樺太・千島交換条約

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'''樺太千島交換条約'''(からふと ちしま こうかんじょうやく)は、[[1875年]][[5月7日]]に[[日本]]と[[ロシア帝国]]との間で[[国境]]を確定するために結ばれた条約。'''千島樺太交換条約'''や、[[署名]]した場所からとって'''[[サンクトペテルブルグ]]条約'''と表記する場合もある。 == 経緯 == 日本とロシアとの国境は[[1855年]]の[[日露和親条約]]において[[千島列島]](クリル列島)の[[択捉島]](エトロフ島)と[[得撫島]](ウルップ島)との間に定められたが、[[樺太]]については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされた<ref>日本政府外務省は日露和親条約では、樺太は日露混住の地と決められたと説明している(出典:外務省国内広報課発行『われらの北方領土2006年版』P6)</ref>。 1856年に[[クリミア戦争]]が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるいは、ウルップ島からオネコタン島までの千島列島と交換に樺太をロシア領とすることを建言した。幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、[[1867年]]石川謙三郎・小出秀実をペテルブルグに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太は是迄通りとされた([[日露間樺太島仮規則]])。<ref>出典:阿部光蔵『幕末期日露関係』北方領土の地位 南方同胞援護会発行(昭和37年3月)P5~P38</ref>  日露間樺太島仮規則では、樺太に国境を定めることが出来なかったため、明治に入っても、日露両国の紛争が頻発した。こうした事態に対して、日本政府内では、樺太全島の領有ないし樺太島を南北に区分し、両国民の住み分けを求める[[副島種臣]]外務卿の意見と、「遠隔地の樺太を早く放棄し、北海道の開拓に全力を注ぐべきだ」とする樺太放棄論を掲げる[[黒田清隆]]開拓次官の二つの意見が存在していた。その後、副島が[[征韓論]]で下野することなどにより、黒田らの樺太放棄論が明治政府内部で優勢となった。 1874年3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりにウルップ島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使[[榎本武揚]]はサンクトペテルブルクに赴いた。榎本とスツレモーホフ(Stremoukhov)ロシア外務省アジア局長、[[アレクサンドル・ゴルチャコフ]]ロシア外相との間で交渉が進められ、その結果、樺太での日本の権益を放棄するかわりに、得撫島(ウルップ島)以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めたの'''樺太・千島交換条約'''を締結した。 ==日本語訳文の誤訳== 樺太・千島交換条約の正文はフランス語である。日本語訳文は条約としての効力は有していない。日本語訳文には、第二款のクリル群島の部分に誤訳がある。 (フランス語正文)En échange de la cession à la Russie des droits sur l'île de Sakhaline, énoncée dans l'Article premier, Sa Majesté l'Empereur de toutes les Russies, pour Elle et Ses héritiers, cède à Sa Majesté l'Empereur du Japon le groupe des Îles dites Kouriles qu'Elle possède actuellement avec tous les droits de souveraineté découlant de cette possession, en sorte que désormais ledit groupe des Kouriles appartiendra à l'Empire du Japon. Ce groupe comprend les dix-huit îles ci-dessous nommées : 1) Choumchou・・・途中省略・・・ 18) Ouroup, en sorte que la frontière entre les Empires de Russie et du Japon dans ces parages passera par le détroit qui se trouve entre le cap Lopatka de la péninsule de Kamtchatka et l' île de Choumchou. <ref> 出典:外務省条約局『旧條約彙纂』第一巻第二部,1934</ref> (第1条に述べられたる、サハリン島に対する諸権利のロシアへの譲歩の代わりに、全ロシア皇帝は後継者に至るまで、現在自ら所有するところのクリル諸島のグループを、その所有に由来する凡ての主権とともに日本皇帝に対してゆずる。従って、上述のクリル諸島のグループは日本国に属する。このグループは以下に挙げる18島をふくむ。:1)シュムシュ・・・途中省略・・・18)ウルプ 従ってこの海域におけるロシア国と日本国の境界はカムチャツカ半島ロパトカ岬とシュムシュ島との間の海峡を通過することになる。)『村山七郎「クリル諸島の文献学的研究」P144,P145』 (日本語訳文)全露西亜国皇帝陛下ハ第一款ニ記セル樺太島(即薩哈嗹島)ノ権理ヲ受シ代トシテ其後胤ニ至ル迄現今所領「クリル」群島即チ第一「シュムシュ」島 ・・・途中省略・・・第十八「ウルップ」島共計十八島ノ権理及び君主ニ属スル一切ノ権理ヲ大日本国皇帝陛下ニ譲り而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ柬察加地方「ラパッカ」岬ト「シュムシュ」島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス フランス語正文では、『現在自ら所有するところのクリル諸島のグループ』と書かれているが、日本語訳文では『現今所領「クリル」群島』と訳されており、『グループ』が欠落している。さらに、フランス語正文では『従って、上述のクリル諸島のグループは日本国に属する』とあるが、日本語の誤訳にはこの部分が欠落している。そして、日本語誤訳には、フランス語正文に無い『今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ』の句が挿入されている。このため、日本語訳文ではクリル群島がここで挙げられている18島だけのように読めるが、フランス語正文では、このように解釈することはできない。<ref>出典:村山七郎 『クリル諸島の文献学的研究』1987年8月、P143~P146</ref><ref>出典:和田春樹 岩波書店『世界』1987年5月、1988年5月、1988年11月</ref><ref>出典:長谷川毅 『北方領土問題と日露関係』2000年、P21~P23</ref> ==北方領土問題と樺太・千島交換条約の関連== いわゆる[[北方領土]]問題では、この条約での「千島列島」の範囲が争点の一つになることがある。[[日本国との平和条約]]で千島列島を放棄したが、放棄した千島列島に北方領土は含まれないと説明される。その根拠に、樺太・千島交換条約第二款では、クリル列島とはシュムシュ島からウルップ島とされていることがあげられる。これは、条約として効力の無い日本語訳文の誤訳をもとにしており、フランス語正文からはこのような解釈は成り立たない。 現在、日本の[[国会]]に議席を持っている政党の中で[[日本共産党]]はこの樺太・千島交換条約を根拠にしてウルップ島以北を含めた全千島の返還を[[ソビエト連邦]]および現在の[[ロシア連邦]]に要求している。 ==脚注== <references /> == 参考 == *[http://list.room.ne.jp/~lawtext/1875Karafuto-Chishima.html 条約日本語訳文](正文はフランス語)  == 関連項目 == *[[アイヌ]] *[[先住民]] *[[日露関係史]] *[[北方領土問題]] *[[日露和親条約]] *[[日露修好通商条約]] *[[日露間樺太島仮規則]] *[[ポーツマス条約]]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%A8%BA%E5%A4%AA%E3%83%BB%E5%8D%83%E5%B3%B6%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E6%9D%A1%E7%B4%84 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年1月13日 (日) 01:36。]   
'''樺太千島交換条約'''(からふと ちしま こうかんじょうやく)は、明治8年([[1875年]])[[5月7日]]に[[日本]]と[[ロシア帝国]]との間で[[国境]]を確定するために結ばれた条約。'''千島樺太交換条約'''や、[[署名]]した場所からとって'''[[サンクトペテルブルグ]]条約'''と表記する場合もある。 == 経緯 == 日本とロシアとの国境は安政元年([[1855年]])の[[日露和親条約]]において[[千島列島]](クリル列島)の[[択捉島]](エトロフ島)と[[得撫島]](ウルップ島)との間に定められたが、[[樺太]]については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされた<ref>日本政府外務省は日露和親条約では、樺太は日露混住の地と決められたと説明している(出典:外務省国内広報課発行『われらの北方領土2006年版』P6)</ref>。 1856年に[[クリミア戦争]]が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるいは、ウルップ島からオネコタン島までの千島列島と交換に樺太をロシア領とすることを建言した。幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、[[1867年]][[石川利政]]・[[小出秀実]]をペテルブルグに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太は是迄通りとされた([[日露間樺太島仮規則]])。<ref>出典:阿部光蔵『幕末期日露関係』北方領土の地位 南方同胞援護会発行(昭和37年3月)P5~P38</ref>  日露間樺太島仮規則では、樺太に国境を定めることが出来なかったため、明治に入っても、日露両国の紛争が頻発した。こうした事態に対して、日本政府内では、樺太全島の領有ないし樺太島を南北に区分し、両国民の住み分けを求める[[副島種臣]]外務卿の意見と、「遠隔地の樺太を早く放棄し、北海道の開拓に全力を注ぐべきだ」とする樺太放棄論を掲げる[[黒田清隆]]開拓次官の二つの意見が存在していた。その後、副島が[[征韓論]]で下野することなどにより、黒田らの樺太放棄論が明治政府内部で優勢となった。 1874年3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりにウルップ島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使[[榎本武揚]]はサンクトペテルブルクに赴いた。榎本とスツレモーホフ(Stremoukhov)ロシア外務省アジア局長、[[アレクサンドル・ゴルチャコフ]]ロシア外相との間で交渉が進められ、その結果、樺太での日本の権益を放棄するかわりに、得撫島(ウルップ島)以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた'''樺太・千島交換条約'''を締結した。 ==日本語訳文の誤訳== 樺太・千島交換条約の正文はフランス語である。日本語訳文は条約としての効力は有していない。日本語訳文には、第二款のクリル群島の部分に誤訳がある。 (フランス語正文)En échange de la cession à la Russie des droits sur l'île de Sakhaline, énoncée dans l'Article premier, Sa Majesté l'Empereur de toutes les Russies, pour Elle et Ses héritiers, cède à Sa Majesté l'Empereur du Japon le groupe des Îles dites Kouriles qu'Elle possède actuellement avec tous les droits de souveraineté découlant de cette possession, en sorte que désormais ledit groupe des Kouriles appartiendra à l'Empire du Japon. Ce groupe comprend les dix-huit îles ci-dessous nommées : 1) Choumchou・・・途中省略・・・ 18) Ouroup, en sorte que la frontière entre les Empires de Russie et du Japon dans ces parages passera par le détroit qui se trouve entre le cap Lopatka de la péninsule de Kamtchatka et l' île de Choumchou. <ref> 出典:外務省条約局『旧條約彙纂』第一巻第二部,1934</ref> (第1条に述べられたる、サハリン島に対する諸権利のロシアへの譲歩の代わりに、全ロシア皇帝は後継者に至るまで、現在自ら所有するところのクリル諸島のグループを、その所有に由来する凡ての主権とともに日本皇帝に対してゆずる。従って、上述のクリル諸島のグループは日本国に属する。このグループは以下に挙げる18島をふくむ。:1)シュムシュ・・・途中省略・・・18)ウルプ 従ってこの海域におけるロシア国と日本国の境界はカムチャツカ半島ロパトカ岬とシュムシュ島との間の海峡を通過することになる。)『村山七郎「クリル諸島の文献学的研究」P144,P145』 (日本語訳文)全露西亜国皇帝陛下ハ第一款ニ記セル樺太島(即薩哈嗹島)ノ権理ヲ受シ代トシテ其後胤ニ至ル迄現今所領「クリル」群島即チ第一「シュムシュ」島 ・・・途中省略・・・第十八「ウルップ」島共計十八島ノ権理及び君主ニ属スル一切ノ権理ヲ大日本国皇帝陛下ニ譲り而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ柬察加地方「ラパッカ」岬ト「シュムシュ」島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス フランス語正文では、『現在自ら所有するところのクリル諸島のグループ』と書かれているが、日本語訳文では『現今所領「クリル」群島』と訳されており、『グループ』が欠落している。さらに、フランス語正文では『従って、上述のクリル諸島のグループは日本国に属する』とあるが、日本語の誤訳にはこの部分が欠落している。そして、日本語誤訳には、フランス語正文に無い『今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ』の句が挿入されている。このため、日本語訳文ではクリル群島がここで挙げられている18島だけのように読めるが、フランス語正文では、このように解釈することはできない。<ref>出典:村山七郎 『クリル諸島の文献学的研究』1987年8月、P143~P146</ref><ref>出典:和田春樹 岩波書店『世界』1987年5月、1988年5月、1988年11月</ref><ref>出典:長谷川毅 『北方領土問題と日露関係』2000年、P21~P23</ref> ==北方領土問題と樺太・千島交換条約の関連== いわゆる[[北方領土]]問題では、この条約での「千島列島」の範囲が争点の一つになることがある。[[日本国との平和条約]]で千島列島を放棄したが、放棄した千島列島に北方領土は含まれないと説明される。その根拠に、樺太・千島交換条約第二款では、クリル列島とはシュムシュ島からウルップ島とされていることがあげられる。これは、条約として効力の無い日本語訳文の誤訳をもとにしており、フランス語正文からはこのような解釈は成り立たない。 現在、日本の[[国会]]に議席を持っている政党の中で[[日本共産党]]はこの樺太・千島交換条約を根拠にしてウルップ島以北を含めた全千島の返還を[[ソビエト連邦]]および現在の[[ロシア連邦]]に要求している。 ==脚注== <references /> == 参考 == *[http://list.room.ne.jp/~lawtext/1875Karafuto-Chishima.html 条約日本語訳文](正文はフランス語)  == 関連項目 == {{wikisource|千島樺太兩島交換條約|千島樺太両島交換条約|日本語翻訳文}} {{wikisource|千島樺太交換條約附錄|千島樺太交換条約附録|日本語翻訳文}} * [[アイヌ]] * [[先住民]] * [[日露関係史]] * [[日露和親条約]] * [[日露修好通商条約]] * [[日露間樺太島仮規則]] * [[ポーツマス条約]] * [[サンフランシスコ講和条約]] * [[北方領土問題]]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%A8%BA%E5%A4%AA%E3%83%BB%E5%8D%83%E5%B3%B6%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E6%9D%A1%E7%B4%84 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月19日 (金) 20:05。]   

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