「井上馨」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
「井上馨」(2008/11/24 (月) 23:53:17) の最新版変更点
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
{{政治家
|各国語表記 = いのうえ かおる
|画像 = Kaoru Inoue 4.jpg
|画像説明 = 井上馨
|国略称 = {{JPN}}
|生年月日 = [[1836年]][[1月16日]]<br />
|出生地 = [[周防国]][[湯田村]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1836|1|16|1915|9|1}}
|死没地 = [[静岡県]][[静岡市]]
|出身校 =
|所属政党 =
|称号・勲章 = [[従一位]][[大勲位]]、[[侯爵]]
|配偶者 =
|ウェブサイト =
|サイトタイトル =
|国旗 = 日本
|職名 = 初代[[外務卿]]
|内閣 =
|当選回数 =
|就任日 = 1879年
|退任日 = 1885年
|退任理由 =
|元首職 =
|元首 =
<!-- ↓省略可↓ -->
|国旗2 = 日本
|職名2 = 初代[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]
|内閣2 = [[第1次伊藤博文内閣]]
|当選回数2 =
|就任日2 = 1885年
|退任日2 = 1887年
|退任理由2 =
|元首職2 =
|元首2 =
|国旗3 = 日本
|職名3 = 第5代[[農商務大臣]]
|内閣3 = [[黒田清隆内閣]]
|当選回数3 =
|就任日3 = 1888年
|退任日3 = 1889年
|退任理由3 =
|元首職3 =
|元首3 =
|国旗4 = 日本
|職名4 = 第10代[[内務大臣]]
|内閣4 = [[第2次伊藤内閣]]
|当選回数4 =
|就任日4 = 1892年
|退任日4 = 1894年
|退任理由4 =
|元首職4 =
|元首4 =
|国旗5 = 日本
|職名5 = 第6代[[大蔵大臣]]
|内閣5 = [[第3次伊藤内閣]]
|選挙区5 =
|当選回数5 =
|就任日5 = 1898年
|退任日5 = 1898年
|退任理由5 =
|元首職5 =
|元首5 =
<!-- ↑省略可↑ -->
}}
'''井上 馨'''(いのうえ かおる、[[1836年]][[1月16日]]([[天保]]6年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]) - [[1915年]][[9月1日]])は、[[日本]]の[[武士]]・[[長州藩]]士、[[政治家]]、[[実業家]]。[[本姓]]は[[源氏]]。[[清和源氏]]の一家系 [[河内源氏]]の流れを汲む安芸国人 [[毛利氏]]家臣 [[井上氏]]。
幼名は勇吉、通称を聞多(長州藩主[[毛利敬親]]から拝受)。諱は惟精(これきよ)。[[太政官#太政官制|太政官制]]時代に[[外務卿]]、[[参議]]など。[[黒田内閣]]で[[農商務大臣]]を務め、[[第2次伊藤内閣]]では[[内務大臣]]など、汚職にまみれながらも数々の要職を歴任した。[[従一位]][[大勲位]][[侯爵]]、[[元老]]。
== 生涯 ==
=== 長州藩士時代 ===
長州藩士・井上五郎三郎光享(大組・100石)の次男として、[[周防国]]湯田村に生まれる。のち、長州藩士・志道家(大組・250石)の養嗣子となるも、のち井上家に復籍。小姓役などを勤めた。藩校[[明倫館]]に入学した後、江戸で[[岩屋玄蔵]]や[[江川太郎左衛門]]に師事して蘭学を学んだ。次第に勃興した[[尊皇攘夷運動]]に共鳴、江戸遊学中の[[文久]]2年([[1862年]])には[[高杉晋作]]や[[久坂玄瑞]]らとともにイギリス公使館の焼討ちに参加するなどの過激な行動を実践する。
文久3年([[1863年]])、執政[[周布政之助]]を通じて洋行を藩に嘆願、[[伊藤博文]]・[[山尾庸三]]・[[井上勝]]らとともに[[長州五傑]]の一人としてイギリスへ密航するが、留学中に国力の違いを目の当たりにして開国論に転じ、[[下関戦争|下関での外国船砲撃事件]]では伊藤とともに急遽帰国して和平交渉に尽力した。第1次[[長州征伐]]では武備恭順を主張したために[[俗論党]]に襲われ(袖解橋の変)、瀕死の重傷を負うが、美濃の浪人で医師の[[所郁太郎]]の手術を受け、一命を取り留める。その後、高杉晋作らと協調して[[長府]][[功山寺]]で決起。再び藩論を開国攘夷に統一した。[[慶応]]元年([[1865年]])、[[坂本龍馬]]の仲介で[[薩摩藩]]と同盟し([[薩長同盟]])、第2次長州征伐で幕府軍に勝利した。
=== 明治維新後 ===
官界に入り、主に財政に力を入れた。[[明治]]6年([[1873年]])、[[司法卿]][[江藤新平]]に[[尾去沢鉱山#尾去沢銅山事件|尾去沢銅山]]の汚職事件を追及され辞職。一時は三井組を背景に[[先収会社]]を設立するなどして実業界にあったが、伊藤博文の強い要請のもと復帰し、[[外務大臣|外務卿]]、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]、[[農商務大臣]]、内務大臣、[[大蔵大臣]]を歴任。明治16年([[1883年]])、外務卿として不平等[[条約改正]]交渉のため、[[鹿鳴館]]を建設。さらにパリやベルリンに劣らぬ首都を建設しようと[[官庁集中計画]]を進めた(井上辞任に伴い頓挫した)。
また実業界の発展にも力を尽くし、紡績業・鉄道事業などを興して殖産興業につとめた。明治17年([[1884年]])[[華族令]]で[[伯爵]]、明治40年([[1907年]])には侯爵に陞った。[[日本郵船]]・[[DOWAホールディングス|藤田組]]と密接に関係し、特に[[三井財閥]]においては最高顧問になるなど、これを快く思わなかった[[西郷隆盛]]からは“'''三井の大番頭'''”ともいわれた。尾去沢銅山事件に代表されるように実際に三井、長州系列の政商と密接に関わり、賄賂と利権で私服を肥やし、散財するという行為が当時から世間において批判され、貪官汚吏の権化とされていた。[[第4次伊藤内閣]]の崩壊後、[[大命降下]]を受けて[[内閣総理大臣]]に就任する予定になったが、政局の運営に見通しが立たないと判断すると、総理大臣就任を辞退して[[桂太郎]]に地位を譲った(なお、第2次伊藤内閣の内相時代に伊藤が交通事故に遭ったために1ヶ月余り首相臨時代理を務めている)。伊藤亡きあと、[[西園寺公望]]や[[松方正義]]などと共に元老として、政官財界に絶大な勢力を誇った。
大正4年(1915年)、[[静岡県]][[興津町]](現:[[静岡市]][[清水区]])の別荘・長者荘にて死去した。
== 功績と人柄 ==
=== 業績 ===
[[画像:KaoruM13.jpg|thumb|right|200px|[[明治]]13年([[1880年]])の[[大礼服]]の井上馨]]
長州藩と薩摩藩は天保時代に国情に応じた改革を実行することで藩の財政を改善し、幕末には[[雄藩]]と言われる程の力を得ていった。幕府だけでなく、各藩にとっても大きく方針の揺れ動いた時代であるが、方針すら決めかねる程の難題に、頭を痛めるだけで逡巡している立場、先鋭化した立場、個人に至るまで様々な情況に立たされていたが、藩自体の[[富国強兵]]策は各藩各層に共通した目標であった。雄藩は、若者に世界への目を開かせる為に比較的鷹揚に金を使わせた。薩摩藩に至っては19名以上も[[イギリス]]に留学した。
維新後については、制度を作りながら諸施策を進めていくと言った、行政の舵取りが必要であったが、明治初期に重職に就いた者の中で理財の才能を持った者は、井上馨がその筆頭に挙げられ、財政の建て直しに大変な努力をしている。長州藩は幕府転覆の最大の功労藩で権限も集中していたから、更に理財の才能のある者達が井上の周囲に集まって来ていたと考えられる。また三井組の人間などを背景に、自らの政治権力を利用した汚職行為に非常に熱心で、それが原因で一度は官を辞職したが、長州系列の人脈と革命の元勲としての威光でその同藩出身の山県有朋とともに過去の汚職にも関わらず絶大な存在感を示した。
外務大臣としての従事期間は長く、その間、[[条約改正]]に献身的な努力を注いでいた。その成果は次の[[大隈重信]]・[[青木周蔵]]・[[陸奥宗光]]らに至って現れて来ていると考えられる。外交はその国民の代表との長い信頼関係の構築の結果として醸成されてくるものであるから、国内での影響力と同じ尺度で評価する事は適切ではない。井上は維新政府の財政面から国家運営を見ていた為に、諸外国との戦争は極力避けたいと願っていた事が窺い知れる。
=== 人物 ===
林学博士[[中村弥六]]によると「世話好き。一旦見込んだ人には身分や出身地の如何に関せず常に満身の誠意を傾注して世話をやいた」という。直情径行で曖昧を許さない。必要な場所に自身で出かけて行き、膝詰談判をした。意にそまぬ事があると一喝にあう。この一喝にあってそれっきり寄り付かぬ者、敵になった者もあるが元来親切から出ているので、一喝にあっても怯まず、自ら偽らず自信のある者は後に出世した者が多い。
叱咤と怒声から『雷』とあだ名されたが、[[渋沢栄一]]は井上の信頼を得て雷鳴に対する安全地帯であったから『避雷針』と異名を付けられていた。
[[徳富蘇峰]]の評では、「彼は官業反対論者なり。彼は徹頭徹尾民間が出来る業をお役人がやる事は非能率で民間の業を圧迫妨害するのみならず、自ら屋上屋を架し…」と井上の合理主義者としての面に触れている。
[[明治維新]]から20年間について伊藤と井上馨の人物評を、大隈が次のように言っている。
: 「伊藤氏の長所は理想を立てて組織的に仕組む、特に制度法規を立てる才覚は優れていた。準備には非常な手数を要するし、道具立ては面倒であった」
: 「井上は道具立ては喧しくない。また組織的に、こと功を立てるという風でない。氏の特色は出会い頭の働きである。一旦紛糾に処するとたちまち電光石火の働きを示し、機に臨み変に応じて縦横の手腕を振るう。ともかく如何なる難問題も氏が飛び込むと纏まりがつく。氏は臨機応変の才に勇気が備わっている。短気だが飽きっぽくない。伊藤氏は激烈な争いをしなかった。まず勢いに促されてすると云うほうだったから敵に対しても味方に対しても態度の鮮明ならぬ事もあった。伊藤のやり口は陽気で派手で、それに政治上の功名心がどこまでも強い人であるから、人心の収攬なども中々考えていた。井上は功名心には淡白で名などにはあまり頓着せず、あまり表面に現れない。井上氏は伊藤氏よりも年長であり、また藩内での家格も上で、維新前は万事兄貴株で助け合ってきたらしい。元来が友情に厚く侠気に富んだ人であるから伊藤氏にでも頼まれると、割の悪い役回りにでも甘んじて一生懸命に働いた。井上氏がしばしば世間の悪評を招いた事に中にはそういう点で犠牲になっているような事も多い」
仕事上で特に深く交際した人は、渋沢栄一、[[益田孝]]等はじめ多数。長寿であった為、縁者である若者[[鮎川義介]](実姉常子の孫)や鮎川の義弟[[久原房之助]]への指導もしている。
親友としては、吉富簡一(山口矢原の庄屋の生れ・初代山口県会議長・防長新聞創立、政友会を支援した)。高杉晋作と伊藤博文については特に仕事を離れても親しく交際していた事は言うまでもない。
仕事外での交際としては、歌舞伎役者の[[市川團十郎 (9代目)|市川團十郎]](芝金杉で河原座を営業し失敗、借財の整理に協力した)、[[落語家]]の[[三遊亭圓朝]]、[[清元]]のお葉、[[義太夫]]の[[竹本越後太夫]]らが挙げられる。
== 家族親族 ==
*孫にあたる東大名誉教授[[井上光貞]]は日本古代史の研究者として知られた
== 系譜 ==
*[[井上氏#安芸井上氏|井上氏]]
<pre>
光享─┬光遠==馨==┬勝之助==三郎─┬光貞
│ │ │
└馨 ├千代子 ├元勝
│ │
└可邦子 ├元廣
│
└武子
</pre>
<pre>
桂太郎━━井上三郎
┃
┣━━━井上光貞
┃ ┃
井上馨━━千代子 ┃
┃
伊達宗徳━━二荒芳徳 ┃
┃ ┏明子
┣━━┫
┃ ┗治子
北白川宮能久親王━━━拡子 ┃
┃
┏石坂一義
┃
┣石坂泰介
┃
石坂泰三 ┣石坂泰夫
┃ ┃
┣━━╋石坂泰彦
┃ ┃
織田一━━雪子 ┣石坂信雄
┃
┣智子
┃
┗操子
┃
霜山精一━━霜山徳爾
</pre>
== 参考項目 ==
=== 演じた人物 ===
* [[藤田進]]:『[[明治天皇と日露大戦争]]』(1957年、映画)
* [[高津住男]]:『[[三姉妹]]』(1967年、NHK大河ドラマ)
* [[長谷川明男]]:『[[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]]』(1968年、NHK大河ドラマ)
* [[竜岡晋]]:『[[日本海大海戦]]』(1969年、映画)
* [[明石勤]]:『[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]』(1974年、NHK大河ドラマ)
* [[東野英心]]:『[[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]]』(1977年、NHK大河ドラマ)
* [[佃文伍郎]]:『[[竜馬がゆく#1982年版|竜馬がゆく]]』(1982年、テレビ東京12時間超ワイドドラマ)
* [[土屋嘉男]]:『[[春の波涛]]』(1985年、NHK大河ドラマ)
* [[萩原流行]]:『[[奇兵隊 (テレビドラマ)|奇兵隊]]』(1989年、日本テレビ年末時代劇スペシャル)
* [[木場勝己]]:『[[勝海舟 (テレビドラマ)|勝海舟]]』(1990年、日本テレビ年末時代劇スペシャル)
* [[伊武雅刀]]:『[[山田風太郎 からくり事件帖-警視庁草紙より-]]』(2001年、NHK)
* [[藤波晟]]:『[[竜馬がゆく#2004年版|竜馬がゆく]]』(2004年、テレビ東京新春ワイド時代劇)
* [[北村有起哉]]:『[[長州ファイブ]]』(2006年、映画)
=== 関連項目 ===
{{Commons|Inoue Kaoru}}
* [[高杉晋作]]
* [[渋沢栄一]]
* [[伊藤博文]]
* [[大隈重信]]
* [[長州藩士の洋行]]
* [[薩長同盟]]
* [[長崎製鉄所]]
* [[第百十一銀行]]
* [[日朝修好条規]]
* [[鹿鳴館]]
* [[北海道開拓事業]]
* [[尾去澤銅山事件]]
* [[藤田組贋札事件]]
* [[小野田セメント]]
* [[東本願寺借財整理]]
* [[曹洞宗内紛]]
* [[自治党]]
* [[新島襄]]
* [[中西君尾]]
== 外部リンク ==
*[http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/18.html 井上馨 | 近代日本人の肖像]
*[http://www.geocities.jp/kazumihome2004/10-6.html ◆井上馨◆]
*[http://www.geocities.jp/bane2161/inouekaoru.htm 井上馨]
[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%A6%A8 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月20日 (木) 13:29。]