昭和会

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'''昭和会'''(しょうわかい)は、[[昭和]]初期に存在した親軍派[[政党]]([[1935年]][[12月23日]] - [[1937年]][[5月24日]])。 [[立憲政友会]]は[[鈴木喜三郎]]総裁のもと、[[岡田内閣]]に対して[[野党]]路線を貫き、入閣した[[床次竹二郎]]・[[山崎達之輔]]・[[内田信也]]を[[除名]]処分<ref>[[高橋是清]]も入閣したが、総裁経験者の除名による党内の混乱を恐れた鈴木は「別離」(訣別)を宣言して除名の代わりとした。</ref>とし、続いて[[内閣審議会]]委員となった[[水野錬太郎]]・[[望月圭介]]も除名した。これに除名議員及びその直系議員は反発し、床次を盟主に「第二の[[政友本党]]」結成に動くが、1935年[[9月8日]]に床次が急死したため、挫折した。そこで被除名者とこれに抗議して離党した代議士18名で結成されたのが昭和会である。除名者には実力者が多く、亡くなった床次に代わる党首を決定することは困難であったために党首は置かれなかった。 同党設置後、政友会からの離党者が続出して最大25名までに増え、岡田・[[広田内閣|広田]]・[[林内閣|林]]と3代の内閣において[[与党]]の位置を占めた。しかし[[食い逃げ解散]]を受けて行われた1937年の[[第20回衆議院議員総選挙]]において議席を19に減少させ、政友会・[[立憲民政党]]の圧迫を受けて自主解散した。 その後旧昭和会代議士は、[[安達謙蔵]]の[[国民同盟 (日本)|国民同盟]]に所属する議員らとともに「第一議員倶楽部」と呼ばれる統一会派を結成するが、[[1939年]]に政友会の分裂騒動が発生すると、これに乗じて昭和会代議士のうち政友会出身者は政友会革新派(別名・政友会革新同盟。総裁は[[中島知久平]])に合流した。ただ、[[永山忠則]]ら昭和会結成後に初当選した議員は政友会革新派に合流せず第一議員倶楽部に残留した(永山は[[1936年]]に昭和会公認で総選挙に初当選しているが、中央政界入り以前の敷信村長時代・広島県議時代を通じて政友会に所属したことはない)。 == 脚注 == <references /> _ [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%98%AD%E5%92%8C%E4%BC%9A 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月29日 (水) 07:29。]    

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