4ヶ国借款の障害になるものは事実上放棄する。 この会議には参謀本部は参加しなかったが、[[5月30日]]の原・山縣会談によって参謀本部も同会議の決定に従う事が合意された。だが、この年に原が暗殺され、また参謀本部のサポタージュもあってシベリアからの撤退計画は遅延した。シベリアからの日本軍撤退が完了するのは翌[[1922年]]の事であった。また、同年には[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]を受けて山東還付が実現されている。 == 参考文献 == * 雨宮昭一『近代日本の戦争指導』[[吉川弘文館]]、1997年 ISBN 4642036660 ==関連項目== *[[ロシア革命]] *[[青山里戦闘|間島事件]] *[[膠州湾租借地]] *[[ヴェルサイユ条約]]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%B1%E6%96%B9%E4%BC%9A%E8%AD%B0_(1921%E5%B9%B4) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月10日 (土) 06:06。]    

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