近衛上奏文

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'''近衛上奏文'''(このえじょうそうぶん)とは、[[太平洋戦争]]末期の[[1945年]](昭和20年)[[2月14日]]に、[[近衛文麿]]が[[昭和天皇]]に対して出した[[上奏|上奏文]]である。 ==概要== 近衛は昭和天皇に対して、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる「近衛上奏文」を奏上し、英米の世論は天皇制廃止にまでは至っていないとの情勢判断の下、いわゆる「国体護持」には敗戦それ自体よりも敗戦の混乱に伴う共産革命を恐れるべきであるとの問題意識を示した<ref>敗戰タケナラハ國體上ハサマテ憂フル要ナシト存候、國體護持ノ建前ヨリ最モ憂フルヘキハ敗戰ヨリモ敗戰ニ伴フテ起ルコトアルヘキ共産革命ニ御座候。</ref>。 #「[[大東亜戦争]]」(太平洋戦争)は日本の革新を目的とする軍の一味の計画によるものであること<ref>抑々滿洲事變、支那事變ヲ起シ、之ヲ擴大シテ遂ニ大東亞戰爭ニマテ導キ來レルハ是等軍部内ノ意識的計畫ナリシコト今ヤ明瞭ナリト存候。滿洲事變當時、彼等カ事變ノ目的ハ國内革新ニアリト公言セルハ、有名ナル事實ニ御座候。支那事變當時モ、「事變永引クカヨロシク事變解決セハ國内革新カ出來ナクナル」ト公言セシハ此ノ一味ノ中心的人物ニ御座候。</ref> #一味の目的は共産革命とは断言できないが、共産革命を目的とした官僚や民間有志がこれを支援していること<ref>是等軍部内一味ノ者ノ革新論ノ狙ヒハ必スシモ共産革命ニ非ストスルモ、コレヲ取巻ク一部官僚及民間有志(之ヲ右翼トイフモ可、左翼トイフモ可ナリ、所謂右翼ハ國體ノ衣ヲ着ケタル共産主義者ナリ)ハ意識的ニ共産革命ニマテ引キスラントスル意圖ヲ包藏シ居リ、無知單純ナル軍人之ニ躍ラサレタリト見テ大過ナシト存候。此事ハ過去十年間軍部、官僚、右翼、左翼ノ多方面ニ亙リ交友ヲ有セシ不肖カ最近靜カニ反省シテ到達シタル結論ニシテ此結論ノ鏡ニカケテ過去十年間ノ動キヲ照ラシ見ル時、ソコニ思ヒ當ル節々頗ル多キヲ感スル次第ニ御座候。 </ref> #「[[一億玉砕]]」は[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]の「[[敗戦革命論]]」のための詞であること<ref>昨今戰局ノ危急ヲ告クルト共ニ一億玉碎ヲ叫フ聲次第ニ勢ヲ加ヘツツアリト存候。カカル主張ヲナス者ハ所謂右翼者流ナルモ背後ヨリ之ヲ煽動シツツアルハ、之ニヨリテ國内ヲ混亂ニ陷レ遂ニ革命ノ目的ヲ達セントスル共産分子ナリト睨ミ居リ候。</ref> #米英撃滅の論が出てきている反面、一部の陸軍将校にはソ連軍や中国共産党と手を組むことを考えるものもでてきていること<ref>一方ニ於テ徹底的ニ米英撃滅ヲ唱フル反面、親ソ的空氣ハ次第ニ濃厚ニナリツツアル樣ニ御座候。軍部ノ一部ニハイカナル犠牲ヲ拂ヒテモソ聯ト手ヲ握ルヘシトサヘ論スルモノモアリ、又延安トノ提携ヲ考ヘ居ル者モアリトノ事ニ御座候。</ref> 近衛は陸軍内に共産主義者が存在し、敗戦を利用して共産革命を行おうとしている旨を述べた。また、戦争終結のためにはこの一味が障害となること、一味さえ取り除けば軍部を利用していた共産主義者を抑えることができることを述べている。 御下問において、軍部にはソ連との提携を図る者もいるが、アメリカとの講和以外に途は無いこと、軍部を抑えることで和平に導くべきであるということを主張した。昭和天皇から見れば、近衛の「敗戦」「共産革命」という上奏文、および内閣後継人事の意見は、常軌を逸したものであり、「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」として近衛の話には否定的だった。これが、[[東京大空襲]]から[[長崎市への原子爆弾投下|長崎原爆投下]]などの惨事を招いたとする、「遅過ぎた聖断」として批判する意見の論拠とされている。 上奏の前、近衛は書き上げた「近衛上奏文」を持って[[吉田茂]]邸を訪れた。吉田もこれに共感したため、[[牧野伸顕]]に見せようと写しをとった。しかし、吉田邸の女中とその親類を名乗る書生は実は[[スパイ]]であり、写しが[[憲兵]]側に漏れたために吉田は拘引され、その他近衛周辺の人物も次々と、近衛を取り締まる布石も兼ねて取調べを受けることとなる。二人のスパイは、吉田拘引後は近衛邸の床下に入り盗聴を行っていたという。 ==脚注== <references /> ==参考文献== * 『木戸幸一関係文書』、木戸日記研究会編、東京大学出版会、1966年。ISBN 9784130300131。 *:「時局ニ関スル重臣奉答録」 四九五頁-四九八頁 *:近衛上奏文を収録。 * [[藤田尚徳]]『侍従長の回想』中央公論社〈中公文庫〉、1987年。ISBN 4122014239。 *: 当時、昭和天皇の侍従長を務めていた藤田尚徳から見た上奏の経緯と、上奏文の口語訳とが記述されている。 *[[三田村武夫]]『大東亜戦争とスターリンの謀略』(『戦争と共産主義』の改題)自由社、1987年1月。ISBN 4915237028。 ==関連項目== *[[昭和天皇#和平に向けて]] *[[近衛文麿#終戦工作]] *[[砕氷船理論]] *[[太平洋戦争]]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%B8%8A%E5%A5%8F%E6%96%87 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月9日 (金) 12:44。]     
'''近衛上奏文'''(このえじょうそうぶん)とは、[[太平洋戦争]]末期の[[1945年]](昭和20年)[[2月14日]]に、[[近衛文麿]]が[[昭和天皇]]に対して出した[[上奏|上奏文]]である。  ==概要== 近衛は昭和天皇に対して、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる「近衛上奏文」を奏上し、英米の世論は天皇制廃止にまでは至っていないとの情勢判断の下、いわゆる「国体護持」には敗戦それ自体よりも敗戦の混乱に伴う共産革命を恐れるべきであるとの問題意識を示した<ref>敗戰タケナラハ國體上ハサマテ憂フル要ナシト存候、國體護持ノ建前ヨリ最モ憂フルヘキハ敗戰ヨリモ敗戰ニ伴フテ起ルコトアルヘキ共産革命ニ御座候。</ref>。 #「[[大東亜戦争]]」(太平洋戦争)は日本の革新を目的とする軍の一味の計画によるものであること<ref>抑々滿洲事變、支那事變ヲ起シ、之ヲ擴大シテ遂ニ大東亞戰爭ニマテ導キ來レルハ是等軍部内ノ意識的計畫ナリシコト今ヤ明瞭ナリト存候。滿洲事變當時、彼等カ事變ノ目的ハ國内革新ニアリト公言セルハ、有名ナル事實ニ御座候。支那事變當時モ、「事變永引クカヨロシク事變解決セハ國内革新カ出來ナクナル」ト公言セシハ此ノ一味ノ中心的人物ニ御座候。</ref> #一味の目的は共産革命とは断言できないが、共産革命を目的とした官僚や民間有志がこれを支援していること<ref>是等軍部内一味ノ者ノ革新論ノ狙ヒハ必スシモ共産革命ニ非ストスルモ、コレヲ取巻ク一部官僚及民間有志(之ヲ右翼トイフモ可、左翼トイフモ可ナリ、所謂右翼ハ國體ノ衣ヲ着ケタル共産主義者ナリ)ハ意識的ニ共産革命ニマテ引キスラントスル意圖ヲ包藏シ居リ、無知單純ナル軍人之ニ躍ラサレタリト見テ大過ナシト存候。此事ハ過去十年間軍部、官僚、右翼、左翼ノ多方面ニ亙リ交友ヲ有セシ不肖カ最近靜カニ反省シテ到達シタル結論ニシテ此結論ノ鏡ニカケテ過去十年間ノ動キヲ照ラシ見ル時、ソコニ思ヒ當ル節々頗ル多キヲ感スル次第ニ御座候。 </ref> #「[[一億玉砕]]」は[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]の「[[敗戦革命論]]」のための詞であること<ref>昨今戰局ノ危急ヲ告クルト共ニ一億玉碎ヲ叫フ聲次第ニ勢ヲ加ヘツツアリト存候。カカル主張ヲナス者ハ所謂右翼者流ナルモ背後ヨリ之ヲ煽動シツツアルハ、之ニヨリテ國内ヲ混亂ニ陷レ遂ニ革命ノ目的ヲ達セントスル共産分子ナリト睨ミ居リ候。</ref> #米英撃滅の論が出てきている反面、一部の陸軍将校にはソ連軍や中国共産党と手を組むことを考えるものもでてきていること<ref>一方ニ於テ徹底的ニ米英撃滅ヲ唱フル反面、親ソ的空氣ハ次第ニ濃厚ニナリツツアル樣ニ御座候。軍部ノ一部ニハイカナル犠牲ヲ拂ヒテモソ聯ト手ヲ握ルヘシトサヘ論スルモノモアリ、又延安トノ提携ヲ考ヘ居ル者モアリトノ事ニ御座候。</ref> 近衛は陸軍内に共産主義者が存在し、敗戦を利用して共産革命を行おうとしている旨を述べた。また、戦争終結のためにはこの一味が障害となること、一味さえ取り除けば軍部を利用していた共産主義者を抑えることができることを述べている。 御下問において、軍部にはソ連との提携を図る者もいるが、アメリカとの講和以外に途は無いこと、軍部を抑えることで和平に導くべきであるということを主張した。昭和天皇から見れば、近衛の「敗戦」「共産革命」という上奏文、および内閣後継人事の意見は、常軌を逸したものであり、「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」として近衛の話には否定的だった。これが、[[東京大空襲]]から[[長崎市への原子爆弾投下|長崎原爆投下]]などの惨事を招いたとする、「遅過ぎた聖断」として批判する意見の論拠とされている。 上奏の前、近衛は書き上げた「近衛上奏文」を持って[[吉田茂]]邸を訪れた。吉田もこれに共感したため、[[牧野伸顕]]に見せようと写しをとった。しかし、吉田邸の女中とその親類を名乗る書生は実は[[スパイ]]であり、写しが[[憲兵]]側に漏れたために吉田は拘引され、その他近衛周辺の人物も次々と、近衛を取り締まる布石も兼ねて取調べを受けることとなる。二人のスパイは、吉田拘引後は近衛邸の床下に入り盗聴を行っていたという。 ==脚注== <references /> ==参考文献== * 『木戸幸一関係文書』、木戸日記研究会編、東京大学出版会、1966年。ISBN 9784130300131。 *:「時局ニ関スル重臣奉答録」 四九五頁-四九八頁 *:近衛上奏文を収録。 * [[藤田尚徳]]『侍従長の回想』中央公論社〈中公文庫〉、1987年。ISBN 4122014239。 *: 当時、昭和天皇の侍従長を務めていた藤田尚徳から見た上奏の経緯と、上奏文の口語訳とが記述されている。 *[[三田村武夫]]『大東亜戦争とスターリンの謀略』(『戦争と共産主義』の改題)自由社、1987年1月。ISBN 4915237028。 ==関連項目== *[[昭和天皇#和平に向けて]] *[[近衛文麿#終戦工作]] *[[砕氷船理論]] *[[太平洋戦争]]   [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%B8%8A%E5%A5%8F%E6%96%87 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月9日 (金) 12:44。]     

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