東方会議_(1927年)

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'''東方会議'''(とうほうかいぎ)は、[[1927年]]6月27日から7月7日まで[[東京]]で開催された会議。 [[1927年]]4月に成立した[[田中義一内閣]]は[[強硬外交]]を推進し、翌5月に[[中国]]の権益強化と拡大のために[[山東省]]に兵を送った([[山東出兵]])。そして同年6月、[[田中義一]][[内閣総理大臣|首相]]は東京に閣僚・[[外務省]]首脳陣、中国公使、軍部首脳陣などをかき集めて、対中国政策についての方針を決めるための「東方会議」を開いたのである。そして、会議では次のようなことが決定された。当時、中国は[[中国国民党]]と[[中国共産党]]が覇権を争って内戦状態であり、[[軍閥]]が各地に分散していた。日本政府ではこの機を見て武力による大陸進出を図るべきという意見と、あくまで現在の権益を守ることを第一とするべきという意見があった。田中義一はこれに対して、日本の権益が侵される恐れが生じたときは、断固たる措置を採る。そして満蒙([[満州]]と[[内蒙古]]東部のこと)における権益は中国本土と切り離して、同地域の平和のために日本が責任をもって支配下に置くなどが決定された(対支政策綱領)のである。また、万が一中国の内乱が激化した場合には中国国民党と結んで、中国共産党による中国の共産化を阻止する方針も定められた。ちなみに満蒙は[[日露戦争]]後、日本にとって大きな権益を有する重要拠点として見なされていた。 [[1928年]]、[[蒋介石]]率いる国民革命軍が[[徐州市|徐州]]を占領し、[[済南]]付近([[山東半島]]の中西部にある省都)にまで迫ると、田中義一は再度、東方会議を開催して日本の権益を守るために国民革命軍と戦って、済南を占領してしまった。これを、「[[済南事件]]」という。 ==関連項目== *[[森恪]] *[[吉田茂]]([[奉天]][[総領事]]として出席) *[[田中上奏文]]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%B1%E6%96%B9%E4%BC%9A%E8%AD%B0_%281927%E5%B9%B4%29 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月23日 (日) 15:45。]    

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