渋沢栄一

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[[Image:Eiichi Shibusawa.jpg|thumb|200px|渋沢栄一]] '''渋沢 栄一'''('''しぶさわ えいいち'''、正字体:澁澤 榮一、[[天保]]11年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]([[1840年]][[3月16日]]) - [[昭和]]6年([[1931年]])[[11月11日]])は、[[日本]]の[[実業家]]。'''日本資本主義の父'''と呼ばれる。また、[[幕末]]の[[江戸幕府]][[幕臣]]でもあり、[[渋沢成一郎]]の従弟にあたる。[[正二位]][[勲一等]][[子爵]]。 幼名は市三郎。後に栄一郎、篤太夫、篤太郎などを名乗る。[[戒名]]は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。 == 人物 == ===生い立ち=== 渋沢栄一は天保11年(1840年)2月13日、[[武蔵国]]血洗島村(現[[埼玉県]][[深谷市]])に父・市郎右衛門 母・エイの長男として生まれた。幼名は市三郎。 渋沢家は[[藍玉_(染料)|藍玉]]の製造販売と[[養蚕]]を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける大農家だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。市三郎も父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行った。14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につながったとされる。 ===徳川慶喜の家臣・幕臣として=== [[Image:Eiichi Shibusawa transformation.jpg|thumb|200px|左:1866年、右:1867年]] 一方で5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の[[尾高惇忠]]のもとに通い四書五経や『[[日本外史]]』を学ぶ。18歳の時([[1858年]])には惇忠の妹千代と結婚、名を栄一郎と改めるが、[[文久]]元年([[1861年]])に江戸に出て[[海保漁村]]の門下生となる。また[[千葉栄次郎]]の道場(お玉が池の千葉道場)に出入りし、勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から文久3年([[1863年]])に尊皇攘夷の思想に目覚め、[[高崎城]]を乗っ取り、横浜を焼き討ちにして、幕府を倒す計画をたてる。しかし、惇忠の弟長七郎の説得により中止する。 京都に向かい、一橋家家臣の[[平岡円四郎]]の推薦により[[徳川慶喜|一橋慶喜]]に仕えることになる。仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わる。 主君の慶喜が将軍となったのに伴い、[[幕臣]]となり、[[パリ]]で行われる[[万国博覧会]]に将軍の名代として出席する慶喜の弟[[徳川昭武]]の随員として、フランスを訪れる。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する<!--([[瀬名秀明]]の[[小説]]『[[八月の博物館]]』では篤太夫として日本館のシーンに登場、[[エジプト]]学者の[[オーギュスト・マリエット]]と交流している)--><!--フィクションとの混同-->。 パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学するものの、[[大政奉還]]に伴い、[[慶応]]3年([[1867年]])に新政府から帰国を命じられ、12月に帰国した。 ===大蔵省出仕~実業家時代=== [[Image:Eiichi Shibusawa young.jpg|thumb|left|150px|大蔵省時代]] 帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、[[静岡藩]]に出仕することを命じられる。しかし、フランスで学んだ[[株式会社]]制度を実践するため、仕官を断り慶応4年([[1868年]])1月に静岡にて商法会所を設立するが、[[大隈重信]]に説得され、10月に[[大蔵省]]に入省する。大蔵[[官僚]]として[[民部省]][[改正掛]](当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、[[度量衡]]の制定や[[国立銀行条例]]制定に携わる。しかし、[[予算]]編成を巡って、[[大久保利通]]や大隈重信と対立し、[[明治]]6年([[1873年]])に[[井上馨]]と共に退官した。 退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(現:[[みずほ銀行]])の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。また、第一国立銀行だけでなく、[[七十七銀行|七十七国立銀行]]など多くの[[地方銀行]]設立を指導した。 [[第一国立銀行]]のほか、[[東京ガス]]、[[東京海上日動火災保険|東京海上火災保険]]、[[王子製紙]]、秩父セメント(現[[太平洋セメント]])、[[帝国ホテル]]、[[秩父鉄道]]、[[京阪電気鉄道]]、[[東京証券取引所]]、[[キリンビール]]、[[サッポロビール]]など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされている。 若い頃は頑迷なナショナリストであったが、「外人土地所有禁止法」(1912年) に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、成功はしなかったがこれが現在の[[時事通信社]]と[[共同通信社]]の起源となった。 渋沢が三井・岩崎・安田・住友・古河・大倉などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。「私利を追わず公益を図る」考えを生涯に渡って貫き通し、後継者の[[渋沢敬三|敬三]]にもこれを固く戒めた(財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設したため、これを中心とする企業群を「[[渋沢財閥]]」と呼ぶが、これはあくまでも死後の財産争いを防止するために便宜的に[[持株会社]]化したものである)。他の財閥当主が軒並み男爵を授かっているのに対し、渋沢一人は子爵を授かっているのもそうした公共への奉仕が早くから評価されていたためである。 ===社会活動=== [[Image:Members of the Capital Restoration Board cropped.jpg|thumb|175px|震災復興院委員: 左から渋沢、[[伊東巳代治]]、[[加藤高明]]]] 栄一は実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、[[東京慈恵会]]、[[日本赤十字社]]、癩予防協会の設立などに携わり<!--、った。 また、渋沢自身が[[クリスチャン]]であった記録は今のところ見つかっていないが、[[キリスト教]]関係の社会活動を熱心に支援して、それら団体の要職を多数つとめた。--><!--特に意図的にキリスト教関係の社会活動を支援していたのではないので-->財団法人[[聖路加国際病院]]初代[[理事長]]、財団法人[[滝乃川学園]]初代理事長、[[YMCA]]環太平洋連絡会議の日本側議長など<!--多数にわたる。その他、設立間もない日本[[救世軍]]への支援--><!--救世軍はそもそも不特定多数の支援によって成り立ったいるので-->もした。 [[関東大震災]]後の復興のためには、大震災善後会副会長となり寄付金集めなどに奔走した。 [[Image:Kokushikan founding fathers.jpg|thumb|left|250px|国士舘の設立を協議する有志: 前列左から[[頭山満]]、[[野田卯太郎]]、渋沢、[[徳富蘇峰]]]] また、当時は商人に高等教育はいらないという考え方が支配的だったが、商業教育にも力を入れ[[商法講習所]](現[[一橋大学]])、[[大倉喜八郎]]との関係で大倉商業学校(現[[東京経済大学]])の設立に協力したほか、創立者[[大隈重信]]との関係で[[早稲田大学]]、創立者[[三島中洲]]との親交で二松学舎(現[[二松学舎大学]])、野田(大塊)卯太郎との誼で[[学校法人国士舘]](創立者・[[柴田徳次郎]])、井上馨に乞われ[[同志社大学]](創立者・[[新島襄]])の寄付金の取り纏めに関わった。また、商人同様に教育は不要であるとされていた女子の教育の必要性を考え、[[伊藤博文]]、[[勝海舟]]らと[[女子教育奨励会]]を設立、[[成瀬仁蔵]]らとともに[[日本女子大学|日本女子大学校]]、[[伊藤博文]]との関係で[[東京女学館大学|東京女学館]]の設立に携わった。 [[Image:Eiichi Shibusawa and dolls.jpg|thumb|175px|渋沢と青い目の人形]] また日本国際児童親善会を設立し、日本人形とアメリカの人形(青い目の人形)を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金を募るなどし、民間外交の先駆者としての側面もある。 なお渋沢は1926年と1927年の[[ノーベル平和賞]]の候補にもなっている。 ==道徳経済合一説== 『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにするために、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。また、幕末に栄一と同じ観点から[[備中松山藩]]の[[藩政改革]]にあたった[[陽明学者]][[山田方谷]]の門人で「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じた[[三島中洲]]と知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになる。栄一は三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになる。 == 家族・親族 == *妻 千代、兼子 *息子 篤二、武之助、正雄、秀雄 *娘 歌子(学者[[穂積陳重]]に嫁する)、琴子(官僚、政治家[[阪谷芳郎]]に嫁する) *[[庶子]] [[長谷川重三郎]](元[[第一銀行]]頭取) *孫 [[穂積重遠]](学者)、[[渋沢敬三]](学者、銀行家、政治家)、渋沢信雄、渋沢智雄など   *子孫 [[澁澤寿一]](NPO法人樹木環境ネットワーク協会専務理事)、[[橋本岳]](政治家) - [[橋本龍太郎]]元[[首相]]の次男、[[大川慶次郎]](競馬評論家)など *曾孫 [[渋沢雅英]](渋沢栄一記念財団理事長) *玄孫 [[渋沢健]](シブサワ・アンド・カンパニー代表取締役) *来孫 [[橋本岳]](衆議院議員) ==系譜== *渋沢氏は江戸末期、血洗島村には渋沢姓を名乗る家が17軒あった。このため、家の位置によって「東ノ家」「西ノ家」「中ノ家」「前ノ家」「新屋敷」などと呼んで区別した。栄一の父・市郎右衛門は「東ノ家」の当主二代目宗助の三男としてうまれたが「中ノ家」に養子にはいったのである。[[明暦]]年間の「中ノ家」は小農にすぎなかったが栄一がうまれるころになると村の中で二番目の財産家となっていた。栄一が故郷をでてからは妹の貞子が「中ノ家」をまもり、須永家より市郎をむかえ4代目とした。貞子・市郎夫妻の長男元治は初代[[名古屋大学]]総長となった。 *また、栄一は渋沢家の分家「中ノ家」の出だが、本家「東ノ家」からは[[フランス文学者]]の[[澁澤龍彦]]が出ている。 ==その他== [[画像:Shibusawa_Eiichi_statue.jpg|thumb|150px|渋沢栄一像(常盤橋公園、東京都千代田区)]] *日本史上を代表する経済人として、また初代紙幣頭(後の印刷局長)として[[日本銀行券]]([[紙幣]])の肖像の候補者として過去に何回か挙げられたものの実現には至っていない。特に日本銀行券C千円券(1963年11月1日発行開始)の肖像候補として最終選考に残ったが、結局[[伊藤博文]]が採用された。当時は偽造防止に、肖像にヒゲがある人物が用いられていたためである。 <!--*[[高崎線]]の[[深谷駅]]で使われている[[駅スタンプ]]には、栄一の顔が入っている。--><!-- きりがないので --> *渋沢は晩年を[[川越市]]で過ごした。[[深谷市]]では、栄一の命日である11月が「渋沢栄一記念月間」に指定され、毎年イベントが催されている。また埼玉県子ども会育成連絡協議会が発行した『彩の国21世紀郷土かるた』の「え」の項目は「栄一も食べたネギ入り煮ぼうとう」となっている。これは深谷[[ネギ|ねぎ]]が栄一の故郷である深谷の特産品であることと、[[煮ぼうとう]]が埼玉県北部の郷土料理であることにちなんでいる。また現在埼玉県では渋沢の功績に因み、健全な企業活動と社会貢献を行っている全国の企業経営者に「渋沢栄一賞」を授与している。 *[[居合]]の達人。<!-- 元侍ですから --><!-- 中山博道のあこがれの存在を、元侍で片付けてどうする。福沢諭吉も元侍だが、それも元侍ですから、でコメントアウトするのか?第二に、元侍でも現役の侍でも居合抜き打ちが出来なかったあるいは出来ない人間はごまんといる。第三に、そもそもコメントアウトする必要性が無い。居合の達人という記述の、どこに問題がある? --> ==参考文献== ===史料=== *『渋沢栄一伝記資料集』〈第1~58巻〉(渋沢栄一伝記史料刊行会、1955年~1965年) *『渋沢栄一伝記資料集』〈別巻第1~10巻〉(渋沢青淵記念財団竜門社、1966年~1971年) *『渋沢栄一滞仏日記』〈日本史籍協会叢書〉(日本史籍協会、1928年) ===渋沢栄一の著作=== *『渋沢栄一全集』〈全六巻〉(平凡社、1930年) *『青淵百話』(同文館、1931年) *『論語と算盤』(国書刊行会、1985年) *『論語講義』〈講談社学術文庫、全七巻〉(講談社、1977年) *長幸男校注『雨夜譚』〈岩波文庫〉(岩波書店、1984年) ===伝記・評伝など=== *幸田露伴『渋沢栄一伝』(岩波書店、1939年) *渋沢秀雄『渋沢栄一』(渋沢青淵記念財団竜門社、1951年) *渋沢雅英『太平洋にかける橋―渋沢栄一の生涯』(読売新聞社、1970年) *土屋喬雄『渋沢栄一』(吉川弘文館、1989年) *木村昌人『渋沢栄一』<中公新書>(中央公論社、1991年) *渋沢華子『渋沢栄一、パリ万博へ』(国書刊行会、1995年) *佐野眞一『渋沢家三代』〈文春新書〉(文藝春秋、1998年) *鹿島茂『サン=シモン主義者 渋沢栄一』(「諸君!」1999年8月号以下の号で掲載) *坂本慎一『渋沢栄一の経世在民思想』(日本評論社、2002年) *城山三郎『[[雄気堂々]]』 == 栄典 == *[[明治44年]] (1911) 8月24日: [[勲一等瑞宝章]] *[[昭和3年]] (1928) 11月10日: [[勲一等旭日桐花大綬章]] ==関連項目== *[[渋沢財閥]] ==外部リンク== {{Wikiquote|渋沢栄一}} *[http://210.128.252.171/portrait/datas/104.html?c=0 渋沢栄一 | 近代日本人の肖像] *[http://www.shibusawa.or.jp/ 渋沢栄一記念財団] *[http://www.geocities.jp/kazumihome2004/ 埼玉が生んだ偉人【渋沢栄一】] *[http://www.city.fukaya.saitama.jp/seisakusuisin/shibusawa_top.html 郷土の偉人渋沢栄一(深谷市サイト内)] *[http://kingendaikeizu.net/hasimotoryuutarou.htm 近現代・系図ワールド] *[http://www.geocities.jp/kazumihome2004/1.html 渋沢氏系譜]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年2月4日 (月) 19:20。]   
{{Infobox 人物 |氏名=渋沢 栄一(澁澤 榮一) |画像=Eiichi Shibusawa.jpg |画像サイズ=200px |画像説明=[http://www.ndl.go.jp/portrait/contents/index.html 電子展示会「近代日本人の肖像」]より |生年月日= [[天保]]11年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]<br>([[1840年]][[3月16日]]) |生誕地=現[[埼玉県]][[深谷市]] |没年月日=[[1931年]][[11月11日]](91歳) |職業=[[幕臣]]、[[官僚]]、[[実業家]] }} '''渋沢 栄一'''(しぶさわ えいいち、[[天保]]11年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]([[1840年]][[3月16日]]) - [[昭和]]6年([[1931年]])[[11月11日]])は、[[幕末]]の[[幕臣]]、[[明治]]~[[大正]]初期の[[大蔵省|大蔵]][[官僚]]、[[実業家]]。[[第一国立銀行]]や[[王子製紙]]・[[日本郵船]]・[[東京証券取引所]]などといった多種多様の企業の設立・経営に関わり、'''日本資本主義の父'''と呼ばれる。 [[正二位]][[勲一等]][[子爵]]。雅号は青淵。戒名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。 == 人物 == ===生い立ち=== 天保11年(1840年)2月13日、[[武蔵国]]血洗島村(現[[埼玉県]][[深谷市]])に父・市郎右衛門、母・エイの長男として生まれた。幼名は市三郎。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。[[渋沢成一郎]]は従兄。 渋沢家は[[藍玉_(染料)|藍玉]]の製造販売と[[養蚕]]を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける大農家だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。市三郎も父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行った。14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につながったとされる。 ===徳川慶喜の家臣・幕臣として=== [[Image:Eiichi Shibusawa transformation.jpg|thumb|200px|左:1866年、右:1867年]] 一方で5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の[[尾高惇忠 (実業家)|尾高惇忠]]の許に通い、[[四書五経]]や『[[日本外史]]』を学ぶ。[[剣術]]は、従兄弟の新三郎より[[神道無念流]]を学んだ。18歳の時([[1858年]])には惇忠の妹千代と結婚、名を栄一郎と改めるが、[[文久]]元年([[1861年]])に江戸に出て[[海保漁村]]の門下生となる。また[[北辰一刀流]]の[[千葉栄次郎]]の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から文久3年([[1863年]])に尊皇攘夷の思想に目覚め、[[高崎城]]を乗っ取り、横浜を焼き討ちにして、幕府を倒す計画をたてる。しかし、惇忠の弟長七郎の説得により中止する。 京都に向かい、一橋家家臣の[[平岡円四郎]]の推薦により[[徳川慶喜|一橋慶喜]]に仕えることになる。仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わる。 主君の慶喜が将軍となったのに伴い、[[幕臣]]となり、[[パリ]]で行われる[[万国博覧会]]に将軍の名代として出席する慶喜の弟[[徳川昭武]]の随員として、フランスを訪れる。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。 パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学するものの、[[大政奉還]]に伴い、[[慶応]]3年([[1867年]])に新政府から帰国を命じられ、12月に帰国した。 ===大蔵省出仕~実業家時代=== [[Image:Eiichi Shibusawa young.jpg|thumb|left|150px|大蔵省時代]] 帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、[[静岡藩]]に出仕することを命じられる。しかし、フランスで学んだ[[株式会社]]制度を実践するため、仕官を断り慶応4年([[1868年]])1月に静岡にて商法会所を設立するが、[[大隈重信]]に説得され、10月に[[大蔵省]]に入省する。大蔵[[官僚]]として[[民部省]][[改正掛]](当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、[[度量衡]]の制定や[[国立銀行条例]]制定に携わる。しかし、[[予算]]編成を巡って、[[大久保利通]]や大隈重信と対立し、[[明治]]6年([[1873年]])に[[井上馨]]と共に退官した。 退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(現:[[みずほ銀行]])の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。また、第一国立銀行だけでなく、[[七十七銀行|七十七国立銀行]]など多くの[[地方銀行]]設立を指導した。 [[第一国立銀行]]のほか、[[東京瓦斯|東京ガス]]、[[東京海上日動火災保険|東京海上火災保険]]、[[王子製紙]]、秩父セメント(現[[太平洋セメント]])、[[帝国ホテル]]、[[秩父鉄道]]、[[京阪電気鉄道]]、[[東京証券取引所]]、[[キリンビール]]、[[サッポロビール]]など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされている。 若い頃は頑迷なナショナリストであったが、「外人土地所有禁止法」(1912年)に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、成功はしなかったが、これが現在の[[時事通信社]]と[[共同通信社]]の起源となった。 渋沢が[[三井八郎右衛門#8代高福|三井高福]]・[[岩崎弥太郎]]・[[安田善次郎]]・[[住友友純]]・[[古河市兵衛]]・[[大倉喜八郎]]などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の[[渋沢敬三|敬三]]にもこれを固く戒めた。また、他の財閥当主が軒並み[[男爵]]どまりなのに対し、渋沢一人は[[子爵]]を授かっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためである。 なお、渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「[[渋沢財閥]]」と呼ばれたこともあって、他の実業家と何ら変わらないのではないかとの評価もある。しかし、これはあくまでも死後の財産争いを防止するために便宜的に[[持株会社]]化したものであって、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものであった。 ===社会活動=== [[Image:Members of the Capital Restoration Board cropped.jpg|thumb|175px|震災復興院委員: 左から渋沢、[[伊東巳代治]]、[[加藤高明]]]] 栄一は実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、[[東京慈恵会]]、[[日本赤十字社]]、癩予防協会の設立などに携わり<!--、った。 また、渋沢自身が[[クリスチャン]]であった記録は今のところ見つかっていないが、[[キリスト教]]関係の社会活動を熱心に支援して、それら団体の要職を多数つとめた。--><!--特に意図的にキリスト教関係の社会活動を支援していたのではないので-->財団法人[[聖路加国際病院]]初代[[理事長]]、財団法人[[滝乃川学園]]初代理事長、[[YMCA]]環太平洋連絡会議の日本側議長など<!--多数にわたる。その他、設立間もない日本[[救世軍]]への支援--><!--救世軍はそもそも不特定多数の支援によって成り立ったいるので-->もした。 [[関東大震災]]後の復興のためには、大震災善後会副会長となり寄付金集めなどに奔走した。 [[Image:Kokushikan founding fathers.jpg|thumb|left|250px|国士舘の設立を協議する有志: 前列左から[[頭山満]]、[[野田卯太郎]]、渋沢、[[徳富蘇峰]]]] また、当時は商人に高等教育はいらないという考え方が支配的だったが、商業教育にも力を入れ[[商法講習所]](現[[一橋大学]])、[[大倉喜八郎]]との関係で大倉商業学校(現[[東京経済大学]])の設立に協力したほか、創立者[[大隈重信]]との関係で[[早稲田大学]]、創立者[[三島中洲]]との親交で二松学舎(現[[二松学舎大学]])、野田(大塊)卯太郎との誼で[[学校法人国士舘]](創立者・[[柴田徳次郎]])、井上馨に乞われ[[同志社大学]](創立者・[[新島襄]])の寄付金の取り纏めに関わった。また、商人同様に教育は不要であるとされていた女子の教育の必要性を考え、[[伊藤博文]]、[[勝海舟]]らと[[女子教育奨励会]]を設立、[[成瀬仁蔵]]らとともに[[日本女子大学|日本女子大学校]]、伊藤博文との関係で[[東京女学館大学|東京女学館]]の設立に携わった。 [[Image:Eiichi Shibusawa and dolls.jpg|thumb|175px|渋沢と青い目の人形]] また日本国際児童親善会を設立し、日本人形とアメリカの人形([[青い目の人形]])を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金を募るなどし、民間外交の先駆者としての側面もある。 なお渋沢は1926年と1927年の[[ノーベル平和賞]]の候補にもなっている。 ==道徳経済合一説== 『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。また、幕末に栄一と同じ観点から[[備中松山藩]]の[[藩政改革]]にあたった[[陽明学者]][[山田方谷]]の門人で「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じた[[三島中洲]]と知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになる。栄一は三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになる。 ==系譜== * 江戸末期、血洗島村には渋沢姓を名乗る家が17軒あった。このため、家の位置によって「東ノ家」「西ノ家」「中ノ家」「前ノ家」「新屋敷」などと呼んで区別した。栄一の父・市郎右衛門は「東ノ家」の当主二代目宗助の三男としてうまれたが「中ノ家」に養子にはいったのである。[[明暦]]年間の「中ノ家」は小農にすぎなかったが栄一がうまれるころになると村の中で二番目の財産家となっていた。栄一が故郷をでてからは妹の貞子が「中ノ家」をまもり、須永家より市郎をむかえ4代目とした。貞子・市郎夫妻の長男[[渋沢元治|元治]]は初代[[名古屋大学]]総長となった。 * また、栄一は渋沢家の分家「中ノ家」の出だが、本家「東ノ家」からは[[フランス文学者]]の[[澁澤龍彦]]が出ている。<br> <hr> * '''渋沢氏(中ノ家)''' <pre>  ∴ 渋沢市郎右衛門  ┃  ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━┓  ┃                             ┃        ┃ 渋沢栄一                          渋沢市郎(婿養子)  貞子  ┃                             ┃  ┣━━━━┳━━━━━┳━━━━┳━━━┳━━┳━━┓   ┃  ┃    ┃     ┃    ┃   ┃  ┃  ┃   ┃ 渋沢篤二 渋沢武之助 渋沢正雄 渋沢秀雄 歌子 琴子 愛子 渋沢元治  ┃  ┣━━━━┳━━━━━┳━━━┓  ┃    ┃     ┃   ┃ 渋沢敬三 渋沢信雄  渋沢智雄 純子  ┃  ┣━━━━┳━━━━━┓  ┃    ┃     ┃ 渋沢雅英  紀子    黎子  ┃  ┣━━━━┓  ┃    ┃  男    女 </pre> == 家族・親族 == ; 妻 * 千代 * 兼子 ; 子<ref>嫡子・庶子を合わせると20人くらいになるらしい。渋沢は女性関係が派手だったようで、大蔵省時代には自宅に妾と同居していたりもしたが、時代背景を考えると特別なことでもない。</ref> * 長男:篤二 ([[廃嫡]]) * 次男:武之助 * 三男:正雄 ([[立川飛行機|石川島飛行機]]社長) * 四男:秀雄 ([[東京宝塚劇場]]会長、[[東宝]]取締役会長) * [[庶子]]:[[長谷川重三郎]](元[[第一銀行]]頭取) * 長女:[[穂積陳重]][[男爵]](学者)の妻、歌子 * 次女:[[阪谷芳郎]][[子爵]]([[大蔵大臣]])の妻、琴子 * 三女:[[明石照男]]の妻、愛子 ; 孫 * [[渋沢敬三]][[子爵]](民俗学者、日銀総裁、大蔵大臣。父の廃嫡後に栄一より後継者に指名される) * 渋沢信雄(貿易商。妻は音楽教育家[[齋藤秀雄]]の妹) * 渋沢智雄 * [[鮫島具重]][[男爵]]の妻、純子 * [[穂積重遠]](法学者、最高裁判事) * [[尾高朝雄]](法哲学者) * [[尾高邦雄]](社会学者。妻は哲学者[[和辻哲郎]]の娘) * [[尾高尚忠]](指揮者)   ; 曾孫 * [[澁澤寿一]](NPO法人樹木環境ネットワーク協会専務理事) * [[渋沢雅英]](渋沢栄一記念財団理事長) * [[尾高惇忠 (作曲家)|尾高惇忠]](作曲家) * [[尾高忠明]](指揮者) * [[大川慶次郎]](競馬評論家) ; 玄孫 * [[渋沢健]](シブサワ・アンド・カンパニー代表取締役) ; 来孫 * [[橋本岳]](衆議院議員) <div class="references-small"><references /></div> ==その他== [[画像:Shibusawa_Eiichi_statue.jpg|thumb|150px|渋沢栄一像(常盤橋公園、東京都千代田区)]] * 日本史上を代表する経済人として、また初代紙幣頭(後の印刷局長)として[[日本銀行券]]([[紙幣]])の肖像の候補者として過去に何回か挙げられたものの実現には至っていない。特に日本銀行券C千円券(1963年11月1日発行開始)の肖像候補として最終選考に残ったが、結局[[伊藤博文]]が採用された。当時は偽造防止に、肖像にヒゲがある人物が用いられていたためである。 * 日本では渋沢の肖像を入れた紙幣は発行されなかったが、1902~1904年にかけて[[大韓帝国]]で発行された初期の第一銀行券の1円、5円、10円券には当時の経営者だった渋沢の肖像が描かれていた。 * 渋沢は晩年を[[川越市]]で過ごした。[[深谷市]]では、栄一の命日である11月が「渋沢栄一記念月間」に指定され、毎年イベントが催されている。埼玉県子ども会育成連絡協議会が発行した『さいたま郷土かるた』の「に」の項目は「日本の産業育てた渋沢翁」となっており、[[畠山重忠]]、[[塙保己一]]と並ぶ埼玉を代表する偉人として、3人札(役札:3枚そろえると10点)に選出されている。また『彩の国21世紀郷土かるた』の「え」の項目は「栄一も食べたネギ入り煮ぼうとう」となっている。これは深谷[[ネギ|ねぎ]]が栄一の故郷である深谷の特産品であることと、[[煮ぼうとう]]が埼玉県北部の郷土料理であることにちなんでいる。 * 現在埼玉県では渋沢の功績に因み、健全な企業活動と社会貢献を行っている全国の企業経営者に「渋沢栄一賞」を授与している。 * [[居合]]の達人。 ==参考文献== ===史料=== *『渋沢栄一伝記資料集』〈第1~58巻〉(渋沢栄一伝記史料刊行会、1955年~1965年) *『渋沢栄一伝記資料集』〈別巻第1~10巻〉(渋沢青淵記念財団竜門社、1966年~1971年) *『渋沢栄一滞仏日記』〈日本史籍協会叢書〉(日本史籍協会、1928年) === 渋沢栄一の著作 === * 『渋沢栄一全集』(全6巻) [[平凡社]]、[[1930年]] * 『青淵百話』 [[同文舘]]、[[1931年]] * 『論語と算盤』 [[国書刊行会]]、[[1985年]] * 『論語講義』(全7巻)<[[講談社学術文庫]]> [[講談社]]、[[1977年]] * 『雨夜譚』([[長幸男]]:校注)<[[岩波文庫]]> [[岩波書店]]、[[1984年]] === 伝記・評伝など === * [[幸田露伴]] 『渋沢栄一伝』 岩波書店、[[1939年]] * [[渋沢秀雄]] 『渋沢栄一』 渋沢青淵記念財団竜門社、[[1951年]] * 渋沢雅英 『太平洋にかける橋 - 渋沢栄一の生涯』 [[読売新聞社]]、[[1970年]] * [[土屋喬雄]] 『渋沢栄一』 [[吉川弘文館]]、[[1989年]] * 木村昌人 『渋沢栄一』<[[中公新書]]> [[中央公論社]]、[[1991年]] * 渋沢華子 『渋沢栄一、パリ万博へ』 [[国書刊行会]]、[[1995年]] * [[佐野眞一]] 『渋沢家三代』<[[文春新書]]> [[文藝春秋社]]、[[1998年]] * [[鹿島茂]]「サン=シモン主義者 渋沢栄一」『[[諸君!]]』[[1999年]]8月号以下の号で掲載 * 坂本慎一 『渋沢栄一の経世済民思想』 [[日本評論社]]、[[2002年]] * 見城悌治 『渋沢栄一:「道徳」と経済のあいだ』 [[日本経済評論社]]、[[2008年]] ISBN 9784818820241 * [[城山三郎]] 『[[雄気堂々]]』 == 栄典 == *[[明治]]44年([[1911年]])8月24日: [[勲一等瑞宝章]] *[[昭和]]3年([[1928年]])11月10日: [[勲一等旭日桐花大綬章]] ==関連項目== *[[渋沢財閥]] *[[渋沢史料館]] - 渋沢栄一の生涯と事績に関する博物館。現存する旧本邸の建物(晩香廬、青淵文庫)を公開。 *[[古牧温泉]] - 渋沢公園内に旧三田綱町邸が移築保存されている。 *[[諸井恒平]] - 渋沢栄一とは親類関係に当たる。 ==外部リンク== {{Wikiquote|渋沢栄一}} *[http://210.128.252.171/portrait/datas/104.html?c=0 渋沢栄一 | 近代日本人の肖像] *[http://www.shibusawa.or.jp/ 渋沢栄一記念財団] *[http://www.geocities.jp/kazumihome2004/ 埼玉が生んだ偉人【渋沢栄一】] *[http://www.city.fukaya.saitama.jp/seisakusuisin/shibusawa_top.html 郷土の偉人渋沢栄一(深谷市サイト内)] *[http://kingendaikeizu.net/hasimotoryuutarou.htm 近現代・系図ワールド] *[http://www.geocities.jp/kazumihome2004/1.html 渋沢氏系譜] <!-- スパムフイルター検出サイト*[http://fxthegate.com/2008/01/11100.html 100年企業 渋沢栄一が設立に携わった企業]-->   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月23日 (月) 14:15。]   

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