毛沢東

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{{大統領 | 人名=毛沢東 | 各国語表記= | 画像=Mao1946.jpg | キャプション= | 代数= | 職名=中央人民政府主席 | 国名=[[中華人民共和国]] | 就任日=[[1949年]][[10月1日]] | 退任日=[[1954年]][[9月27日]] | 代数2=初 | 職名2=[[中華人民共和国主席|主席]] | 国名2=中華人民共和国 | 就任日2=[[1954年]][[9月27日]] | 退任日2=[[1959年]][[4月27日]] | 出生日=[[1893年]][[12月26日]] | 生地={{QIN1890}} [[湖南省]][[湘潭県]]韶山村 | 死亡日=[[1976年]][[9月9日]] | 没地=[[北京市|北京]]<br />(廟:[[毛主席紀念堂]]) | 配偶者=羅一秀、[[楊開慧]]、[[賀子珍]]、[[江青]] | 政党=[[Image:Danghui R.svg|15px]] [[中国共産党]] | サイン= }} {{中華圏の人物 | 名前=毛沢東 | 画像= | 画像の説明= | 出生= | 死去= | 出身地= | 職業= | 簡体字=毛泽东 | 繁体字=毛澤東 | ピン音={{Audio|Zh-Mao_Zedong.ogg|Máo Zédōng}} | 注音= | 和名=もう たくとう | 発音=マオ ツォートン | ラテン字=Mao Tse-tung | 英語名= }} {{中華人民共和国}} '''毛 沢東'''(もう たくとう、[[1893年]][[12月26日]] - [[1976年]][[9月9日]])は、[[中華人民共和国]]の[[政治家]]、[[軍人]]、[[思想家]]。[[字]]は詠芝、潤芝、潤之、筆名は子任。[[中国共産党]]の創立党員であり、[[中華人民共和国]]の[[国民の父|建国の父]]とされている。死去に至るまで、同国の最高権力者の地位を保った。 [[毛沢東思想]]として知られる彼の[[共産主義]]思想は、海外、特に[[インド]]以東の[[アジア]]と[[ラテンアメリカ]]の共産主義者にも影響を与えた。内政においては、[[大躍進政策]]の失敗や[[文化大革命]]を引き起こしたことにより数千万とも言われる大多数の死者を出し、国力を低下させたが、「[[中華人民共和国]]を建国した貢献は大きい」として、その影響力はいまだ根強く残っている。しかし文化大革命で失脚した上に迫害された[[鄧小平]]らの旧「実権派」が党と政府を掌握した状況下で、大躍進政策や文化大革命は「功績第一、誤り第二」である毛沢東の失敗とされ、歴史の教科書からも彼を過度に賛美する記述はなくなり、毛沢東の神格化は次第にされなくなった。 == プロフィル == === 生い立ち === [[Image:Mao-family-1919.jpg|thumb|left|200px|[[1919年]] 家族とともに]] [[Image:Jiang Qing (Madame Mao Zedong) 03.JPG|thumb|200px|left|毛沢東と江青]] 1893年に[[清|清国]][[湖南省]][[湘潭県]]韶山村の[[地主]]の家庭に生まれる。3人兄弟。生家は[[地主]]といっても小規模なものであり、毛沢東は厳格な父によって子どものうちから労働に従事させられる。[[小学校]]を卒業後、[[長沙]]の中学に通い、14歳で最初の[[結婚]]をするが数年で妻は死去した。 その後、従兄から贈られた中国近代化を説く本に刺激をうけて16歳で故郷を離れ、いくつかの学校や地方軍などを転々とし、[[アダム・スミス]]や[[シャルル・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]]などの[[社会科学]]系の書物に触れる。[[1918年]]、湖南省立第一[[師範学校]]を卒業し、恩師・楊昌済を頼って[[中華民国の歴史|中華民国]][[北京政府]]の首都である[[北京市|北京]]に上京。[[大学]][[図書館]]に勤めるかたわら『[[新青年 (中国)|新青年]]』の熱心な寄稿者となる。 === 教師時代 === 翌[[1919年]]、帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。このころ新式学校の設立を計画したり[[陳独秀]]や[[李大釗]]と会ったりしており、[[1920年]]には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。同年恩師の娘・[[楊開慧]]と結婚。 === 中国共産党創立 === [[1921年]]に、上海で[[中国共産党]]の創立党員として第一回大会([[中共一大会議]])に出席し、以後その指導者の地位を生かして[[労働組合]]の[[オルグ]]に力を注ぐ。[[コミンテルン]]の指導に従って[[国共合作]]に重要な役割を果たすが、[[1927年]]の[[上海クーデター]]で国共合作が崩壊すると、毛沢東は[[江西省]]で蜂起([[秋収起義]])したが失敗、配下の農民兵とともに孤立し、家族とも離れて[[湖南省]]と江西省の境にある[[井崗山]]に立てこもることになった。 この根拠地に潜伏中に地元の名家の娘[[賀子珍]]と関係を持ち、[[1929年]]には長女が誕生している。[[1930年]]妻の楊開慧が、[[蒋介石]]率いる[[中国国民党]]軍に捕らえられて処刑される。同年、毛沢東は井崗山を去り、[[江西ソヴィエト]]を建設。主席となるが、以後四年間国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。 === 日中戦争時代 === 国民党軍に追われて[[1934年]][[10月18日]]に根拠地を放棄し敗走、いわゆる「[[長征]]」を開始するが、この最中の[[1935年]][[1月15日]]に、[[貴州省]]遵義で開かれた会議([[遵義会議]])で党の実権をほぼ掌握する。[[1937年]]に始まった[[日本]]との間の[[日中戦争]]においては、[[国共合作|第二次国共合作]]を行い、宿敵である蒋介石と手を結び共同戦線を構築。[[1936年]]秋には[[陝西省]][[延安]]に根拠を定め、以後[[自給自足]]の[[ゲリラ]]戦を指示。消耗を防ぎながら抗日活動を続ける。 [[1938年]]には長征時代の妻である[[賀子珍]]と離婚し、[[不倫]]の上で[[上海市|上海]]の元女優、[[江青]]と結婚した。[[1940年]]には『[[新民主主義論]]』を著し、のちの「人民中国」の先見の明を示した。 その後は、国共合作の相手である国民党軍とともに、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[ソビエト連邦]]などの[[連合国]]から得た軍事援助を元に[[日本軍]]と対峙する。 === 国共内戦 === [[1945年]]8月の中華民国を含む[[連合国]]に対する日本の降伏と、[[満州国]]を含む[[中国大陸]]からの日本軍の撤退後は、蒋介石率いる中国国民党軍との[[国共内戦]]となり、中国人民解放軍を率いて戦うこととなる。 中国人民解放軍はソ連からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗により、アメリカ政府からの軍事支援を削減された国民党軍に勝利を重ね、[[徐州市|徐州]]を中心とする大規模な准海戦役に勝利し、[[1949年]]1月には北平(北京)に入城する。同年[[4月23日]]には[[国民党政府]]の根拠地首都の南京を制圧した。 === 中華人民共和国建国 === [[Image:China, Mao (2).jpg||200px|thumb|left|建国宣言を朗読する毛沢東]] 1949年[[10月1日]]に[[天安門]]で[[中華人民共和国]]の建国を宣言した。なお、蒋介石率いる国民党政府は[[台湾島]]に移った。同年には、建国後も軍事援助を続けていたソビエト連邦を訪れ、[[ヨシフ・スターリン]]と会見している。 その後に勃発した[[朝鮮戦争]]では、ソビエト連邦とともに[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]を支持して[[中国人民志願軍]]を派遣。この戦争で、長男の[[毛岸英]]を[[国連軍]]の一国である[[アメリカ空軍]]の爆撃で失っている。 === 独裁化 === [[Image:Poster26.jpg|thumb|200px|right|スターリンと毛沢東との友好関係を描くソ連の[[プロパガンダ]]ポスター]] 建国後は国家主席として[[階級]]を撤廃した[[共産主義]]社会の建設に力を注ぐが、[[1956年]]の「[[百花斉放百家争鳴]]」運動で、多くの[[知識人]]から硬直した政策を批判されたため、これを弾圧するために[[1957年]]6月に[[反右派闘争]]を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄した。 さらに「[[イギリス]]を15年以内に追い越す」ことを目標とし、[[1958年]]に[[大躍進政策]]を発動。大量の鉄増産のため、農村での[[人海戦術]]に頼る「土法高炉」と呼ばれる原始的な製造法による小規模分散生産を採用し、量のみを重視し質は全く度外視したため、使い物にならない鉄くずが大量に生産された。農村では「[[人民公社]]」が組織されたが、かえって農民の生産意欲を奪い、結果的に無謀な生産目標に対し実際よりも水増しされた報告書が中央に回るだけの結果になった。こういったことから大躍進は大失敗し、発動されてから数年で2000万人から5000万人以上の餓死者を出した。 このことで「世界三大[[ジェノサイド|大量殺戮]]者」として、[[ドイツ]]の[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]やソ連のスターリンと共に揶揄されることとなった。この失敗以降毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない独裁的な傾向が強くなっていく。 === 中ソ対立 === また、[[スターリン批判]]や対米政策をめぐり、ソ連の[[ニキータ・フルシチョフ]]首相とも不仲となった。[[1950年代]]中旬からは[[中ソ対立]]が深刻化し、[[1960年]]には中華人民共和国に派遣されていたソ連の技術者全員が引き上げたほか、[[キューバ危機]]におけるソビエト政府の対応を公式に非難するなど、かつて蜜月であった中ソ関係は一気に冷え込むこととなった。 === 文化大革命 === こうした大躍進の失敗は主席である毛沢東の権威を傷つけ、[[1959年]]に国家主席の地位を[[劉少奇]]に譲ることとなり、さらには[[1962年]][[1月]]に開催された[[七千人大会]]において大躍進政策に対する自己批判をせざるを得ない状況にまで追い込まれた。この大会を機に政治の実権は劉少奇-鄧小平ラインに移ることとなり、毛沢東の実権は大きく低下した。しかし大衆に対する毛沢東への神格化は着実に進められ、毛沢東はひそかに奪権の機会をうかがっていた。 [[1965年]][[11月]]、[[北京市]]副市長でもあった[[呉晗]]の『[[海瑞罷官]]』を「大毒草」であるとした[[姚文元]]の「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」の論文が上海の新聞『[[文匯報 (上海)|文匯報]](ぶんわいほう)』に掲載、これが端緒となり、[[1966年]][[5月]][[北京大学]]に反革命批判の壁新聞が貼り出され、事実上文化大革命が始まった。毛沢東は過激派青年たちの暴力行為に対し「[[造反有理]](謀反には理由がある)」として積極的に支持、自ら[[天安門広場]]に赴き、百万名の[[紅衛兵]]を煽動し「四旧打破」のスローガンを打ちたて、運動は全国の学生ら、青年層に拡大した。 これらにより、[[江青]]や[[林彪]]らを中心とし、実権派(経済政策の柔軟化を唱える党員は「走資派」という蔑称のレッテルを貼られた)・[[修正主義]]者(「スターリン批判」をきっかけに個人崇拝を厳しく戒め始めた当時のソ連共産党・フルシチョフ路線に倣い、毛沢東個人崇拝見直しと代替権力として党官僚強化を唱えた党員をこう呼称した)として糾弾する広汎な暴力的大衆運動である「[[プロレタリアート|プロレタリア]][[文化大革命]](文革)」への流れが決定付けられた。この頃個人崇拝の対象に祭り上げられた毛は「偉大的導師、偉大的領袖、偉大的統帥、偉大的舵手、万歳、万歳、万万歳」と称えられていた。 文化大革命では、[[紅衛兵]]による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇([[1968年]]に失脚)ら中央指導部にまでおよび、教師ら「知識人」や、中国国民党と少しでも関わりのあったものを徹底的に迫害、文化財を破壊する等の極端な「左」傾偏向主義運動に発展し、その犠牲者の合計数は数百万数千万とも言われている。この流れの中、毛沢東の奪権目標であった[[劉少奇]]・[[トウ小平|鄧小平]]らの「実権派」は次々と打倒されたが、紅衛兵組織は互いに抗争を始め、毛沢東ですら統制不可能な状況に陥った。これを受け[[1968年]]毛沢東は学生たちの農村への[[上山下郷運動|下放]]を指示した。[[1971年]]の[[林彪事件]]以後、人材難から鄧小平らかつて失脚した者を政権内に呼び戻しポストを与えた。 <br style="clear:both;" /> === 米中接近と日中国交締結 === [[Image:Nixon Mao 1972-02-29.png|right|200px|thumb|ニクソン大統領と毛沢東]] 毛沢東が世界に注目された最後の事件は[[1972年]][[2月18日]]、北京における毛沢東=[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]会談である。この日、すでに椅子から立つのにも苦労するほど健康状態が悪化していたにもかかわらず、毛沢東はニクソン[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]と握手し、同盟各国の頭越しに首脳会談による関係改善を成し遂げた。これに先立つ[[ニクソン大統領の中国訪問|ニクソンの訪中]]予告は全世界の驚愕を呼び起こし、金ドル交換停止とともに[[ニクソン・ショック]]とも呼ばれる。ただし、米中が国交を樹立するのは毛沢東の死後、[[1979年]]になってからである。 なお、この米中接近は[[冷戦]]下でソ連を牽制する必要があるアメリカと、同じく[[1960年代]]以降ソ連との関係が[[珍宝島事件]](ダマンスキー島事件)などで悪化していた中華人民共和国双方の思惑が一致したものであった。「将来的に、資本主義国のアメリカは衰退し、社会主義体制によって発展するソ連こそが最大の脅威となるであろう」と毛沢東は予測していた。 その後、[[1972年]]アメリカの同盟国である[[日本]]の[[田中角栄]]首相もニクソンの後を追うように訪中して首脳会談を行い、[[日中国交正常化|国交を樹立(「正常化」)]]する。毛沢東が田中と面会したのはわずかな時間であったが、毛沢東は単に訪中しただけでなく、一気に国交を結ぶまでに進めた田中の決断力を「ニクソン以上のもの」と評価していた、といわれる。なお中華人民共和国も[[中華民国]]も二重[[国家の承認|承認]]を認めないため、日本はこれまで国交を結んでいた中華民国との国交を断絶した。 === 死去 === [[Image:Mao Zedong Porträt am Eingang zur Verbotenen Stadt.jpg|right|200px|thumb|天安門広場に飾られる毛沢東の肖像画]] ニクソンとの会見後に毛沢東が[[筋萎縮性側索硬化症]]に罹患していることが発見された。医師らが懸命の治療を行ったが、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛の体力を奪っていった。 その後も医師らによる懸命な治療は続けられたものの、1976年9月9日0時10分、[[北京市|北京]]の自宅で側近と主治医に見守られる中、毛沢東は82歳で死去した。 毛沢東の死の直後に腹心の[[張春橋]]、[[江青]]、[[姚文元]]、[[王洪文]]の[[四人組 (中国史)|四人組]]は[[逮捕]]・投獄され、文化大革命は事実上終結した。遺体は現在、[[北京市|北京]]市内の[[天安門広場]]にある[[毛主席紀念堂]]内に安置され、永久保存、一般公開されている。 == 死後 == 毛沢東の死去後、江青ら[[四人組 (中国史)|四人組]]を逮捕失脚させて党主席に就任した[[華国鋒]]は「[[二つのすべて]]」(毛沢東の指示は全て守る)の方針を打ち出した。これは文革路線を継続させ、毛沢東の指示によって地位剥奪された人々を復権させないことを意味した。 これに対して[[トウ小平|鄧小平]]は「毛主席の言葉を一言一句墨守することは、[[毛沢東思想]]の根幹である“実事求是”に反する」との論法で真っ向から反駁した。党と軍の大勢は鄧小平を支持し、その後鄧小平が党と軍を掌握した。華国鋒は失脚して実権を失い「二つのすべて」は否定され、毛沢東の言葉が絶対化された時代は終わった。また党主席のポストが廃止され、存命指導者への崇敬も抑制され、毛沢東のような絶対的個人指導者を戴くシステムの否定が印象付けられた。 {{共産主義}} == その後の評価 == 毛沢東の存命中は、国歌[[義勇軍進行曲]]の歌詞が毛沢東の偉大さを讃えるものに改変された時期もあったが、死後間もなくもともとの歌詞に回復され、国歌での毛沢東への言及はなくなった。 しかし、毛沢東の尊厳を冒すような行為は許されないというのが、現在の中国国内における一般認識である。たとえば[[六四天安門事件]]直前の天安門前広場での民主化デモのさなかに、一参加学生が毛沢東の肖像画に向かってペンキを投げつけたところ、ただちに周囲の民主派学生らに取り押さえられ、「毛主席万歳!」の声がわき起こったと報道された。 一般に文革を経験した世代は毛沢東を手放しで賞賛することは少ないが、直接文革を経験していない若い世代はそれほど警戒的ではないとされる。六四天安門事件の後、生誕100周年に当たる[[1993年]]前後に毛沢東ブームが起こったのをはじめ、関連商品などが何度か流行したこともある。 == 毛沢東の言葉・思想 == ; 日中戦争時代の有名な毛沢東の言葉: : 「[[戦争]]という巨大な力の最深の根元は、人民の中に存在する。日帝がわれわれを迫害し得る大きな原因は、中国人民の側が無秩序・無統制であったからだ。この弱点を解消したならば、日帝侵略者は、われら数億の目覚めた人民群の目前にて、一匹の野牛が火陣の中に放られた如く、われらの恫喝により彼らは飛び上がらん如く脅かされるであろう。この野牛は必ず焼き殺さねばならぬ」 その他、毛沢東の思想詳細については[[毛沢東思想]]、[[毛沢東語録]]を参照のこと。 == 著作 == * 新民主主義論 * 矛盾論 * 実践論 == 中華人民共和国の紙幣 == 1999年から発行が始まった現行の中華人民共和国の紙幣[[人民元|中国人民銀行券]]第五版では、すべての券種に毛沢東の肖像が描かれ、ほかの人物は描かれていない。また1988年に発行された第4版では、100元札に周恩来・劉少奇・朱徳と共に横顔が描かれていた。 == 参考文献 == * 毛沢東『毛沢東選集』(中華人民共和国・人民出版社) * [[産経新聞]]「毛沢東秘録」取材班『毛沢東秘録』上下(産経新聞社・扶桑社文庫) * 師哲『毛沢東側近回想録』(新潮社) * [[李志綏]]『[[毛沢東の私生活]]』(文藝春秋) * ジャスパー・ベッカー『餓鬼』(中央公論新社) == 補足 == ドラマ「延安頌」で毛沢東の延安時代が描かれている。[[2007年]][[11月]]から[[12月]]にかけて、日本でもCCTV大富で放送された。 == 関連項目 == * [[日中平和友好条約]] * [[中国共産党]] * [[孫文]] * [[蒋介石]] * [[周恩来]] * [[張学良]] * [[康生]] * [[西安事件]] * [[中華民国の歴史]] * [[中華人民共和国の歴史]] * [[日中戦争]] * [[ヘンリー・キッシンジャー]] * [[第二次世界大戦]] * [[毛主席紀念堂]] * [[毛沢東思想]] * [[マオ 誰も知らなかった毛沢東]] * [[東方紅]] * [[ジャン=リュック・ゴダール]] * [[センデロ・ルミノソ]] * [[ヨシフ・スターリン]] * [[ネパール共産党毛沢東主義派]] * [[エンヴェル・ホッジャ]] * [[共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派]](日本マルクス・レーニン主義者同盟=ML同盟) * [[日本労働党]] * [[立襟]](マオカラー) == 外部リンク == {{commons|Mao Zedong}} {{commonscat|Mao Zedong}} * [http://china168.web.infoseek.co.jp/cyuugokugouta.htm 中国語の歌] * [http://maoist.web.fc2.com/ 日中愛好協会(正統)] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月23日 (木) 14:35。]    

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