部落問題

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'''部落問題'''(ぶらくもんだい)は、直接には[[江戸時代]]の[[穢多]]や[[非人]]などの[[賎民]]とされた身分に由来する日本における世系による差別についての問題である。家系とともに、産業上の職業によって狭い地域(部落)が不条理な差別の対象とされた。この差別が現代まで引き続いたことから、一連の事件、運動、解消の為の行政施策等をまとめて部落問題という。'''同和問題'''ともいう。 == 部落 == 本来エタ村あるいはエタなどと称された賤民の集落や地域を、差別的であるとして行政側が福祉の客体としての市民の身分(身分とは法的なその人の地位、高齢者、妊婦、学童などと同じ)として「被差別部落民(略して部落民)」などと呼び、それが民間などで省略されて「部落」という言葉として定着したもの。現在では同和行政特別施行地区という呼び方をする市町村もある。 なお、「部落」は本来単に「集落」の意味だが、近現代に「部落」の語が行政に正式名称として用いられるに伴い{{要出典}}<!--近現代に「部落」の語が行政に正式名称< 法律文として定義されたのか、行政用語として先行したのか調査の必要あり -->、一般的「部落」と混同されないよう{{要出典}}部落民自らも「特殊部落民」と称するようになった <ref>『日本史大事典』第5巻、平凡社、1993年、993頁。なお、「特殊部落」の語の初出は小島達雄によれば[[1902年]]「明治三四年度奈良県学事年報」。[http://ci.nii.ac.jp/naid/110000034259/ 小島達雄「被差別部落の名称問題に関わって」「関西学院大学人権研究」2002年3月]。</ref>。しかし「特殊部落民」との呼称も蔑称として使われたことから、「被差別部落民」などの呼び方に換えられた。もともと「部落」という呼称には蔑称的な意味は全くなく、村落よりは小さく、集落よりは大きな居住地の事である。現在でも、地域によっては「部落」は本来の「集落」の意味で使われ、被差別部落のあり方に地方差が著しかった事が窺い知れる。蔑称として「部落民」「特殊部落民」ほか、近年は「同和行政」という語に由来して「[[同和]]」地区が蔑称として使われる事も多い。 == 旧身分 == 近世起源説では「徳川政権が大多数の農民を支配するために、宗教的理由で忌避されていた、食肉皮革産業や廃棄物、風俗業界の本来流動的な賎民を身分支配のために固定化し、代わりに身分としての独占的な権益を与えたことに始まる」としている。 なお、「部落差別」という呼び方から「集住している人々」に対する差別であるという受け止め方が多いが、これは必ずしも正しくなく、地域的に大きな差がみられる。都市部や農山漁村部を問わずに集住している場合が少なくはないものの、被差別でない集落の近隣に単独若しくは少数で暮らしている場合もある<!--被差別民が大規模な[[集落]]を形成していた地方もあるが、小規模な集落しか形成していなかった場合、更には集落を形成していなかった場合というのもある--><ref>たとえば、九州の一部地域のように下級刑吏として被差別民に該当する身分、あるいは社会集団に属する人が[[隠れキリシタン|隠れ切支丹]]監視のために一家族ずつ分散して派遣されていた場合など</ref>。非人や[[長吏]]などの下級役人の場合は支配の恨みを刑の執行者に向けさせるためと言われている。 なお、江戸時代は社会が安定し、少なくとも都市部では、それまで繰り返し周期的に起こっていた貧困による餓死は、極めて少なくなった。これは、そもそも都市への流入を村で抑えれたことと、それでも都市に流入する流民を極めて小さな経済で運用する、流入についての規制の緩やかなエタ村で収容することによって、都市の防衛を実現していたと見る向きもある。 == 歴史 == === 起源 === {{main|部落の起源論争}} 被差別部落の起源については諸説が存在し、未だ意見の統一を見ていない。 [[明治時代]]からおおよそ[[1980年代]]の頃までは『近世に幕藩権力が無から全てを作り出した』といういわゆる『近世政治起源説』が信じられていたが、これが学術的に否定されたことによって、現在では中世以前の様々な要素を踏まえたうえでその起源についての考証が行われている。 <!--=== 身分制度の確立 === 身分制度は社会的地位であり、血統とは違う。江戸時代以前にも当然存在したが、[[江戸幕府]]は徳川政権の安泰のため、身分を固定化し、世襲によって身分を受け継ぐことを制度化した。身分制度は[[儒教]]的な思想の影響を受け、社会的な役割を固定化させることによって社会を安定させると考えられていた。{{要出典}}なお、「[[士農工商]]」と呼ばれる4身分がよく知られているが、実際はそれ以外にも多種の身分が存在しており、最近の研究では「老若男女」のように「みんな」という意味でありこの並びには特に意味はないとする説が強くなっている(詳しくは史学者田中圭一の研究{{要出典}}や[[士農工商]]を参照)。コメントアウトを戻される方は出典の提示もお願いします。--> === 被差別階層 === 部落問題において被差別者とされるのは,現在、部落と呼ばれる場所(その多くは、前近代社会において「[[穢多]]」「[[非人]]」などと呼ばれた人々が居住していた場所)に現在住んでいる、あるいはかつて住んでいたことがあるなど、血筋を含め何らかの関係があると周囲の人から見られ、あるいは自分でそう自覚している人である。したがって、現在の部落差別を語るには、前近代社会の賤民身分の歴史から説き起こすのが通例となっている。 「[[穢多]]」は[[鎌倉時代]]末期の文献にも登場している。かつては寺社の雑役や死んだ牛馬の処理に携わる職業を指していたが、後に皮革産業や[[刑吏]]に携わる人々の身分を指すようになった。[[室町時代]]初期の資料には「かわた」と呼ばれている。牛馬の皮剥ぎ(かわはぎ)や解体は「けがらわしい」とされていたので、「穢多」は文字通りけがわらしい人として扱われていた。こうしたことや皮革の扱いに水が必要であったことや凄まじい異臭が発生することなどから、居住地の多くは町村の外れに形成された。[[関西]]では「枝村」と呼ばれている(後に穢多の字が宛てられた)。[[菩提寺]]は概ね[[浄土真宗]]本願寺派に限定されたが、[[尾張]]以東ではこの傾向は薄れる。 「[[非人]]」は語源は[[仏教]]に関わる言葉で「人でないものが人の姿形をかりて現れたもの」の意味であったが、刑吏とその管理下の罪人・病者・[[乞食]]や寺社に仕える者など当時の社会の律令外の職能民を指す言葉として[[平安時代]]に普及したようである。[[中世]]には蓬髪・顎鬚・童姿等の身体障害者を意味していたが、江戸時代の[[関東]]では(あくまで関東で、他地域では異なる場合がある)特定の雑務に付く人や無宿者を指し、関西では治安の維持、刑の執行に携わる人々として組織化されることもあった。「穢多」より身分が低いとされることもあるが、「非人」の名の通り身分外と認識されていたようである。 [[幕藩体制]]が揺らぐ江戸時代中期になると、百姓・[[町人]]統制を強化する藩も多くなった。こうした中で穢多に対しても徹底的な法規制を行うこともあったが、これは百姓・町人との分断を徹底することによって百姓・町人の不満を逸らす目的だとみられている。例えば、[[岡山藩]]では穢多は皮で作った名札を胸に付けることなどが義務付けられた。しかし、これに対して岡山藩全域の穢多が反発し「[[渋染一揆]]」が発生している。神道思想においても[[平田篤胤]]「能く思へば夫も即神の御心で、かの旃陀羅を御悪ひ遊ばす」(『神敵二宗論』)として、「旃陀羅」すなわち穢多を排撃している。一方で、加賀藩の侍講の[[千秋藤篤]]のように人権を尊重して部落解放を主張した例などもわずかにある。 関東では全ての穢多は[[弾左衛門|矢野弾左衛門]]の管理下に入っていた。穢多頭の弾左衛門は[[徳川家康]]により穢多を統制する権利を与えられており、金貸しもしていた。極めて強大な財力を持ち、刀を差して[[旗本]]並の屋敷で生活をしていた。13代当主は[[幕末]]から[[明治]]にかけて穢多を代表し、穢多に対する差別を無くすよう強力な活動も精力的に行った。[[佐幕派]]に対する資金援助も弾左衛門の活動として知られるものである。 江戸時代の身分制度を表現する言葉として近年に「士農工商穢多非人」という言葉が使われるようになったが、最近の研究では、[[儒者]]が[[儒学]]の[[イデオロギー]]ではそうなると主張しただけで、この並びにも徳川時代のありよう(徳川政権が封建主義国家、各大名の領地はそれぞれが一応は独立国)から、雑多な身分を理解するうえでは正確ではない。「穢多」は終生「穢多」とされる反面、「非人」は一時的な身分であり、許されて元の身分に戻りうることから、「穢多」と「非人」がどちらが身分として上であるかを争った事例も存在しており、「士農工商」に正確には属さない身分(主に徳川時代以前から権威を持っていた身分)も存在したからである。また、江戸中期以降経済社会が発展すると、行政官としてのみ存在する武士と、富裕層の商人、極貧の大多数の農民、など身分崩壊ともいえる状態が始まり、エタ頭と呼ばれる人々は、その経済的背景から回復的に力を持ち始めたことも事実であり、絶えず「士農工商の下」という位置づけではく、前述の[[弾左衛門]]を見ても明らかであり、あえて言えば「横」・「外」のような関係といえる。 また、生死を司る職業(僧侶・神官・医師・[[処刑]]人など)はともかくとして、武士直属の職能集団(処刑人を含む下級[[警察]]職・武具皮革職人など)、大地を加工する職業(石切など、築城技術者)のように軍事、警察的な機密から一般人と区別させる者も賎民と為された事実はある。 さらに、農業・手工業・商業を担う者が常に農工商(百姓・町人)に属していたということはない。武士が内職で手工業者となっていた事例と同様に、「穢多」「非人」にも農業・手工業・商業に携わっていた者が多くいた。中でも武士に直属する皮革加工業は「穢多」の特権的職種とされていた地域が多かった。また地域によっては[[藍染]]職人や[[織機]]の部品を作る職人が「穢多」「非人」の職業とされていたことも知られている。また、ほとんど農業によって生計を立てていた地域も知られている。このように、職種の区分と思われているものは身分制度という制度上の区分に過ぎず、実態を表していたものではないらしい。 === 身分制度の廃止 === [[1869年]]の[[版籍奉還]]により[[武士]]の身分が廃止されたのを受け、士農工商と呼ばれた身分制度は廃止され一律に[[平民]]と呼ばれた。また[[1871年]](明治4年)に[[明治政府]]により「穢多非人等ノ稱被廢候條 自今身分職業共平民同様タルヘキ事」との布告([[解放令]])が出され、以前の身分外身分階層が廃止されたことが明示された。しかし、近代市民社会のもの産業革命をなしとげた欧米列強に見習う部分が多く、一部の知識階級でのみその必要性が理解されたに過ぎない。 そのため、300年の徳川支配は根深く、一般の村々では穢多や非人と同列に扱われるのには反対が強く、解放令発布直後から2年以上にわたって[[解放令反対一揆]]が続発した。解放令に反対して部落民を排除する取り決めや部落民を新平民と呼ぶことにさえ拒否し、旧来どおり「穢多」と呼ぶことが多かった。これに対し県レベルの行政では解放令直後に「旧穢多」という言い方が用いられ、後には「新民」「新平民」「新古平民」というのも出てきたが、一方部落民が「新平民」を自称することもあった<ref>部落民の呼称は度々換えられた。[[1905年]](明治38年)、奈良県教育委員会における文書では「'''特種部落'''」が使われ、同時期の[[三重県]]の公用文書にもこの語が使われている。また全国的に部落改善事業が展開されていくに従い、「特種部落」以外に「'''特殊部落'''」が行政用語として広まっていった。この言葉に対する部落民からの反発はあったが、部落の自主的改善団体である「備作平民会」の設立趣旨書において部落民を総称する際に「我徒」「同族」が用いられたり、[[1903年]]の大日本同胞融和大会においては「日本に新平民なる一種族あり」との文言も見られる。次に出てきたのが「'''細民部落'''」である。これは[[1912年]]([[大正]]元年)に開かれた「細民部落全国協議会」で用いられたが、「細民」にすると一般的都市貧民との区別がつかなくなるということで、「普通細民部落」「特別細民部落」との区分けが必要になると指摘された。「細民部落」の名称以外には「後進部落」「要改善地区」が登場したが、「同胞」「一部同胞」「四海同胞」「四民平等」など、言葉を聞いただけでは部落をイメージできない言葉も一時的には使われた。</ref>。 解放令によって法が誕生し、法的な地位においては身分職業の制限は廃止されたが、精神的・社会的・経済的差別は却って強まった。たとえば新制度における[[警察官]]などが武士階級のものとされ、下層警察官僚であった身分外身分の者が疎外されたこと、武士(特に上層の武家階級)が新制度においても特権階級とされたのに対し、武士に直属し権力支配の末端層として機能してきた身分外身分がなんら権限を付与されずに放り出されることによって、それまでの支配の恨みを一身に集めたこと、などが原因と考えられている。 また現代に続く「部落差別」の問題の制度的源流は江戸時代であるものの、具体的な差別構造の成立は明治政府の政策というよりも民衆に根付いた忌避感の表れとみる者もいる。 差別の具体的な内容は、個人においては交際や[[結婚]]や就職、集落においてはインフラの整備における公然とした不利益などである。いわゆる被差別部落では貧しさによる物乞いが後を絶たなかった。[[島崎藤村]]の「[[破戒 (小説)|破戒]]」は、この時代の部落差別を扱っている。 また、[[1896年]](明治30年)[[歌舞伎]]座初演の『[[侠客春雨傘]]』では登場人物の侠客釣鐘庄兵衛を被差別階級出身者とし、第五幕の「釣鐘切腹の場」で[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]の演じる暁雨が庄兵衛を諭す科白に「ハテ野暮を言う男だなア。穢多だろうが、大名だろうが、同じように生を受け、此世界に生まれた人間、何の変わりがあるものか。それに差別(しゃべつ)を立てたのは此世の中の得手勝手」(『名作歌舞伎全集』・第十七巻)がある。作者[[福地桜痴]]が[[欧米]]の平等思想を学んだ影響が見られ、舞台芸術で差別問題を扱った最初の例である。 === 水平社運動 === このような状況を改善するためにかつての賤民階層の人々(いわゆる「部落民」)は、自主的な運動を始め、差別糾弾・[[行政]]闘争を軸に運動を展開した。「部落問題が社会不安の原因になることを憂慮」した政府はこれらの運動が「左傾化」する事を怖れ、弾圧と[[融和運動|懐柔]]の両面で相対した。もっとも水平社は当初、「帝国臣民である以上、天皇の赤子として共に報国の権利と義務があり、それを差別により侵害するのは不当である」という意味の宣言をしていた。 国民の融和を目的とし、[[人権]]侵害の防止に積極的でなかった政府の運動に反発した[[西光万吉]]、[[阪本清一郎]]らが中心となり[[1922年]]に[[全国水平社]]が結成された。そして「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で知られる創立宣言で「全國に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。吾々が穢多である事を誇る時が来たのだ。」と宣言した<ref>今でこそ「特殊部落」は差別用語として扱われ部落民も避ける傾向があるが、水平社結成時には扱いが異なっていたことが機関紙第一号から読み取れる。<blockquote>「明治四年の布令によって解放された吾々の頭上には、今度は新平民の名称を附され、尚近頃は少数同胞などの名称に代っている。實質が變化しなければ名称は問題ではない。歴史は絶対に消されぬ。エタが華族になり、華族がエタの名称に代っても、吾等に対する賤視観念が除かれねば、華族のエタが卑しめられ、エタの華族が尊敬せられる、寧ろ吾々は、明らかに穢多であると標榜して、堂々と社会を濶歩し得る輝きの名にしたい。」と主張する者が多数を占め、結局、名称によって吾々が解放せられるものではない。今の世の中に賎称とされている「特殊部落」の名称を、反對に尊称たらしむるまでに、不断の努力をすることで喝采の中に綱領通り保存されることになった。この間殆んど一時間有余、口角泡を飛ばして議論を闘はした。</blockquote></ref>。 当時は[[1917年]]の[[ロシア革命]]の直後であり、活発化した[[社会主義]]運動はこれらの部落解放運動に大きな影響を与えた。また[[自由民権運動]]との関わりも深かった。かつてないほど激しかった水平社の糾弾闘争は当時の人びとによく知られ、水平社がいわゆる「部落民」の代名詞となったほどである。しかし社会主義運動との連携を恐れた政府は後に水平社、特に[[日本共産党]]に関わりを持った左派を弾圧した。[[1920年代]]後半の低迷を経て、[[1930年代]]以降、再建された全国水平社総本部は、松本治一郎を中心とし、合法無産政党に連なる社民派が掌握した。1933年の高松差別裁判糾弾闘争のように、大衆的な盛り上がりを見せる事もあったが、次第に戦時体制に呑み込まれていき、弱体化、[[太平洋戦争]]突入後の[[1942年]]に消滅してしまった。 [[戦後]]、同胞融和ということばから部落問題を同和問題と呼ぶようになった。 === 戦前の同和教育開始 === 1942年8月に文部省社会教育局は『国民同和への道』を刊行し、はじめて政府の教育方針として同和教育政策の理念・具体的方針を示した。 {{main|同和教育}} === 戦後の同和対策事業 === [[1951年]]、[[在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人]]の生活を差別的に扱った小説「特殊部落」を[[京都市]]九条保健所職員が[[杉山清一]]の筆名で雑誌『オールロマンス』に発表し、問題となった([[オールロマンス事件]])。いわゆる部落問題とは別の問題にもかかわらず、京都市役所内部に形成されていた[[左翼]]グループは部落問題として扱うよう図り、水平社運動と融和運動の活動家が大同団結して結成された[[部落解放全国委員会]]京都府連は彼らと連携して、「小説は京都市が放置してきた[[被差別部落]]の実態を反映したものだ」として行政を批判した。翌年、京都市は前年比5.8倍の同和問題対策予算を計上し、被差別部落のインフラの改善を積極的に推進した([[オールロマンス闘争]])。これ以降、部落差別撤廃のための行政闘争が活発化していった。 [[部落解放同盟]]([[部落解放全国委員会]]から[[1955年]]に改称)や[[全日本同和会]](旧融和運動系の活動家が解放同盟から離脱して結成された運動団体、保守系)の働きかけと[[自由民主党 (日本)|自民党]]と[[日本社会党]]との間で合意が形成された結果として、[[1969年]]に[[同和対策事業]]特別措置法が10年間(後に3年間延長)の[[時限立法]]で制定された。また、[[1982年]]には地域改善対策特別措置法が5年間の時限立法で制定された。このように部落解放同盟を初めとする各運動団体は行政に強く働きかけ、[[同和地区]]のインフラの改善、精神的な部分での差別を解消するための教育などを推進していった。被差別部落で同和地区と呼ばれる地域が出てくるのはこれ以降であるが、運動が盛んでない村では指定によりさらに差別を招くのではという恐れから、地区指定を受けずに同和対策事業を受けていない例も多い。 [[教育]]や社会基盤の格差の是正のための各種同和対策事業については、「部落以外の人に比べ優遇されている」とも言えるが、これらの措置は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で女性や[[アフリカ系アメリカ人|黒人]]、[[ネイティブ・アメリカン|先住民]]などの雇用や教育に適用されている[[積極的差別是正措置]]とも捉えることが出来る。例えば大学入試において、アフリカ系アメリカ人枠を多く設けるなど。 一連の同和対策事業の一部は[[1987年]][[3月31日]]に新たな時限立法「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」の制定により継続し、[[2002年]]にそれらが期限を迎え、国による同和対策関連事業は終了した。 === 同和事業に関わる不正・腐敗事象の発生 === 同和対策事業の伸展に伴い、それらの施策が実行された同和地区の環境改善は画期的に進んだが、巨額の予算の執行に伴い、それに関わった行政当局者、運動団体関係者による不正・腐敗行為が少なからず発生し、マスコミを賑わせることがたびたびあった。 とりわけ1981年の[[北九州土地転がし事件]]、2001年に表面化した[[モード・アバンセ]]不正融資事件などに、運動団体の幹部が関与していたことが報道されている。 [[2006年]]、[[奈良]]、[[京都]]、[[大阪]]で同和対策事業に関する不正が数多く発覚し、各自治体は同和対策の見直しを発表。奈良では部落解放同盟[[奈良県]]連古市支部の幹部が、[[奈良市]]職員でありながら架空の病気を理由にほとんど出勤せず、給与を詐取していた。 === 教科書の無償提供運動 === [[1961年]]、[[高知県]]の同和地区の父母が、学習会において[[日本国憲法]]を学んでいたが、[[日本国憲法第26条|第26条]]に「[[義務教育]]は、これを無償とする」と言う条文を見付ける。 この事で、それまで有償だった[[教科書]]代に疑問を呈し「義務教科書の無償提供運動」を興した。 結果、[[1963年]]「[[義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律]]」が成立し[[1969年]]までに順次、全国の小中学校の教科書が無償提供されることになる。 === 八鹿高校事件 === {{main|八鹿高校事件}} 1974年11月22日、[[兵庫県]]養父郡八鹿町(現[[養父市]])の[[兵庫県立八鹿高等学校|八鹿高等学校]]の教職員約70名と解放同盟や総評系労組で構成された八鹿高校差別教育糾弾共闘会議が衝突する事件が起こった。この事件により48名が負傷し、29名が入院、危篤を含め2か月から1週間のけがを負ったとされる。 === 現在の部落差別 === かつて問題となった[[所得格差]]や[[インフラ]]整備の遅れ、[[進学率]]の違いは住宅改善事業などの[[同和対策事業]]により指定地区ではほぼ解消された。しかしながら、身元調査が行われている事を背景に過去に被差別部落の闇リスト(特殊部落<!--いくら何でも標題には入ってなかった。一見、一般地名リストの形は採っている-->「[[地名総鑑]]」など)が会社の人事担当などを対象に売られる事件が度々起こっているが、関東ではその真の意味を知らず単なる地名リストと理解して購入の例もあった。 結婚や就職、地域交流に関わる差別は当事者の判断にかかる事柄であり差別事象は多い。また、部落差別解放問題に取り組む団体の関係者(主に行政と地域との間のパイプ役となっている団体役員)による不正行為の発覚、路線の対立する各団体同士間の[[イデオロギー]]の差異に端を発する対立によるトラブルなど、違う類の問題も表面化している。 少なくとも[[高度経済成長]]による人口の大移動、それに伴う都市近郊の開発・移転によりかつての被差別部落地区が薄れたり、新しく移入してきた住民の間で忘れ去られていく傾向は多い。また各種運動の結果として差別意識が改善している部分も大きい。現在も義務教育の過程の中で、平等主義的な意味で、被差別部落についての教育が行われることがあるが、「寝た子を起こすな論」では「そもそも被差別部落の意味を理解していない(実体験として被差別部落が何であるかを知らない)子供に単に「部落」という言葉が差別語であるという意識を植え付けている」と主張されている。 一方、従来の「周囲の差別的な視線により移転の自由がままならず、同じ血筋の人が代々住み続けているところ」との一般的な部落に対するイメージとは異なり、京都市、[[大阪市]]などに多数存在する都市部落では、人口の流出入が極めて活発であること、それも、社会的地位の上昇を果たした階層が転出していき、その代わり社会的に低位な層が転入してくるという循環構造が永続している(かなり以前から存在したそうした傾向に、同和対策事業の実施が拍車をかけた)ことが近年明らかになってきている。近い将来、それらの地区では、新たな貧困と、それに起因する様々な社会的問題を抱えることになるのではないかと懸念されている。早期に同和対策事業が開始された地域では、その一環として取り組まれた社会資本の老朽化が顕著になっているほか、すでに地区住民の実情に合わないものになっており、その対処を巡り新たな課題が発生していると指摘されることもある。 === 「屠殺場」発言事件 === [[1989年]]、[[ニュース]][[キャスター]]の[[筑紫哲也]]が「[[ニューヨーク]]の街も多分[[と畜場|屠殺場]]だね」と番組で発言をした。当時、公の場で使われる差別的な言葉が問題となっていたため(批判的な意味で[[言葉狩り]]とも呼ばれた)、筑紫は「屠殺場」という言葉の使い方が不適切であったとして翌日に[[謝罪]]をした。しかし一部の[[屠場]][[労働組合|労組]]から抗議があり、[[部落解放同盟]]も加わっての[[確認・糾弾|糾弾]]会が行われた<ref>『新・差別用語』([[汐文社]]、[[1992年]][[7月]]。ISBN 4811301323)によれば、その糾弾会は大変に激しいもので「人格が破壊されかねない」ものであったとされる。しかし同書は、筑紫本人に取材した形跡はない。筑紫本人はこの糾弾を受けた結果として同労組との友好関係を築くことができ、それ以後密な交流を持つようになった、糾弾を受けたことは有意義な経験だったと繰り返し述べている。</ref>。 === 麻生太郎の部落差別発言 === 被差別部落出身であり、そのことを公にしてきた[[野中広務]]は政界でも差別を受けていたと言われている。2001年の総裁選では、部落出身であるから総理にはなれないという話もでてきていた。そうした中、同党の[[麻生太郎]]が『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』と言った<ref>麻生は否定している</ref>という話を野中が耳にする。この件について、引退直前の最後の[[自由民主党総務会|総務会]]([[2003年]][[9月11日]])において、野中は麻生を非難している。野中の伝記『野中広務 差別と権力』の著者、[[魚住昭]]はこの言葉を聞いて「人間はなした仕事によって評価をされるのだ。そういう道筋を俺がひこう」と誓った人生が全否定されたのではないかと述べている<ref>[[魚住昭]] 『野中広務 差別と権力』 [[講談社]] [[2004年]] ISBN 4062753901 384から386頁、391から393頁</ref><ref>[[角岡伸彦]] 『はじめての部落問題』 [[文藝春秋]] [[2005年]] ISBN 4166604783104頁</ref><ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/162/0094/16202220094003a.html 第162回国会 総務委員会 第3号 平成十七年二月二十二日(火曜日)]</ref>。 {{See|野中広務#麻生太郎による部落差別発言}} == 部落問題とマスメディア == 部落問題は、現代の日本において一種の[[タブー]]であると言われる。そのため[[マスメディア]]などで正面から取り上げられることは少なく(真面目に取り上げられるのは[[朝まで生テレビ]]など少数)、また公の場で部落問題を語ることは大きな論争の原因となることが多い。 「部落」という[[言葉]]自体も、事実上の[[放送禁止用語]]となっており、出演者が「[[集落]]」の意味での部落という言葉を使った時でさえ、すぐに謝罪訂正(ニュース・生放送などの場合「集落ですね」などとその場で言い換える場合がある)が流される。しかし最近では、本来の「部落」の意味や過剰な自主規制への反省からか、特に何事も無く放送が進む場合が多い。 [[21世紀]]に入って『[[同和利権の真相]]』([[寺園敦史]]、[[一ノ宮美成]]、グループK21著・別冊宝島Real、[[宝島社]]文庫)というシリーズが発表された。既に累計50万部前後のベストセラーとなっている。また、本書で取り上げられた[[ハンナン]]株式会社の[[浅田満]]元会長が[[2004年]][[4月17日]]に[[牛海綿状脳症|BSE]]対策の補助金詐取の嫌疑で逮捕された。 なお、『同和利権の真相』に対する部落解放同盟や[[宮崎学]]氏からの反論<ref>解放新聞 2003年4月14日 {{cite web|url=http://www.bll.gr.jp/siryositu/siryo-syutyo2003/guide-seimei-20030414.html|title=『別冊宝島Real 同和利権の真相』への見解|accessdate=8月25日|accessyear=2007年}}</ref>や、反論本として『『同和利権の真相』の深層』([[解放出版社]])がある。 == 行政当局や運動団体によって取り上げられた主な差別事象 == {{節stub}} === 結婚差別 === {{節stub}} === 就職差別 === 1975年11月に部落地名総鑑事件が発覚し、かつて被差別部落だったとされる地域を記した本が興信所などにより作成され購入者の人事部に配備されており、それを基にしてその地域に住んでいるものを意図的に不採用にするなどの例があった。行政書士などが職務上の権限を利用する例が後を絶たない。 === 部落差別とされた表現の実例 === *[[1956年]]1月、小説家[[石上玄一郎]]が『[[朝日新聞]]』文化欄に発表した評論の中で「文壇には、特殊部落的偏狭さがみちみちている」と記述。これに対して部落解放同盟が[[朝日新聞社]]を[[確認・糾弾|糾弾]]。朝日新聞社は「今後、部落問題をタブー視せず、前向きに差別の現実を書く」ことを約束した<ref>[[部落解放研究所]]編『部落問題事典』p.10、解放出版社、[[1986年]]</ref>。 *[[1967年]]1月と2月、小説家で精神科医の[[なだいなだ]]が『[[毎日新聞]]』朝刊の人生相談欄『悩みのコーナー』にて、結婚差別を受けたという部落出身女性の投書に対して「部落民という考えは、内部の[[劣等感]]によって支えられている」「小さなつまらぬ悩みだ」と回答したところ、部落解放同盟が糾弾に乗り出した。 *[[1969年]]、経済学者[[大内兵衛]]が、[[岩波書店]]刊行の雑誌『[[世界 (雑誌)|世界]]』3月号に論文「[[東京大学|東大]]は滅してはならない」を発表。この論文における「[[大学]]という特殊部落の構造」という表現が部落解放同盟によって追及され、執筆者大内と岩波書店が糾弾を受けた。『世界』3月号は回収処分となり、編集部と大内が同誌の4・5月号に謝罪文を発表<ref>[[成澤榮壽]]編『表現の自由と部落問題』p.12、[[部落問題研究所]]、[[1993年]]。ISBN 4829810335</ref>。 *[[1973年]][[7月19日]]、司会者[[玉置宏]]が[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の[[ワイドショー]]『[[3時のあなた]]』にて「芸能界は特殊部落だ」と発言したところ、[[1973年]][[8月16日]]、部落解放同盟が玉置とフジテレビと[[関西テレビ放送|関西テレビ]]を相手取って確認・糾弾会を開いた。玉置は謝罪し、テレビ局側は部落問題解決のための番組作りを約束した。 *[[1973年]]9月、映画評論家の[[淀川長治]]が『[[産経新聞|サンケイ新聞]]』の[[インタビュー]]記事にて、自らの庶民性を示す証として、両親から近寄らないよう言われていた「特殊な部落にある銭湯にはいったこともあった」、「この貧しい人たちと液体で結ばれたと思ったのにねぇ」という経験を語ったところ、部落解放同盟が「両親の差別意識を肯定するとともに、自らの[[エリート]]意識をさらけ出すもの」「エセ・[[ヒューマニズム]]」(宮原良雄)と反撥し、糾弾に至った<ref>部落解放研究所編『部落問題事典』p.308、解放出版社、1986年。[[成澤榮壽]]編『表現の自由と部落問題』p.14、[[部落問題研究所]]、[[1993年]]。ISBN 4829810335</ref>。この事件の後、サンケイ新聞社は[[1974年]]11月から[[1975年]]3月にかけて、部落問題の特集記事として『シリーズ・差別』を大阪本社発行の朝刊に連載した。淀川は、部落解放同盟大阪府連合会制作による[[狭山事件]]告発映画『狭山の黒い雨』を部落問題の視点から批評するよう約束した。 *[[1979年]]8月、[[曹洞宗]]宗務総長で[[全日本仏教会]]理事長(当時)の[[町田宗夫]]が、[[米国]][[ニュージャージー州]][[プリンストン]]における第3回世界宗教者平和会議にて、「日本に部落差別はない」「部落解放を理由に何か騒ごうとしている者がいる」「政府も自治体もだれも差別はしていない」と発言。このことが部落解放同盟から「部落解放運動の全面否定」とされ、糾弾に至った。 *[[1981年]]2月、政治学者で[[社会科学研究所|東京大学社会科学研究所]][[教授]](当時)の[[有賀弘]]が、[[ベルリン自由大学]]における日本学研究室の[[金子マーティン]]講師(当時)の部落問題に関する研究発表に対し、「部落問題は東日本にはない。西日本にはあるが、それは部落解放同盟と日本共産党との同和予算をめぐる金銭上のトラブル」「[[日本語]]の部落という言葉は、村落とか集落とかいう一般名詞であって何も差別を意味するものではない」と発言。このことが部落解放同盟の糾弾を招いた。 === 部落差別とされなかった表現の実例 === *[[松本治一郎]]は、[[1952年]]7月、[[徳川夢声]]との対談で「『部落』と書こうが『[[穢多|エタ]]』といおうが、問題じゃないんです。……その前後に差別の意味が加わってさえいなけりゃ、少しも問題はないわけですよ。それを[[糾弾]]するというのは、ことさらためにしようとするハシッパのもんです。……悪い奴にかかると、やっぱりヘンなことが生ずる」<ref>『松本治一郎対談集 不可侵 不可被侵』[[解放出版社]]、[[1977年]]、p20。</ref>と語り、差別表現として糾弾するか否かはその語が差別的文脈で使われているか否かによるという見解を示したが、[[1948年]]には松本自身が「私は三百万部落民の水平運動から、さらに数歩をすすめて、いわば世界の特殊部落におちこんだ八千万日本人民の水平運動をおこしたいと考えているのだ」<ref>松本治一郎「天皇に拝謁せざるの記」、『世界評論』[[世界評論社]]、[[1948年]]4月、p57。[[部落解放研究所]]編『部落解放運動基礎資料集』第IV巻(「差別糾弾・行政闘争」)、部落解放同盟中央本部、[[1981年]]、p7に再録。</ref>と述べ、特殊部落という語を差別的文脈で使用していた。しかしこれは糾弾の対象とならず、松本自身も自己批判しなかった<ref>[[金静美]]『水平運動研究史──民族差別批判』現代企画室、[[1994年]]、p.539。</ref>。 *[[1952年]][[8月20日]]、『[[解放新聞]]』は「おじいさん達も斗つた──八十一回目の解放令記念日を迎え」と題する山村慎之助の記事を載せた。この記事の中では「再軍備と植民地化に反対し、民族の解放を斗いとることが、外国帝国主義と国内反動のために世界の特殊部落になれはてた日本民族全体の死活の問題として切実に出されてきている」と、やはり特殊部落という語が差別的文脈で使われていた。しかし、これもやはり糾弾の対象とならず、『解放新聞』も山村も自己批判しなかった<ref>金静美『水平運動研究史──民族差別批判』現代企画室、[[1994年]]、p.542。</ref>。 == 部落問題に関連する団体の対立とインターネット == 「最近、都会やその近郊では近隣の住宅や人の移動などで存在が薄れ、部落差別は現在はほとんど意識されることがなくなった」とも言われるが、最近でもその存在その物をタブーとする人においては差別意識が改善されたのではなく、単に忌避意識が潜在化しているだけであるという解釈もある。 また、糾弾闘争に対して、近年では、差別とされる内実も、被差別部落出身だからというよりも、強力な圧力団体がバックについているがゆえに敬遠され、差別解消を建前とする[[部落解放同盟]]が、反対に真の意味での差別解消を妨げている。自己目的化した団体は、本来の目的を達成することでその存在意義を失うことを恐れているという意見もある{{要出典}}。 その一方で、出版物やインターネットなどでアンダーグラウンド情報などとして、差別を煽動するような情報が流されるという事実もある(アマチュアパケット通信での「地名総鑑」流布事件)。 また、苛烈な『糾弾』への忌避感情を利用して押し売りや[[恐喝]]等を行う[[えせ同和行為]](2007年には[[在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人]]による犯罪も発覚している)も部落問題の解決を遅らせている一因となっている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == * [[差別]] * [[戸籍]] * [[履歴書]] * [[洞部落]] * [[同和教育]] * [[狭山事件]] * [[八鹿高校事件]] * [[鷺田村小学校事件]] * [[部落問題研究者の一覧]] * [[犬鳴峠|犬鳴村]] * [[犬神]] * [[別所]] *[[新平民]]    [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%83%A8%E8%90%BD%E5%95%8F%E9%A1%8C 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年1月4日 (金) 07:13]    
'''部落問題'''(ぶらくもんだい)は、日本における差別問題のひとつである。[[江戸時代]]の[[穢多]]や[[非人]]など[[賎民]]身分を由来とする。居住地域が限定され、被差別身分化は罪人に対する刑罰のひとつでもあった。現代では世系差別と地域に対する差別を'''同和問題'''という。 == 部落 == 「部落」は本来「集落」の意味である。歴史的にエタ村あるいはエタと称された賤民の集落や地域を、行政が福祉の客体として「被差別部落民(略して部落民)」などとよび定着した。現在では同和行政特別施行地区という呼び方をする自治体もある。なお東日本などでは現在でも日常的に差別などの意味をもたない「集落」「地区」などの用法で「部落」という言葉を用いている。 近現代に「部落」の語が用いられるに伴い、「地区」の意味での「部落」と混同されないよう部落民自らが「特殊部落民」と称するようになった <ref>『日本史大事典』第5巻、平凡社、1993年、993頁。なお、「特殊部落」の語の初出は小島達雄によれば[[1902年]]「明治三四年度奈良県学事年報」。[http://ci.nii.ac.jp/naid/110000034259/ 小島達雄「被差別部落の名称問題に関わって」『関西学院大学人権研究』2002年3月]。</ref>。しかし「特殊部落民」との呼称も蔑称として使われたことから、「被圧迫部落」「未解放部落」「被差別部落民」などの呼び方に換えられた。蔑称として「部落民」「特殊部落民」ほか、近年は「同和行政」という語に由来して「[[同和]]」が使われる事もある。 == 旧身分 == 近世起源説では「徳川政権が大多数の農民を支配するために、宗教的理由で忌避されていた食肉皮革産業や廃棄物処理、風俗業界、刑吏等の賎民を身分支配のため固定化し、代わりに独占権益を与えたことに始まる」としている。ただし「士農工商穢多非人」といった序列付けについては近年否定されている<ref>[[田中圭一 (日本史学者)|田中圭一]]『百姓の江戸時代』ちくま新書、2000年</ref>。 なお、「部落差別」という呼び方から「集住している人々」に対する差別であるという受け止め方が多いが、これは必ずしも正しくなく、地域的に差がみられる。都市部や農山漁村部を問わず集住している場合が少なくないものの、被差別でない集落の近隣に単独若しくは少数で暮らしている場合もある<!--小規模な集落しか形成していなかった場合、更には集落を形成していなかった場合--><ref>たとえば、九州の一部地域のように下級刑吏として被差別民に該当する身分、あるいは社会集団に属する人が[[隠れキリシタン|隠れ切支丹]]監視のために一家族ずつ分散して派遣された場合など</ref>。 なお、江戸時代は社会が安定し、貧困による餓死が都市部で少なくなった。これには、農村部からの人口流入が抑えられたことと、もう一つは流民を規制の緩やかなエタ村に限定して収容した側面がある。そのような部落を小規模経済で運用させることよって都市のスラム化を防いでいたと見る向きもある。 == 歴史 == === 起源 === {{main|部落の起源論争}} 被差別部落の起源については諸説が存在し、未だ意見の統一を見ていない。 政府が同和対策に取り組み出した[[1960年代]]からおおよそ[[1980年代]]の頃までは「近世に幕藩権力が無から全てを作り出した」といういわゆる「近世政治起源説」が信じられていたが、これが学術的に否定されたことによって、現在では中世以前の様々な要素を踏まえたうえでその起源についての考証が行われている。 <!--=== 身分制度の確立 ===--> 身分制度は社会的地位であり、本来血統とは違っていた。江戸時代以前にも当然存在したが、[[江戸幕府]]による政権安定化のための身分世襲化が進んだ。身分制度は[[儒教]]的な思想の影響を受け、社会的役割の固定化によって安定がもたらされると考えられていた。なお、「[[士農工商]]」と呼ばれる4身分がよく知られているが、実際はそれ以外にも多種の身分が存在していた。また、最近の研究では「老若男女」のように「みんな」という意味であり、「士農工商」の順序に特に意味はないとする説が強くなっている<ref>田中圭一『百姓の江戸時代』ちくま新書 等</ref>。 === 被差別階層 === 部落問題において被差別者とされるのは、被差別部落<ref>その多くは前近代社会における「[[穢多]]」「[[非人]]」などの居住地と重なっているが、近代になって形成された部落も存在する。</ref>に現在住んでいる、またはかつて住んでいたことがある、血筋が穢多、非人身分にあった人とつながっている、など密接な関係があると周囲の人に考えられている、あるいは自分でそう自覚しているが故に、「部落民」と看做されて現実に忌避・排除の対象となる、あるいはその可能性を潜在的にもっている人々である<ref>従って、現在の「部落民」(と看做されている人)は、近世賤民と血筋がつながっている、という訳では必ずしもない。</ref>。その意味において、現在の部落差別を語る際、前近代社会の賤民身分の歴史から説き起こすのが通例となっている。 「[[穢多]]」は[[鎌倉時代]]末期の文献にも登場している。かつては寺社の雑役や死んだ牛馬の処理に携わる職業を指していたが、後に皮革産業や[[刑吏]]を役とする身分を指すようになった。[[室町時代]]から戦国時代にかけての資料には「かわた」と自称・他称されていて、江戸時代初期までこれは継続して見られる。しかし、中世の「穢多」と近世の「穢多」を単純な系譜論で同一視することは異議が多い。太閤検地以降の村の自立と年貢の村請制度が確立していく中で、「かわた」百姓の村は「本村―枝村」構造に組み込まれ、政治的地縁的には抑圧された。地域経済や民俗の中で、中世由来の「旦那場」に依拠して「斃れ牛馬の処理」の請負や祭礼における様々な役負担に山番や森番に警察役を負担した。それらはやがて「権利」に転換し、その経済と行動が一般農村とは違う側面を当初から有したために慣習など文化的な「辺境」に追いやられた。やがて小農自立期に入り、中世的な惣村や庄や郷の結合が薄れていくと、その役や慣習の違いから[[穢多]]と呼称され身分差別が常態化していくことになった。彼らの帰依する宗派は、関西では概ね[[浄土真宗]][[本願寺派]]が多いが、[[尾張]]以東ではこの傾向は薄れるし必ずしもそうであるとはいえない。ただ、近年の研究では農村と「かわた」村が分流する以前に本願寺との関係は形成されていたようで、純粋で熱心な真宗門徒であるという側面からの解析も必要となっている。 「[[非人]]」は語源は[[仏教]]に関わる言葉で「人でないものが人の姿形をかりて現れたもの」の意味であったが、刑吏とその管理下の罪人・病者・[[乞食]]や寺社に仕える者など当時の社会の律令外の職能民を指す言葉として[[平安時代]]に普及したようである。[[中世]]には蓬髪・顎鬚・童姿等のものやハンセン病者及びその世話をするものを意味していた。[[清水坂非人]]と[[奈良坂非人]]は歴史資料に現れる代表的存在である。江戸時代では三都においては、特定の職種や役を負担する人々に都市流入の無宿者さらには特定の犯罪経験者を指し、組織化された。この「非人」身分は町人身分から落とされたりまた「非人」身分から脱することも可能であった。また地方の藩においては「非人」名義で「かわた」身分の役を行うものもあり、その呼び名と身分関係は必ずしも統一的に把握されるものではない。「穢多」と「非人」は身分の高低というよりも、その定義の範疇が違う概念である。 [[幕藩体制]]が揺らぐ江戸時代中期になると、百姓・[[町人]]統制を強化する藩も多くなった。こうした中で穢多に対して徹底的な法規制を行うこともあったが、これは百姓・町人との分断をすることによって百姓・町人の不満を逸らす目的だとみられている。例えば、[[岡山藩]]では穢多は皮で作った名札を胸に付けることなどが義務付けられた。しかし、これに対して岡山藩全域の穢多が反発し「[[渋染一揆]]」が発生している。神道思想においても[[平田篤胤]]「能く思へば夫も即神の御心で、かの[[旃陀羅]]を御悪ひ遊ばす」(『神敵二宗論』)として、「旃陀羅」すなわち穢多を排撃している。一方で、加賀藩の侍講の[[千秋藤篤]]のように人権を尊重して部落解放を主張した例などもわずかにある。 関東では全ての穢多は[[弾左衛門|矢野弾左衛門]]の管理下に入っていた。穢多頭の弾左衛門は[[徳川家康]]により穢多を統制する権利を与えられており、金貸しもしていた。強大な財力を持ち、刀を差して[[旗本]]並の屋敷で生活をしていた。13代当主は[[幕末]]から[[明治]]にかけて穢多を代表し、穢多身分者に対する利益誘導を精力的に行った。[[佐幕派]]に対する資金援助も弾左衛門の活動として知られるものである。弾左衛門はこの功績が幕府に認められ、幕府瓦解直前の1868年(慶応4年)1月、配下の65名とともに、身分を引き上げられ、弾内記(後、弾直樹)と名を改めた。 江戸時代の身分制度を表現する言葉として近年に「士農工商穢多非人」という言葉が使われるようになったが、最近の研究では、[[儒者]]が[[儒学]]の[[イデオロギー]]ではそうなると主張しただけで、この並びにも徳川時代のありよう(徳川政権が封建主義国家、各大名の領地はそれぞれが一応は独立国)から、雑多な身分を理解するうえでは正確ではない。「穢多」は終生「穢多」とされる反面、「非人」は一時的な身分であり、許されて元の身分に戻りうることから、「穢多」と「非人」がどちらが身分として上であるかを争った事例も存在しており、「士農工商」に属さない身分(主に徳川時代以前から権威を持っていた身分)も存在したからである。また、江戸中期以降経済社会が発展すると、行政官としてのみ存在する武士と、富裕層の商人、極貧の大多数の農民、など身分崩壊ともいえる状態が始まり、エタ頭と呼ばれる人々は、その経済的背景から力を持ったことも事実であり、絶えず「士農工商」の下という位置づけではなく、弾左衛門のように、あえて言えば「横」・「外」のような関係といえる。 このような研究の深化によって[[脇田修]]などが提唱する「'''周縁的身分論'''」による身分差別の把握という近世史研究の視点がある。葬儀埋葬にかかわる[[三昧聖]]や築城作庭土木業者、石切・大工から、鳥追いや[[願人坊主]]などの芸能民や[[陰陽師]]、神官、僧侶、医師など、大雑把であるが地域共同体との結合よりも職縁による結合が強い人々は、地域社会からは絶えず賎視の対象となる可能性をはらんでいた。一部の地域では、医業は宗教と未分化であり「藪医者」という蔑視は、分化した「医業」が成立していく中で「野巫(やふ)」という民間医師が相対的に「被差別身分」化していくことを示す。一方でその「被差別身分」の中に優秀な馬医者や牛医者が存在したことも確認されている。 さらに、農業・手工業・商業を担う者が常に農工商(百姓・町人)に属していたということはない。武士が内職で手工業者となっていた事例と同様に、「穢多」「非人」にも農業・手工業・商業に携わっていた者が多くいた。中でも武士に直属する皮革加工業は「穢多」の特権的職種とされていた地域が多かった。また地域によっては[[藍染]]職人や[[織機]]の部品を作る職人が「穢多」「非人」の職業とされていたことも知られている。また、ほとんど農業によって生計を立てていた地域も知られている。このように、職種の区分と思われているものは身分制度という制度上の区分に過ぎず、実態を表していたものではない。 === 身分制度の廃止 === [[1869年]]の[[版籍奉還]]により[[武士]]の身分が廃止されたのを受け、士農工商と呼ばれた身分制度は廃止され一律に[[平民]]と呼ばれた。また[[1871年]](明治4年)に[[明治政府]]により「穢多非人等ノ稱被廢候條 自今身分職業共平民同様タルヘキ事」との布告([[解放令]])が出され、以前の身分外身分階層が廃止されたことが明示された。しかし、近代市民社会の産業革命をなしとげた欧米列強に見習う部分が多く、一部の知識階級でのみその必要性が理解されたに過ぎない。 そのため多くの村々では穢多や非人と同列に扱われるのには反対が強く、解放令発布直後から2年以上にわたって[[解放令反対一揆]]が続発した。解放令に反対して部落民を排除する取り決めを行ったり、部落民を「新平民」と呼ぶことにさえ拒否し、旧来どおり「穢多」と呼んだりした。これに対し県レベルの行政では解放令直後に「旧穢多」という言い方が用いられ、後には「新民」「新平民」「新古平民」というのも出てきたが、一方部落民が「新平民」を自称することもあった<ref>部落民の呼称は度々換えられた。[[1905年]](明治38年)、奈良県教育委員会における文書では「'''特種部落'''」が使われ、同時期の[[三重県]]の公用文書にもこの語が使われている。また全国的に部落改善事業が展開されていくに従い、「特種部落」以外に「'''特殊部落'''」が行政用語として広まっていった。この言葉に対する部落民からの反発はあったが、部落の自主的改善団体である「備作平民会」の設立趣旨書において部落民を総称する際に「我徒」「同族」が用いられたり、[[1903年]]の大日本同胞融和大会においては「日本に新平民なる一種族あり」との文言も見られる。次に出てきたのが「'''細民部落'''」である。これは[[1912年]]([[大正]]元年)に開かれた「細民部落全国協議会」で用いられたが、「細民にすると一般的都市貧民との区別がつかなくなる」ということで、「普通細民部落、特別細民部落との区分けが必要になる」と指摘された。「細民部落」の名称以外には「後進部落」「要改善地区」が登場したが、「同胞」「一部同胞」「四海同胞」「四民平等」など、聞いただけでは分からない言葉も一時的には使われた。</ref>。 解放令によって法的な地位においては身分職業の制限は廃止されたが、精神的・社会的・経済的差別は却って強まった。たとえば新制度における[[警察官]]などが武士階級のものとされ、下層警察官僚であった身分外身分の者が疎外されたこと、武士(特に上層の武家階級)が新制度においても特権階級とされたのに対し、武士に直属し権力支配の末端層として機能してきた身分外身分がなんら権限を付与されずに放り出されることによって、それまでの支配の恨みを一身に集めたこと、などが原因と考えられている。 また現代に続く「部落差別」の問題の制度的源流は歴史的なものであるが、具体的な差別構造の成立は明治政府の政策や民衆に根付いた忌避感の表れであるとみる者もいる。 差別の具体的な形態は、個人においては交際や[[結婚]]や就職、集落においてはインフラの整備における公然とした不利益などである。いわゆる被差別部落では貧しさによる物乞いが後を絶たなかった。[[島崎藤村]]の「[[破戒 (小説)|破戒]]」は、この時代の部落差別を扱っている。 また、[[1896年]](明治30年)[[歌舞伎]]座初演の『[[侠客春雨傘]]』では登場人物の侠客釣鐘庄兵衛を被差別階級出身者とし、第五幕の「釣鐘切腹の場」で[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]の演じる暁雨が庄兵衛を諭す科白に「ハテ野暮を言う男だなア。穢多だろうが、大名だろうが、同じように生を受け、此世界に生まれた人間、何の変わりがあるものか。それに差別(しゃべつ)を立てたのは此世の中の得手勝手」(『名作歌舞伎全集』・第十七巻)がある。作者[[福地桜痴]]が[[欧米]]の平等思想を学んだ影響が見られ、舞台芸術で差別問題を扱った最初の例である。 === 水平社運動 === このような状況を改善するためにかつての賤民階層の人々(いわゆる「部落民」)は、自主的な運動を始め、差別糾弾・[[行政]]闘争を軸に運動を展開した。「部落問題が社会不安の原因になることを憂慮」した政府はこれらの運動が「左傾化」する事を怖れ、弾圧と[[融和運動|懐柔]]の両面で相対した。もっとも水平社は当初、「帝国臣民である以上、天皇の赤子として共に報国の権利と義務があり、それを差別により侵害するのは不当である」という意味の宣言をしていた。 国民の融和を目的とし、[[人権]]侵害の防止に積極的でなかった政府の運動に反発した[[西光万吉]]、[[阪本清一郎]]らが中心となり[[1922年]]に[[全国水平社]]が結成された。そして「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で知られる創立宣言で「全國に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。吾々が穢多である事を誇る時が来たのだ。」と宣言した<ref>今でこそ「特殊部落」は差別用語として扱われ部落民も避ける傾向があるが、水平社結成時には扱いが異なっていたことが機関紙第一号から読み取れる。<blockquote>「明治四年の布令によって解放された吾々の頭上には、今度は新平民の名称を附され、尚近頃は少数同胞などの名称に代っている。實質が變化しなければ名称は問題ではない。歴史は絶対に消されぬ。エタが華族になり、華族がエタの名称に代っても、吾等に対する賤視観念が除かれねば、華族のエタが卑しめられ、エタの華族が尊敬せられる、寧ろ吾々は、明らかに穢多であると標榜して、堂々と社会を濶歩し得る輝きの名にしたい。」と主張する者が多数を占め、結局、名称によって吾々が解放せられるものではない。今の世の中に賎称とされている「特殊部落」の名称を、反對に尊称たらしむるまでに、不断の努力をすることで喝采の中に綱領通り保存されることになった。この間殆んど一時間有余、口角泡を飛ばして議論を闘はした。</blockquote></ref>。 当時は[[1917年]]の[[ロシア革命]]の直後であり、活発化した[[社会主義]]運動はこれらの部落解放運動に大きな影響を与えた。また[[自由民権運動]]との関わりも深かった。激しい水平社の糾弾闘争は当時の人びとによく知られ、水平社がいわゆる「部落民」の代名詞となったほどである。しかし社会主義運動との連携を恐れた政府は後に水平社、特に[[日本共産党]]に関わりを持った左派を弾圧した。[[1920年代]]後半の低迷を経て、[[1930年代]]以降、再建された全国水平社総本部は、松本治一郎を中心とし、合法無産政党に連なる社民派が掌握した。1933年の高松差別裁判糾弾闘争のように、大衆的な盛り上がりを見せる事もあったが、次第に戦時体制に呑み込まれていき、弱体化、[[太平洋戦争]]突入後の[[1942年]]に消滅してしまった。 [[戦後]]、同胞融和ということばから部落問題を同和問題と呼ぶようになった。 === 戦前の同和教育開始 === 1942年8月に文部省社会教育局は『国民同和への道』を刊行し、はじめて政府の教育方針として同和教育政策の理念・具体的方針を示した。 {{main|同和教育}} === 戦後の同和対策事業 === {{main|同和利権}} [[1951年]]、[[在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人]]の生活を差別的に扱った小説「特殊部落」を[[京都市]]九条保健所職員が[[杉山清一]]の筆名で雑誌『オール・ロマンス』に発表し、問題となった([[オールロマンス事件]])。設定上の舞台である「特殊部落」は京都市内に実在する被差別部落であるが、登場するのはすべて在日朝鮮人、その「特殊部落」に住んでいれば「部落者」と呼ばれ差別されるが地域を離れればそうでなくなるという、地域の実情や差別の様態とは懸け離れた内容<ref>前川修「『オールロマンス事件』の再検討」 *杉山が描いた「特殊部落」は、現実におこる朝鮮人に対する差別や被差別部落に向けられる差別を反映したものではないのです。この「特殊部落」はあくまでも杉山が偏見をもって作り出した虚構の世界なのです。</ref>で、地域の住民たちは事実をゆがめて興味本位に書いた差別小説として京都市に対して抗議を行った。京都市役所内部に形成されていた[[左翼]]グループはこの問題を部落に対する行政上の措置の不十分さから起きた事件として扱うよう図り、水平社運動と融和運動の活動家が大同団結して結成された[[部落解放全国委員会]]京都府連は彼らと連携して、「小説は京都市が放置してきた被差別部落の実態を反映したものだ」として行政を批判した。翌年、京都市は前年比5.8倍の同和問題対策予算を計上し、被差別部落のインフラの改善を積極的に推進した。これ以降、部落差別撤廃のための行政闘争が活発化していった。 [[部落解放同盟]]([[部落解放全国委員会]]から[[1955年]]に改称)や[[全日本同和会]](旧融和運動系の活動家が解放同盟から離脱して結成された運動団体、保守系)の働きかけと[[自由民主党 (日本)|自民党]]と[[日本社会党]]との間で合意が形成された結果として、[[1969年]]に[[同和対策事業]]特別措置法が10年間(後に3年間延長)の[[時限立法]]で制定された。また、[[1982年]]には地域改善対策特別措置法が5年間の時限立法で制定された。このように部落解放同盟を初めとする各運動団体は行政に強く働きかけ、[[同和地区]]のインフラの改善、精神的な部分での差別を解消するための教育などを推進していった。同和地区と呼ばれる地域が出てくるのはこれ以降であるが、運動が盛んでない村では指定によりさらに差別を招くのではという恐れから、地区指定を受けずに同和対策事業を受けなかった例も多い。 [[教育]]や社会基盤の格差の是正のための各種同和対策事業については、「部落以外の人に比べ優遇されている」と主張されるが、これらの措置は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で女性や[[アフリカ系アメリカ人|黒人]]、[[ネイティブ・アメリカン|先住民]]などの雇用や教育に適用されている[[積極的差別是正措置]]とも捉えることが出来る。 一連の同和対策事業の一部は[[1987年]][[3月31日]]に新たな時限立法「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」などにより延長されたが、[[2002年]]にそれらが期限を迎え、国による同和対策関連事業は終了した。 === 教科書の無償化運動 === [[1961年]]、[[高知県]]の同和地区の父母が、学習会において[[日本国憲法]]を学んでいたが、[[日本国憲法第26条|第26条]]に「[[義務教育]]は、これを無償とする」と言う条文を見付ける。この事で、それまで有償だった[[教科書]]代に疑問を呈し「義務教科書の無償提供運動」を興した。 結果、[[1963年]]「[[義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律]]」が成立し[[1969年]]までに順次、全国の小中学校の教科書が無償提供されることになる。 === 八鹿高校事件 === {{main|八鹿高校事件}} 1974年11月22日、[[兵庫県]]養父郡八鹿町(現[[養父市]])の[[兵庫県立八鹿高等学校|八鹿高等学校]]の教職員約70名と解放同盟や総評系労組で構成された八鹿高校差別教育糾弾共闘会議が衝突する事件が起こった。この事件により48名が負傷し、29名が入院、危篤を含め2か月から1週間のけがを負ったとされる。 === 同和事業に関わる不正・腐敗 === 同和対策事業の伸展に伴い、同和地区の環境改善は画期的に進んだが、巨額の予算の執行に伴い、それに関わった行政当局者、運動団体関係者による不正・[[汚職]]行為が少なからず発生し、マスコミを賑わせることがたびたびあった。とりわけ1981年の[[北九州土地転がし事件]]、2001年に表面化したモード・アバンセ不正融資事件などに、運動団体の幹部が関与していたことが報道されている。 [[2006年]]、[[奈良]]、[[京都]]、[[大阪]]で同和対策事業に関する不正が数多く発覚し、各自治体は同和対策の見直しを発表。奈良では部落解放同盟奈良県連古市支部の幹部が、[[奈良市]]職員でありながら架空の病気を理由にほとんど出勤せず、給与を詐取していた。 == 現在の部落差別 == かつて問題となった[[所得格差]]や[[インフラストラクチャー]]整備の遅れ、[[進学率]]の違いは住宅改善事業などの[[同和対策事業]]により指定地区ではかなり解消され、若い世代では差別意識は薄れてきている。しかしながら、身元調査が行われている事を背景に過去に被差別部落の闇リスト(特殊部落「[[地名総鑑]]」など)が会社の人事担当などを対象に売られる事件が度々起こっている。 結婚や就職、地域交流に関わる差別は当事者の判断にかかる事柄であり差別事象は多い。また、部落差別解放問題に取り組む団体の関係者(主に行政と地域との間のパイプ役となっている団体役員)による不正行為の発覚、路線の対立する各団体同士間の[[イデオロギー]]の差異に端を発する対立によるトラブルなど、違う類の問題も表面化している。 少なくとも[[高度経済成長]]による人口の大移動、それに伴う都市近郊の開発・移転によりかつての被差別部落地区が薄れたり、新しく移入してきた住民の間で忘れ去られていく傾向は多い。また各種運動の結果として差別意識が改善している部分も大きい。現在も義務教育の過程の中で、平等主義的な意味で、被差別部落についての教育が行われることがあるが、「寝た子を起こすな論」では「そもそも被差別部落の意味を理解していない(実体験として被差別部落が何であるかを知らない)子供に単に「部落」という言葉が差別語であるという意識を植え付けている」と主張されている。 一方、従来の「周囲の差別的な視線により移転の自由がままならず、同じ血筋の人が代々住み続けているところ」との一般的な部落に対するイメージとは異なり、[[京都市]]、[[大阪市]]などに多数存在する都市部落では、人口の流出入が極めて活発であり、社会的地位の上昇を果たした階層が転出していき、その代わり社会的に低位な層が転入してくるという循環構造が形成されていることが近年明らかになってきている<ref>部落解放研究所編『新編 部落の歴史』(解放出版社 1993年)ほか</ref>。近い将来、それらの地区では、新たな貧困と、それに起因する様々な社会的問題を抱えることになるのではないかと懸念されている。早期に同和対策事業が開始された地域では、その一環として取り組まれた社会資本の老朽化が顕著になっているほか、すでに地区住民の実情に合わないものになっており、その対処を巡り新たな課題が発生していると指摘されることもある<ref>『こぺる』編集部編『部落の過去・現在・そして…』(阿吽社 1991年)</ref>。 政界においては[[野中広務]]が被差別部落出身として有名であるが、出身に起因する差別や妬みなどがあったと言われている。2001年の総裁選では、部落出身であるから総理にはなれないという話もでてきていた。こうした中、野中が同党の[[麻生太郎]]を差別発言を行ったとして名指しで非難し、麻生が否定するという一幕もあった。<ref>[[魚住昭]] 『野中広務 差別と権力』 [[講談社]] [[2004年]] ISBN 4062753901 384から386頁、391から393頁</ref><ref>[[角岡伸彦]] 『はじめての部落問題』 [[文藝春秋]] [[2005年]] ISBN 4166604783104頁</ref><ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/162/0094/16202220094003a.html 第162回国会 総務委員会 第3号 平成十七年二月二十二日(火曜日)]</ref>。 {{See|野中広務}} == 部落問題とマスメディア == 部落問題は、現代の日本において一種の[[タブー]]であると言われる。そのため[[マスメディア]]などで正面から取り上げられることは少なく(真面目に取り上げられるのは[[朝まで生テレビ]]など少数)、また公の場で部落問題を語ることは大きな論争の原因となることが多い。 「部落」という[[言葉]]自体も、事実上の[[放送禁止用語]]となっており、出演者が「[[集落]]」の意味での部落という言葉を使った時でさえ、すぐに謝罪訂正(ニュース・生放送などの場合「集落ですね」などとその場で言い換える場合がある)が流される。しかし最近では、本来の「部落」の意味や過剰な自主規制への反省からか、特に何事も無く放送が進む場合が多い。 [[21世紀]]に入って『[[同和利権の真相]]』([[寺園敦史]]、[[一ノ宮美成]]、グループK21著・別冊宝島Real、[[宝島社]]文庫)というシリーズが発表された。既に累計50万部前後のベストセラーとなっている。また、本書で取り上げられた[[ハンナン]]株式会社の[[浅田満]]元会長が[[2004年]][[4月17日]]に[[牛海綿状脳症|BSE]]対策の補助金詐取の嫌疑で逮捕された。 なお、『同和利権の真相』で主要な批判の対象とされている部落解放同盟の公式見解として公表された反論文<ref>解放新聞 2003年4月14日 {{cite web|url=http://www.bll.gr.jp/siryositu/siryo-syutyo2003/guide-seimei-20030414.html|title=『別冊宝島Real 同和利権の真相』への見解|accessdate=8月25日|accessyear=2007年}}</ref>や、や[[宮崎学]]、[[角岡伸彦]]など解放同盟外の論者らの同書への批判を眼目とした反論本『『同和利権の真相』の深層』([[解放出版社]])がある。 == 主な差別事象 == {{節stub}} === 結婚差別 === 部落出身者と結婚すると血縁関係が生ずるため、「自分の家系(息子、娘)の血が穢れる」からと反対する家族(親戚なども)が多くいた。内密に身元調査や聞き合わせを行い、部落出身者と分かると結婚を許さない例や、好きな人と一緒になることに大変大きな妨げがあった。そのため部落民は部落民同士で結婚する事や、仮に部落外の人と結婚できたとしても、それは親族の祝福がない駆け落ちであったりする事が多かった。また、結婚差別に遭い、自ら命を絶つ者も多くいた。今でも、その傾向は少なからずあり、露骨に反対する場合・それ以外の理由に託けて反対する場合の両方がある。 === 就職差別 === 1975年11月に部落地名総鑑事件が発覚し、被差別部落とされる地域を記した本が興信所などにより作成され購入者の人事部に配備されており、それを基にしてその地域に住んでいるものを意図的に不採用にするなどの例があった。行政書士などが職務上の権限を利用する例が後を絶たない。 === 差別とされた表現の例 === * [[1956年]]1月、小説家[[石上玄一郎]]が『[[朝日新聞]]』文化欄に発表した評論の中で「文壇には、特殊部落的偏狭さがみちみちている」と記述。これに対して部落解放同盟が[[朝日新聞社]]を[[確認・糾弾|糾弾]]。朝日新聞社は「今後、部落問題をタブー視せず、前向きに差別の現実を書く」ことを約束した<ref>[[部落解放研究所]]編『部落問題事典』p.10、解放出版社、[[1986年]]</ref>。 * [[1967年]]1月と2月、小説家で精神科医の[[なだいなだ]]が『[[毎日新聞]]』朝刊の人生相談欄『悩みのコーナー』にて、結婚差別を受けたという部落出身女性の投書に対して「部落民という考えは、内部の[[劣等感]]によって支えられている」「小さなつまらぬ悩みだ」と回答したところ、部落解放同盟が糾弾に乗り出した。 * [[1969年]]、経済学者[[大内兵衛]]が、[[岩波書店]]刊行の雑誌『[[世界 (雑誌)|世界]]』3月号に論文「[[東京大学|東大]]は滅してはならない」を発表。この論文における「[[大学]]という特殊部落の構造」という表現が部落解放同盟によって追及され、執筆者大内と岩波書店が糾弾を受けた。『世界』3月号は回収処分となり、編集部と大内が同誌の4・5月号に謝罪文を発表<ref>[[成澤榮壽]]編『表現の自由と部落問題』p.12、[[部落問題研究所]]、[[1993年]]。ISBN 4829810335</ref>。 * [[1973年]][[7月19日]]、司会者[[玉置宏]]が[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の[[ワイドショー]]『[[3時のあなた]]』にて「芸能界は特殊部落だ」と発言したところ、[[1973年]][[8月16日]]、部落解放同盟が玉置とフジテレビと[[関西テレビ放送|関西テレビ]]を相手取って確認・糾弾会を開いた。玉置は謝罪し、テレビ局側は部落問題解決のための番組作りを約束した。 * [[1973年]]9月、映画評論家の[[淀川長治]]が『[[産経新聞|サンケイ新聞]]』の[[インタビュー]]記事にて、自らの庶民性を示す証として、両親から近寄らないよう言われていた「特殊な部落にある銭湯にはいったこともあった」、「この貧しい人たちと液体で結ばれたと思ったのにねぇ」という経験を語ったところ、部落解放同盟が「両親の差別意識を肯定するとともに、自らの[[エリート]]意識をさらけ出すもの」「エセ・[[ヒューマニズム]]」(宮原良雄)と反撥し、糾弾に至った<ref>部落解放研究所編『部落問題事典』p.308、解放出版社、1986年。[[成澤榮壽]]編『表現の自由と部落問題』p.14、[[部落問題研究所]]、[[1993年]]。ISBN 4829810335</ref>。この事件の後、サンケイ新聞社は[[1974年]]11月から[[1975年]]3月にかけて、部落問題の特集記事として『シリーズ・差別』を大阪本社発行の朝刊に連載した。淀川は、部落解放同盟大阪府連合会制作による[[狭山事件]]告発映画『狭山の黒い雨』を部落問題の視点から批評するよう約束した。 * [[1979年]]8月、[[曹洞宗]]宗務総長で[[全日本仏教会]]理事長(当時)の[[町田宗夫]]が、[[アメリカ合衆国|米国]][[ニュージャージー州]][[プリンストン]]における第3回世界宗教者平和会議にて、「日本に部落差別はない」「部落解放を理由に何か騒ごうとしている者がいる」「政府も自治体もだれも差別はしていない」と発言。このことが部落解放同盟から「部落解放運動の全面否定」とされ、糾弾に至った。 * [[1981年]]2月、政治学者で[[社会科学研究所|東京大学社会科学研究所]][[教授]](当時)の[[有賀弘]]が、[[ベルリン自由大学]]における日本学研究室の[[金子マーティン]]講師(当時)の部落問題に関する研究発表に対し、「部落問題は東日本にはない。西日本にはあるが、それは部落解放同盟と日本共産党との同和予算をめぐる金銭上のトラブル」「[[日本語]]の部落という言葉は、村落とか集落とかいう一般名詞であって何も差別を意味するものではない」と発言。このことが部落解放同盟の糾弾を招いた。 * [[1989年]]、[[ニュース]][[キャスター]]の[[筑紫哲也]]が「[[ニューヨーク]]の街も多分[[と畜場|屠殺場]]だね」と番組で発言をした。当時、公の場で使われる差別的な言葉が問題となっていたため(批判的な意味で[[言葉狩り]]とも呼ばれた)、筑紫は「屠殺場」という言葉の使い方が不適切であったとして翌日に[[謝罪]]をした。しかし一部の[[屠場]][[労働組合|労組]]から抗議があり、[[部落解放同盟]]も加わっての[[確認・糾弾|糾弾]]会が行われた<ref>『新・差別用語』([[汐文社]]、[[1992年]][[7月]]。ISBN 4811301323)によれば、その糾弾会は大変に激しいもので「人格が破壊されかねない」ものであったとされる。しかし同書は、筑紫本人に取材した形跡はない。筑紫本人はこの糾弾を受けた結果として同労組との友好関係を築くことができ、それ以後密な交流を持つようになった、糾弾を受けたことは有意義な経験だったと繰り返し述べている。</ref>。 === 差別とされなかった表現の例 === * [[松本治一郎]]は、[[1952年]]7月、[[徳川夢声]]との対談で「『部落』と書こうが『[[穢多|エタ]]』といおうが、問題じゃないんです。……その前後に差別の意味が加わってさえいなけりゃ、少しも問題はないわけですよ。それを[[糾弾]]するというのは、ことさらためにしようとするハシッパのもんです。……悪い奴にかかると、やっぱりヘンなことが生ずる」<ref>『松本治一郎対談集 不可侵 不可被侵』[[解放出版社]]、[[1977年]]、p20。</ref>と語り、差別表現として糾弾するか否かはその語が差別的文脈で使われているか否かによるという見解を示したが、[[1948年]]には松本自身が「私は三百万部落民の水平運動から、さらに数歩をすすめて、いわば世界の特殊部落におちこんだ八千万日本人民の水平運動をおこしたいと考えているのだ」<ref>松本治一郎「天皇に拝謁せざるの記」、『世界評論』[[世界評論社]]、[[1948年]]4月、p57。[[部落解放研究所]]編『部落解放運動基礎資料集』第IV巻(「差別糾弾・行政闘争」)、部落解放同盟中央本部、[[1981年]]、p7に再録。</ref>と述べ、特殊部落という語を差別的文脈で使用していた。しかしこれは糾弾の対象とならず、松本自身も自己批判しなかった<ref>[[金静美]]『水平運動研究史─民族差別批判』現代企画室、[[1994年]]、p.539。</ref>。 * [[1952年]][[8月20日]]、『[[解放新聞]]』は「おじいさん達も斗つた─八十一回目の解放令記念日を迎え」と題する山村慎之助の記事を載せた。この記事の中では「再軍備と植民地化に反対し、民族の解放を斗いとることが、外国帝国主義と国内反動のために世界の特殊部落になれはてた日本民族全体の死活の問題として切実に出されてきている」と、やはり特殊部落という語が差別的文脈で使われていた。しかし、これもやはり糾弾の対象とならず、『解放新聞』も山村も自己批判しなかった<ref>金静美『水平運動研究史─民族差別批判』現代企画室、[[1994年]]、p.542。</ref>。 * [[小林よしのり]]が[[ゴーマニズム宣言]]で「穢多」と誤って書いてしまったこと。抗議を受けなかったが、自らこれをミスである(漢字で書くのは誤り)と作中記している。 後半は[[部落問題-2]]を参照    [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%83%A8%E8%90%BD%E5%95%8F%E9%A1%8C 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月29日 (土) 13:42。]    

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