後藤新平

「後藤新平」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

後藤新平」(2008/11/30 (日) 00:40:55) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

{{政治家 |各国語表記 = ごとう しんぺい |画像 = Shimpei Gotō.jpg |画像説明 = |国略称 = {{JPN}} |生年月日 = [[1857年]][[7月24日]] |出生地 = [[陸奥国]][[胆沢郡]]塩釜村 |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1857|7|24|1929|4|13}} |死没地 = [[京都]] |出身校 = 須賀川医学校 |所属政党 = |称号・勲章 = [[伯爵]] |配偶者 = 後藤和子 |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 第39代[[内務大臣]] |内閣 = [[第2次山本内閣]] |就任日 = 1923年 |退任日 = 1924年 |退任理由 = |国旗2 = 日本 |職名2 = 第34代内務大臣 |内閣2 = [[寺内内閣]] |就任日2 = 1916年 |退任日2 = 1918年 |退任理由2 = |国旗3 = 日本 |職名3 = 第33代[[外務大臣]] |内閣3 = 寺内内閣 |就任日3 = 1918年 |退任日3 = 1918年 |退任理由3 = |国旗4 = 日本 |職名4 = 第20代[[逓信大臣]] |内閣4 = [[第3次桂内閣]] |就任日4 = 1912年 |退任日4 = 1913年 |退任理由4 = |国旗5 = 日本 |職名5 = 第18代逓信大臣 |内閣5 = [[第2次桂内閣]] |就任日5 = 1908年 |退任日5 = 1911年 |退任理由5 = }} '''後藤 新平'''(ごとう しんぺい、[[安政]]4年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]([[1857年]][[7月24日]]) - [[昭和]]4年([[1929年]])[[4月13日]])は[[明治]]・[[大正]]・[[昭和]]初期の[[医師]]・[[官僚]]・[[政治家]]である。 == 経歴・人物 == [[伯爵]](明治39年([[1906年]])男爵、[[大正]]11年([[1922年]])子爵、昭和3年([[1928年]])伯爵)。[[台湾総督府]]民政長官。[[南満州鉄道|満鉄]]初代総裁。[[逓信大臣]]、[[内務大臣]]、[[外務大臣]]。[[東京市]](現・[[東京都]])第7代市長、[[ボーイスカウト]]日本連盟初代総長。東京放送局(のちの[[日本放送協会|NHK]])初代総裁。[[拓殖大学]]第3代学長。 計画の規模の大きさから「[[風呂敷|大風呂敷]]」とあだ名されたが、帝国主義日本の有能な[[植民地]]経営者で都市設計者。[[台湾]]総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し日本の大陸進出を支え、[[鉄道省|鉄道院]]総裁として国内の鉄道の整備に貢献した。 また、[[関東大震災]]後に内務大臣兼[[帝都復興院]]総裁として東京の都市復興計画を立案した。 == 生い立ち・医師としての後藤新平 == [[陸奥国]][[胆沢郡]]塩釜村(現・[[岩手県]][[奥州市]][[水沢区]])出身。[[後藤実崇]]の長男。江戸時代後期の[[蘭学者]]・[[高野長英]]は後藤の大叔父に当たり、甥に政治家の[[椎名悦三郎]]、娘婿に政治家の[[鶴見祐輔]]、孫に[[社会学者]]の[[鶴見和子]]、[[哲学者]]の[[鶴見俊輔]]、[[演出家]]の[[佐野碩]]をもつ。 胆沢県大参事であった[[安場保和]]にみとめられ、後の海軍大将・[[斎藤実]]とともに13歳で[[書生]]として引き立てられ県庁に勤務しのち15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三のもとで門番兼雑用役になる。安場との縁はその後も続き、安場が[[岩倉使節団]]に参加して帰国した直後に[[福島県]]令となると新平は安場を頼り、16歳で福島洋学校に入った。 新平本人は最初から政治家を志していたとされるが母方の大伯父である高野の弾圧等の影響もあって医者を進められ、恩師・安場や岡田(阿川)光裕の進めもあって17歳で須賀川医学校に気の進まないまま入学。ただし同校では成績は優秀で卒業後、山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが安場が愛知県令をつとめることになり、それについていくことにして愛知県の[[愛知県]]医学校(現・[[名古屋大学]][[医学部]])で医者となる。ここで彼はめざましく昇進し24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。またこの間、[[岐阜市|岐阜]]で遊説中に暴漢に刺され負傷した[[板垣退助]]を診察している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。またこの時期安場の次女、和子を妻にもらう。 医師として高い評価を受ける一方で、先進的な機関で西洋医学を本格的に学べないまま医者となったことに強い劣等感を抱いていたとも伝わっている。 [[明治]]15年([[1882年]])2月、愛知県医学校での実績を認められて[[内務省 (日本)|内務省]]衛生局に入り、医者としてよりも病院・衛生に関する行政に従事することとなった。 明治23年([[1890年]])、[[ドイツ]]に留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する一方で同時にコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学[[博士号]]を与えられ、明治25年([[1892年]])12月には[[長与専斎]]の推薦で内務省衛生局長に就任した。 明治26年([[1893年]])、[[相馬事件]]に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監され最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する破目となった。 == 台湾における後藤新平 == 明治28年([[1895年]])[[4月1日]]、相馬事件で辛酸を舐めたが友人の推薦で復帰。[[日清戦争]]の帰還兵に対する[[検疫]]業務に[[広島市|広島]]・[[広島港|宇品港]][[似島]]で臨時陸軍検疫部事務長官として従事し、その行政手腕の巧みさからこの件の上司であった[[陸軍]]参謀の[[兒玉源太郎]]の目にとまる。 明治31年([[1898年]])3月、[[台湾総督]]となった兒玉源太郎の抜擢により、[[台湾総督府]]民政長官となる。そこで新平は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革と[[インフラストラクチャー|インフラ]]建設を進めた。こういった手法を後藤は自ら「[[生物学]]の原則」に則ったものであると説明している(比喩で「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」と語っている)。それは、社会の習慣や制度は生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというものであった。 === 台湾の調査事業 === まず、台湾における調査事業として[[臨時台湾旧慣調査会]]を発足させ京都大学教授で法学者の[[岡松参太郎]]を招聘し、同時に自ら同会の会長に就任した。また同じく京都大学教授で法学者の[[織田萬]]をリーダーとして当時まだ研究生であった中国哲学研究者の[[狩野直喜]]、中国史家の[[加藤繁]]などを加えて、[[清]]朝の法制度の研究をさせた。これらの研究の成果が『[[清国行政法]]』であり、その網羅的な研究内容は近世・近代[[中国史]]研究に欠かせない資料となっている。 === 人材の招聘 === 開発と同時に人材の招聘にも力を注ぐのが新平の手法であった。アメリカから[[新渡戸稲造]]をスカウトする際には病弱を理由に一度は断られるが、執務室にベッドを持ち込む事などの特別な条件を提示して承知させている。スカウトされた新渡戸は、[[殖産局]]長として台湾での[[サトウキビ]]や[[サツマイモ]]の普及と改良に大きな成果を残している。また、生涯の腹心となった[[中村是公]]と出会ったのも台湾総督府時代であった。 === 阿片漸禁策 === 当時、中国本土同様に台湾でも[[アヘン]]の吸引が庶民の間で常習となっており大きな社会問題となっていた。また、「日本人はアヘンを禁止しようとしている」という危機感が抗日運動の引き金のひとつだった。これに対し新平はアヘンを性急に禁止する方法はとらなかった。まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、アヘン患者は徐々に減少した。総督府によると、明治33年([[1900年]])には16万9000人であったアヘン中毒者は大正6年([[1917年]])には6万2000人となり、昭和3年(1928年)には2万6000人となった。なお、台湾は昭和20年([[1945年]])にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。これにより新平の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶、アヘンを重要な資金源としていた黒社会の勢力を大きく後退させる事にしたという見方がある一方、これによって新平自身が、[[杉山茂丸]]らをパートナーとして阿片利権・裏社会との関わりを深めていったという見方も存在する。 == 満鉄総裁 == 明治39年([[1906年]])、新平は[[南満洲鉄道]]初代総裁に就任し、[[大連市|大連]]を拠点に[[満洲]]経営に活躍した。ここでも後藤は[[中村是公]]や[[岡松参太郎]]ら台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。また満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄内に[[満鉄調査部|調査部]]を発足させている。 当時、清朝の官僚の中で満州に大きな関心を持っていたのは[[袁世凱]]を中心とする北洋軍閥であり、明治40年([[1907年]])4月の[[東三省]]建置に当たっては彼の腹心である人物が多く要職に配置された。彼らは日本の満州における権益独占を好まずアメリカを盛んに引き込もうとし、その経済力を以って満鉄に並行する路線を建設しようとした。これは大連を中心に満鉄経営を推し進めていた日本にとって大きな脅威であった。 そこで新平は袁に直接書簡を送ってこれが条約違反であることを主張し、この計画を頓挫させた。ただし満鉄への連絡線の建設の援助、清国人の満鉄株式所有・重役就任などを承認し、反日勢力の懐柔を図ろうとしている。また北満州に勢力を未だ確保していたロシアとの関係修復にも尽力し、満鉄のレールをロシアから輸入したり[[伊藤博文]]とロシア側要路者との会談も企図している(ただしこの会談は伊藤が[[ハルビン|ハルピン]]で暗殺されたために実現しなかった)。 当時の日本政府では満州における日本の優先的な権益確保を唱える声が主流であったが、新平はむしろ日清露三国が協調して互いに利益を得る方法を考えていたのである。 == 拓殖大学学長 == [[Image:大正14年卒業生.jpg|thumb|300px|right|拓殖大学の昭和4年の卒業写真。中央が後藤新平学長。左隣は[[永田秀次郎]]次期学長]] [[Image:Shimpei Gotō 2.jpg|thumb|200px|right|後藤新平]] [[大正]]8年([[1919年]])、[[拓殖大学]](前身は[[桂太郎]]が創立した[[台湾協会学校]])学長に就任(在職:大正8年(1919年)[[8月2日]]-昭和4年([[1929年]])[[4月13日]])。拓殖大学との関係は[[台湾総督府]]民政長官時代、設立間もない「台湾協会学校」の良き理解者としてたびたび入学式や卒業式で講演をし物心両面において支援していたが、大正8年(1919年)より第3代学長として直接拓殖大学の経営に携わることとなった。そして当時発令された大学令に基づく「大学([[旧制大学]])」に昇格すべく各般の整備に取りかかり、大正11年([[1922年]])6月、大学昇格を成し遂げるなど亡くなる昭和4年(1929年)4月まで学長として拓殖大学の礎を築いた。 学内での様子は当時の記録として「後藤先生は学生に対しては慈愛に満ちた態度を以て接せられ、学生もまた親しむべき学長先生として慈父に対するような心安さを感じていました」と当時の記録にあるように学生達に心から慕われていた。 == 関東大震災と帝都復興計画、逝去 == [[第2次桂内閣]]の元で逓信大臣・初代[[内閣鉄道院]][[総裁]](在職:明治41年([[1908年]])[[7月14日]] - 明治44年([[1911年]])[[8月30日]])、[[寺内内閣]]の元で[[内務大臣]](在職:大正5年([[1916年]])[[10月9日]] - 大正7年([[1918年]])[[4月23日]])、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]](大正7年(1918年)[[4月23日]] - [[9月28日]])、しばし国政から離れて[[東京市長]](大正9年([[1920年]])[[12月17日]] - 大正12年([[1923年]])[[4月20日]])、[[第2次山本内閣]]の元で再び内務大臣(大正12年(1923年)[[9月2日]] - 大正13年([[1924年]])[[1月7日]]、後述)などを歴任した。 鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。しかし、今日の[[九州旅客鉄道|JR九州]]の[[肥薩線]]にその名前を取った[[肥薩線#観光列車「いさぶろう」・「しんぺい」|「しんぺい」号]]が走っている。 [[関東大震災]]の直後に組閣された第2次山本内閣では、[[内務大臣]]兼[[帝都復興院]]総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な[[区画整理]]と公園・幹線道路の整備を伴うもので13億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約1年分)のために財界などからの猛反対にあい、当初計画を縮小せざるを得なくなった(議会に承認された予算は5億7500万円)。それでも現在の東京の都市骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評価されている。この復興事業は既成市街地における都市改造事業としては世界最大規模であり、世界の都市計画史に残る快挙と言ってよい。 特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小がされながらも実際に建設された。当初の案ではその幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので自動車が普及する以前の時代では受け入れられなかったのも無理はない。現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など[[皇居外苑]]付近に見ることができる。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は新平に負っていると言ってよく、特に[[下町]]地区では帝都復興事業以降に新たに街路の新設が行われておらず、帝都復興の遺産が現在でも首都を支えるインフラとしてそのまま利用されている。 [[昭和通り (東京都)|昭和通り]]の地下部増線に際し、拡幅や立ち退きを伴わず工事を行なえた事でその先見性が改めて評価された事例もあり、もし彼が[[靖国通り]]や[[明治通り (東京都)|明治通り]]・[[山手通り]]の建設を行っていなければ東京で頻繁に起こる大渋滞はどうなっていたか想像もつかない。その反面、東京の都市機能拡充の引き換えに[[江戸]]以来の情緒を喪失させ、無機質な町に変質させてしまったとの批判もある。しかしながら帝都復興事業が行われた区域は震災の大火災によって灰燼と化した地域に限定されており、そもそも江戸の情緒を残す町並みはほとんど残されていなかったこと、震災前の東京は[[交通]]や[[衛生]]など現在にも共通する多くの[[都市問題]]を抱えていたことなどを考慮すると、「江戸の情緒を喪失させた」という批判は決して的を射ているとは言えないものであろう。 大正12年([[1923年]])、東京市長時代に国民外交の旗手として後藤[[アドリフ・ヨッフェ|ヨッフェ]]会談を伊豆の熱海で行い、成立せんとする[[ソビエト連邦]]との国交正常化の契機を作った。ヨッフェは当時モスクワに滞在していたアメリカ共産党員・[[片山潜]]の推薦を受けて派遣されたもので、仲介したのは[[黎明会]]を組織した[[内藤民治]]と[[田口運蔵]]等の社会主義者であった。一部から新平は「赤い[[男爵]]」といわれたが、新平はあくまで日本とロシアの国民としての友好を唱え共産主義というイデオロギーは単なるロシア主義として恐れるに足らず、むしろソビエト体制の軟化のために日露関係の正常化が望ましいとしていた。 大正13年([[1924年]])、社団法人[[東京放送局]]が設立され、初代総裁となる。試験放送を経て翌大正14年([[1925年]])[[3月22日]]、日本で初めてのラジオ仮放送を開始。総裁として初日挨拶を行った(大正15年([[1926年]])、東京放送局は大阪放送局、名古屋放送局と合併し、社団法人[[日本放送協会]]に発展的解消する)。 昭和3年(1928年)、新平はソ連を訪問し[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]と会見し国賓待遇を受ける。日本ボーイスカウト連盟会長として、当時の少年達1人が1粒を送った握り飯を泣きながら食べて訪ソしたという。日中露の結合関係の重要性は新平が暗殺直前の伊藤にも熱く語った信念であり、[[田中義一内閣]]が拓務省設置構想の背後で構想した満洲[[委任統治]]構想、もしくは満洲における[[緩衝国]]家設立を打診せんとしたものとも指摘される。しかし、詳細は未だに不明である。後の満鉄総裁・[[松岡洋右]]が[[日ソ中立条約]]締結に訪ソした際、「後藤新平の精神を受け継ぐものは自分である」とソ連側から盗聴されていることを知りながらわざと大声で叫んだとされる。 なお、しばしば総理大臣候補として名前が取り沙汰されながら結局死ぬまで選ばれなかった原因として、[[第3次桂内閣]]逓信大臣だった[[護憲運動|第一次憲政擁護運動]]時に前首相で[[政友会]]総裁の[[西園寺公望]]の失脚を画策し、最後の[[元老]]となった西園寺に嫌われていたことが大きいことを[[徳富蘇峰]]が語っている。 晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。昭和4年(1929年)、遊説で岡山に向かう途中列車内で[[脳溢血]]で倒れ、京都の病院で[[4月13日]]死去。 === 最後の言葉 === [[三島通陽]]の『スカウト十話』によれば、新平が倒れる日に三島に残した言葉は「'''よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ'''」であったという。 == 逸話 == [[Image:Houteng Xinping.jpg|thumb|200px|right|ボーイスカウト制服姿の後藤新平]] *新平は日本の[[ボーイスカウト]]活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を勤めている。新平はスカウト運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。ボーイスカウトの半ズボンの制服姿の新平の写真が現在も残っている。制服姿の新平が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕等の好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニコ」と歌声が上がったという。 *晩年は[[ソビエト連邦]]との国交回復に尽力する一方、[[数の論理]]で支配される[[政党政治]]を批判し、倫理確立による[[選挙粛正]]を唱え全国を遊説した。 *新平は[[シチズン時計]]の名付け親でもある(彼と親交のあった社長から新作[[懐中時計]]の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を贈った)。 *[[虎ノ門事件]]の責任を取らされ[[内務省 (日本)|内務省]]を辞めた[[正力松太郎]]が[[読売新聞]]の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった新平は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。その後、事業は成功し借金を返そうとしたが、もうすでに新平は他界していた。そこで、正力はその恩返しとして新平の故郷である[[水沢町]](当時)に新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、[[1941年]]に日本初の[[公民館]]が建設された。 *[[地下鉄]]の父・[[早川徳次 (東京地下鉄道)|早川徳次]]の「東京に地下鉄を作りたい」という構想に理解を示し、支援者に名を連ねたひとりであった。 *現在の[[中国]][[大使館]]は新平宅の跡地でる。 == 著作 == *『海水功用論 附海濱療法』(1882年) *『国家衛生原理』(1889年) *『日本膨脹論』(1924年) *『政治の倫理化』(1926年) == 参考文献 == === 主な伝記 === *[[鶴見祐輔]]『後藤新平』全4巻(後藤新平伯伝記編纂会、1937-1938年) *[[鶴見祐輔]]、[[一海知義]]校訂『〈決定版〉正伝 後藤新平』全8巻・別巻1(藤原書店、2004-2007年) *[[杉森久英]]『大風呂敷』(毎日新聞社、1965年) === 主な研究書 === *[[信夫清三郎]]『後藤新平 科学的政治家の生涯』(博文館、1941年) *[[北岡伸一]]『後藤新平 外交とヴィジョン』(中央公論社、1988年) ISBN 9784121008817 *[[小林道彦]]『日本の大陸政策 1895-1914 桂太郎と後藤新平』(南窓社、1996年) ISBN 9784816501944 *[[駄場裕司]]『後藤新平をめぐる権力構造の研究』(南窓社、2007年) ISBN 9784816503542 == 関連項目 == * [[文装的武備論]] * [[日本の改軌論争]] * [[郷仙太郎]] - 歴史小説『小説 後藤新平 -行革と都市政策の先駆者-』で後藤を描いている * [[星新一]] - ノンフィクション小説『人民は弱し 官吏は強し』、『明治の人物誌』中で後藤を描いている * [[阿南常一]] - 後藤の側近として帝都復興に参画 * [[森戸辰男]] - 社会政策を専攻する森戸と交流があった(森戸辰男とその時代、森戸文書研究会、p14) == 外部リンク == *[http://goto-shimpei.org/index.php 後藤新平の会] *[http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/index.html 後藤新平記念館] *[http://www.taikousya-sumera.com/index.php 政治結社 大行社] *[http://www.takushoku-u.ac.jp/index.html 拓殖大学] *[http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/79.html?c=5 後藤新平]([http://www.ndl.go.jp/portrait/index.html 近代日本人の肖像]([[国立国会図書館]]))   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月17日 (月) 14:01。]    

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。