後藤象二郎

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{{政治家 |各国語表記 = |画像 = Shojiro Goto.jpg |画像説明 = |国略称 = |生年月日 = [[天保]]9年[[3月19日 (旧暦)|3月19日]]([[1838年]][[4月13日]]) |出生地 = |没年月日 = [[明治]]30年([[1897年]])[[8月4日]] |死没地 = |出身校 = |前職 = |現職 = |所属政党 = |称号・勲章 = [[伯爵]] |世襲の有無 = |親族(政治家) = |配偶者 = |サイン = |国旗 = JPN |職名 = 第2代[[逓信大臣]] |内閣 = [[黒田内閣]]<br/>[[第1次山縣内閣]]<br/>[[第1次松方内閣]] |就任日 = 明治22年([[1889年]])[[3月22日]] |退任日 = 明治25年([[1892年]])[[8月8日]] |退任理由 = 農商務大臣へ転任 |国旗2 = JPN |職名2 = 第10代[[農商務大臣]] |内閣2 = [[第2次伊藤内閣]] |就任日2 = 明治25年(1892年)8月8日 |退任日2 = 明治27年([[1894年]])[[1月22日]] |退任理由2 = }} '''後藤 象二郎''' / 象'''次'''郎(ごとう しょうじろう、[[天保]]9年[[3月19日 (旧暦)|3月19日]]([[1838年]][[4月13日]])- [[明治]]30年([[1897年]])[[8月4日]])は、[[日本]]の[[武士]]・[[土佐藩]]士、[[政治家]]。[[爵位]]は[[伯爵]]。[[農商務大臣]]、[[逓信大臣]]、[[大阪府]][[知事]]など。[[諱]]は元曄(もとはる)。象二郎は[[通称]]、他に保弥太、良輔。[[雅号]]は暢谷。 ==生涯== ===生い立ち=== [[土佐藩]]の[[高知城]]下にて上士・馬廻格150石の後藤助右衛門の長男として生まれる。将来共に活躍する[[板垣退助]]とは幼い頃からの知り合いであり、後藤の姉の夫で、義理の叔父である[[吉田東洋]]の塾で板垣らと共に学んだ。 [[安政]]5年([[1858年]])より、吉田東洋の進言もあって、幡多郡[[奉行]]、[[文久]]元年([[1861年]])には御近習目付、その後は普請奉行として土佐藩政で活躍したが、翌年に吉田が暗殺され、拠り所を失った後藤は失脚する。 文久3年([[1863年]])に、再び役職を得、また前藩主[[山内容堂]]の信頼を得たのもこの頃だと言われる。この年に、江戸の[[開成所]]にて[[蘭学]]や航海術、また当時はやり始めた英学も習っている 。 [[元治]]元年([[1864年]])に、[[大監察]]に昇進した。またこの頃の後藤は[[公武合体派]]の急先鋒であり、[[武市瑞山]](半平太)を党首とする[[土佐勤王党]]を実質解散に追い込み、武市らを[[切腹]]させた。 [[慶応]]3年([[1867年]])、後藤は公武合体論から意見を変え、[[長崎]]にて有名な[[坂本龍馬]]との会談を行う。後藤から見れば龍馬は、師であり叔父である吉田東洋の、龍馬から見れば武市端山の敵であったが、両者とも過去の因縁を忘れ、手を握ったのである。会談後、帰国した後藤は龍馬が最初に提案したと言われている[[船中八策]]([[大政奉還]]論などを内容とする)に基づき、前藩主・容堂に対し[[将軍]]・[[徳川慶喜]]に大政奉還させるよう進言する。この進言後、脱藩罪に問われていた龍馬が特赦されたのも後藤の働きによると言われている。これらの功によって中老職、家禄700石。のち執政に就任、役料を合わせて1500石に栄進している。 [[慶応]]4年([[1868年]])、パークス襲撃事件の際の功績により、[[中井弘蔵]]と共に英国[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ビクトリア女王]]から、名誉の宝剣を贈られている。 ===明治時代=== 明治期には徴士として新政府への参加を皮切りに、[[参議]]、[[参与]]などに就任するが、明治6年([[1873年]])に板垣退助・[[西郷隆盛 ]]らと共に[[征韓論|征韓論争]]に敗れて公職を離れる。 しかし翌年には板垣退助、[[江藤新平]]、[[副島種臣]]らと[[愛国公党]]を組織し、[[民撰議院設立建白書|民選議院設立]]を申し立てたが成功しなかった。明治14年([[1881年]])には再び板垣を中心に、[[自由党 (明治)|自由党]]を設立した。 のちには薩長政府の懐柔策に応じて協力に転じ、[[黒田内閣]]や[[第1次松方内閣]]で[[逓信大臣]]、[[第2次伊藤内閣]]で[[農商務大臣]]に就任している。その後も政界にて活躍して、[[進歩党 (明治)|進歩党]]結成にも尽力している。 また実業家としての一面もあり、明治7年([[1874年]])には長崎県の[[高島炭鉱]]を約55万円で払い下げを受けて[[蓬莱社]]を設立するが、2年後には放漫な経営のため破綻。結果、[[岩崎弥太郎]]に売却している。 == その後の後藤家 == 象二郎のあとを継いだ[[後藤猛太郎|猛太郎]]は、日本活動フィルム会社([[日活]]の前身)初代社長をつとめた。 猛太郎と[[新潟県|新潟]]の[[芸妓]]のあいだにできたのが[[後藤保弥太|保弥太]]である。 保弥太の長男・[[後藤省三|省三]]は襲爵手続きをしなかったため、省三の代で後藤伯爵家は消滅した。 == 評価 == 明治時代にも(下野時代を含めて)政治家として活躍してはいるが、後藤象二郎の名前が覚えられているのは、やはり[[幕末]]に土佐藩や[[日本]]国政に関わる仕事をしたことであろう。彼は勤王党断罪に代表される公武合体派から、坂本龍馬との会見を通して非佐幕の立場に変わった。背景には[[薩長同盟]]締結により倒幕勢力が盛り返し、時流が再び倒幕へと傾いた事への土佐藩全体の焦りがあった。さらに[[江戸幕府]]を助けたいと思う山内容堂の意見がたぶんに影響しており、容堂を時代を救った英雄にすべく、坂本に泣きついたという見方もできる。結果、後藤は坂本の[[大政奉還]]策を容堂に進言し、土佐藩の藩論として慶喜に受け入れさせる事に成功した。だが、大政奉還策を容堂に進言する時に、階級主義で郷士嫌いの容堂に、郷士である坂本の立案である事を伝えれば、拒絶される事は目に見えていたとは言え、坂本の案である旨を述べなかった事から坂本の業績を横取りしたという汚名も蒙ってしまっている。それでも、坂本と容堂、そして将軍・慶喜とのパイプ役を担い、それが[[明治維新]]への原動力となった事を考えれば、後藤の行動は十分に評価されてしかるべきであろう。その反面、会津では今でも板垣と後藤は長州藩と並び、忌み嫌われている事実もある。 維新後は大臣を歴任するなど政治家としても活躍しているが、[[自由民権運動]]に邁進したり、ある時は実業家として活動するなど行動に一貫性がない事もあり、また坂本龍馬という偉大な英雄の影に隠れてしまっている事もあってか、維新の[[元勲]]の中では今日知名度も低く、評価もさほど高くはない。特に自由民権運動においては、たびたび政府に買収されているため、結果としては民権派活動家達を何度も裏切り、大きく失望させている。このことも後藤の評価を著しく下げている。 武市半平太を処刑に追い込んだ張本人でもあるため、一部では「後の総理大臣を殺した」者として非難されている{{要出典}}。これに関して後藤は明治になって、武市らを断罪したことを悔いている。しかし、多くの維新革命を担った人材を輩出しながら、[[土佐藩]]が[[長州藩]]・[[薩摩藩]]のように維新政府の中枢を担えなかった結果を招いたことは、彼についての評価が分かれるところであろう。 ==その他== 日本人ではじめて[[ルイ・ヴィトン]]の製品を愛用した事でも知られている。彼はパリの本店で鞄を購入した。 == 系譜 == *'''後藤氏''' 遠祖は[[戦国時代 (日本)|戦国]]期の武将[[後藤又兵衛]]であると称している。[[江戸時代]]、代々[[土佐藩]][[武士|士]]。 <pre> 後藤助右衛門━━後藤象二郎━┳━後藤猛太郎━┳━後藤保弥太━━━━━━後藤省三               ┃       ┣━ナオ               ┃       ┣━後藤良輔               ┃       ┣━後藤三郎               ┃       ┣━孝子               ┃       ┗━川添紫郎(浩史)━┳━川添象郎(象太郎)               ┃                  ┗━川添光郎               ┃ 岩崎弥之助 ┏━岩崎小弥太               ┃  ┣━━━━╋━岩崎俊弥               ┣━早苗    ┗━岩崎輝弥               ┣━小苗               ┣━後藤六弥               ┃         斎藤博               ┃ 長與稱吉     ┃               ┃  ┣━━━━┳━美代子               ┗━延子    ┗━仲子                          ┣━━━━━━━┳━道子                 犬養毅(木堂)━犬養健      ┗━犬養康彦 </pre> == 参考文献 == *千田稔 『明治・大正・昭和 華族事件録』 新潮社 2005年 144-150頁 ==演じた俳優== *[[石田太郎]]:『[[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]]』([[1968年]]、[[NHK大河ドラマ]]) *[[三船敏郎]]:『[[幕末 (映画)|幕末]]』([[1970年]]、映画) *[[中井啓輔]]:『[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]』([[1974年]]、NHK大河ドラマ) *[[夏木陽介]]:『[[竜馬がゆく#1982年版|竜馬がゆく]]』([[1982年]]、[[テレビ東京]]) *[[岸部一徳]]:『[[ゴルフ夜明け前]]』([[1987年]]、映画) *[[高橋幸兵]]:『[[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]]』([[1990年]]、NHK大河ドラマ) *[[尾美としのり]]:『[[竜馬がゆく#1997年版|竜馬がゆく]]』([[1997年]]、[[TBS大型時代劇スペシャル]]) *[[小木茂光]]:『[[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]]』([[1998年]]、NHK大河ドラマ) *[[吹越満]]:『[[竜馬がゆく#2004年版|竜馬がゆく]]』([[2004年]]、テレビ東京[[新春ワイド時代劇]]) *[[古本新乃輔]]:『[[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]]』([[2008年]]、NHK大河ドラマ) == 関連項目 == *[[自由民権運動]]               *[[高知市立自由民権記念館]] *[[自由党]] *[[国民自由党]] == 脚注 == <div class="references-small"><references /></div> == 外部リンク == {{commons|Category:Goto Shojiro}} *[http://episode.kingendaikeizu.net/12.htm 系図でみる近現代 第12回] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E8%B1%A1%E4%BA%8C%E9%83%8E 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月11日 (火) 09:38。]     

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