山東出兵

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'''山東出兵'''(さんとうしゅっぺい)は、[[日本]]([[大日本帝国]])が[[1927年]]([[昭和]]2年)と[[1928年]](昭和3年)に、3度にわたって行った[[中華民国]][[山東省]]への派兵と、その地で起こった戦闘。 ==背景== 日本は[[第一次世界大戦]]([[1914年]]~[[1918年]])で[[ドイツ帝国]]の権益であった山東省と[[租借地]]の[[青島]]([[膠州湾租借地]])、[[植民地]]である[[南洋諸島|南洋群島]]を攻略し、山東省については[[1919年]]のパリ講和会議および[[ヴェルサイユ条約]]によって、ドイツの権益を全て日本が引き継ぐこととなったが、日本はこれに先駆け、中国政府に対して[[1915年]]にドイツ権益を日本に譲り渡すことなどを記載した「[[対華21ヶ条要求|21か条の要求]]」を突きつけ、中国側の反感を買っていた。ヴェルサイユ条約調印直前には、学生を中心にこれに反対する運動が盛んになり、[[五四運動]]となった。 状況を打開すべく、日本政府は中国と交渉の末、[[1922年]]の「日中山東条約」及び「日中山東還付条約」によって青島を含んだ山東省を中国に還付することとなった。これは軍縮会議以来、世界規模で進む軍縮の流れによるものでもある([[シベリア出兵]]の本年終了)が、中国は21か条も廃棄するよう求め、日本はこれを拒否した。中国市民はこれに怒り、また日本は[[1900年]]の[[義和団の乱|義和団事変]](北清事変)以来、[[北京議定書]]に基づいて、[[イギリス]]、[[アメリカ合衆国]]、[[ロシア帝国]]などの列強同様、[[天津市|天津]]はじめ中国各地に軍を駐留させていたが、これに対する反感も相まって、全国規模で排日・侮日運動が巻き起こった。 ==第一次出兵== [[1926年]](大正十五・昭和元年)、中国の[[蒋介石]]は国内の勢力統一、主に[[軍閥]]・[[張作霖]]の北京政府撲滅を目指して[[北伐]]を開始した。日本政府は、中国内の日本権益が北京政府の支配地に多いことから、これらが北伐軍に侵されることを恐れていたが、翌[[1927年]](昭和二年)、[[漢口]]の民衆が日本の海軍陸戦隊と衝突する事件が発生、これを機に中国人の反日感情が再度爆発し、日貨排斥運動となった。その上、北伐軍は山東省に接近、同時期に新たな軍縮会議を[[ジュネーヴ]]で行っていたが、社会情勢の変化によって決裂、日本は山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、山東省へ陸海軍を派遣することを決定。日本と[[関東州]]の[[大連]]及び天津から南下した日本軍は首尾よく展開、治安維持活動を開始した。しかし、蒋介石の北伐軍は張作霖に敗北して山東省に入ることなく撤退したため、日本軍もすぐに撤退した。なお、この年に日本領事館が[[コミンテルン]]の陰謀によって中国市民の略奪にあうなど、反日運動は最高潮に達した([[南京事件]])。 ==第二次・第三次出兵== 翌[[1928年]](昭和三年)3月、形成を立て直した蒋介石の北伐軍は広州を出発して北上し、山東省に接近、4月末に10万人の北伐軍が市内に突入した。このため日本軍も再び派遣され、6千人が山東省に展開した。省内で日本軍と北伐軍が対峙し、睨み合いながらも当初は両軍ともに規律が保たれていた。しかし、北伐軍兵士が日本人の家を略奪したため、警備をしていた日本軍と銃撃戦が起こった。ところが、ここで蒋介石に「日本軍が中国人を虐殺している」との出自不明の情報がもたらされ、激怒した蒋介石は日本人12名を殺害させる[[済南事件]](5月3日)が発生した。[[済南]]近くの鉄道駅で日本人9人分の惨殺死体が日本軍によって発見され、日本軍は市内に2千人いる日本人保護のために済南に侵攻、5月11日には済南全域を攻略した。年内中に蒋介石は北伐を完成させぬまま終了し、[[1929年]](昭和四年)には山東全域から日本軍が撤退した。 ==展開== これらの出兵は日本人と日本権益保護の目的が明白であり、規律も正しかったこと、当時の国際常識からも妥当であったこと、展開・撤収が迅速であったことからも、国際世論からも特に批判されることは無かった。また、当時の[[田中義一内閣]]は[[東方会議_(1927年)|東方会議]]を開いて、中国の内戦である北伐への不干渉を決めており、軍もこの決定に従って不用意に戦線を拡大することはなかった。つまり、当時は文民統制が実行されていたわけである。一方、[[蒋介石]]は北伐戦争を妨害されたことを根にもったらしく、このときから日本との戦争を覚悟していたといわれる。 しかしながら、[[関東州]]の日本軍は、当時日本の権益であった[[満州]]でも実力を誇った[[張作霖]]を爆殺する事件([[満州某重大事件]])を1928年末に起こし、露骨な満州政策を行い始めてもいた。これは日本政府が進めていた軍縮路線(不戦条約宣布と[[ロンドン軍縮条約]])と相反するものであり、政府と[[関東軍]]を中心とした軍部の軋轢は次第に深まっていくことになる。 ==関連項目== *[[万県事件]] *[[済南事件]] *[[南京事件]] *[[十五年戦争]] *[[日中戦争]]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E5%87%BA%E5%85%B5 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年12月26日 (水) 03:32。]    
'''山東出兵'''(さんとうしゅっぺい)は、[[日本]]([[大日本帝国]])が[[1927年]]([[昭和]]2年)と[[1928年]](昭和3年)に、3度にわたって行った[[中華民国]][[山東省]]への派兵と、その地で起こった戦闘。 ==背景== 日本は[[第一次世界大戦]]([[1914年]]~[[1918年]])で[[ドイツ帝国]]の権益であった山東省と[[租借地]]の[[青島]]([[膠州湾租借地]])、[[植民地]]である[[南洋諸島|南洋群島]]を攻略し、山東省については[[1919年]]([[大正]]8年)のパリ講和会議および[[ヴェルサイユ条約]]によって、ドイツの権益を全て日本が引き継ぐこととなったが、日本はこれに先駆け、中国政府に対して[[1915年]](大正4年)にドイツ権益を日本に譲り渡すことなどを記載した所謂「[[対華21ヶ条要求|21か条の要求]]」を突きつけ、中国側の反感を買っていた。ヴェルサイユ条約調印直前には、学生を中心にこれに反対する運動が盛んになり、[[五・四運動]]となった。 状況を打開すべく、日本政府は中国と交渉の末、[[1922年]](大正11年)の日中山東条約及び[[山東懸案解決に関する条約|日中山東還付条約]]によって青島を含んだ山東省を中国に還付することとなった。これは軍縮会議以来、世界規模で進む軍縮の流れによるものでもある([[シベリア出兵]]の本年終了)が、中国は21か条も廃棄するよう求め、日本はこれを拒否した。中国市民はこれに怒り、また日本は[[1900年]]の[[義和団事変]](北清事変)以来、[[北京議定書]]に基づいて、[[イギリス]]、[[アメリカ合衆国]]、[[ロシア帝国]]などの列強同様、[[天津市|天津]]はじめ中国各地に軍を駐留させていたが、これに対する反感も相まって、全国規模で排日・侮日運動が巻き起こった。 ==第一次出兵== [[1926年]](大正十五・昭和元年)、中国の[[蒋介石]]は国内の勢力統一、主に[[軍閥]]・[[張作霖]]の北京政府撲滅を目指して[[北伐]]を開始した。日本政府は、中国内の日本権益が北京政府の支配地に多いことから、これらが北伐軍に侵されることを恐れていたが、翌[[1927年]](昭和二年)、[[漢口]]の民衆が日本の海軍陸戦隊と衝突する事件が発生、これを機に中国人の反日感情が再度爆発し、日貨排斥運動となった。その上、北伐軍は山東省に接近、同時期に新たな軍縮会議を[[ジュネーヴ]]で行っていたが、社会情勢の変化によって決裂、日本は山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、山東省へ陸海軍を派遣することを決定。日本と[[関東州]]の[[大連市|大連]]及び天津から南下した日本軍は首尾よく展開、治安維持活動を開始した。しかし、蒋介石の北伐軍は張作霖に敗北して山東省に入ることなく撤退したため、日本軍もすぐに撤退した。なお、この年に日本領事館が[[中国共産党]]及び[[コミンテルン]]の策謀によって北伐軍や中国人による暴行や掠奪、陵辱に遭うなど、反日運動は最高潮に達した([[南京事件 (1927年)|南京事件]])。 ==第二次・第三次出兵== 翌[[1928年]](昭和三年)3月、形成を立て直した蒋介石の北伐軍は広州を出発して北上し、山東省に接近、4月末に10万人の北伐軍が市内に突入した。このため日本軍も再び派遣され、6千人が山東省に展開した。省内で日本軍と北伐軍が対峙し、睨み合いながらも当初は両軍ともに規律が保たれていた。しかし、北伐軍兵士が日本人の家を略奪したため、警備をしていた日本軍と銃撃戦が起こった。ところが、ここで蒋介石に「日本軍が中国人を虐殺している」との出自不明の情報がもたらされ、激怒した蒋介石は日本人12名を殺害させる[[済南事件]](5月3日)が発生した。[[済南]]近くの鉄道駅で日本人9人分の惨殺死体が日本軍によって発見され、日本軍は市内に2千人いる日本人保護のために済南城を攻撃、北伐軍は城外へ脱出し北伐を再開した為、5月11日には済南全域を占領した。この事件により日本の世論は憤激、中国に対する感情が悪化した。年内中に蒋介石は北伐を完成させぬまま終了し、[[1929年]](昭和四年)には山東全域から日本軍が撤退した。 ==展開== これらの出兵は日本人と日本権益保護の目的が明白であり、規律も正しかったこと、当時の国際常識からも妥当であったこと、展開・撤収が迅速であったことからも、国際世論からも特に批判されることは無く、逆に日本を支持する論調もあった。また、当時の[[田中義一内閣]]は[[東方会議_(1927年)|東方会議]]を開いて、中国の内戦である北伐への不干渉を決めており、軍もこの決定に従って不用意に戦線を拡大することはなかった。つまり、当時は文民統制が実行されていたわけである。一方、[[蒋介石]]は北伐戦争を妨害されたことを根にもったらしく、このときから日本との戦争を覚悟していたといわれる。 しかしながら、[[関東州]]の日本軍は、当時日本の権益であった[[満州]]でも実力を誇った[[張作霖]]を爆殺する事件([[満州某重大事件]])を1928年末に起こし、露骨な満州政策を行い始めてもいた。これは日本政府が進めていた軍縮路線(不戦条約宣布と[[ロンドン軍縮条約]])と相反するものであり、政府と[[関東軍]]を中心とした軍部の軋轢は次第に深まっていくことになる。 ==関連項目== *[[万県事件]] *[[済南事件]] *[[南京事件 (1927年)|南京事件]] *[[十五年戦争]]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E5%87%BA%E5%85%B5 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月29日 (金) 13:35。]    

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