無鄰菴

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'''ひめゆり学徒隊'''(-がくとたい)とは、[[1944年]]12月に[[沖縄県]]で[[日本軍]]が中心となって行った看護訓練によって作られた女子学徒隊のうち、[[沖縄師範学校]]女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成されたものの名前。通称として「'''ひめゆり部隊'''」と呼ばれることもある。 ==概要== 母体となった沖縄県女子師範学校(女師/[[1943年]]4月に師範学校教育令の改正に伴って沖縄師範学校女子部へ改組)と沖縄県立第一高等女学校(一高女)は、設立当時の沖縄県の財政事情から併設校とされ、校長および一部の教師は兼任であった。そのため、校名は異なるものの、実質的には一つの学校に近いものであったという。 名前の「ひめゆり」とは花の「[[ひめゆり]]」ではなく、沖縄県立第一高等女学校(一高女)の学校広報誌の名前「乙姫」と沖縄師範学校女子部の学校広報誌の名前「白百合」を併せて「姫百合」という名称になった。 米軍の沖縄上陸を目前に控えた[[1945年]][[3月23日]]、両校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊は沖縄陸軍病院の看護要員として動員された(ただし、強制ではなく志願)。しかし、敗色濃厚となった[[6月18日]]に突然解散命令が出され、翌日の[[6月19日]]をはじめとする約1週間の間に多数の犠牲を出した(死亡者のうち実に80%がこの間に集中している)。最終的には教師・学徒240人のうち136人が死亡。その内の14人は荒崎海岸で「[[集団自決]]」をしている(自決の強制性については論争あり。[[集団自決|当該項目]]を参照)。 戦後、最大の犠牲を出した伊原第三外科壕跡に慰霊塔である[[ひめゆりの塔]]が建立された。 なお、敷地の入口近くに建つ「ひめゆりの塔の記」では、動員数を297名、「合祀した戦没者」を224名としている。一方、ひめゆり平和祈念資料館が刊行している資料では「ひめゆり学徒隊」の動員数を240名、うち戦没者を136名としている(それ以外の戦没者が90名・戦没者の合計は226名)。この相違は、「ひめゆりの塔の記」では学徒隊以外の戦没者数を含んでいることによる。また、以前に戦没者の合計が219名とされていた時期もあったが、これは2003年7月の調査で判明した7名を含んでいないため。なお、「その他の戦没者」には沖縄戦開始以前の死者([[対馬丸]]事件と、[[1944年]]に下校中乗車していた弾薬輸送列車が爆発した事故によるもの)が含まれているが、これはいずれも「原因が戦争に関連している」との判断によるものだという。彼女たちの御霊は、同様に動員されて生命を失った[[学徒兵]]たちと同様に[[靖国神社]]に合祀されている。 ==犠牲者の詳細== 2004年現在、沖縄戦で亡くなった女師・一高女の人数の内訳は以下の通りとされている。なお、<その他>は沖縄戦開始後に陸軍病院動員以外で亡くなった人(他の部隊に協力中、学徒隊への参加途上、家族と共に避難中など)を指す。 {| border="1" cellpadding="2" style="border-collapse:collapse" |- ! 理由 !! 人数 !! 累計 |- | 沖縄陸軍病院動員 || align="right" | 136 || align="right" | 136 |- | 対馬丸事件 || align="right" | 1 || align="right" | 137 |- | 弾薬輸送列車で爆死 || align="right" | 2 || align="right" | 139 |- | その他 || align="right" | 80 || align="right" | 219 |- | 対馬丸事件(2003年7月の調査で判明) || align="right" | 1 || align="right" | 220 |- | その他(2003年7月の調査で判明) || align="right" | 6 || align="right" | 226 |} ==関連項目== *[[沖縄戦]] *[[ひめゆりの塔]] *[[鉄血勤皇隊]] *[[国民義勇隊]] *[[ひめゆり (ドキュメンタリー)]] (ひめゆり学徒隊生存者の証言映画) ==外部リンク== *[http://www.himeyuri.or.jp/ ひめゆり平和祈念資料館] *[http://www.himeyuri.info/ 長編ドキュメンタリー映画「ひめゆり」]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%81%B2%E3%82%81%E3%82%86%E3%82%8A%E5%AD%A6%E5%BE%92%E9%9A%8A 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月4日 (火) 10:39。]    
'''無鄰菴'''(むりんあん)は[[山縣有朋]]の別邸。 「無鄰菴」と名付けられた山縣邸は三つある。最初の無鄰菴は山縣の郷里、長州・下関の草庵である。名前の由来はこの草菴に隣家がない事による。 第二の無鄰庵は、京都の木屋町二条に購入した別邸、そして第三の無鄰菴が京都・南禅寺前に造営した別邸で、「無鄰菴会議」の舞台ともなった場所である。 == 第二無鄰菴 == 第二の無鄰菴は、京都市木屋町二条、鴨川近くにあった。明治24年。 == 第三無鄰菴 == [[山縣有朋]]の別邸、第三の無鄰菴は[[京都府]][[京都市]][[左京区]]、南禅寺のすぐ西側、琵琶湖疏水のほとりにある。その庭園で名高く、国の[[名勝]]に指定されている。現在は遺族から寄贈されて京都市が管理している。 数寄屋造りの母屋、[[藪内流]]燕庵写しの茶室、煉瓦造り二階建て洋館、および広い[[日本庭園]]からなる。山縣は[[1894年]]([[明治]]27年)に造営に着手、明治29年完成<ref>http://www.city.kyoto.jp/bunshi/bunka/murin_an/about_murin_an.html </ref>。洋館の設計は[[新家孝正]]で明治31年に竣工。 * 所在地:京都市左京区南禅寺草川町31 === 近代的日本庭園 === 広い庭園は山縣が七代目[[小川治兵衛]]に作らせたもので、山縣三名園に数えられる。東山を借景とし明るい芝生に琵琶湖疏水を引き込み浅い流れを配した池泉廻遊式庭園で、近代的日本庭園の嚆矢とも言えるものであった。 <gallery> 画像:Murinan01r.jpg|庭園 画像:Murinan1.JPG 画像:Murinan03r.jpg|母屋 </gallery> === 無鄰庵会議 === この洋館2階の間は、しばしば要人との会見に用いられた。日露戦争開戦前の[[1903年]](明治36年)4月21日にはここでいわゆる「'''無鄰菴会議'''」が行われた。その時の顔ぶれは、元老[[山縣有朋]]、政友会総裁[[伊藤博文]]、総理大臣[[桂太郎]]、外務大臣[[小村寿太郎]]である。 当時、ロシアは強硬な南下政策をとっており、満州のみならず北朝鮮でも勢力の拡大をすすめていた。 桂は、ロシアの満州における権利は認めても、朝鮮における日本の権利はロシアの認めさせる、これを貫くためには対露戦争も辞さないという態度で対露交渉にあたるため、この方針への同意を伊藤と山縣から取り付けようとしたのである。 徳富蘇峰は『公爵山縣有朋傳』で桂の意図を以下のように著述している: {{quotation|桂は、一方には此の報告<ref>ロシアが撤兵を中止したという、内田公使からの電文</ref>あり、他方には露國の北朝鮮経営の警報に接したので、此際対露政策を決定するの、最も急なるを痛感せざるを得なかった。而して桂が小村と謀り、公の黙契を得て決定したる方針は、露國の満州に於ける条約上の権利は之を認むるも、朝鮮に於いては、彼をして我が帝国に十分の権利あることを認めしむるにあった。然かも我にして、此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からずと云ふにあった<ref>徳富蘇峰編述『公爵山縣有朋傳 下』539-540ページ(原本の漢字表記は旧字)</ref>}} この時桂は、ロシアの満州への勢力拡大を認めることを代償に、朝鮮における日本の優位はなんとしても認めさせる、そのためには対ロシア戦争も辞さないという強い態度で交渉するという対露方針についてを伊藤と山縣から同意を得た。以下はその時の「対露方針四個條」である: {{quotation| # 露國にして、満州還付条約を履行せず、満州より撤兵せざるときは、我より進んで露國に抗議すること。 # 満州問題を機として、露國と其の交渉を開始し、朝鮮問題を解決すること。 # 朝鮮問題に対しては、露國をして我が優越権を認めしめ、一歩も露國に譲歩せざること。 # 満州問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること。<ref>徳富蘇峰編述『公爵山縣有朋傳 下』541ページ(原本の漢字表記は旧字)</ref>}} : 参考資料:[[徳富蘇峰]]編述『公爵山縣有朋傳 下』「無鄰菴の対露会議」538-544ページ == 脚注 == <references/> == 関連項目 == * [[東行庵]] - 下関の無鄰菴 == 参考図書 == * 徳富蘇峰編述『公爵山縣有朋傳 下』原書房 1969年復刻(原本は1933年) * 藤村道生 『山縣有朋』 &lt;人物叢書&gt;吉川弘文館 1961年、新装版 1986年(初版は1961年) == 外部リンク == {{Commons|Category:Murinan}} * [http://kaiwai.city.kyoto.jp/sightdb/sight-raku/view_sight.php?InforKindCode=1&ManageCode=7000099 無鄰菴庭園](京都市産業観光局観光部) * [http://www.city.kyoto.jp/bunshi/bunka/murin_an/murin_an_top.html 無鄰菴](京都市文化市民局文化芸術企画課)   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%84%A1%E9%84%B0%E8%8F%B4 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月25日 (水) 23:04。]    

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