秩父事件

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'''秩父事件'''(ちちぶじけん)は、[[1884年]](明治17年)[[10月31日]]から[[11月9日]]にかけて、[[埼玉県]][[秩父郡]]の農民が政府に対して起こした武装蜂起事件。[[自由民権運動]]の影響下に発生した、いわゆる「激化事件」の代表例ともされてきた。 == 事件の背景 == [[江戸時代]]末期以来、[[富国強兵]]の大義名分のもと年々増税等が行われる中、[[1881年]](明治14年)10月に[[大蔵卿]]に就任した[[松方正義]]によるいわゆる[[松方財政]]の影響により、現在でいう[[デフレスパイラル]]が発生し([[松方デフレ]])、いまだ脆弱であった日本の経済、とりわけ農業部門には深刻な不況が発生した。農作物価格の下落が続き、元来決して裕福とはいえない農産地域の中には、さらなる困窮に陥る地域も多く見られるようになっていった。 国内的には主として上記の[[松方財政]]の影響、さらには[[1873年]]から[[1896年]]ごろにかけて存続したヨーロッパ大不況のさなかに発生した[[1882年]]の[[リヨン]][[生糸]]取引所(同取引所は[[フランス]]のみならず、当時欧州最大の生糸取引所のひとつであった)における生糸価格の大暴落の影響により、1882年から[[1883年]]にかけて生糸の国内価格の大暴落が発生した。 埼玉県秩父地方は昔から養蚕が盛んであったが、当時の同地方の産業は生糸の生産にやや偏っており、さらには信州([[長野県]])など他の養蚕地域に比べてフランス市場との結びつきが強く(秩父郡内における最初の小学校はフランスの援助で設立され、そのために当時の在日フランス公使館の書記官が秩父を訪れたほどである)、上述の大暴落の影響をより強く受けることとなった。養蚕農家の多くは毎年の生糸の売上げをあてにして金を借り、食料の米麦その他の生活物資等を外部から購入していたため、生糸市場の暴落と増税等が重なるとたちまち困窮の度を深め、他の各地と同様、その窮状につけこんだ銀行や高利貸等が彼らの生活をさらに悲惨なものにしていた。 当時、明治政府は政府主導による憲法制定・国会開設を着々と準備する一方で、民権運動に対する弾圧政策を強化していた。民権派の一部にはそれに対抗する形で“「真に善美なる国会」を開設するには、圧制政府を実力で転覆することもやむなし”という考えから急進化する者も出始め、各地で対立が起きていた。 [[1881年]](明治14年)の秋田事件、[[1882年]](明治15年)の[[福島事件]]、[[1883年]](明治16年)の[[高田事件]]といったいわゆる「激化事件」は、[[明治政府]]が急進的民権家の政府転覆論を口実にして、地域の民権家や民権運動に対する弾圧を行ったものとされる。彼ら急進派の政府転覆計画は結局は具現化をみるには至らなかったが、その後発生した1884年(明治17年)6月の群馬事件は、[[群馬県]]の下部[[自由党 (明治)|自由党]]員が、[[妙義山]]麓に困窮に苦しむ農民を結集し、圧制打倒の兵をあげようとしたものであり、さらに同年9月に発生した[[加波山事件]]は、[[茨城県]]の加波山に爆裂弾で武装した16人の急進的な民権運動家が挙兵し、警官隊と衝突するというものであった。 とくに加波山事件は、「完全なる立憲政体を造出」するため「自由の公敵たる専制政府」を打倒すると公言した武装蜂起で、政府に大きな衝撃を与えた。規模はきわめて小規模で、当面の目標も栃木県庁落成式に出席する政府高官への襲撃程度のものであったが、自由党急進派は、前年の1883年(明治16年)後半以降、圧制打倒をめざして頻繁な交流を図り、同志的結合を強めていく傾向にあった。 そんな中、従来からの路線対立や、加波山事件の処理をめぐる紛糾などから1884年[[10月29日]](秩父事件発生の2日前)、自由党は解党決議を可決するに至っていた(その後同党は[[1890年]]に再結成されるが、以後も解散・再結成・再編等を繰り返す。詳細は[[自由党 (明治)|自由党]]の項参照)。なお、秩父事件の指導部は蜂起時点ではこの自由党解党の情報を認知していなかったと考えられている。 == 概要 == 秩父地方では、自由民権思想に接していた自由党員らが中心となり、増税や借金苦に喘ぐ農民とともに「困民党(秩父困民党)」を組織し、[[1884年]](明治17年)8月には2度の山林集会を開催していた。そこでの決議をもとに、請願活動や高利貸との交渉を行うも不調に終わり、租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を政府に訴えるための蜂起が提案され、大宮郷([[埼玉県]][[秩父市]])で代々名主を務める家の出身である[[田代栄助]]が総理(代表)として推挙された。蜂起の目的は、暴力行為を行わず(下記「軍律」参照)、高利貸や役所の帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願することであった。 自由党解党2日後の[[10月31日]]、下吉田(旧[[吉田町 (埼玉県)|吉田町]])の[[椋神社]]において決起集会が行われ、蜂起の目的のほか、役割表や軍律が制定され(下記参照)、蜂起が開始された。早くも翌11月1日には秩父郡内を制圧して、高利貸や役所等の書類を破棄した(なお一部には、指導部の意に反して暴力行為や焼き討ち等を行った者もいた)。 しかし、当時既に開設されていた[[電信]]によりいち早く彼らの蜂起とその規模を知った政府は、一部[[汽車]]をも利用して[[警察]]隊・[[憲兵 (日本軍)|憲兵隊]]等を送り込むが苦戦し、最終的には[[東京鎮台]]の[[鎮台兵]]を送り郡境を抑えたため、[[11月4日]]に秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧された。一部の急進派は長野県[[北相木村]]出身の菊池貫平を筆頭とし、さらに農民を駆り出して[[十石峠]]経由で信州方面に進出したが、その一隊も[[11月9日]]には[[佐久郡]]東馬流(現[[小海町]])で鎮台兵の攻撃を受け壊滅した。その後、おもだった指導者・参加者は各地で次々と捕縛された。 事件後、約14000名が処罰され、首謀者とされた田代栄助・加藤織平・新井周三郎・高岸善吉・坂本宗作・[[菊池貫平]]・[[井上伝蔵]]の7名には死刑判決が下された(ただし、井上・菊池は[[欠席裁判]]での判決。井上は北海道に逃走し、[[1918年]]にそこで死去した。菊池はのち甲府で逮捕されたが、終身刑に減刑され、[[1905年]]出獄し、[[1914年]]に死去)。 なお本事件に関しては、従来は専ら自由民権思想及び松方デフレの強い影響下に発生したと考えられてきたが、近年はそれらに加えて、他の養蚕地域との比較や、上述の国際的環境の影響、秩父地方特有の[[民俗学]]的状況等に関しても考慮した研究の必要性もようになってきている。 == 困民党軍の組織 == 決起の当日に椋神社で発表された役割表と軍律 === 役割表(部分) === {| |役割 |出身 |姓名 |---- |総理 |大宮郷 |田代栄助 |---- |副総理 |石間村 |加藤織平 |---- |会計長 |下吉田村 |[[井上伝蔵]] |---- |同 |上日野沢村 |宮川津盛 |---- |同兼大宮郷小隊長 |大宮郷 |柴岡熊吉 |---- |参謀長 |長野県北相木村 |菊池貫平 |---- |甲大隊長 |男衾郡西ノ入村 |新井周三郎 |---- |同副 |風布村 |大野苗吉 |---- |乙大隊長 |下吉田村 |飯塚森蔵 |---- |同副 |下吉田村 |落合寅市 | (後に丙大隊長) |} 他に秩父郡各村小隊長・兵糧方・軍用金集方・弾薬方・銃砲隊長・小荷駄方・伝令使などの役割があった。 === 軍律 === 第一条 私ニ金品ヲ掠奪スル者ハ斬</br> 第二条 女色ヲ犯ス者ハ斬</br> 第三条 酒宴ヲ為シタル者ハ斬</br> 第四条 私ノ遺恨ヲ以テ放火其他乱暴ヲ為シタル者ハ斬</br> 第五条 指揮官ノ命令二違背シ私ニ事ヲ為シタル者ハ斬</br> === 「自由自治元年」 === 蜂起中に困民党メンバーやその同調者が使用したとされる「自由自治元年」という“年号”は、日本史上、最終期の[[私年号]]と考えられている。 == 備考 == なお、『秩父事件史料集成』の編纂に参加した[[歴史学者]]の[[色川大吉]]は、当時の[[明治政府]]側の公文書の分析によって、明治政府が[[西南戦争]]に準じた「反乱」として認識していた事実を指摘している(なお、取調調書には参加者の最終的な目標が「天朝様(天皇)を倒す」ことであるとする自白があったとする記述がある)。また、[[佐藤政憲]]は「秩父事件は貧しいから起きたのではなく、段々豊かになるときにつぶされたところに秩父農民の怒りがある」と指摘している。 == 参考文献 == * 井上幸治『秩父事件 <small>自由民権期の農民蜂起</small>』(中公新書、1968年) ISBN 4121001613 * 浅見好夫『秩父事件史』([[言叢社]]、1990年) ISBN 4905913381 * 石井孝『明治維新と自由民権』(有隣堂、1993年) ISBN 4896601157 * 秩父事件研究顕彰協議会 編『ガイドブック秩父事件』([[新日本出版社]]、1999年) ISBN 4406026908 * 若狭蔵之助『秩父事件 <small>農民蜂起の背景と思想</small>』(埼玉新聞社、2003年) ISBN 4878892498 * 秩父事件研究顕彰協議会 編『秩父事件 <small>圧制ヲ変ジテ自由ノ世界ヲ</small>』(新日本出版社、2004年) ISBN 4406031014 * [[井出孫六]]『秩父困民党群像』([[新人物往来社]]、2005年) ISBN 4404032420 * [[戸井昌造]]『<small>秩父事件を歩く</small> 秩父困民党の人と風土』(新人物往来社、2005年) ISBN 4404032471 * 戸井昌造『<small>秩父事件を歩く</small> 秩父困民軍の人と闘い』(新人物往来社、2005年) ISBN 440403248X * 戸井昌造『<small>秩父事件を歩く</small> 秩父困民軍の戦いと最期』(新人物往来社、2005年) ISBN 4404032498 * [[色川大吉]]『明治の文化』(岩波書店現代文庫、2007年) ISBN 9784006001681 == 秩父事件を題材とした作品 == ;版画 * 羽田信弥 作/中沢市朗 文『峠の叫び <small>秩父事件の風土と群像</small>』(光陽出版社、2002年) ISBN 4876623163 ;映画 * 『[[草の乱]]』([[神山征二郎]]監督、2004年) ;テレビドラマ * NHK[[大河ドラマ]]『[[獅子の時代]]』(1980年) 主人公の一人である元[[会津藩|会津藩士]]平沼銑次(架空の人物。演:[[菅原文太]])は北海道の監獄を脱走後秩父に流れ着き、秩父困民党に参加する。彼の目を通してみた秩父事件が、もう一人の主人公である苅谷嘉顕(演:[[加藤剛]])の目から見た[[大日本帝国憲法|明治憲法]]制定の過程と共に、ドラマの終盤展開の主軸となる。 == 資料館 == *秩父事件資料館 - {{ウィキ座標|36|2|56.88|N|139|2|25.02|E|scale:10000|埼玉県秩父市吉田久長}}、[[道の駅]]「[[道の駅龍勢会館|龍勢会館]]」隣接。映画『草の乱』撮影時の井上伝蔵邸(商家「丸井」)セット。 *石間交流学習館 - {{ウィキ座標|36|4|26.27|N|138|59|4.74|E|scale:10000|埼玉県秩父市吉田石間2620-1}}、旧[[吉田町 (埼玉県)|吉田町]]立石間小学校。 == 関連項目 == * [[日本史の出来事一覧]] * [[一揆]] * [[自由民権運動]]-[[自由党 (日本)]] * [[秩父地方]] * [[道の駅龍勢会館]]…隣接地に映画「草の乱」のオープンセットが展示されている。 * [[馬流駅]] 秩父事件最終の地の近くの駅。古戦場は史跡公園になっている。 == 外部リンク == * [http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=320687 「草の乱」] * [http://www.ryusei.biz/history/jiken02.html 吉田町観光協会「草の乱」]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A7%A9%E7%88%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月7日 (木) 22:37。]    

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