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'''普通選挙法'''('''ふつうせんきょほう''')とは、[[1925年]]([[大正]]14年)、[[加藤高明]][[内閣]]によって成立した、成年男子による[[普通選挙]]を規定する[[法律]]である。普通選挙法というのは通称であり、実体は[[衆議院議員選挙法]]を改正したものである。
== 成立 ==
既に起こっていた[[第一次護憲運動]]により、民衆の普通選挙を求める運動が高まっていたさなか、[[貴族院 (日本)|貴族院]]を背景とした[[清浦奎吾]]内閣は[[衆議院]]を無視して内閣を組閣する。これに対し、[[高橋是清]]、[[犬養毅]]、[[加藤高明]]の3人が中心となって、[[護憲三派]]を形成、[[第二次護憲運動]]が始まる。この運動は[[政党内閣]]の結成、普通選挙の実施を[[公約]]に掲げて行われ、護憲三派は衆議院選挙で勝利を収め、[[憲政会]]総裁である加藤高明内閣を組閣する。
こうして公約通り[[1924年]][[6月11日]][[衆議院議員選挙法]]([[普通選挙法]])は改正(成立)された。しかし、政府原案中の、選挙・被選挙権資格規定に関しては、[[1925年]][[2月]]の[[枢密院 (日本)|枢密院]]の修正(被選挙者の年齢を30年以上とする。貧困のため公私救恤を受ける者や住居不定の者には選挙・被選挙権を与えない。華族の戸主は選挙・被選挙権を有しないなど)があった。これに対し、衆議院は3月の第50議会でを削除したが、貴族院はこれを復活。さらに貴族院は政府原案中にあった「貧困ノタメ」を削り、欠格範囲を拡大したが、両院協議会での協議により「貧困ノタメ」を「貧困ニ因リ」」とすることで妥協が成立([[2月13日]])した(「貧困ニ因リ」を加えることにより、兄弟・親子の相互扶助は欠格要件とならないことした)。
その後、[[3月2日]]、衆議院で修正可決。[[3月26日]]、貴族院で修正可決され。[[5月5日]]、[[衆議院議員選挙法]]改正が公布される。
なお、社会変革を恐れた枢密院の圧力により、同時に[[治安維持法]]も成立され、[[衆議院議員選挙法]]改正公布より先[[4月22日]]に公布された。
== 内容 ==
それまでの納税額による[[制限選挙]]から、納税要件が撤廃され、[[満年齢|満]]25歳以上の全ての成年男子に[[選挙権]]が与えられることが規定された。これにより[[有権者]]数は、[[1920年]](大正9)5月現在において307万人程度(人口に対し約5.5%)であったものが、改正後の[[1928年]](昭和3)3月には1240万人(人口に対し20.1%)と、4倍になった。ただし、成年女子に選挙権が与えられることはなかった。議員定数は466議席。中選挙区制で定数は3~5である。また、新たに選挙運動の制限とその費用の法定制が設けられ、人民代表法的な性格から、選挙取締法的な性格へと、日本の選挙法は転換していった <ref>講座『日本近代法発達史』4、ISBN 9784326448036</ref>。
== 経緯 ==
普通選挙法により選挙権を与えられなかった女性達は、[[婦人参政権獲得期成同盟会]]の名称を[[婦選獲得同盟]]に変更し、[[平塚らいてう]]や[[市川房枝]]を中心として[[婦人参政権]]の獲得を目指して運動を続けるが、世間からは「新しい女」として白眼視された。この普通選挙法に基く選挙は[[1928年]]([[昭和]]3年)の第16回衆議院議員総選挙から[[1942年]](昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる[[翼賛選挙]])まで計6回行われたが、戦後の[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による[[民主主義|民主]]化により[[1945年]](昭和20年)12月に改正衆議院議員選挙法が公布され、全ての成人男女による完全普通選挙がようやく行われるようになった。
== 関連項目 ==
*[[女性参政権]]
*[[新婦人協会]]
*[[赤瀾会]]
<references />
[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%99%AE%E9%80%9A%E9%81%B8%E6%8C%99%E6%B3%95 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月28日 (火) 06:30。]